4月22日(土),「(第8回)菜の花咲く浦戸諸島を巡ろう!」が開催されました。写真で報告します(当日はガイドに集中していましたので,写真撮影はほとんどできていません。大部分の写真は4月14日(金)の下見の際に撮影したものです。御了承願います。)。仙台市から3人の方に参加していただきました。
なお,この日は強風の影響で野々島桟橋−石浜桟橋間の無料渡船が運航中止となってしまったため,コースをかなり変更しました。
マリンゲート塩釜(塩釜港旅客ターミナル,塩竈市港町一丁目)です。午前9時30分発の塩竈市営汽船に乗ります。朴島までの運賃は630円です。



朴島桟橋に到着しました。所要時間は通常は約54分ですが,干潮のため約10分遅れました。

神明社(塩竈市浦戸野々島字朴島鱈)です。主祭神は天照皇大神,豊受姫神です。




「朴島の菜の花畑」として「浦戸諸島 島歩きマップ」にも載っている浦戸諸島で最も有名な菜の花畑です。例年4月中旬から5月上旬に見頃になります。黄色のジュータンとタブノキ(タブ,椨)の緑が美しく,畑からはのどかな海が見渡せます。この菜の花は「仙台白菜」の採種用として栽培されているものです。浦戸諸島に大きな木があり,何の木か判らない場合に「タブノキ」と答えると正解であることが多いようです(笑)。





今年はハクビシンによって,D氏が大切に育てている菜の花畑の一部が荒らされてしまったとのことです。

弘安10年(1287年)銘供養碑(「弘安の碑」)がある場所へ向かいます。こちらにも菜の花畑があります。




「弘安の碑」です。梵字の碑文が刻まれているのですが,イエス・キリストを抱いたマリアらしきものが描かれているとの説があります。鎌倉時代に隠れキリシタン(切支丹)はいないはずですから,これがマリア像であれば,江戸時代に隠れキリシタンが「弘安の碑」を利用して描いたものと考えられます。


朴島桟橋から寒風沢島桟橋へは渡船に乗ります。電話をかければ迎えに来てくれます。塩竈市の道路扱いですので,運賃は無料です。今日の担当は顔なじみの船長・S氏です。

寒風沢島桟橋に到着しました。

「寒風沢港の歴史」です。

鹽竈ザクラです。

菜の花畑です。令和3年8月に宇宙から帰還した種から育てた白菜を栽培しています。「浦戸宇宙白菜」と言うそうです。



向かって一番左が造艦の碑です。この碑(縦2.3m,横1.2m)は,国防上の必要から仙台藩の命により三浦乾也(けんや)が東北で初めて西洋型軍艦(2本マストのトップスルスケーナー型汽帆船。長さ33m,幅7.6m,高さ5.8m,大砲9門)を建造したことを記念して,その門人たちにより建立されたものです。この軍艦「開成丸」建造に当たり,寒風沢に造船所を造り,小野寺鳳谷の監督の下安政3年(1856年)8月26日着工,翌安政4年(1857年)7月14日第13代藩主・伊達慶邦臨席の下進水し,その後艤装工事を経て11月完成,同年12月から正月明けにかけて寒風沢-気仙沼間の試験航海に成功したとのことです。「島歩きマップ」には「日本初の西洋式軍艦」とありますが,幕府(徳川家定)は鳳凰丸(嘉永7年(1854年)5月10日),薩摩藩(島津斉彬)は昇平丸(嘉永7年(1854年)12月12日)を完成させています(水戸藩(徳川斉昭)も仙台藩よりも早いようです。)ので,「東北初」でしょう。しかし,開成丸の性能では既に時代遅れ(軍艦としての速力不足)で,輸送船に改造してもその構造が適当でなかった関係もあって,進水後2年にしてその姿を消すことになってしまいました。造艦の碑は,昭和62年2月1日塩竈市有形文化財に指定されています。


「世界一周し故郷寒風沢に帰還した漂流民 津太夫と左平」の案内板です。「数奇な運命に翻弄され,日本人として初めて世界一周してしまった男たちの長い長い12年の旅路」(寛政5年11月27日(1793年12月29日)江戸を目指し石巻出港~文化3年(1806年)2月下旬帰郷)は,大槻玄沢・志村弘強の「環海異聞」全15巻にまとめられています。

日和山展望台を目指します。日和山は標高22.2mとのことです。


日和山展望台に到着しました。

天保12年(1841年)8月造立の十二支方角石です。この方角石は,十二支が刻まれた円柱形をなし,直径45cm,高さ82.5cmと他所に類を見ない堂々としたものです。奉献者が一般の船頭,廻船問屋とは異なり,幕府から差遣された役人(木村又兵衛正信)であることも珍しいようです。昭和62年2月1日塩竈市有形文化財に指定されています。

(参考)寒風沢桟橋近くにある十二支方角石の複製です。

日和山展望台から西側の海を望みます。

庚申塔です。旧暦では60日に一度庚申(かのえさる)の日が巡って来ますが,この夜眠ってしまうと人間の体内にすんでいる三尸(さんし)という虫が体内から抜け出し天帝にその宿主(人間)の罪悪を告げ,その人間の寿命を縮めると言い伝えられ、そこから庚申の日の夜は眠らずに過ごすという風習が行われました。一人では夜明かしをして過ごすことは難しいことから,庚申講(庚申待ち)が行われました。つまり,60日ごとに皆が集まり,夜明かしで酒を飲もうというわけです(笑)。庚申塔の特徴は,邪鬼を踏ん付けていることです。庚申講を3年18回続けた記念に建立されることが多いとのことです。

聖観世音菩薩のようです。

しばり地蔵です。寒風沢港が繁栄していた頃島内には遊郭があり,船出しようとする男達を引き止めようと,お地蔵様を荒縄で縛り逆風祈願したと伝わっています。ただし,地蔵菩薩ではなく,毘廬舎那仏(毘廬遮那仏)のようです。

砲台場跡です。慶應3年(1867年),仙台藩は寒風沢港を海防上最も重要な地点として寒風沢-石浜水道がよく俯瞰できるこの地に砲台を築造しました。「加農砲」(カノン砲,Canon砲)3門を据え,弾薬庫,見張所を備え,また沖砲台として船入島には鉄の大巨砲2門を置き,別に石浜崎黒森に1門を据え,仙台藩から大砲方士卒(たいほうかた・しそつ)50人余りが霊亀山松林寺に駐屯して警備に当たったとのことです。

砲台場跡から西側の海を望みます。

鳥居があります。

向かって右から大根神社,船入島弁財天大神社,船入島龍神大権現社です。

船入島を望みます。

神明社(寒風沢神明社,塩竈市浦戸寒風沢字日和山)です。主祭神は天照皇大神,豊受大神です。建築年代を直接的に証するものは無く,恐らくは江戸中期の社殿建造で,千木・鰹木を乗せた「流れ造り」としては珍しい様式を有しているとのことです。応仁年間(1467年~9年)に楠木氏の遺臣が寒風沢に来島し,定住して稲荷神を敬神して「洲の崎稲荷」又は「宇南明神」と称していたが,後年神宮(伊勢神宮)と合祀して神明社と改めたという由緒があるようです。


集落のはずれに佇む六地蔵です。古代インドでは生類は六道(天道(天上道とも)・人間道・修羅道・畜生道・餓鬼道・地獄道)を輪廻転生する(つまり,永遠に死なない。)とされ,これは苦痛であると捉えていました。釈迦(ガーダマ・シッダールタ)はこの世のことはすべて無常と悟ることによって,この輪廻の輪から抜け出る(解脱する)ことができると考えました。解脱すると仏陀(如来)となりますが,一歩手前の存在が菩薩です。お地蔵さまも菩薩です(地蔵菩薩)。六地蔵は,六道のそれぞれを6種の地蔵が救うとする説から生まれたものであると言われています。私は,六地蔵の六道への配当(どれが天道の地蔵で,……どれが地獄道の地蔵なのか,ということ)を考えて,これまで印相(いんぞう,手の指の形)又は持物(じもつ,手に持つ物)を観察して来たのですが,最早ほとんど諦め気味です(苦笑)。

霊亀山松林寺(臨済宗妙心寺派,塩竈市浦戸寒風沢字愛宕)です。


坂本玄順先生墓です。寛政2年(1790年)寒澤寺に寺子屋が置かれ,玄順が指導したとのことです。

化粧地蔵です。白い粉を塗って祈願すると,美しい子が授かると言われているそうです。

本堂です。伊達氏の家紋・竪三引両(たてみつひきりょう)が見えます。松林寺が伊達氏所縁(ゆかり)の寺院であることが判ります。竪三引両は,伊達氏第1世・朝宗が文治5年(1189年)源頼朝から拝領した幕紋二引両(まくもんふたつひきりょう)を後代竪三引両に改め輪郭に入れ図案化し定紋としたもので,伊達氏の家紋では最も古いものです(伊達家伯記念會「伊達家の家紋」から引用)。

延命地蔵です。この石仏は元観音堂参道にあったものを明治37年聖観世音菩薩像(行基作)と同時にこの地に遷座されたものであるとのことです。この地蔵像は享保年間(1716年~36年)江戸で作られ,千石船によってこの地へ搬送されましたが,この船は順風に恵まれ1日1夜で到着したと言われ,そのことから一夜地蔵の別名もあるそうです。

強風のため待合室で食事休憩した後,寒風沢桟橋から野々島学校下桟橋へは無料渡船に乗ります。

野々島学校下桟橋に到着しました。

宇内浜(うねはま)です。「ゆるりと過ごす 大人の島じかん」,爽やかな晴れの日は最高です。

野々島共葬墓地に夜泣き地蔵,六地蔵があります。向かって一番右が夜泣き地蔵,一つ置いて六地蔵です。夜泣き地蔵は子供の夜泣きが治ると言い伝えられ,各家々ではこのお地蔵様にお願いしたそうです。



椿のトンネルです。


これも庚申塔です。

野々島には野仏や祠が点在しています。

菜の花畑です。東日本大震災年から仙台大学附属明成高等学校食文化創志科の生徒たちが白菜の採種文化の保存活動を行っているとのことです。



浦戸諸島開発総合センター(ブルーセンター,塩竈市浦戸野々島字河岸)です。「研修目的の宿泊や貸室も行っている。市役所支所や診療所,コミュニティスペースを兼ねる。」(塩竈市観光振興ビジョン推進委員会「島歩きマップ【補足版】 浦戸諸島の歩き方」)とのことです。

待合所兼コミュニティスペース「うらとラウンジ~菜の花~」です。

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【参考】残念ながら桂島を巡ることはできませんでしたが,下見の際の写真の一部を掲載しておきます。
小さいですが,菜の花畑があります。


「菜の花畑跡」の説明板です。白菜を含むアブラナ科の植物は容易に交配し,雑種になってしまうため,必要な量以外は作らないようにするそうです。

「浦戸諸島「海と花の物語」」の桂島ガーデンです。チューリップなどが咲き誇っています。





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野々島桟橋です。マリンゲート塩釜(塩釜港旅客ターミナル,塩竈市港町一丁目)行き午後2時23分発の塩竈市営汽船に乗ります。マリンゲート塩釜までの運賃は580円です。

午後3時04分頃マリンゲート塩釜に到着しました。所要時間は約23分ですが,野々島桟橋を約10分遅れて出発しましたので,その分遅れました。

浦戸諸島には1年間に5,6回は行っていますが,島歩きをしながら,自然,歴史,文化に触れることができ,毎回感動します。また,浦戸諸島巡りのイベントを企画したいと思っています。