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塩竈大好き倶楽部(案内人)

「海と社(やしろ)に育まれる楽しい塩竈」の実現を目指している宮城県塩竈市内の「塩竈大好き倶楽部(案内人)」のブログです。志波神社鹽竈神社及びその門前町(鳥居前町),浦戸諸島(桂島,野々島,寒風沢島,朴島)の紹介をします。

染井吉野

          (画像は,鹽竈神社のソメイヨシノ(標準木))

◇志波彦神社鹽竈神社(宮城県塩竈市一森山)境内には37種類合計300本超のサクラ(桜)があると言われています。桜咲く志波彦神社鹽竈神社境内及びその門前町(鳥居前町)を散策し,歴史探訪します。
日時 令和5年4月15日(土)午後1時30分から3時30分頃まで
◇コース JR仙石線・本塩釜駅(塩竈市海岸通)神社参道口→本町(もとまち)→西町→鹽竈神社七曲坂→志波彦神社鹽竈神社→鹽竈神社東参道(裏坂)→宮町→本塩釜駅(歩く距離は3km程度)
◇小雨決行。荒天の場合は4月16日(日)にスライドして開催予定(別途御連絡します。) いずれも荒天の場合は中止(別途御連絡します。) 
◇料金無料 御朱印料(志波彦神社鹽竈神社は500円,御釜神社は300円)などは各自負担 
◇最少催行人数1人,最大7人まで(先着順)
◇歩きやすい靴・服装で。体調が良くない方は,当日でも参加を御遠慮ください。 
◇このイベントによって何らかの損害が発生しても主催者は一切の責任を負いません。御了承いただける方のみ御参加ください。
お申込みはメールで。①申込者の氏名,②申込者を含む参加人数,③申込者の携帯電話番号をお知らせください。

 メールアドレス yashiro_sakana-shiogama@yahoo.co.jp

 

【3月8日(水)追記】

 「マスク着用をお願いします。」を削除しました。

 

【3月28日(火)追記】

 3月28日(火)午前,志波彦神社鹽竈神社でソメイヨシノ(染井吉野)の標準木の開花が宣言されました(志波彦神社鹽竈神社神職(禰宜)・O氏に確認済み。)。昨年よりも12日早い開花です。このままのペースで行くと,第7回イベントが開催される4月15日(土)は国指定天然記念物「鹽竈神社の鹽竈ザクラ」(立入禁止区域内にあるものを含め27本あると言われています。)を含む鹽竈ザクラ(同じく,68本)がまさに見頃になっているでしょう。

雛人形

                (※写真はイメージです。)

 

 令和5年の「塩竈deひなめぐり」の開催については,未だ公式の情報は確認できていません(ちなみに,令和4年の「塩竈deひなめぐり」は2月19日(土)から3月6日(日)まで開催されました。)。フライングなのですが,皆さんの御都合もあるでしょうから,令和4年とほぼ同様に開催されるであろうことを前提に,塩竈の雛人形を巡るイベントを企画しました。

日時 令和5年2月25日(土)午前10時から正午頃まで

◇コース JR仙石線・本塩釜駅(宮城県塩竈市海岸通)神社参道口→市内連携会場(商店など)のうち8会場程度の雛人形を見学→本塩釜駅(歩く距離は2km程度)。
◇小雨・小雪決行。荒天の場合は2月26日(日)にスライドして開催予定(別途御連絡します。)。いずれも荒天の場合は中止(別途御連絡します。)
◇料金無料 
◇最少催行人数1人,最大7人まで(先着順)
◇歩きやすい靴・服装で。会場内では陳列中の商品を落下させたりしないよう特段の注意をお願いします。

◇マスク着用をお願いします。体調が良くない方は,当日でも参加を御遠慮ください。 
◇このイベントによって何らかの損害が発生しても主催者は一切の責任を負いません。御了承いただける方のみ御参加ください。
お申込みはメール。①申込者の氏名,②申込者を含む参加人数,③申込者の携帯電話番号をお知らせください。

 メールアドレス yashiro_sakana-shiogama@yahoo.co.jp

 

【令和5.1.30(月)追記】

 「塩竈deひなめぐり2023」は,2月18日(土)から3月5日(日)までの間開催されることが発表されました。

 塩竈大好き倶楽部の今後のイベント予定についてお知らせします。あくまで計画中のものであり,変更があり得ます。また,現時点で参加者の募集はしていません。イベント開催が決定した後,概ね2箇月前を目処に(遅くとも1箇月前までに)このBLOGその他の方法で参加者を募集します。御了承ください。

 なお,いずれもガイド料金は無料です(資料代として100円程度頂く場合があります。)。

 

1 (第6回)塩竈の雛人形を巡ろう!

 令和5年2月25日(土)午前10時から正午頃まで

 JR仙石線・本塩釜駅(宮城県塩竈市海岸通)集合・解散

 荒天の場合の予備日2月26日(日) 

 (※写真はイメージです。)

 

雛人形

 

2 (第7回)桜咲く志波彦神社鹽竈神社とその門前町を散策しよう! 

 令和5年4月15日(土)午後1時30分から3時30分頃まで

 JR仙石線・本塩釜駅集合・解散

 荒天の場合の予備日4月16日(日)

 

染井吉野

 

3 (第8回)菜の花咲く浦戸諸島を巡ろう!

 令和5年4月22日(土)午前9時15分から午後3時頃まで

 マリンゲート塩釜(塩釜港旅客ターミナル,塩竈市港町一丁目)集合・解散

 荒天の場合の予備日4月23日(日)

 

菜の花

 11月12日(土)開催予定の「(第5回)紅葉の志波彦神社鹽竈神社とその門前町を散策しよう!」は最少催行人数に達しませんでしたので,中止しました。志波彦神社鹽竈神社(宮城県塩竈市一森山)境内は紅葉の見頃になっており中止は残念ですが,人気が無かったようです。同日午前中に撮影した志波彦神社鹽竈神社境内の写真を御覧ください。

 

 志波彦神社拝殿です。

 

第5回(1)

 

 鹽竈神社別宮拝殿です。

 

第5回(2)

 

 鹽竈神社左右宮拝殿です。

 

第5回(3)

 

 志波彦神社神門近くから望む塩釜湾(松島湾の一部)です。

 

第5回(4)

 

 それでは,志波彦神社鹽竈神社境内の紅葉です。

 

第5回(5)

 

第5回(6)

 

第5回(7)

 

第5回(8)

 

第5回(9)

 

第5回(10)

 

第5回(11)

 

第5回(12)

 

第5回(13)

 

第5回(14)

 

第5回(15)

 

 なお,「(第5回)」は中止になりましたが,次回は「(第6回)」とすることにします。

 10月22日(土),「(第4回)歴史探訪~晩秋の桂島・野々島を巡る~」が開催されました。写真で報告します(当日はガイドに集中していましたので,写真撮影はほとんどできていません。大部分の写真は10月14日(金)の下見の際に撮影したものです。御了承願います。)。山形県から2人の方に参加していただきました。

 

 マリンゲート塩釜(塩釜港旅客ターミナル,宮城県塩竈市港町一丁目)です。午前9時15分待合室(塩竈市営汽船券発売機などがある場所)に集合です。

 

第4回(1)

 

 午前9時30分発の塩竈市営汽船に乗ります。

 

第4回(2)

 

 約23分で桂島桟橋に到着です。運賃は520円です。

 

第4回(3)

 

 松崎神社(桂島神社とも言います。塩竈市浦戸字神手洗)です。「別当法蓮寺記」などの文献には,鹽竈神社(塩竈市一森山)十四末社の一つと記載されています。主祭神は奥津彦神・奥津姫神です。つまり,竈(かまど)神です。宮城県神社庁によると,由緒は「大昔鹽竈の神(鹽土老翁)塩竈の浦に塩の業を教え給ふ時此の神も鹽竈の神と共に塩の事に當り,民族の教化に努め,この地方に祭祀される。この地に祀られたる年代は不詳なるも古き昔より祀られていると思われる。昔は桂島明神と称して現在の地より西方松崎という岬角上に祀られていたが,参道崩壊し参拝するにも難所にて現在地に遷されたる由,其の年月も詳らず。明治43年桂島海水浴場の開設に伴い,付近に御鎮座の八幡神社,春日神社,神明社も合祀される。」とのことです。鎮守の森にはタブノキ(椨,単に「タブ」とも言います。)の大木が繁茂し,昼でも暗くなっています。この境内の木に刃物を入れれば天罰が下るという言い伝えがあるようです。

 

第4回(4)

 

第4回(5)

 

第4回(6)

 

第4回(7)

 

第4回(8)

 

 松崎神社は,桂島の森の入口です。松崎神社の脇を通り,裏に抜けると遊歩道があります。まず,白崎山展望台です。

 

第4回(9)

 

第4回(10)

 

 二度森展望台です。

 

第4回(11)

 

第4回(12)

 

第4回(13)

 

 西の山展望台です。桂島の森から望む西側(マリンゲート塩釜方向)の海の中では,私は最も美しい場所だと思っているのですが,何故か「浦戸諸島 島歩きマップ」には載っていません。

 

第4回(14)

 

第4回(15)

 

 観月崎展望台です。仁王島は樹木に隠れてしまっています。

 

第4回(16)

 

第4回(17)

 

第4回(18)

 

第4回(74)

 

 桂島海水浴場です。振り返ると仁王島が見えます。

 

第4回(20)

 

第4回(21)

 

 

 左には桂島ステイ・ステーション(宮城県塩竈市浦戸桂島字台)があります。旧・浦戸第二小学校の施設を活用し,大規模な改修を行って,新たな施設として平成27年12月にオープンしました。浦戸諸島への定住促進と漁業後継者の育成を目的とした施設です。右に進みます。

 

第4回(22)

 

 浦戸諸島「海と花の物語」の桂島ガーデンです。「浦戸諸島に海と花のコラボした美しい風景を作りたぁ〜い‼️ 」と「”小さなボランティア”をしながら島歩きする任意団体」・浦戸諸島「海と花の物語」が管理しています。詳しくは,浦戸諸島 「海と花の物語」 (facebook.com)を御覧ください。

 

第4回(23)

 

第4回(24)

 

第4回(25)

 

第4回(26)

 

 桂島共葬墓地内の白石廣造の墓です。白石廣造については,後ほど白石廣造邸跡の所で説明します。とりあえず,墓石に「明治四十三年十一月朝廷賜藍綬褒章」とあることを記憶しておいてください。

 

第4回(27)

 

第4回(28)

 

第4回(29)

 

第4回(30)

 

第4回(31)

 

 雨降り石です。水道の無い時代,ここで雨乞いが行われたと伝わっています。

 

第4回(32)

 

第4回(33)

 

第4回(34)

 

 雨降り石からトレッキング(山歩き)を楽しんで白石廣造邸跡に向かうこともできるのですが,やや危険な箇所があるため戻ります。

 

第4回(35)

 

 石濱神社(塩竈市浦戸石浜字山神)です。主祭神は花園天皇で,宮城県神社庁によると由緒は「花園天皇の文安(1444年~9年)年中邑民等の奉祀するところにして山神と称した。元津森山東北砂木と呼ぶ岬に祀られていた。後今の産土神森に移祀したと伝えられる。」とのことです。 

 

第4回(36)

 

第4回(37)

 

第4回(38)

 

第4回(39)

 

 白石廣造邸跡です。白石廣造は,弘化元年12月14日(1845年1月21日)武蔵國葛飾郡千塚村(現・埼玉県幸手市大字千塚)で生まれました。廣造は,明治4年石浜に「白石回漕店(白石商会)」を設立し,北海道や三陸沿岸各所の海運交通を開き,かつ遠洋漁業を経営し,オホーツク海,ベーリング海等におけるラッコ・オットセイ猟を興し,東北振興事業,塩竈築港の企画促進等を主唱しました。明治22年市町村制の実施に当たり初代浦戸村長。大正2年5月6日仙台で死去(享年69)。敷地内には,屋敷の礎石や石蔵,庭園の石燈籠が残っており,当時の繁栄を偲ばせるものとなっています。

 なお,宮城県観光課の説明板には,白石廣造の藍綬褒章受章を「明治23年」と記載しています。桂島共葬墓地の白石廣造の墓石には「明治四十三年十一月朝廷賜藍綬褒章」とありました。私は宮城県観光課の説明版の誤記と考えていますが,「明治23年」か「明治43年」か,詳しい方に御教示頂ければ幸いです。

 

第4回(40)

 

第4回(41)

 

第4回(42)

 

第4回(43)

 

第4回(44)

 

 石浜桟橋から野々島桟橋へは渡船に乗ります。電話をかければ迎えに来てくれます。塩竈市の道路扱いですので,運賃は無料です。

 

第4回(45)

 

 野々島桟橋に到着しました。

 

第4回(46)

 

 浦戸諸島開発総合センター(ブルーセンター,塩竈市浦戸野々島字河岸)です。「研修目的の宿泊や貸室も行っている。市役所支所や診療所,コミュニティスペースを兼ねる。」(塩竈市観光振興ビジョン推進委員会「島歩きマップ【補足版】 浦戸諸島の歩き方」)とのことです。「うらとラウンジ菜の花」で食事・休憩です(無料)。

 

第4回(47)

 

第4回(48)

 

 熊野神社(塩竈市浦戸野々島字平和田)です。塩竈市HP「文化財(野々島) 熊野神社」には「承応年間以前は毛無崎囲,観音堂の西にあったが,現在は野々島の平和田囲に所在し大巳貴命(おおなむち)が祀られています。特に御神像の奥に納まる厨子入り仏像は「キリシタン」研究の資料として貴重です。」とあります。「大巳貴命」とは「大國主大神」の別名です。大國主大神は出雲大社(島根県出雲市大社町杵築東)の主祭神です。ただし,宮城県神社庁の「神社検索 熊野神社」には「主祭神 熊野久須毘命(くまのくすびのみこと)」とあります。熊野久須毘命は天照大御神と須佐之男命の誓約(うけい)によって生まれた男神5柱,女神3柱のうちの1柱(男神)です。

 なお,熊野本宮大社(和歌山県田辺市本宮町本宮)の主祭神は,家津美御子大神(けつみみこのおおかみ=素盞鳴尊(すさのおのみこと))とされています。また,熊野大社(出雲市八雲町熊野)の主祭神は,伊邪那伎日真名子(いざなぎのひまなご=素盞鳴尊)です。大國主大神は,「古事記」によると須佐之男命6世の孫とされていますが,「日本書記」によると素盞鳴尊の息子とされ,7世の孫との説もあるようです。

 

第4回(49)

 

第4回(50)

 

第4回(51)

 

第4回(52)

 

 野々島には野仏や祠が点在しているのですが,これは山神社・山神です。

 

第4回(53)

 

 これらは,良く分かりません。向かって右から(1)「文化十一年」(1814年)の「南無阿弥陀佛」と刻された碑,(2)「元文(げんぶん)三年」(1738年)の地蔵菩薩(合掌しています。「信女」とありますので,亡くなった女性の供養のためのものでしょう。),(3)香炉を持つ地蔵菩薩,(5)「南無阿弥陀佛」と刻された碑,(6)錫杖を持つ地蔵菩薩ようにも見えます。(4)はまったく分かりません。

 

第4回(54)

 

 これは庚申塔です。旧暦では60日に一度庚申(かのえさる)の日が巡って来ますが,この夜眠ってしまうと人間の体内にすんでいる三尸(さんし)という虫が体内から抜け出し天帝にその宿主(人間)の罪悪を告げ,その人間の寿命を縮めると言い伝えられ,そこから庚申の日の夜は眠らずに過ごすという風習が行われました。一人では夜明かしをして過ごすことは難しいことから,庚申講(庚申待ち)が行われました。つまり,60日ごとに皆が集まり,夜明かしで酒を飲もうというわけです(笑)。庚申塔の特徴は,邪鬼を踏ん付けていることです。庚申講を3年18回続けた記念に建立されることが多いとのことです。

 

第4回(55)

 

 ツバキ(椿)のトンネルです。春は椿のトンネルが見頃になります。

 

第4回(56)

 

 「ツバキのこみち」を通って長浜(学校浜)を目指します。

 

第4回(57)

 

 長浜(学校浜)です。遥か遠くに,松島四大観の一つ・「麗観」こと富山(とみやま,宮城郡松島町手樽字三浦)を望みます。

 

第4回(58)

 

第4回(59)

 

 漆島(無人島)方面を望みます。

 

第4回(60)

 

 ラベンダー畑です。

 

第4回(61)

 

第4回(62)

 

 宇内浜です。

 

第4回(63)

 

 

第4回(64)

 

 野々島共葬墓地です。

 

第4回(65)

 

 夜泣き地蔵・六地蔵です。夜泣き地蔵は子供の夜泣きが治ると言い伝えられ,各家々ではこのお地蔵様にお願いしたそうです。夜泣き地蔵の近くに(向かって左側,一つ置いて)六地蔵があります。古代インドでは生類は六道(天道(天上道とも)・人間道・修羅道・畜生道・餓鬼道・地獄道)を輪廻転生する(つまり,永遠に死なない。)とされ,これは苦痛であると捉えていました。釈迦(ガーダマ・シッダールタ)はこの世のことはすべて無常と悟ることによって,この輪廻の輪から抜け出る(解脱する)ことができると考えました。解脱すると仏陀(如来)となりますが,一歩手前の存在が菩薩です。お地蔵さまも菩薩です(地蔵菩薩)。では,どれが天(上)道の地蔵菩薩で,どれが地獄道の地蔵菩薩なのでしょうか。必ずしも向かって右又は左から順に並んでいるわけではないようです。それぞれの地蔵菩薩は印相(いんぞう,手の指の形)又は持物(じもつ,手に持つ物)が違うのですが,必ずしも何を持っているから天(上)道,何を持っているから地獄道とは言えないようです。詳しい方に御教示頂ければ幸いです。

 

第4回(66)

 

第4回(67)

 

 柳浜です。

 

第4回(68)

 

 

 観音堂です。この近くに元・熊野神社があったようです。かつてはかなりきつい坂をよじ登ったのですが,階段が整備され上り下りが楽になりました。

 

第4回(69)

 

第4回(70)

 

 野々島桟橋で塩竈市営汽船に乗ります。マリンゲート塩釜(塩釜港旅客ターミナル,塩竈市港町一丁目)までの運賃は580円です。

 

第4回(71)

 

 マリンゲート塩釜に到着しました。所要時間は約31分です。

 

第4回(72)

 

第4回(73)

 

 浦戸諸島は素晴らしい!今年は今回が最後になりますが,来年4月菜の花の季節に朴島・寒風沢島を巡るイベントを開催するつもりです。御期待ください。.

紅葉

              (写真は,志波彦神社鳥居付近)

◇志波彦神社鹽竈神社境内の紅葉が見頃になると予想される時季に志波彦神社鹽竈神社とその門前町を散策します。
日時 令和4年11月12日(土)午後1時30分から3時45分頃まで
◇コース JR仙石線・本塩釜駅(宮城県塩竈市海岸通)神社参道口→鹽竈神社東参道(裏坂)→志波彦神社鹽竈神社→鹽竈神社七曲坂→塩竈公園(融ヶ岡)→煙波亭跡(愛宕神社)→吉田松陰「東北遊日記 三月」屏風サイン→祓ヶ崎稲荷神社→本塩釜駅(歩く距離は4km程度)。ただし,一部変更になる場合があります。
◇小雨決行。荒天の場合は11月13日(日)にスライドして開催予定(別途御連絡します。)。いずれも荒天の場合は中止(別途御連絡します。)
◇料金無料 御朱印料などは各自負担 
◇最少催行人数1人,最大7人まで(先着順)
◇歩きやすい靴・服装で。飲み物は各自準備してください。

◇体調が良くない方は,当日でも参加を御遠慮ください。 
◇このイベントによって何らかの損害が発生しても主催者は一切の責任を負いません。御了承いただける方のみ御参加ください。
お申込みはメール。①申込者の氏名,②申込者を含む参加人数,③申込者の携帯電話番号をお知らせください。

 メールアドレス yashiro_sakana-shiogama@yahoo.co.jp

 8月27日(土),「(第3回)歴史探訪~夏の終わりの浦戸で神社・仏閣・地蔵を巡る~」が開催されました。写真で報告します(当日はガイドに集中していましたので,写真撮影はほとんどできていません。大部分の写真は8月19日(金)の下見の際に撮影したものです。晴天であればこのような写真が撮れますということで,御了承願います。)。山形県から2人,宮城県から2人,合計4人の方に参加していただきました。今日は,「その2」です。

 

 田圃(たんぼ)です。天水のみで浦戸米が作られています。株式会社佐浦(宮城県塩竈市本町)では,寒風沢産ササニシキ米を使用して醸した「純米吟醸 浦霞「寒風沢」」を販売しています。

 

第3回(35)

 

 六地蔵を目指します。

 

第3回(36)

 

 六地蔵です。古代インドでは生類は六道(天道(天上道とも)・人間道・修羅道・畜生道・餓鬼道・地獄道)を輪廻転生する(つまり,永遠に死なない。)とされ,これは苦痛であると捉えていました。釈迦(ガーダマ・シッダールタ)はこの世のことはすべて無常と悟ることによって,この輪廻の輪から抜け出る(解脱する)ことができると考えました。解脱すると仏陀(如来)となりますが,一歩手前の存在が菩薩です。お地蔵さまも菩薩です(地蔵菩薩)。六地蔵は,六道のそれぞれを6種の地蔵が救うとする説から生まれたものであると言われています。私は,六地蔵の六道への配当(どれが天道の地蔵で,……どれが地獄道の地蔵なのか,ということ)を考えて,これまで印相(いんぞう,手の指の形)又は持物(じもつ,手に持つ物)を観察して来たのですが,ほとんど諦めました(苦笑)。六道への配当は,寺院が自らの寺院内にある六地蔵について説明しているものでもない限り,無理なのかも知れません。自らの寺院内にある六地蔵についてさえ,六道への配当ができない寺院は珍しくないそうです。寒風沢島,野々島の六地蔵について,詳しい方がいらっしゃれば,御教示いただければ幸いです。

 

第3回(37)

 

 六地蔵の向かって左側は,如意輪観音(にょいりんかんのん,観世音菩薩の変化身(へんげしん)の一つ)のようです。

 

第3回(38)

 

 霊亀山松林寺(臨済宗妙心寺派,塩竈市浦戸寒風沢字愛宕)です。

 

第3回(39)

 

第3回(41)

 

 坂本玄順先生墓です。寛政2年(1790年)寒澤寺に寺子屋が置かれ,玄順が指導したとのことです。

 

第3回(42)

 

 化粧地蔵です。案内板に「作者や作られた年代とも不明であるが,古くからこの地蔵様のお顔に白粉を塗って祈願すると美しい子宝が授かると言われており,今日なお何時も化粧が絶えない。」とあります。

 

第3回(43)

 

 本堂です。

 

第3回(44)

 

 六地蔵です。

 

第3回(44)

 

 延命地蔵です。この石仏は元観音堂参道にあったものを明治37年聖観世音菩薩像(行基作)と同時にこの地に遷座されたものであるとのことです。この地蔵像は享保年間(1716年~36年)江戸で作られ,千石船によってこの地へ搬送されましたが,この船は順風に恵まれ1日1夜で到着したと言われ,そのことから一夜地蔵の別名もあるそうです。

 

第3回(46)

 

 松洞山寒澤寺(真言宗,塩竈市浦戸寒風沢字愛宕)です。江戸時代鹽竈神社(塩竈市一森山)の別当寺であった法蓮寺(金光明山法蓮華院法蓮密寺)の末寺であったとのことです。鳥居があるので,神社かなと思ってしまいます。

 

第3回(47)

 

第3回(48)

 

 江戸時代寒風沢は御城米の積出し港として賑わい,寒澤寺に代々名徳の僧が住み,海上安全その他諸々の祈願が行われていたとのことです。百万遍の供養碑もこれの証と言われています。現在でも信仰深い島民によって百万遍の念仏が行われているそうです(「文化の港 シオーモ」から)。さて,「百万遍供養碑」は「縦140cm,横85cm」とされています(平成22年3月宮城県教育委員会「特別名勝松島保存計画」,塩竈市HPなど多数)が,どれでしょうか?「鎌倉時代製」ともあります(「浦戸諸島〔資源目録〕」,「文化の港 シオーモ」など)。不思議なことですが,「浦戸諸島 島歩きマップ」に記載されている「寒澤寺百万遍供養碑」がどれか,はっきりしません。

 

第3回(49)

 

 私は「百万遍供養碑」は写真中央の光明真言供養碑であると考えていますが,「元禄十二」年(1700年),「長南喜右衛門五十六歳敬建石」とあるそうです。何故「元禄12年(1700年)建石」ではなく,「鎌倉時代製」なのかは不明です。

 

第3回(50)

 

 歴代の住持職の墓碑などです。

 

第3回(50)

 

 寒風沢桟橋から野々島学校下へ渡船に乗ります。電話をかければ迎えに来てくれます。塩竈市の道路扱いですので,運賃は無料です。ただし,この日は何故かなかなか電話がつながらず(電話番号の間違いでないことは確認済み),かなり時間を無駄にしてしまいました。このような経験は初めてです。

 

第3回(51)

 

 野々島学校下に到着しました。

 

第3回(52)

 

 夜泣き地蔵を目指します。

 

第3回(53)

 

 夜泣き地蔵の前に,宇内浜に寄ります。天気が良ければ,素晴らしい「ゆるりと過ごす大人の島じかん」を過ごすことができます。

 

第3回(54)

 

 

 野々島共葬墓地です。

 

第3回(55)

 

 入口にある夜泣き地蔵・六地蔵の説明板です。倒れてしまっています。

 

第3回(56)

 

 夜泣き地蔵・六地蔵です。夜泣き地蔵は子供の夜泣きが治ると言い伝えられ,各家々ではこのお地蔵様にお願いしたそうです。

 

第3回(57)

 

 ハイキングコースを通ります。

 

第3回(58)

 

 椿のトンネルです。

 

第3回(59)

 

 野々島には野仏や祠が点在しているのですが,これは庚申塔です。

 

第3回(60)

 

 これらは,良く分かりません。向かって右から(1)「文化十一年」(1814年)の「南無阿弥陀佛」と刻された碑,(2)「元文(げんぶん)三年」(1738年)の地蔵菩薩(合掌しています。「信女」とありますので,亡くなった女性の供養のためのものでしょう。),(3)香炉を持つ地蔵菩薩,(5)「南無阿弥陀佛」と刻された碑,(6)錫杖を持つ地蔵菩薩ようにも見えます。(4)はまったく分かりません。

 

第3回(61)

 

 熊野神社を目指します。

 

第3回(62)

 

 熊野神社(塩竈市浦戸野々島字平和田)です。塩竈市HP「文化財(野々島) 熊野神社」には「承応年間以前は毛無崎囲,観音堂の西にあったが,現在は野々島の平和田囲に所在し大巳貴命(おおなむち)が祀られています。特に御神像の奥に納まる厨子入り仏像は「キリシタン」研究の資料として貴重です。」とあります。「大巳貴命」とは「大國主大神」の別名です。大國主大神は出雲大社(島根県出雲市大社町杵築東)の主祭神です。ただし,宮城県神社庁の「神社検索 熊野神社」には「主祭神 熊野久須毘命(くまのくすびのみこと)」とあります。熊野久須毘命は天照大御神と須佐之男命の誓約(うけい)によって生まれた男神5柱,女神3柱のうちの1柱(男神)です。

 なお,熊野本宮大社(和歌山県田辺市本宮町本宮)の主祭神は,家津美御子大神(けつみみこのおおかみ=素盞鳴尊(すさのおのみこと))とされています。また,熊野大社(出雲市八雲町熊野)の主祭神は,伊邪那伎日真名子(いざなぎのひまなご=素盞鳴尊)です。大國主大神は,「古事記」によると須佐之男命6世の孫とされていますが,「日本書記」によると素盞鳴尊の息子とされ,7世の孫との説もあるようです。

 

第3回(63)

 

 野々島桟橋で塩竈市営汽船に乗ります。マリンゲート塩釜(塩釜港旅客ターミナル,塩竈市港町一丁目)までの運賃は580円です。

 

第3回(64)

 

 マリンゲート塩釜に到着しました。所要時間は約31分です。

 

第3回(65)

 

第3回(65)

 

 浦戸諸島は素晴らしい!10月22日(土)「(第4回)歴史探訪~晩秋の桂島・野々島を巡る~」を開催します。現在参加者募集中です。

 8月27日(土),「(第3回)歴史探訪~夏の終わりの浦戸で神社・仏閣・地蔵を巡る~」が開催されました。写真で報告します(当日はガイドに集中していましたので,写真撮影はほとんどできていません。大部分の写真は8月19日(金)の下見の際に撮影したものです。晴天であればこのような写真が撮れますということで,御了承願います。)。山形県から2人,宮城県から2人,合計4人の方に参加していただきました。今日は,「その1」です。

 

 午前9時15分マリンゲート塩釜(塩釜港旅客ターミナル,宮城県塩竈市港町一丁目)の待合室(塩竈市営汽船券発売機などがある場所)に集合です。

 

第3回(1)

 

第3回(2)

 

 塩竈市営汽船に乗ります。寒風沢までの運賃は630円です。

 

第3回(3)

 

 寒風沢桟橋に到着しました。所要時間は通常約46分ですが,干潮のため約10分遅れました。

 

第3回(4)

 

 「寒風沢港の歴史」です。寒風沢と言えば,長南和泉守菅原道本(すがわらのみちもと)という人物のことを語らなければなりません(以下,長南道本を「和泉守」と表記します。)。和泉守は天正8年(1580年)安房國に生まれたようですが,出生地の詳細や父の諱(いみな=本名)は不明です。この頃長南氏の大部分は安房里見氏(曲亭馬琴の「南総里見八犬伝」で有名です。)に仕えていたようです。和泉守が家督を相続したのは天正13年(1585年)です。里見義康は慶長5年(1600年)の関ケ原の戦いの後,論功行賞によって常陸國鹿島(現・茨城県鹿嶋市)3万石を加増され,12万2000石の大名になりました。しかし,慶長19年(1614年)里見忠義は大久保忠隣改易事件に連座したのか,安房國を没収され,常陸國鹿島の代替地である伯耆國倉吉(現・鳥取県倉吉市)3万石に転封を命ぜられました(しかし,実際には4千石で,後に100人扶持となり,配流と同じ扱いでした。元和8年(1622年)死去し,男子がいたにもかかわらず,無嗣絶家となりました。)。和泉守は里見氏から1万2000石を与えられていた船手奉行(上総湊を根拠とした裏水軍の首将)であったとのことですが,浪人となり,慶長20年(1615年)の大坂夏の陣の際豊臣秀頼方に加わろうとしましたが,(多分参陣前に)豊臣方は敗れてしまいました。和泉守は3隻の船を奪取し,上総國興津(現・千葉県勝浦市)から出航し,仙台藩伊達氏の飛び地である常陸國信太郡青宿(現・茨城県稲敷郡阿見町大字青宿)を経て,同年12月4箇月掛けて寒風沢島に落漂したのです。一族近臣60余人の大勢で小さい島にいつまでもいられないため,一族近臣は東北地方各地へ落ち延びました。和泉守は隣の野々島との間の海峡に船を浮かべ,船から寒風沢島へ通い,崖を崩したり谷を埋めたりして生活しやすいように工事をし,3年目にやっと上陸して島の暮らしに移りました。その後(豊臣氏再興は不可能であることがはっきりしたためか,)和泉守は得意の船を使って海運業(長南屋)を始め,その頭領として運営に当たる一方,仙台藩の客分として船山航蔵の名で仙台藩水軍操練の指南役となりました。和泉守は長男・茂左衛門(先妻の子,丈八郎道村とも)を石巻に分家(湊長南家)させて廻船問屋を始めさせましたが,これも繁盛しました。和泉守の跡取り(寒風沢長南家)は杢之助(後妻の長男,清八郎道時とも)と言い,江戸幕府から御城米浦役人に任命され,刀を差して寒風沢港の仕事を監督しました。和泉守は寛永17年(1640年)に,松島にある伊達氏,長南氏の菩提寺である瑞巌寺(松島青龍山瑞巌円福禅寺)の雲居希膺(うんごきよう,雲居国師,把不住軒,瑞巌寺第99世住持職)から賞状を貰いました。賞状には,「松には赤松と黒松があるが,松島は元々赤松ばかりで黒松は無かった。ところが寒風沢の長南和泉守が浜松地方から黒松の種を持って来て,ここの海岸や島々に植えてくれた。それが大きくなって島々浦々が見事な風景となった。これは和泉守の大きな功績と言わなければならない。その後和泉守が法名を付けてくれるように希望したので,「栽松道本」(さいしょうどうほん)と付けてあげた。」というようなことが書かれているそうです。即ち,世の人々が松島を天下の名勝と称え,今も松島が観光名所となっているのは,和泉守がこうして松を植えていたことも大きな力になったことは間違いありません。(今回,全国長南会発行パンフレットの内容から一部説明を変更しました。)

 長南和泉守や長南氏について知りたい方は,中村就一氏の「長南氏の研究」(全国長南会)などを参照してください。

 

第3回(5)

 

 造艦の碑です。この碑(縦2.3m,横1.2m)は,国防上の必要から仙台藩の命により三浦乾也(けんや)が東北で初めて西洋型軍艦(2本マストのトップスルスケーナー型汽帆船。長さ33m,幅7.6m,高さ5.8m,大砲9門)を建造したことを記念して,その門人たちにより建立されたものです。この軍艦「開成丸」建造に当たり,寒風沢に造船所を造り,小野寺鳳谷の監督の下安政3年(1856年)8月26日着工,翌安政4年(1857年)7月14日第13代藩主・伊達慶邦臨席の下進水し,その後艤装工事を経て11月完成,同年12月から正月明けにかけて寒風沢-気仙沼間の試験航海に成功したとのことです。「島歩きマップ」には「日本初の西洋式軍艦」とありますが,幕府(徳川家定)は鳳凰丸(嘉永7年(1854年)5月10日),鹿児島藩(薩摩藩,島津斉彬)は昇平丸(嘉永7年(1854年)12月12日)を完成させています(水戸藩(徳川斉昭)も仙台藩よりも早いようです。)ので,「東北初」でしょう。しかし,開成丸の性能では既に時代遅れ(軍艦としての速力不足)で,輸送船に改造してもその構造が適当でなかった関係もあって,進水後2年にしてその姿を消すことになってしまいました。造艦の碑は,昭和62年2月1日塩竈市有形文化財に指定されています。

 

第3回(6)

 

第3回(7)

 

 「世界一周し故郷寒風沢に帰還した漂流民 津太夫と左平」の案内板です。「数奇な運命に翻弄され,日本人として初めて世界一周してしまった男たちの長い長い12年の旅路」(寛政5年11月27日(1793年12月29日)江戸を目指し石巻出港~文化3年(1806年)2月下旬帰郷)は,大槻玄沢・志村弘強の「環海異聞」全15巻にまとめられています。石巻若宮丸漂流民の会は「知りたい宮城の歴史 初めて世界一周した日本人 石巻若宮丸漂流民物語」を発行しています。

 

第3回(8)

 

 日和山展望台に向かいます。

 

第3回(9)

 

第3回(10)

 

 日和山展望台に到着しました。標高22.2mとのことです。

 

第3回(11)

 

 日和山展望台からの眺めです。

 

第3回(12)

 

 天保12年(1841年)8月造立の十二支方角石です。この方角石は,十二支が刻まれた円柱形をなし,直径45cm,高さ82.5cmと他所に類を見ない堂々としたものです。奉献者が一般の船頭,廻船問屋とは異なり,幕府から差遣された役人(木村又兵衛正信)であることも珍しいようです。昭和62年2月1日塩竈市有形文化財に指定されています。

 

第3回(13)

 

 (参考)寒風沢桟橋近くにある十二支方角石の複製です。

 

第3回(14)

 

 庚申塔です。向きが変わってしまっています。旧暦では60日に一度庚申(かのえさる)の日が巡って来ますが,この夜眠ってしまうと人間の体内にすんでいる三尸(さんし)という虫が体内から抜け出し天帝にその宿主(人間)の罪悪を告げ,その人間の寿命を縮めると言い伝えられ、そこから庚申の日の夜は眠らずに過ごすという風習が行われました。一人では夜明かしをして過ごすことは難しいことから,庚申講(庚申待ち)が行われました。つまり,60日ごとに皆が集まり,夜明かしで酒を飲もうというわけです(笑)。庚申塔の特徴は,邪鬼を踏ん付けていることです。庚申講を3年18回続けた記念に建立されることが多いとのことです。

 

第3回(15)

 

 聖観世音菩薩のようです。

 

第3回(16)

 

 しばり地蔵です。寒風沢港が繁栄していた頃島内には遊郭があり,船出しようとする男達を引き止めようと,お地蔵様を荒縄で縛り逆風祈願したと伝わっています。ただし,地蔵菩薩ではなく,毘廬舎那仏(毘廬遮那仏)のようです。

 

第3回(17)

 

 砲台場跡を目指します。

 

第3回(18)

 

 砲台場跡です。慶應3年(1867年),仙台藩は寒風沢港を海防上最も重要な地点として寒風沢-石浜水道がよく俯瞰できるこの地に砲台を築造しました。「加農砲」(カノン砲,Canon砲)3門を据え,弾薬庫,見張所を備え,また沖砲台として船入島には鉄の大巨砲2門を置き,別に石浜崎黒森に1門を据え,仙台藩から大砲方士卒(たいほうかた・しそつ)50人余りが霊亀山松林寺に駐屯して警備に当たったとのことです。「士卒」とは士官と兵卒ですから,江戸時代であれば士分(騎士,徒士)が「士」,卒分(足軽以下)が「卒」ということでしょう。

 

第3回(19)

 

 砲台場跡近くからの眺めです。

 

第3回(20)

 

 鳥居があります。

 

第3回(21)

 

 向かって右から大根神社・船入島弁財天大神社・船入島龍神大権現社です。です。このうち大根神社は,前浜の南にあった大根島に鎮座していたとのことですが,大根島は第6代・孝安天皇の時代に大地震のため海中に没したとされています(宮城県神社庁の神明社(寒風沢神明社)の由緒から)。ただし,「浦戸諸島〔資源目録〕」には貞観11年5月26日(869年7月9日)貞観地震によって海中に没したとあります。

 

第3回(22)

 

 船入島を望みます。ここで,船入島の伝説です。江戸時代,ここには密輸に関係したことであったのでしょうか,仙台藩の秘密の倉庫があったと言われています。船入島の洞窟倉庫の建設や舟の荷役には寒風沢島の人達が召し出されたのですが,その人達は一度も寒風沢島に帰って来ません。ところが,ある日のこと,斬られたり,岩で怪我をして傷のある人が寒風沢島に泳ぎ着いたので村の人が行ってみると,船入島に働きに行った寒風沢島の人でした。その人は苦しい息の下から「船入島に行った人達は,仕事が終わるとすべて斬られて,崖から海に蹴落とされた。」と言って事切れたのです。このことがあってから,寒風沢島の人は船入島には誰も行かなかったということです。また,寒風沢島の人達は今でも船入島に近寄らず,その付近で漁もしないし,ワカメも採らないということです(中村就一氏著「長南氏の研究」から)。

 

第3回(23)

 

 神明社(寒風沢神明社,塩竈市浦戸寒風沢字日和山)です。主祭神は天照皇大神,豊受大神です。建築年代を直接的に証するものは無く,恐らくは江戸中期の社殿建造で,千木・鰹木を乗せた「流れ造り」としては珍しい様式を有しているとのことです。応仁年間(1467年~9年)に楠木氏の遺臣が寒風沢に来島し,定住して稲荷神を敬神して「洲の崎稲荷」又は「宇南明神」と称していたが,後年神宮(伊勢神宮)と合祀して神明社と改めたという由緒があるようです。

 

第3回(24)

 

第3回(25)

 

第3回(26)

 

 前浜からの眺めです。

 

第3回(27)

 

 チリ地震津波被災地の碑です。昭和35年5月24日来襲した津波は,寒風沢沖に面する前浜,韮浜,要の浜,元屋敷浜の各堤防を決壊し,怒涛と化して揚陸し,激甚な被害を発生させ,電話・電灯の送電架線柱の倒壊,断線により寒風沢をはじめ浦戸全島を孤立化させました。

 

第3回(28)

 

 元屋敷浜です。かつて集落があったという浜で,静かで眺めが良い所です。

 

第3回(29)

 

 長南家の墓です。「栽松道本信士」とあります。

 

第3回(30)

 

第3回(31)

 

第3回(32)

 

第3回(33)

 

 全国長南会の供養塔です。

 

第3回(34)

 

 それでは,明日の「その2」に続きます。

仁王島

                    (写真は仁王島)

◇浦戸諸島(宮城県塩竈市)の石浜桟橋・野々島桟橋間の無料渡船は11月から3月までの日祝日は運休となります。今年10月25日(火)は旧暦10月1日,月切りでは早くも冬です。寒くならないうちにということで,浦戸諸島有人4島のうち晩秋の桂島・野々島を巡る歴史探訪を企画しました。
日時 令和4年10月22日(土)午前9時15分から午後3時00分頃まで
◇コース マリンゲート塩釜(塩釜港旅客ターミナル,塩竈市港町一丁目)→桂島桟橋→松崎神社→二度森展望台→西の山展望台→観月崎展望台→桂島海水浴場→雨降石→石濱神社→白石廣造邸跡→石浜桟橋→(無料渡船)→野々島桟橋→ブルーセンター(浦戸諸島開発総合センター)→熊野神社→長浜(学校浜)→ラベンダー畑→宇内浜→野々島共葬墓地(夜泣き地蔵・六地蔵)→柳浜→野々島桟橋→マリンゲート塩釜(塩竈市営汽船マリンゲート塩釜午前9時30分発,午後2時54分着,歩く距離は6km程度)

◇小雨決行。荒天の場合は10月29日(土)にスライドして開催予定(別途御連絡します。)。いずれも荒天の場合は中止(別途御連絡します。)

◇料金無料 汽船運賃(マリンゲート塩釜→桂島520円,野々島→マリンゲート塩釜580円)は各自負担

◇最少催行人数1人,最大7人まで(先着順)

◇昼食,飲み物は各自準備してください。島内にコンビニはありません。

◇歩きやすい靴・服装で。ハチ(蜂)・カ(蚊)などの虫除け対策をお願いします。

◇体調が良くない方は,当日でも参加を御遠慮ください。 

◇このイベントによって何らかの損害が発生しても主催者は一切の責任を負いません。御了承いただける方のみ御参加ください。
お申込みはメール。①申込者の氏名,②申込者を含む参加人数,③申込者の携帯電話番号をお知らせください。

 メールアドレス yashiro_sakana-shiogama@yahoo.co.jp

 7月17日(日)午後,3年ぶりに斎行された塩竈みなと祭の前日に松尾芭蕉が歩いた塩竈を散策し,歴史探訪するイベントを開催しました。山形県から2人の方に参加していただきました。写真で報告します。

 

 元禄2年5月8日(1689年6月24日),松尾芭蕉は午後2時頃塩竈に到着,御釜神社を訪れた後,野田の玉川,末の松山などを巡り,宿「治兵衛」に泊まりました。翌日(旧暦5月9日,新暦6月25日)鹽竈神社に参拝し,昼近くに船を借り,松島へと向かいました。今回のイベントは芭蕉が実際に歩いた道程とは異なりますが,「海と社(やしろ)に育まれる楽しい塩竈」の実現を目指している宮城県塩竈市が最も盛り上がる塩竈みなと祭の前日に芭蕉が歩いた塩竈の歴史探訪をしようというものです。

 

 午後1時30分JR仙石線・本塩釜駅(塩竈市海岸通)神社参道口前集合ということになっていましたが,少し早く集合しましたので,出発です。

 

芭蕉(1)

 

 御釜神社(塩竈市本町)です。四口の神釜(しくのしんかま)が奉安されています。拝観料は1人100円です。釜の中に張られた水は,雨が降っても溢れることがなく,干ばつ時にも涸れることがなく,事変がある時には色が変わると言われています。東日本大震災の日の平成23年3月11日午前8時頃,普段は錆のような赤褐色に濁っていた水が,綺麗に澄んだ水に変わっていたそうです。日本三奇の一つです。他の二つは,石の寶殿(兵庫県高砂市阿弥陀町生石,生石(おおしこ)神社),天の逆鉾(宮崎県西諸県郡高原町大字蒲牟田,霧島東神社)です。

 

芭蕉(2)

 

芭蕉(3)

 

芭蕉(4)

 

芭蕉(5)

 

芭蕉(6)

 

 鹽竈神社(塩竈市一森山)表参道(表坂)です。芭蕉がどの参道を上って鹽竈神社に参拝したかは不明ですが,「おくのほそ道」に書かれた「早朝塩竈の明神に詣ず。国守再興せられて宮柱ふとしく,彩椽きらびやかに,石の階(きざはし)九仭に重なり,朝日朱の玉垣をかゝやかす。」という記載から表参道と考えるのが自然であると思います。「九仭」とは非常に高いということです。

 

芭蕉(7)

 

 表参道上の随身門(楼門)です。

 

芭蕉(8)

 

 芭蕉が訪れた頃に文治の燈籠(文治神燈とも)があった場所と思われます。その頃の文治の燈籠は,九輪ある仏式の多宝塔の姿で寛文3年(1663年)造営の社殿の外の西南側,現在の御神木杉の西側にあったようです。文治の燈籠は寛文11年(1671年)境内の山林で発見され,修復されたとの記録があるそうです。芭蕉はその燈籠を18年後に見たことになります。

 

芭蕉(9)

 

 鹽竈神社別宮です。

 

芭蕉(10)

 

 鹽竈神社左右宮です。鹽竈神社別宮,左右宮とも寶永元年(1704年)の竣工ですし,江戸時代末まで四足門(唐門)から中は一般人は原則として立入禁止だったようですので,芭蕉は現在の鹽竈神社社殿はもとより,当時の社殿(鹽竈神社東西宮)も見ていないと思われます。

 

芭蕉(11)

 

 現在の文治の燈籠です。多宝塔の姿から現在の神塔の姿になったのは明治時代になってからのようで,現社殿(拝殿)の前に移されました。ただし,その燈籠は金属類回収令(昭和16年公布,その後改正)で供出させられたようで,現在の文治の燈籠は大東亜戦争後に再建されたものと思われます。文治の燈籠には「文治三年七月十日和泉三郎忠衡敬白」とあります。元々の文治の燈籠は,奥州藤原氏第3代・藤原秀衡の三男・忠衡によって文治3年(1187年)に寄進されたものです。源義経が兄・頼朝によって追討を受け,秀衡によって庇護を受けていた時期で,頼朝と奥州藤原氏の決戦が迫っていたこともあり,忠衡が戦勝祈願のため奉納したのでしょう。秀衡は義経を主君として頼朝に対抗するよう遺言して文治3年に没しました。しかし,忠衡の兄で秀衡の後を継いだ奥州藤原氏第4代・泰衡は頼朝の圧力に屈して文治5年(1189年)義経らを殺害,忠衡も誅殺されました。結局,頼朝は奥州藤原氏を滅亡させます。芭蕉は義経に深く思いを入れていたようで,「おくのほそ道」の旅でも義経所縁(ゆかり)の地に積極的に足を運んでいます。「かれは勇義忠孝の士なり。佳命今に至りて慕わずという事なし。誠に人よく道を勤め,義を守るべし。名もまたこれに従うといえり。」と忠衡を絶賛しています。

 

芭蕉(12)

 

 文治の燈籠は石柵で囲まれています。この石柵は,後世の俳人らが芭蕉を慕い,享和3年(1803年)に造設されました。この柵の支柱には44句が刻まれています。「鶯の朝読み急ぐ寝ぼけ哉 八才 与三郎」というのもあります。

 

芭蕉(13)

 

 鹽竈神社左右宮拝殿階段擬宝珠(ぎぼし)です。寶永元年(1704年)仙台藩第5代藩主・伊達吉村の時に鹽竈神社の現社殿が竣工しました。左右宮だけでなく,別宮もこの時に竣工したものです。その前には別宮の場所に貴船社及び只洲宮(ただすのみや)があったとのことです。

 

芭蕉(14)

 

 文化燈籠(銅鉄合成燈籠)です。これは芭蕉とは関係ありません。文化6年 (1809年)仙台藩第9代藩主・伊達周宗(ちかむね)によって奉納されたものです。塩竈大好き倶楽部案内人の筆者が現在気合を入れて勉強中です。「アイヌ先住民族」説なる政治的主張の影響を受けてのことでしょうが,江戸時代までの蝦夷地(北海道)は日本の領土で無かったというトンデモ説が流布されており,それに反発したものです。筆者は「アイヌ系蝦夷族」説(平安時代初期に征服されるまで,東北地方(福島以北)には縄文時代からアイヌ語を話す民種(蝦夷)が先住していた,つまりアイヌは東北地方の先住民族でもあるという主張)とも論戦しています。

 

芭蕉(15)

 

 仙台藩第4代藩主・伊達綱村の顕彰碑です。綱村の300年遠忌(平成30年)に建立されたものです。

 

芭蕉(16)

 

 志波彦神社鹽竈神社由緒です。芭蕉が訪れた時には志波彦神社はここにはありませんでした。

 

芭蕉(17)

 

 御文庫(旧鐘楼)です。室町時代の建物で,鹽竈神社で最も古い建物であると言われています。芭蕉が訪れた時には現在の随身門(楼門)のある場所(当時は長床)の東側にありました。神仏混淆(習合)を示しています。「おくのほそ道」には「入相(いりあい)の鐘を聞く」とありますが,もしかすると芭蕉が聞いたのはこの鐘かも知れないと考えるとロマンがあります。

 

芭蕉(18)

 

 塩竈観光協会昭和36年5月8日奉献の「芭蕉翁奥之細道碑」です。芭蕉の「おくのほそ道(塩竈編)」を記載したものです。

 

芭蕉(19)

 

 鹽竈神社東参道(裏坂)を降りた所に「芭蕉止宿の地」とあります。「法蓮寺の門前」とのことですので,この辺ではないかということです。はっきりしていません。

 

芭蕉(20)

 

 「治兵衛の宿」の標柱です。

 

芭蕉(21)

 

 鹽竈海道にあるおくのほそ道の屏風型モニュメントです。これも芭蕉の「おくのほそ道(塩竈編)」を記載したものです。

 

芭蕉(22)

 

 芭蕉船出の地とあります。もう少し西側(鹽竈神社寄り)ではないかとの説もあるようです。

 

芭蕉(23)

 

 マリンゲート塩釜(塩釜港旅客ターミナル,塩竈市港町一丁目)から塩釜港西埠頭に行きます。まず,志波彦神社の御神輿を奉安する御座船・龍鳳丸です。

 

芭蕉(24)

 

 鹽竈神社の御神輿を奉安する御座船・鳳凰丸です。ここで記念撮影し,午後3時30分解散しました。ありがとうございました。

 

芭蕉(25)

 

 8月27日(土)には,浦戸諸島の寒風沢島・野々島の神社・仏閣・地蔵を巡るイベントを開催します。皆さん,ぜひ御参加ください。