10月22日(土),「(第4回)歴史探訪~晩秋の桂島・野々島を巡る~」が開催されました。写真で報告します(当日はガイドに集中していましたので,写真撮影はほとんどできていません。大部分の写真は10月14日(金)の下見の際に撮影したものです。御了承願います。)。山形県から2人の方に参加していただきました。
マリンゲート塩釜(塩釜港旅客ターミナル,宮城県塩竈市港町一丁目)です。午前9時15分待合室(塩竈市営汽船券発売機などがある場所)に集合です。
午前9時30分発の塩竈市営汽船に乗ります。
約23分で桂島桟橋に到着です。運賃は520円です。
松崎神社(桂島神社とも言います。塩竈市浦戸字神手洗)です。「別当法蓮寺記」などの文献には,鹽竈神社(塩竈市一森山)十四末社の一つと記載されています。主祭神は奥津彦神・奥津姫神です。つまり,竈(かまど)神です。宮城県神社庁によると,由緒は「大昔鹽竈の神(鹽土老翁)塩竈の浦に塩の業を教え給ふ時此の神も鹽竈の神と共に塩の事に當り,民族の教化に努め,この地方に祭祀される。この地に祀られたる年代は不詳なるも古き昔より祀られていると思われる。昔は桂島明神と称して現在の地より西方松崎という岬角上に祀られていたが,参道崩壊し参拝するにも難所にて現在地に遷されたる由,其の年月も詳らず。明治43年桂島海水浴場の開設に伴い,付近に御鎮座の八幡神社,春日神社,神明社も合祀される。」とのことです。鎮守の森にはタブノキ(椨,単に「タブ」とも言います。)の大木が繁茂し,昼でも暗くなっています。この境内の木に刃物を入れれば天罰が下るという言い伝えがあるようです。
松崎神社は,桂島の森の入口です。松崎神社の脇を通り,裏に抜けると遊歩道があります。まず,白崎山展望台です。
二度森展望台です。
西の山展望台です。桂島の森から望む西側(マリンゲート塩釜方向)の海の中では,私は最も美しい場所だと思っているのですが,何故か「浦戸諸島 島歩きマップ」には載っていません。
観月崎展望台です。仁王島は樹木に隠れてしまっています。
桂島海水浴場です。振り返ると仁王島が見えます。
左には桂島ステイ・ステーション(宮城県塩竈市浦戸桂島字台)があります。旧・浦戸第二小学校の施設を活用し,大規模な改修を行って,新たな施設として平成27年12月にオープンしました。浦戸諸島への定住促進と漁業後継者の育成を目的とした施設です。右に進みます。
浦戸諸島「海と花の物語」の桂島ガーデンです。「浦戸諸島に海と花のコラボした美しい風景を作りたぁ〜い‼️ 」と「”小さなボランティア”をしながら島歩きする任意団体」・浦戸諸島「海と花の物語」が管理しています。詳しくは,浦戸諸島 「海と花の物語」 (facebook.com)を御覧ください。
桂島共葬墓地内の白石廣造の墓です。白石廣造については,後ほど白石廣造邸跡の所で説明します。とりあえず,墓石に「明治四十三年十一月朝廷賜藍綬褒章」とあることを記憶しておいてください。
雨降り石です。水道の無い時代,ここで雨乞いが行われたと伝わっています。
雨降り石からトレッキング(山歩き)を楽しんで白石廣造邸跡に向かうこともできるのですが,やや危険な箇所があるため戻ります。
石濱神社(塩竈市浦戸石浜字山神)です。主祭神は花園天皇で,宮城県神社庁によると由緒は「花園天皇の文安(1444年~9年)年中邑民等の奉祀するところにして山神と称した。元津森山東北砂木と呼ぶ岬に祀られていた。後今の産土神森に移祀したと伝えられる。」とのことです。
白石廣造邸跡です。白石廣造は,弘化元年12月14日(1845年1月21日)武蔵國葛飾郡千塚村(現・埼玉県幸手市大字千塚)で生まれました。廣造は,明治4年石浜に「白石回漕店(白石商会)」を設立し,北海道や三陸沿岸各所の海運交通を開き,かつ遠洋漁業を経営し,オホーツク海,ベーリング海等におけるラッコ・オットセイ猟を興し,東北振興事業,塩竈築港の企画促進等を主唱しました。明治22年市町村制の実施に当たり初代浦戸村長。大正2年5月6日仙台で死去(享年69)。敷地内には,屋敷の礎石や石蔵,庭園の石燈籠が残っており,当時の繁栄を偲ばせるものとなっています。
なお,宮城県観光課の説明板には,白石廣造の藍綬褒章受章を「明治23年」と記載しています。桂島共葬墓地の白石廣造の墓石には「明治四十三年十一月朝廷賜藍綬褒章」とありました。私は宮城県観光課の説明版の誤記と考えていますが,「明治23年」か「明治43年」か,詳しい方に御教示頂ければ幸いです。
石浜桟橋から野々島桟橋へは渡船に乗ります。電話をかければ迎えに来てくれます。塩竈市の道路扱いですので,運賃は無料です。
野々島桟橋に到着しました。
浦戸諸島開発総合センター(ブルーセンター,塩竈市浦戸野々島字河岸)です。「研修目的の宿泊や貸室も行っている。市役所支所や診療所,コミュニティスペースを兼ねる。」(塩竈市観光振興ビジョン推進委員会「島歩きマップ【補足版】 浦戸諸島の歩き方」)とのことです。「うらとラウンジ菜の花」で食事・休憩です(無料)。
熊野神社(塩竈市浦戸野々島字平和田)です。塩竈市HP「文化財(野々島) 熊野神社」には「承応年間以前は毛無崎囲,観音堂の西にあったが,現在は野々島の平和田囲に所在し大巳貴命(おおなむち)が祀られています。特に御神像の奥に納まる厨子入り仏像は「キリシタン」研究の資料として貴重です。」とあります。「大巳貴命」とは「大國主大神」の別名です。大國主大神は出雲大社(島根県出雲市大社町杵築東)の主祭神です。ただし,宮城県神社庁の「神社検索 熊野神社」には「主祭神 熊野久須毘命(くまのくすびのみこと)」とあります。熊野久須毘命は天照大御神と須佐之男命の誓約(うけい)によって生まれた男神5柱,女神3柱のうちの1柱(男神)です。
なお,熊野本宮大社(和歌山県田辺市本宮町本宮)の主祭神は,家津美御子大神(けつみみこのおおかみ=素盞鳴尊(すさのおのみこと))とされています。また,熊野大社(出雲市八雲町熊野)の主祭神は,伊邪那伎日真名子(いざなぎのひまなご=素盞鳴尊)です。大國主大神は,「古事記」によると須佐之男命6世の孫とされていますが,「日本書記」によると素盞鳴尊の息子とされ,7世の孫との説もあるようです。
野々島には野仏や祠が点在しているのですが,これは山神社・山神です。
これらは,良く分かりません。向かって右から(1)「文化十一年」(1814年)の「南無阿弥陀佛」と刻された碑,(2)「元文(げんぶん)三年」(1738年)の地蔵菩薩(合掌しています。「信女」とありますので,亡くなった女性の供養のためのものでしょう。),(3)香炉を持つ地蔵菩薩,(5)「南無阿弥陀佛」と刻された碑,(6)錫杖を持つ地蔵菩薩ようにも見えます。(4)はまったく分かりません。
これは庚申塔です。旧暦では60日に一度庚申(かのえさる)の日が巡って来ますが,この夜眠ってしまうと人間の体内にすんでいる三尸(さんし)という虫が体内から抜け出し天帝にその宿主(人間)の罪悪を告げ,その人間の寿命を縮めると言い伝えられ,そこから庚申の日の夜は眠らずに過ごすという風習が行われました。一人では夜明かしをして過ごすことは難しいことから,庚申講(庚申待ち)が行われました。つまり,60日ごとに皆が集まり,夜明かしで酒を飲もうというわけです(笑)。庚申塔の特徴は,邪鬼を踏ん付けていることです。庚申講を3年18回続けた記念に建立されることが多いとのことです。
ツバキ(椿)のトンネルです。春は椿のトンネルが見頃になります。
「ツバキのこみち」を通って長浜(学校浜)を目指します。
長浜(学校浜)です。遥か遠くに,松島四大観の一つ・「麗観」こと富山(とみやま,宮城郡松島町手樽字三浦)を望みます。
漆島(無人島)方面を望みます。
ラベンダー畑です。
宇内浜です。
野々島共葬墓地です。
夜泣き地蔵・六地蔵です。夜泣き地蔵は子供の夜泣きが治ると言い伝えられ,各家々ではこのお地蔵様にお願いしたそうです。夜泣き地蔵の近くに(向かって左側,一つ置いて)六地蔵があります。古代インドでは生類は六道(天道(天上道とも)・人間道・修羅道・畜生道・餓鬼道・地獄道)を輪廻転生する(つまり,永遠に死なない。)とされ,これは苦痛であると捉えていました。釈迦(ガーダマ・シッダールタ)はこの世のことはすべて無常と悟ることによって,この輪廻の輪から抜け出る(解脱する)ことができると考えました。解脱すると仏陀(如来)となりますが,一歩手前の存在が菩薩です。お地蔵さまも菩薩です(地蔵菩薩)。では,どれが天(上)道の地蔵菩薩で,どれが地獄道の地蔵菩薩なのでしょうか。必ずしも向かって右又は左から順に並んでいるわけではないようです。それぞれの地蔵菩薩は印相(いんぞう,手の指の形)又は持物(じもつ,手に持つ物)が違うのですが,必ずしも何を持っているから天(上)道,何を持っているから地獄道とは言えないようです。詳しい方に御教示頂ければ幸いです。
柳浜です。
観音堂です。この近くに元・熊野神社があったようです。かつてはかなりきつい坂をよじ登ったのですが,階段が整備され上り下りが楽になりました。
野々島桟橋で塩竈市営汽船に乗ります。マリンゲート塩釜(塩釜港旅客ターミナル,塩竈市港町一丁目)までの運賃は580円です。
マリンゲート塩釜に到着しました。所要時間は約31分です。
浦戸諸島は素晴らしい!今年は今回が最後になりますが,来年4月菜の花の季節に朴島・寒風沢島を巡るイベントを開催するつもりです。御期待ください。.