(第3回)歴史探訪~夏の終わりの浦戸で神社・仏閣・地蔵を巡る~(結果報告・その1) | 塩竈大好き倶楽部(案内人)

塩竈大好き倶楽部(案内人)

「海と社(やしろ)に育まれる楽しい塩竈」の実現を目指している宮城県塩竈市内の「塩竈大好き倶楽部(案内人)」のブログです。志波神社鹽竈神社及びその門前町(鳥居前町),浦戸諸島(桂島,野々島,寒風沢島,朴島)の紹介をします。

 8月27日(土),「(第3回)歴史探訪~夏の終わりの浦戸で神社・仏閣・地蔵を巡る~」が開催されました。写真で報告します(当日はガイドに集中していましたので,写真撮影はほとんどできていません。大部分の写真は8月19日(金)の下見の際に撮影したものです。晴天であればこのような写真が撮れますということで,御了承願います。)。山形県から2人,宮城県から2人,合計4人の方に参加していただきました。今日は,「その1」です。

 

 午前9時15分マリンゲート塩釜(塩釜港旅客ターミナル,宮城県塩竈市港町一丁目)の待合室(塩竈市営汽船券発売機などがある場所)に集合です。

 

第3回(1)

 

第3回(2)

 

 塩竈市営汽船に乗ります。寒風沢までの運賃は630円です。

 

第3回(3)

 

 寒風沢桟橋に到着しました。所要時間は通常約46分ですが,干潮のため約10分遅れました。

 

第3回(4)

 

 「寒風沢港の歴史」です。寒風沢と言えば,長南和泉守菅原道本(すがわらのみちもと)という人物のことを語らなければなりません(以下,長南道本を「和泉守」と表記します。)。和泉守は天正8年(1580年)安房國に生まれたようですが,出生地の詳細や父の諱(いみな=本名)は不明です。この頃長南氏の大部分は安房里見氏(曲亭馬琴の「南総里見八犬伝」で有名です。)に仕えていたようです。和泉守が家督を相続したのは天正13年(1585年)です。里見義康は慶長5年(1600年)の関ケ原の戦いの後,論功行賞によって常陸國鹿島(現・茨城県鹿嶋市)3万石を加増され,12万2000石の大名になりました。しかし,慶長19年(1614年)里見忠義は大久保忠隣改易事件に連座したのか,安房國を没収され,常陸國鹿島の代替地である伯耆國倉吉(現・鳥取県倉吉市)3万石に転封を命ぜられました(しかし,実際には4千石で,後に100人扶持となり,配流と同じ扱いでした。元和8年(1622年)死去し,男子がいたにもかかわらず,無嗣絶家となりました。)。和泉守は里見氏から1万2000石を与えられていた船手奉行(上総湊を根拠とした裏水軍の首将)であったとのことですが,浪人となり,慶長20年(1615年)の大坂夏の陣の際豊臣秀頼方に加わろうとしましたが,(多分参陣前に)豊臣方は敗れてしまいました。和泉守は3隻の船を奪取し,上総國興津(現・千葉県勝浦市)から出航し,仙台藩伊達氏の飛び地である常陸國信太郡青宿(現・茨城県稲敷郡阿見町大字青宿)を経て,同年12月4箇月掛けて寒風沢島に落漂したのです。一族近臣60余人の大勢で小さい島にいつまでもいられないため,一族近臣は東北地方各地へ落ち延びました。和泉守は隣の野々島との間の海峡に船を浮かべ,船から寒風沢島へ通い,崖を崩したり谷を埋めたりして生活しやすいように工事をし,3年目にやっと上陸して島の暮らしに移りました。その後(豊臣氏再興は不可能であることがはっきりしたためか,)和泉守は得意の船を使って海運業(長南屋)を始め,その頭領として運営に当たる一方,仙台藩の客分として船山航蔵の名で仙台藩水軍操練の指南役となりました。和泉守は長男・茂左衛門(先妻の子,丈八郎道村とも)を石巻に分家(湊長南家)させて廻船問屋を始めさせましたが,これも繁盛しました。和泉守の跡取り(寒風沢長南家)は杢之助(後妻の長男,清八郎道時とも)と言い,江戸幕府から御城米浦役人に任命され,刀を差して寒風沢港の仕事を監督しました。和泉守は寛永17年(1640年)に,松島にある伊達氏,長南氏の菩提寺である瑞巌寺(松島青龍山瑞巌円福禅寺)の雲居希膺(うんごきよう,雲居国師,把不住軒,瑞巌寺第99世住持職)から賞状を貰いました。賞状には,「松には赤松と黒松があるが,松島は元々赤松ばかりで黒松は無かった。ところが寒風沢の長南和泉守が浜松地方から黒松の種を持って来て,ここの海岸や島々に植えてくれた。それが大きくなって島々浦々が見事な風景となった。これは和泉守の大きな功績と言わなければならない。その後和泉守が法名を付けてくれるように希望したので,「栽松道本」(さいしょうどうほん)と付けてあげた。」というようなことが書かれているそうです。即ち,世の人々が松島を天下の名勝と称え,今も松島が観光名所となっているのは,和泉守がこうして松を植えていたことも大きな力になったことは間違いありません。(今回,全国長南会発行パンフレットの内容から一部説明を変更しました。)

 長南和泉守や長南氏について知りたい方は,中村就一氏の「長南氏の研究」(全国長南会)などを参照してください。

 

第3回(5)

 

 造艦の碑です。この碑(縦2.3m,横1.2m)は,国防上の必要から仙台藩の命により三浦乾也(けんや)が東北で初めて西洋型軍艦(2本マストのトップスルスケーナー型汽帆船。長さ33m,幅7.6m,高さ5.8m,大砲9門)を建造したことを記念して,その門人たちにより建立されたものです。この軍艦「開成丸」建造に当たり,寒風沢に造船所を造り,小野寺鳳谷の監督の下安政3年(1856年)8月26日着工,翌安政4年(1857年)7月14日第13代藩主・伊達慶邦臨席の下進水し,その後艤装工事を経て11月完成,同年12月から正月明けにかけて寒風沢-気仙沼間の試験航海に成功したとのことです。「島歩きマップ」には「日本初の西洋式軍艦」とありますが,幕府(徳川家定)は鳳凰丸(嘉永7年(1854年)5月10日),鹿児島藩(薩摩藩,島津斉彬)は昇平丸(嘉永7年(1854年)12月12日)を完成させています(水戸藩(徳川斉昭)も仙台藩よりも早いようです。)ので,「東北初」でしょう。しかし,開成丸の性能では既に時代遅れ(軍艦としての速力不足)で,輸送船に改造してもその構造が適当でなかった関係もあって,進水後2年にしてその姿を消すことになってしまいました。造艦の碑は,昭和62年2月1日塩竈市有形文化財に指定されています。

 

第3回(6)

 

第3回(7)

 

 「世界一周し故郷寒風沢に帰還した漂流民 津太夫と左平」の案内板です。「数奇な運命に翻弄され,日本人として初めて世界一周してしまった男たちの長い長い12年の旅路」(寛政5年11月27日(1793年12月29日)江戸を目指し石巻出港~文化3年(1806年)2月下旬帰郷)は,大槻玄沢・志村弘強の「環海異聞」全15巻にまとめられています。石巻若宮丸漂流民の会は「知りたい宮城の歴史 初めて世界一周した日本人 石巻若宮丸漂流民物語」を発行しています。

 

第3回(8)

 

 日和山展望台に向かいます。

 

第3回(9)

 

第3回(10)

 

 日和山展望台に到着しました。標高22.2mとのことです。

 

第3回(11)

 

 日和山展望台からの眺めです。

 

第3回(12)

 

 天保12年(1841年)8月造立の十二支方角石です。この方角石は,十二支が刻まれた円柱形をなし,直径45cm,高さ82.5cmと他所に類を見ない堂々としたものです。奉献者が一般の船頭,廻船問屋とは異なり,幕府から差遣された役人(木村又兵衛正信)であることも珍しいようです。昭和62年2月1日塩竈市有形文化財に指定されています。

 

第3回(13)

 

 (参考)寒風沢桟橋近くにある十二支方角石の複製です。

 

第3回(14)

 

 庚申塔です。向きが変わってしまっています。旧暦では60日に一度庚申(かのえさる)の日が巡って来ますが,この夜眠ってしまうと人間の体内にすんでいる三尸(さんし)という虫が体内から抜け出し天帝にその宿主(人間)の罪悪を告げ,その人間の寿命を縮めると言い伝えられ、そこから庚申の日の夜は眠らずに過ごすという風習が行われました。一人では夜明かしをして過ごすことは難しいことから,庚申講(庚申待ち)が行われました。つまり,60日ごとに皆が集まり,夜明かしで酒を飲もうというわけです(笑)。庚申塔の特徴は,邪鬼を踏ん付けていることです。庚申講を3年18回続けた記念に建立されることが多いとのことです。

 

第3回(15)

 

 聖観世音菩薩のようです。

 

第3回(16)

 

 しばり地蔵です。寒風沢港が繁栄していた頃島内には遊郭があり,船出しようとする男達を引き止めようと,お地蔵様を荒縄で縛り逆風祈願したと伝わっています。ただし,地蔵菩薩ではなく,毘廬舎那仏(毘廬遮那仏)のようです。

 

第3回(17)

 

 砲台場跡を目指します。

 

第3回(18)

 

 砲台場跡です。慶應3年(1867年),仙台藩は寒風沢港を海防上最も重要な地点として寒風沢-石浜水道がよく俯瞰できるこの地に砲台を築造しました。「加農砲」(カノン砲,Canon砲)3門を据え,弾薬庫,見張所を備え,また沖砲台として船入島には鉄の大巨砲2門を置き,別に石浜崎黒森に1門を据え,仙台藩から大砲方士卒(たいほうかた・しそつ)50人余りが霊亀山松林寺に駐屯して警備に当たったとのことです。「士卒」とは士官と兵卒ですから,江戸時代であれば士分(騎士,徒士)が「士」,卒分(足軽以下)が「卒」ということでしょう。

 

第3回(19)

 

 砲台場跡近くからの眺めです。

 

第3回(20)

 

 鳥居があります。

 

第3回(21)

 

 向かって右から大根神社・船入島弁財天大神社・船入島龍神大権現社です。です。このうち大根神社は,前浜の南にあった大根島に鎮座していたとのことですが,大根島は第6代・孝安天皇の時代に大地震のため海中に没したとされています(宮城県神社庁の神明社(寒風沢神明社)の由緒から)。ただし,「浦戸諸島〔資源目録〕」には貞観11年5月26日(869年7月9日)貞観地震によって海中に没したとあります。

 

第3回(22)

 

 船入島を望みます。ここで,船入島の伝説です。江戸時代,ここには密輸に関係したことであったのでしょうか,仙台藩の秘密の倉庫があったと言われています。船入島の洞窟倉庫の建設や舟の荷役には寒風沢島の人達が召し出されたのですが,その人達は一度も寒風沢島に帰って来ません。ところが,ある日のこと,斬られたり,岩で怪我をして傷のある人が寒風沢島に泳ぎ着いたので村の人が行ってみると,船入島に働きに行った寒風沢島の人でした。その人は苦しい息の下から「船入島に行った人達は,仕事が終わるとすべて斬られて,崖から海に蹴落とされた。」と言って事切れたのです。このことがあってから,寒風沢島の人は船入島には誰も行かなかったということです。また,寒風沢島の人達は今でも船入島に近寄らず,その付近で漁もしないし,ワカメも採らないということです(中村就一氏著「長南氏の研究」から)。

 

第3回(23)

 

 神明社(寒風沢神明社,塩竈市浦戸寒風沢字日和山)です。主祭神は天照皇大神,豊受大神です。建築年代を直接的に証するものは無く,恐らくは江戸中期の社殿建造で,千木・鰹木を乗せた「流れ造り」としては珍しい様式を有しているとのことです。応仁年間(1467年~9年)に楠木氏の遺臣が寒風沢に来島し,定住して稲荷神を敬神して「洲の崎稲荷」又は「宇南明神」と称していたが,後年神宮(伊勢神宮)と合祀して神明社と改めたという由緒があるようです。

 

第3回(24)

 

第3回(25)

 

第3回(26)

 

 前浜からの眺めです。

 

第3回(27)

 

 チリ地震津波被災地の碑です。昭和35年5月24日来襲した津波は,寒風沢沖に面する前浜,韮浜,要の浜,元屋敷浜の各堤防を決壊し,怒涛と化して揚陸し,激甚な被害を発生させ,電話・電灯の送電架線柱の倒壊,断線により寒風沢をはじめ浦戸全島を孤立化させました。

 

第3回(28)

 

 元屋敷浜です。かつて集落があったという浜で,静かで眺めが良い所です。

 

第3回(29)

 

 長南家の墓です。「栽松道本信士」とあります。

 

第3回(30)

 

第3回(31)

 

第3回(32)

 

第3回(33)

 

 全国長南会の供養塔です。

 

第3回(34)

 

 それでは,明日の「その2」に続きます。