寒風沢島ガイド | 塩竈大好き倶楽部(案内人)

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「海と社(やしろ)に育まれる楽しい塩竈」の実現を目指している宮城県塩竈市内の「塩竈大好き倶楽部(案内人)」のブログです。志波神社鹽竈神社及びその門前町(鳥居前町),浦戸諸島(桂島,野々島,寒風沢島,朴島)の紹介をします。

 5月17日(金),2人の方について浦戸諸島(宮城県塩竈市)の有人4島の一つ・寒風沢島のガイドをしました。写真で報告します。

 

 マリンゲート塩釜(塩釜港旅客ターミナル,塩竈市港町一丁目)です。午前9時30分発の塩竈市営汽船に乗ります。寒風沢島までの運賃は630円です。

 

寒風沢(1)

 

寒風沢(2)

 

 午前10時16分頃寒風沢島桟橋に到着しました。所要時間は約46分です。

 

寒風沢(3)

 

 「寒風沢港の歴史」です。

 

寒風沢(4)

 

 造艦の碑です。この碑(縦2.3m,横1.2m)は,国防上の必要から仙台藩の命により三浦乾也(けんや)が東北で初めて西洋型軍艦(2本マストのトップスルスケーナー型汽帆船。長さ33m,幅7.6m,高さ5.8m,大砲9門)を建造したことを記念して,その門人たちにより建立されたものです。この軍艦「開成丸」建造に当たり,寒風沢に造船所を造り,小野寺鳳谷の監督の下安政3年(1856年)8月26日着工,翌安政4年(1857年)7月14日第13代藩主・伊達慶邦臨席の下進水し,その後艤装工事を経て11月完成,同年12月から正月明けにかけて寒風沢-気仙沼間の試験航海に成功したとのことです。「島歩きマップ」には「日本初の西洋式軍艦」とありますが,幕府(徳川家定)は鳳凰丸(嘉永7年(1854年)5月10日),鹿児島藩(「薩摩藩」とも。島津斉彬)は昇平丸(嘉永7年(1854年)12月12日)を完成させています(水戸藩(徳川斉昭)も仙台藩よりも早いようです。)ので,「東北初」でしょう。しかし,開成丸の性能では既に時代遅れ(軍艦としての速力不足)で,輸送船に改造してもその構造が適当でなかった関係もあって,進水後2年にしてその姿を消すことになってしまいました。造艦の碑は,昭和62年2月1日塩竈市有形文化財に指定されています。

 

寒風沢(5)

 

 「世界一周し故郷寒風沢に帰還した漂流民 津太夫と左平」の案内板です。「数奇な運命に翻弄され,日本人として初めて世界一周してしまった男たちの長い長い12年の旅路」(寛政5年11月27日(1793年12月29日)江戸を目指し石巻出港~文化3年(1806年)2月下旬帰郷)は,大槻玄沢・志村弘強の「環海異聞」全15巻にまとめられています。

 

寒風沢(6)

 

 日和山展望台です。日和山は標高22.2mとのことです。

 

寒風沢(7)

 

 西側の海を望みます。

 

寒風沢(8)

 

 天保12年(1841年)8月造立の十二支方角石です。この方角石は,十二支が刻まれた円柱形をなし,直径45cm,高さ82.5cmと他所に類を見ない堂々としたものです。奉献者が一般の船頭,廻船問屋とは異なり,幕府から差遣された役人(木村又兵衛正信)であることも珍しいようです。昭和62年2月1日塩竈市有形文化財に指定されています。

 

寒風沢(9)

 

 (参考)寒風沢桟橋近くにある十二支方角石の複製です。

 

寒風沢(10)

 

 庚申塔です。向きが変わってしまっています。旧暦では60日に一度庚申(かのえさる)の日が巡って来ますが,この夜眠ってしまうと人間の体内にすんでいる三尸(さんし)という虫が体内から抜け出し天帝にその宿主(人間)の罪悪を告げ,その人間の寿命を縮めると言い伝えられ、そこから庚申の日の夜は眠らずに過ごすという風習が行われました。一人では夜明かしをして過ごすことは難しいことから,庚申講(庚申待ち)が行われました。つまり,60日ごとに皆が集まり,夜明かしで酒を飲もうというわけです(笑)。庚申塔の特徴は,邪鬼を踏ん付けていることです。庚申講を3年18回続けた記念に建立されることが多いとのことです。

 

寒風沢(11)

 

 聖観世音菩薩のようです。

 

寒風沢(12)

 

 しばり地蔵です。寒風沢港が繁栄していた頃島内には遊郭があり,船出しようとする男達を引き止めようと,お地蔵様を荒縄で縛り逆風祈願したと伝わっています。ただし,地蔵菩薩ではなく,毘廬舎那仏(毘廬遮那仏)のようです。

 

寒風沢(13)

 

 長南和泉守菅原道本(ちょうなんいずみのかみ すがわらのみちもと)の墓を目指します(以下,長南道本を「和泉守」と表記します。)。和泉守は天正8年(1580年)安房國に生まれたようですが,出生地の詳細や父の諱(いみな=本名)は不明です。この頃長南氏の大部分は安房里見氏(曲亭馬琴の「南総里見八犬伝」で有名です。)に仕えていたようです。和泉守が家督を相続したのは天正13年(1585年)です。里見義康は慶長5年(1600年)の関ケ原の戦いの後,論功行賞によって常陸國鹿島(現・茨城県鹿嶋市)3万石を加増され,12万2000石の大名になりました。しかし,慶長19年(1614年)里見忠義は大久保忠隣改易事件に連座したのか,安房國を没収され,常陸國鹿島の代替地である伯耆國倉吉(現・鳥取県倉吉市)3万石に転封を命ぜられました(しかし,実際には4千石で,後に100人扶持となり,配流と同じ扱いでした。元和8年(1622年)死去し,男子がいたにもかかわらず,無嗣絶家となりました。)。和泉守は里見氏から1万2000石を与えられていた船手奉行(上総湊を根拠とした裏水軍の首将)であったとのことですが,浪人となり,慶長20年(1615年)の大坂夏の陣の際豊臣秀頼方に加わろうとしましたが,(多分参陣前に)豊臣方は敗れてしまいました。和泉守は3隻の船を奪取し,上総國興津(現・千葉県勝浦市)から出航し,仙台藩伊達氏の飛び地である常陸國信太郡青宿(現・茨城県稲敷郡阿見町大字青宿)を経て,同年12月4箇月掛けて寒風沢島に落漂したのです。一族近臣60余人の大勢で小さい島にいつまでもいられないため,一族近臣は東北地方各地へ落ち延びました。和泉守は隣の野々島との間の海峡に船を浮かべ,船から寒風沢島へ通い,崖を崩したり谷を埋めたりして生活しやすいように工事をし,3年目にやっと上陸して島の暮らしに移りました。その後(豊臣氏再興は不可能であることがはっきりしたためか,)和泉守は得意の船を使って海運業(長南屋)を始め,その頭領として運営に当たる一方,仙台藩の客分として船山航蔵の名で仙台藩水軍操練の指南役となりました。和泉守は長男・茂左衛門(先妻の子,丈八郎道村とも)を石巻に分家(湊長南家)させて廻船問屋を始めさせましたが,これも繁盛しました。和泉守の跡取り(寒風沢長南家)は杢之助(後妻の長男,清八郎道時とも)と言い,江戸幕府から御城米浦役人に任命され,刀を差して寒風沢港の仕事を監督しました。和泉守は寛永17年(1640年)に,松島にある伊達氏,長南氏の菩提寺である瑞巌寺(松島青龍山瑞巌円福禅寺)の雲居希膺(うんごきよう,雲居国師,把不住軒,瑞巌寺第99世住持職)から賞状を貰いました。賞状には,「松には赤松と黒松があるが,松島は元々赤松ばかりで黒松は無かった。ところが寒風沢の長南和泉守が浜松地方から黒松の種を持って来て,ここの海岸や島々に植えてくれた。それが大きくなって島々浦々が見事な風景となった。これは和泉守の大きな功績と言わなければならない。その後和泉守が法名を付けてくれるように希望したので,「栽松道本」(さいしょうどうほん)と付けてあげた。」というようなことが書かれているそうです。即ち,世の人々が松島を天下の名勝と称え,今も松島が観光名所となっているのは,和泉守がこうして松を植えていたことも大きな力になったことは間違いありません。

 長南和泉守や長南氏について知りたい方は,中村就一氏の「長南氏の研究」(全国長南会)などを参照してください。

 

 全国長南会の「長南家先祖代々霊位有縁無縁萬霊位」の供養塔です。

 

寒風沢(14)

 

 長南家の墓です。「栽松道本」とあります。

 

寒風沢(15)

 

寒風沢(16)

 

寒風沢(17)

 

寒風沢(18)

 

 田んぼです。株式会社佐浦の「純米吟醸 浦霞 寒風沢」は寒風沢産ササニシキを原料にしています。

 

寒風沢(19)

 集落のはずれに佇む六地蔵です。古代インドでは生類は六道(天道(天上道とも)・人間道・修羅道・畜生道・餓鬼道・地獄道)を輪廻転生する(つまり,永遠に死なない。)とされ,これは苦痛であると捉えていました。釈迦(ガウタマ・シッダールタ)はこの世のことはすべて無常と悟ることによって,この輪廻の輪から抜け出る(解脱する)ことができると考えました。解脱すると仏陀(如来)となりますが,一歩手前の存在が菩薩です。お地蔵さまも菩薩です(地蔵菩薩)。六地蔵は,六道のそれぞれを6種の地蔵が救うとする説から生まれたものであると言われています。私は,六地蔵の六道への配当(どれが天道の地蔵で,……どれが地獄道の地蔵なのか,ということ)を考えて,印相(いんぞう,手の指の形)又は持物(じもつ,手に持つ物)を観察して来たのですが,まったくわかりません。しばらく前に諦めました(苦笑)。

 

寒風沢(20)

 

 松洞山寒澤寺(真言宗,塩竈市浦戸寒風沢字愛宕)です。江戸時代鹽竈神社(塩竈市一森山)の別当寺であった法蓮寺(金光明山法蓮華院法蓮密寺)の末寺であったとのことです。鳥居があるので,神社かなと思ってしまいます。本尊は不動明王です。寒澤寺は明治時代初期に廃寺になっているはずです(法蓮寺は明治3年廃寺)が,現在も島民によって護られているようです。

 

寒風沢(21)

 

寒風沢(22)

 

 さて,「百万遍供養碑」は「縦140cm,横85cm」とされています(平成22年3月宮城県教育委員会「特別名勝松島保存計画」,塩竈市HPなど多数)が,どれでしょうか?「鎌倉時代製」ともあります(「浦戸諸島〔資源目録〕」,「文化の港 シオーモ」など)。不思議なことですが,「浦戸諸島 島歩きマップ」に記載されている「寒澤寺百万遍供養碑」がどれか,はっきりしません。私は「百万遍供養碑」は写真中央やや左の光明真言供養碑であると考えていますが,「元禄十二」年(1700年),「長南喜右衛門五十六歳敬建石」とあるそうです。何故「元禄12年(1700年)建石」ではなく,「鎌倉時代製」なのかは不明です。

 

寒風沢(23)

 

 寒澤寺の歴代住持職の墓碑などです。

 

寒風沢(24)

 

 寒風沢島桟橋で塩竈市営汽船に乗ります。マリンゲート塩釜までの運賃は630円です。

 

寒風沢(25)

 

 午後零時45分頃,マリンゲート塩釜に到着しました。所要時間は約38分です。

 

寒風沢(26)

 

寒風沢(27)