志波彦神社鹽竈神社ガイド | 塩竈大好き倶楽部(案内人)

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「海と社(やしろ)に育まれる楽しい塩竈」の実現を目指している宮城県塩竈市内の「塩竈大好き倶楽部(案内人)」のブログです。志波神社鹽竈神社及びその門前町(鳥居前町),浦戸諸島(桂島,野々島,寒風沢島,朴島)の紹介をします。

 5月22日(水),仙台市,名取市,多賀城市からお越しの3人の方について,志波彦神社鹽竈神社(宮城県塩竈市一森山)をガイドしました。写真で報告します。

 

 午前10時,鹽竈神社博物館前に集合しました。

 

鹽竈(1)

 

 藤塚知明旧宅跡の碑です。藤塚知明(藤塚式部源知明,号は鹽亭)は,鹽竈神社を語る上で欠かすことのできない人物です。知明は,「寛政の三奇人」(林子平(友直),高山彦九郎(正之),蒲生君平(秀実))と交遊した鹽竈神社神職です。知明は元文3年(1738年)桃生郡十五浜村大須浜(現・石巻市雄勝町大須浜)に漁師の子として生まれ,寶(宝)暦8年(1758年)鹽竈神社神職(三社兼帯の塩蒔太夫という極めて低い家柄)・藤塚知直の養子となりました。天明の大凶作に大豆と麻の実で餅を作って飢民を救い,あるいは凶作で祀田の実らないのを憂いて自ら家費をもって祭祀料に充て,祭祀執行の円滑を図り,神徳の発揚と神社の興隆に努めた功により,天明5年(1785年)鹽竈神社別宮三禰宜に補任(ぶにん)されました。知明は,鹽竈神社の別当寺であった法蓮寺(金光明山法蓮華院法蓮密寺,別名「一森山鹽竈寺」,真言宗)と「寶(宝)篋印塔(ほうきょういんとう)事件」,「仏舎利事件」を社家(世襲の神職)を率いて戦いました。しかし,支配役である法蓮寺を差し置いての僭越行為及び上(仙台藩)に対する不敬等の罪を問われ,寛政10年(1798年)桃生郡鹿又村(現・石巻市鹿又)へ流され,寛政12年(1800年)流寓先において63歳で亡くなっています。

 

鹽竈(2)

 

鹽竈(3)

 

 鋳銭釜です。鋳銭釜自体は志波彦神社鹽竈神社とは無関係です。JR石巻線(仙石線)・石巻駅(石巻市鋳銭場)周辺は「鋳銭場」(いせんば)という地名ですが,江戸時代にここで鋳銭(貨幣を鋳造)していたからです。仙台藩は領内の銭貨不足を理由に,江戸幕府にしばしば鋳銭を願い出ていました。幕府の許可を得て,第2代藩主・伊達忠宗の寛永14年(1637年)及び第5代藩主・吉村の享保3年(1728年)に銅銭の「寛永通寶」を,同じく吉村の天文4年(1739年)及び第7代藩主・重村の明和5年(1768年)からは鉄銭の「寛永通寶」を鋳造しています。仙台藩は,領民に対し幕府鋳造の「寛永通寶」の使用を禁止しています。それらを仙台藩の収入にするためです。また,幕府の許可を得て,重村の天明4年(1784年)からは独自の通貨である「仙臺通寳」を鋳造しています(材質が悪く,5箇年の期限を待たずに鋳造中止)。

 

鹽竈(4)

 

 志波彦神社遷祀150年記念事業として志波彦神社鳥居塗替工事中で,通行止めになっています。

 

鹽竈(5)

 

 御文庫です。「此の建物は嘗て鹽竈神社が神仏混交の時代,別宮の南側透塀外に有った鐘楼堂で,後に此の場所に移し替えたものである。室町時代の建物と言われ当社では最も古い建築物であります。」との説明があります。令和元年屋根を葺き替えました(社務所の屋根も同年の葺き替えです。)。

 

鹽竈(6)

 

鹽竈(7)

 

 志波彦神社です。志波彦神社は,「延喜式神名帳」(延長5年(927年))に記載されている名神大社です(「延喜式内名神大社」と言います。)。鹽竈神社は「弘仁式主税帳」(弘仁11年(820年))及び「延喜式主税帳」に国家の正税(しょうぜい,租稲)から1万束の祭祀料を受ける神社として記載されているのですが,何故か「延喜式神名帳」には記載されていません(「式外社」と言います。)。宮城郡岩切村(現・仙台市宮城野区岩切)に鎮座していた志波彦神社は,明治4年5月14日(1871年7月1日)太政官布告「官社以下定額,神官職制等規則」により国幣中社に列せられたものの,長い歴史の中で境内は狭隘で祭典の執行にも差し障るようになっていたことから,明治7年12月24日鹽竈神社別宮へ遷祀しました。鹽竈神社はそれまで官国幣社等のいずれにも列せられていませんでしたが,国幣中社・志波彦神社が鹽竈神社境内に遷祀されることになったことから,鹽竈神社も国幣中社に列せられたのです(明治7年12月23日国幣中社列格奉告祭斎行)。志波彦神社の社殿は,昭和13年竣工し,同年9月遷座しました。昭和38年塩竈市文化財に指定されています。

 

鹽竈(8)

 

鹽竈(9)

 

 茅の輪です。夏越大祓式(なごしのおおはらえしき,毎年6月30日斎行)以外にも,適宜くぐることができます。半年間の罪や穢れを取り除き心身を清らかにします。

 なお,志波彦神社鹽竈神社の茅の輪のくぐり方は,一般的なものではないと思います。私が理解している一般的なくぐり方は次のとおりです。

 ① 正面でお辞儀,左足で茅の輪をまたぎ,左回りで正面に戻る

 ② 正面でお辞儀,右足で茅の輪をまたぎ,右回りで正面に戻る

 ③ 正面でお辞儀,左足で茅の輪をまたぎ,左回りで正面に戻る

(④ 正面でお辞儀,左足で茅の輪をまたぎ,参拝へ)

 志波彦神社鹽竈神社の「茅輪のくぐり方」(当日巫女さんが配布します。)には「茅輪は左記の古歌を唱え,①左廻り②右廻り③左廻りと三度くぐります。(中略)第三首・・・左廻り 今日くれば 麻の立ち枝にゆふかけて 夏水無月の祓ひをぞする」と書いてある(原文は縦書き)のですが,志波彦神社鹽竈神社では③の「茅の輪をまたぎ」までで,「左回り」が無いのです(神職,来賓などは茅の輪をまたいだ後右折し,社務所へ向かっています。)。理由は不明です。

 

鹽竈(10)

 

 「推定樹齢279年」のエドヒガン(江戸彼岸)です。何故そこまで細かく言えるのでしょうか。鹽竈神社七曲坂入口の四方跡(よもせき)公園(塩竈市西町)に「奉植一宮御境内櫻木五百株」の碑があるからです。延享2年3月10日(1745年4月11日),桃生郡深谷北村(現・石巻市北村)の「月参講中九十四人」が鹽竈神社及びその周辺に桜木500本を植樹した記念碑です。そのうちの1本がこれであると言われています。志波彦神社鹽竈神社境内で最も古いサクラ(桜)であるとのことです。

 

鹽竈(11)

 

 祓所(はらえど)です。

 

鹽竈(12)

 

 ロウバイ(蠟梅)です。石碑は明治33年7月大内源太右衛門(仙台の呉服商)が奉納したもので,鈴木省三(現・岩沼市出身の医師・漢学者,号は雨香)の撰文です。それによると,林子平が長崎に遊学の際,支那(清)から渡来のロウバイに魅せられ,これを持ち帰って藤塚知明に贈ったもので,知明邸の離れ(「金華亭」)にあったのを,知明没後この地へ移植したものであるとのことです。ただし,何代目かのものではないかと思われます。

 

鹽竈(13)

 

鹽竈(14)

 

 志波彦神社及び鹽竈神社の由緒です。鹽竈神社由緒には,「当神社は,武甕槌神と経津主神の二神が鹽土老翁神の案内により陸奥国を鎮定して当地に祀られたのが始まりとされる。鹽土老翁神は,当地に留まって人々に塩つくりを教え広められたと伝えられる。平安時代編集の「弘仁式」並び「延喜式」に「鹽竈の神を祭る料壱萬束」と記されていることから,当時すでに重要な神社であったと考えられる。その後も武家による崇敬を集め,特に江戸時代には,仙台藩主伊達家は厚い崇敬を寄せ,歴代の仙台藩主は,社領などを寄進するとともに,自ら祭事を司った。」とあります。

 律令制度は,律(刑法に相当),令(行政法・民法に相当),格(きゃく,律令の修正・補足のための法令と詔勅),式(律令の施行細則)によって運用されます。弘仁(こうにん)式は弘仁11年(820年)に,延喜式は延長5年(927年)に完成しました。それらの主税帳に,「祭鹽竈神料壱萬束」とあります。当時陸奥國運営のための財源に充てられていた正税(しょうぜい)が60万3000束(そく)です。つまり,正税の約60分の1の祭祀料を受けていたということになります。1万束が何石に相当するのか諸説があり,はっきりしません。

 仙台藩初代藩主・伊達政宗は,元和5年(1619年)鹽竈神社に社領として24貫336文(仙台藩では1貫文は10石ですので,約243石)を寄進しています(うち約146石が社家分,その余は別当・法蓮寺及び脇院分)。ただし,高橋正己「鹽竈神社旧社家の歴史」(昭和56年12月)によれば,政宗は留守氏時代の社領を没収した上で改めて寄進しており,寄進された社領は元の知行高をはるかに下回ったとのことです。

 第4代藩主・綱村は,寛文3年(1663年)鹽竈神社に社領として7貫584文(約75石)を寄進しています。ただし,すべて法蓮寺に渡っています。ここで,法蓮寺側が社家側を知行高で上回ることになりました。綱村は当時5歳ですから,この寄進は隠居した第3代藩主・綱宗の意志によるものと思われます。 

 第5代藩主・吉村は,寶(宝)永元年(1704年)鹽竈神社に社領として55貫文(550石)を寄進していますが,併せて「一山の社家社僧は法蓮寺の下知に従え。」と命じています。

 最終的に,伊達氏から寄進された「石高は1035石2斗で,このうち170石を祭料とし,その余りは法蓮寺別当社家社僧で配分した。」(志波彦神社鹽竈神社第14代宮司・押木耿介「鹽竈神社」(学生社))とのことです。

 江戸幕末まで鹽竈神社には宮司家が存在せず,初代・伊達政宗以降歴代の仙台藩主は大神主として自ら祭事を司っていました。実質祭祀を行っていたのは禰宜家です。寶(宝)永年間の社家は29家で,上位の5人(左宮一禰宜,右宮一禰宜,別宮一禰宜,祝詞大夫,左宮二禰宜)を番頭とし,他の社家23人を指揮していました。また,御釜神社専従の社家(御釜守)が1人いました。左宮一禰宜が神職中筆頭の地位を継承していたのは明らかです。

 

鹽竈(15)

 

 志波彦神社鹽竈神社令和甲辰歳大絵馬です。大絵馬は縦2.5m,横3.8m,重さ約300kgとのことで,親子の竜(龍)が悠々と飛んでいる様子が描かれています。

 

鹽竈(16)

 

 「皇族下乗」とあります。皇族でも乗り物から降りてくださいということです。

 

鹽竈(17)

 

 鹽竈神社馬場です。7月第2日曜日,ここで流鏑馬神事が斎行されます。流鏑馬神事は陸奥國留守職・伊澤家景が三頭の馬を献じて流鏑馬を行い,部下の士気を高めたのが始まりと伝えられています。鹽竈神社別宮・左宮・右宮それぞれに一頭の馬を立て,三人の騎手が三つの的を次々と射抜いて行きます。矢が的中することは除災招福の瑞祥とされています。

 なお,志波彦神社鹽竈神社HPでは,家景が三頭の馬を献じて流鏑馬を行ったのを「室町時代」としており,マス・メディアなどもほとんどこれを引用しています。しかし,家景は平安時代末期から鎌倉時代初期の御家人(?~承久3年(1221年))ですので,「室町時代」ではまったく時代が合いません。「鎌倉時代初期」でしょう。流鏑馬神事斎行の直前にも,神職が放送で「今からおよそ830年前」云々と説明しています。家景が陸奥國留守職に任ぜられたのは文治6年(1190年)ですから,それ以降ということになります(伊澤氏は家景の子・家元以降も陸奥國留守職を世襲したため,留守氏を称します。)。

 

鹽竈(18)

 

 鹽竈神社表参道(表坂)上から表参道を望みます。表参道は202段の急な階段です。氏子三祭(帆手まつり,花まつり,みなと祭)において神輿(重さ約1t)はここを下り,上ります。国指定重要文化財・表参道石鳥居の柱に,「鹽竈宮大明神奉献建石華表一基」,「寛文三年癸卯七月十日松平龜千代」の刻銘があります。寛文3年(1663年)仙台藩第4代藩主・伊達綱村の奉献です。伊達氏は将軍・徳川氏から「松平」を与えられ,初代藩主・政宗以来代々の藩主は「松平陸奥守」を称していましたので,「松平龜千代」と刻したのでしょう。綱村は当時わずか5歳です(当時は,幼名の「龜(亀)千代」)。

 なお,表参道石鳥居以外にも,建物14棟,太刀2振,棟札11枚が国指定重要文化財になっています。

 

鹽竈(19)

 

 鹽竈神社随身門です。「随身」(ずいじん)とは,本来天皇・貴族の外出時に警護のために随従した近衛府の官人のことで,藤原道長の随身・下毛野公時(しもつけののきんとき)が有名です。金太郎のモデルで,近衛府官人「第一の者」と言われていたとのことです。随身姿の守護神像を左右に安置した神社の門を「随身門」と言います。

 

鹽竈(20)

 

 菊の御紋(十六弁八重表菊紋)です。明治2年太政官布告第195号によって天皇の紋章とされました。

 

鹽竈(21)

 

 推定樹齢約800年の御神木杉です。

 

鹽竈(22)

 

 鹽竈神社の境内末社です。向かって右から神明社,八幡社,住吉社,稲荷社です。

 

鹽竈(23)

 

 鹽竈神社四足門(よつあしもん)前の延享4年(1747年)8月吉日奉納の石造狛犬です。出川哲朗さんに似ていると言われています。通称「仙台狛犬」と言い,有名です。志波彦神社鹽竈神社第14代宮司・押木耿介「鹽竈神社」(学生社)には「グロテスクな顔が捨てがたい。」とあります。

 

鹽竈(24)

 

 鹽竈神社四足門です。国指定重要文化財としての名称は,単に「門」です。

 

鹽竈(25)

 

 鹽竈神社別宮拝殿です。別宮本殿に鹽竈神社の主祭神である鹽土老翁神(しおつちおじのかみ)が祀られています。

 

鹽竈(26)

 

 昇龍です。

 

鹽竈(27)

 

 降龍です。

 

鹽竈(28)

 

 鹽竈神社左右宮拝殿です。拝殿は一つですが,本殿は二つです。左宮本殿に武甕槌神(たけみかづちのかみ,鹿島神宮(茨城県鹿嶋市宮中)の主祭神),右宮本殿に経津主神(ふつぬしのかみ,香取神宮(千葉県香取市香取)の主祭神)が祀られています。

 左右宮は仙台城(仙台市青葉区川内,現在は「仙台城跡」)を向いて建てられているという人がかなりいます。例えば,「週刊日本の神社第97号 志波彦神社鹽竈神社」(株式会社デアゴスティーニ・ジャパン)18頁「伊達政宗築城の仙台城」には,「伊達家の守護神である武甕槌神と経津主神を祀る鹽竈神社左右宮拝殿は,この城と相対するように南南西に向けて建てられている。」と記載されています。

 志波彦神社鹽竈神社HP「鹽竈神社の御由緒 社殿の不思議」にも,「通常の神社は鳥居ないし門を入った正面に主祭神を祀っておりますが,鹽竈神社は正面に左右宮(鹿島・香取の神)が南向きに,門を入って右手に主祭神たる鹽土老翁神を祀る別宮が松島湾を背に西向きに立っております。→これは伊達家の守護神たる鹿島・香取の神を仙台城の方角に向けて建て,大神主たる藩主が城から遙拝出来る様に配し,海上守護の鹽土老翁神には海難を背負って頂くよう海に背を向けているとも言われております。」と記載されています。

 鹽竈神社左右宮がほぼ南南西を向いて建てられていることは間違いのないところです。では,その方角に仙台城はあるでしょうか。ありません。地図を見れば簡単にわかります。お手元の地図(地図アプリ)を御覧ください。仙台城は,鹽竈神社から見て南西(正確には,南西よりももっと西向きです。)の方角にあります。従って,鹽竈神社左右宮は仙台城を向いていません。

 

鹽竈(29)

 

 「文治の燈籠」です。鹽竈神社左右宮拝殿の前(東側)にあります。松尾芭蕉は河合曾良とともに,元禄2年5月9日(1689年6月25日)鹽竈神社に参拝しました。その際,「文治の燈籠」を見学しています。そして,「神前に古き宝燈有。鉄の戸びらの面に文治三年(1187年)和泉三郎寄進と有。五百年来の俤(おもかげ)今目の前にうかびて,そぞろに珍し。かれは勇義忠孝の士也。佳命今に至りて,慕はずといふ事なし。誠人能道を勤,義を守るべし。名もまた是にしたがふと云り。」(「おくのほそ道」)と,忠衡を絶賛しています。忠衡は父・藤原秀衡(奥州藤原氏第3代)の遺言である源義経保護を強く主張して,その取扱いを巡って兄・泰衡(奥州藤原氏第4代)と対立し,誅殺されました。

 現在の「文治の燈籠」は,文化財指定されていませんので,新しいものと考えるのが自然でしょう。芭蕉らが来た頃の「文治の燈籠」とは屋根の形や飾りが違い,当時は石の柵もありませんでした。場所も違います。かつては,御神木杉の西側に「文治の燈籠」があったようです。石の柵が設置されたのは享和3年(1803年)のことで,仙台の俳人を中心として44句の俳句が刻まれています。「鶯の 朝読みいそく 寝ぼほけ哉 八才 与三郎」というのもあります。

 

鹽竈(30)

 

鹽竈(31)

 

鹽竈(32)

 

 「林子平考案日時計」(複製)です。宮城県内最古の日時計とのことで,学友である藤塚知明が寛政4年(1792年)に奉献したものです。石盤上にはローマ数字を刻し,「紅毛製大東日」と刻す異国風の珍しい日時計です。本物は鹽竈神社博物館内にあります。子平は仙台藩医の弟で,「三国通覧図説」,「海国兵談」などの著作で,海防の必要性を説きました。まったく正しい主張であったにもかかわらず,頭の固い朱子学(儒教の一派)信奉者で世界を見ようとしない老中・松平定信らによって弾圧(両著とも発禁,「海国兵談」は版木没収,子平は蟄居処分)され,失意のうちに死去しました。子平は蟄居中,その心境を「親も無し 妻無し子無し 版木無し 金も無けれど 死にたくも無し」と嘆き,自ら六無斎(ろくむさい)と号しました。

 

鹽竈(33)

 

鹽竈(34)

 

 鹽竈神社左右宮拝殿前(西側)のタラヨウ(多羅葉)です。宮城県指定天然記念物です。葉の裏面を傷つけると字が書けることから「葉書」の語源とされ,郵便局の木となっています。

 

鹽竈(35)

 

鹽竈(36)

 

鹽竈(37)

 

 文化燈籠(銅鉄合成燈籠)です。文化6年(1809年)に仙台藩第9代藩主・伊達周宗(ちかむね,「かねむね」と読む説もあります。)が,文化5年(1808年)江戸幕府から命じられた蝦夷地警護(択捉,国後,箱館に約2千人を派兵)の凱旋記念に奉納したもので,銅鉄合成の動物,花鳥をはめ込み,精巧を極めています。竿(さお,火袋を乗せる台を支えるもの)には儒学者・田辺匡敕の由来記が刻銘されています。高さは丈六(1丈6尺=約4.8m)です。昭和51年10月1日塩竈市有形文化財に指定されました。

 江戸時代までの北海道が日本でなかったような主張をしてる人がいますが,ふざけ過ぎというものです。鎌倉幕府は安藤(後に,安東)氏を蝦夷管領に任命しています。室町幕府もそれを踏襲しています。蠣崎(松前)慶廣(広)は豊臣秀吉から蝦夷地(北海道)支配の朱印状を得ています。同じく慶広は徳川家康から黑印状を得ています。松前藩の成立です。江戸幕府は2度にわたって北海道を直轄地にしていますが,そればかりでなく千島列島も北蝦夷地(樺太)も直轄地にしています。文化燈籠は第1次直轄時のものです。第2次直轄時に仙台藩の元陣屋(「元」は拠点という意味)になったのが白老(しらおい)で,同地には鹽竈神社(白老塩釜神社,北海道白老郡白老町陣屋町)があるとのことです。仙台藩は白老から択捉島までの警護を担当したほか,交代で樺太の警護を担当しています。北海道,千島列島,樺太の警護を担当したのは東北諸藩です。伊能忠敬の「大日本沿海輿地全図」は北海道測量から始まったのです。間宮林蔵は樺太を探検し,大陸にも渡り,海峡(間宮海峡)を確認しています。

 

鹽竈(38)

 

鹽竈(39)

 

鹽竈(40)

 

 国指定天然記念物「鹽竈神社の鹽竈ザクラ」です(ただし,「標準木」ではありません。)。青いタグが付いています。国指定天然記念物「鹽竈神社の鹽竈ザクラ」と国指定天然記念物でない「鹽竈ザクラ」は,見た目はまったく同じです(合計で68本あるそうです。)。カスミザクラ(霞桜)の八重咲きがスイショウザクラ(水晶桜)で,鹽竈ザクラは水晶桜の突然変異であると考えられていますが,雌蕊(めしべ)が葉化してしまうため,接ぎ木で増やします。その接ぎ木の台木が異なるのです。国指定天然記念物「鹽竈神社の鹽竈ザクラ」は,台木がマザクラ(真桜)です。国指定天然記念物でない「鹽竈ザクラ」は,台木がヤマザクラ(山桜)です。山桜への接ぎ木を繰り返すと,花が山桜化してしまい,「まり(毬、鞠)のような八重桜」でなくなってしまうと言われています。また,「鹽竈神社の鹽竈ザクラ」ですので,志波彦神社鹽竈神社境内にあるものに限られます。境内に27本あるようです。ただし,立入禁止区域内にあるものがあり,すべてを確認することはできません。

 なお,真桜(アオバ(青葉),アオハダ(青膚)とも言います。)を「花の咲かない桜」と言っている人がいますが,花は咲きます。接ぎ木の台木に適しているため,真桜の花を見る機会がないだけでしょう。

 

鹽竈(41)

 

 伊達綱村公顕彰碑です。塩竈市史によると,御舟入堀(貞山運河)が通じると物資は塩釜港を経由せず直接仙台城下へ運ばれるようになり,塩竈は著しく衰退してしまったのですが,貞享2年(1685年)綱村は塩竈村の年貢を軽くし,鮮魚や材木の荷揚げは塩釜港だけにするなどの特別の命令(「貞享の特例」)を出して,塩竈を衰退から救ったのです。そのため,塩竈は仙台藩随一の港として発展しました。塩竈市民は綱村を「塩釜開港恩人」と呼び,現在でも毎年法要が開催されているのです。綱村が死没したのは享保4年6月20日(1719年8月5日)です。300年遠忌(おんき)に当たる平成30年伊達綱村公顕彰碑除幕式が挙行されました。

 

鹽竈(42)

 

 鹽竈神社東神門です。日支飼料株式会社社長・片倉直人が造営費(1万5千円)を寄進し,昭和16年10月竣工したものです。日支飼料株式会社は,その後片倉飼料株式会社,片倉チッカリン株式会社,片倉コープアグリ株式会社と社名変更しています。

 

鹽竈(43)

 

 鹽竈神社東神門へ上る階段の左側に四重塔があります。仙台市(現・青葉区)大町五丁目の梅津源右衛門が大正7年4月25日に奉納したものですが,塔がいかにも寺院っぽいのです。鹽竈神社は江戸時代まで,真言宗の法蓮寺が別当寺でした。神仏習合(混淆)と言うだけでなく,法蓮寺が鹽竈神社の社務一切を支配していたのです。しかし,神仏判然令によって明治3年廃寺となりました。それ以後である大正7年に寺院っぽい塔が奉献されているのが不思議です。もっとも,鹽竈神社東参道下にはもっと寺院っぽい五重塔がそれ以降(大正10年)に奉納されていますので,あまり拘らなくて良いのかも知れません。

 ちなみに,梅津源右衛門は「清酒醸造法」という本を書いた杜氏のようです。

 

鹽竈(44)

 

 萬多奈能岡(亦無岡,またなのおか)の碑です。明治天皇は,東北巡幸の際の明治9年6月29日,鹽竈神社に参拝されました(天皇は皇室の祖先が祀られている所にしか参拝(親拝)しないので,それ以外の所で「参拝」の語を使用するのは誤りで,「行幸」とすべきであるとの意見がありますが,ここでは一般的な「参拝」とします。)。「陛下は午前七時,行在所(あんざいしょ,「勝画楼」のこと)を御出門,板輿に召され,社前より御徒歩で進まれ,拝殿階下で御脱帽され,各社正殿で御拝…」(「歴代宮司列伝」初代落合直亮宮司から)とのことです。その際,「ここから松島の景色を御覧になり,この良い景色に感心されて,「またとない良い景色だ。」とおっしゃった。」とのことです。また,この日供奉した侍従番長・高崎正風が和歌を詠んでいます。

 

鹽竈(45)

 

 鹽竈神社二之鳥居です。鹽竈神社東参道,七曲坂上にあります。寛政9年(1797年)に造立されたもののようです。扁額は神社本庁統理・徳川宗敬(むねよし,水戸徳川家第12代・篤敬の二男,一橋徳川家第11代・達道の養子,一橋徳川家第12代当主)が揮毫したもので,平成21年に鋳物で更新されたとのことです。

 

鹽竈(46)

 

 鹽竈神社で最も古い参道である七曲坂です。七曲坂は奈良時代にはあったものと推定されていますが,もっと古いかも知れません。

 

鹽竈(47)

 

鹽竈(48)

 

 鹽竈神社東参道(裏坂)です。明治3年に廃寺となるまで法蓮寺僧侶の鹽竈神社への「通勤路」でした。鹽竈神社二之鳥居から旧・法蓮寺門前までの約300mが稲井石の敷石になったのは,天保3年(1832年)のことです(藤橋経雄氏「裏坂と道路改修記念碑」7頁)。

 

鹽竈(49)

 

 約1時間のガイドを終了し,鹽竈神社博物館前で解散しました。

 なお,実際のガイドでは,このBLOGのような詳細な説明はしていません。できるだけわかりやすい説明を心掛けているつもりです。

 

  ☆     ☆     ☆     ☆     ☆

 

【無料ガイドします。】

 塩竈大好き倶楽部(案内人)は,志波彦神社鹽竈神社(宮城県塩竈市一森山)とその門前町を巡るまち歩きガイドをしています。ガイド時間は1時間30分から2時間程度,集合場所はJR仙石線・本塩釜駅(塩竈市海岸通)神社参道口前。
 また,志波彦神社鹽竈神社境内のみのガイドもしています。ガイド時間は45分から1時間程度。集合場所は鹽竈神社博物館前。
 料金はいずれも無料です。ただし,何らかの損害が発生しても案内人は一切の責任を負いません。御了承いただける方のみガイドをお受けしています。
 御希望の方(1人から最大7人程度まで)は,メールで①申込者の氏名,②申込者を含む参加人数,③申込者の携帯電話番号,④希望日時・所要時間,⑤「まち歩きガイド」か「神社ガイド」かの別を,希望日時の7日(168時間)前までにお知らせください。案内人の都合等により,お断りする場合があります。ガイドをお受けした場合には,メールで案内人の携帯電話番号をお知らせします。
 メールアドレス sea-and-shrine@ymail.ne.jp

(注)令和5年11月15日(水),メールアドレスをsea-and-shrine@ymail.ne.jp に変更しました。