(第10回)紅葉の志波彦神社鹽竈神社とその門前町を散策しよう!(結果報告) | 塩竈大好き倶楽部(案内人)

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「海と社(やしろ)に育まれる楽しい塩竈」の実現を目指している宮城県塩竈市内の「塩竈大好き倶楽部(案内人)」のブログです。志波神社鹽竈神社及びその門前町(鳥居前町),浦戸諸島(桂島,野々島,寒風沢島,朴島)の紹介をします。

 11月18日(土),「(第10回)紅葉の志波彦神社鹽竈神社とその門前町を散策しよう!」が開催されました。写真で報告します(当日はガイドに集中していましたので,写真撮影はほとんどできていません。志波彦神社鹽竈神社(宮城県塩竈市一森山)境内の紅葉以外のほとんどの写真は11月16日(木)の下見の際に撮影したものです。御了承願います。)。山形県から2人の方に参加していただきました。

 

 午後1時30分JR仙石線・本塩釜駅(塩竈市海岸通)神社参道口前出発の予定でしたが,早く集合しましたので,1時15分頃出発しました。

 

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 鹽竈神社東参道(裏坂)を上って,志波彦神社鹽竈神社に向かいます。バス駐車場北側のジュウガツザクラ(十月桜)です。

 

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 東参道途中のコブクザクラ(子福桜)です。

 

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 東参道を挟んで鹽竈神社博物館の反対側にある四阿(あずまや)付近に,かつて藤塚知明邸の離れ(「金華亭」)があったようです。

 

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 博物館前の「藤塚知明旧宅跡」の碑です。藤塚知明(藤塚式部源知明,号は鹽亭)は,鹽竈神社を語る上で欠かすことのできない人物です。知明は,「寛政の三奇人」(林子平(友直),高山彦九郎(正之),蒲生君平(秀実))と交遊した鹽竈神社神職です。知明は元文3年(1738年)桃生郡十五浜村大須浜(現・石巻市雄勝町大須浜)に漁師の子として生まれ,寶(宝)暦8年(1758年)鹽竈神社神職(三社兼帯の塩蒔太夫という極めて低い家柄)・藤塚知直の養子となりました。天明の大凶作に大豆と麻の実で餅を作って飢民を救い,あるいは凶作で祀田の実らないのを憂いて自ら家費をもって祭祀料に充て,祭祀執行の円滑を図り,神徳の発揚と神社の興隆に努めた功により,天明5年(1785年)鹽竈神社別宮三禰宜に補任(ぶにん)されました。知明は,鹽竈神社の別当寺であった法蓮寺と「寶(宝)篋印塔(ほうきょういんとう)事件」,「仏舎利事件」を社家(世襲の神職)を率いて戦いました。しかし,支配役である法蓮寺を差し置いての僭越行為及び上(仙台藩)に対する不敬等の罪を問われ,寛政10年(1798年)桃生郡鹿又村(現・石巻市鹿又)へ流され,寛政12年(1800年)流寓先において63歳で亡くなっています。

 

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 博物館前(志波彦神社鳥居前)のシキザクラ(四季桜)です。貴賓館前の四季桜の子木とのことですが,例年親木よりも遅く咲きます。今年は例年よりかなり遅い開花です。

 

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 貴賓館前の四季桜です。

 

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 志波彦神社鳥居付近の紅葉です。見頃を迎えています。ただし,見頃のピークかどうかは,過ぎてみないとわかりません。

 

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 社務所西側の斜面にあるコバザクラ(小葉桜,木葉桜。別名・フユザクラ(冬桜))です。「冬桜」は冬に咲くサクラ(桜)の総称として用いられることもあるため混同に注意が必要とのことです。

 

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 ロウバイ(蝋梅)です。蝋梅の碑は明治33年7月大内源太右衛門(仙台の呉服商)が奉納したもので,鈴木省三(現・岩沼市出身の医師・漢学者,号は雨香)の撰文です。それによると,林子平が長崎に遊学の際,支那(清)から渡来のロウバイに魅せられ,これを持ち帰って藤塚知明に贈ったもので,知明邸の離れ(金華亭)にあったのを,知明没後この地へ移植したものであるとのことです。ただし,何代目かのものではないかと思われます。

 

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 鹽竈神社東神門から鹽竈神社社殿に向かいます。ここの紅葉も見事です。

 

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 御神木杉近くの子福桜です。境内で冬に咲く4種類6本のサクラ(桜)はすべて開花しています。

 

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 鹽竈神社別宮拝殿です。

 

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 鹽竈神社左右宮拝殿です。

 

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 「林子平考案日時計」(複製)です。宮城県内最古の日時計で,学友である藤塚知明が寛政4年(1792年)に奉献したものです。石盤上にはローマ数字を刻し,「紅毛製大東日」と刻す異国風の珍しい日時計です。本物は鹽竈神社博物館内にあります。子平は仙台藩医の弟で,「三国通覧図説」,「海国兵談」などの著作で,海防の必要性を説きました。まったく正しい主張であったにもかかわらず,頭の固い朱子学(儒教の一派)信奉者で世界を見ようとしない老中・松平定信らによって弾圧(両著とも発禁,「海国兵談」は版木没収,子平は蟄居処分)され,失意のうちに死去しました。子平は蟄居中,その心境を「親も無し 妻無し子無し 版木無し 金も無けれど 死にたくも無し」と嘆き,自ら六無斎(ろくむさい)と号しました。現代でも国家(国民とその政府)にとって最も重要な国防がまったくわかっていない人(政治家を含む日本国民)が多過ぎます。

 

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 文化燈籠(銅鉄合成燈籠)です。文化6年(1809年)に仙台藩第9代藩主・伊達周宗(ちかむね,「かねむね」と読む説もあります。)が,文化5年(1808年)江戸幕府から命じられた蝦夷地警護(択捉,国後,箱館に約2千人を派兵)の凱旋記念に奉納したもので,銅鉄合成の動物,花鳥をはめ込み,精巧を極めています。昭和51年10月1日塩竈市有形文化財に指定されました。「アイヌ先住民族説」なる何の学問的(分子人類学(遺伝学など),考古学,言語学など)根拠の無い政治的主張によるのでしょう。江戸時代までの北海道が日本でなかったような主張がなされています。ふざけ過ぎというものです。鎌倉幕府は安藤(後に,安東)氏を蝦夷管領に任命しています。室町幕府もそれを踏襲しています。蠣崎(松前)慶廣(広)は豊臣秀吉から蝦夷地(北海道)支配の朱印状を得ています。同じく慶広は徳川家康から黑印状を得ています。松前藩の成立です。江戸幕府は2度にわたって北海道を直轄地にしていますが,そればかりでなく千島列島も北蝦夷地(樺太)も直轄地にしています。鹽竈神社境内の文化燈籠は第1次直轄時のものです。第2次直轄時に仙台藩の元陣屋(「元」は拠点という意味)になったのが白老(しらおい)で,同地には鹽竈神社(白老塩釜神社,北海道白老郡白老町陣屋町)があるとのことです。仙台藩は白老から択捉島までの警護を担当したほか,交代で樺太の警護を担当しています。北海道,千島列島,樺太の警護を担当したのは松前藩,仙台藩(伊達),弘前藩(津軽),盛岡藩(南部),秋田藩(佐竹),庄内藩(酒井),會(会)津藩(松平)です。伊能忠敬の「大日本沿海輿地全図」は北海道測量から始まったのです。間宮林蔵は樺太を探検し,大陸にも渡り,海峡(間宮海峡)を確認しています。

 

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 鹽竈神社で最も古い参道である七曲坂を下ります。七曲坂は奈良時代にはあったものと推定されていますが,もっと古いかも知れません。

 

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 塩竈市本町・宮町~西町の鹽竈海道(県道北浜沢乙線,幅員18m~26m,総延長843m)にある屏風サインの一つで,「伊勢物語 塩竈(八十一段)」です。左大臣・源融(みなもとのとおる)は,嵯峨天皇の皇子で,紫式部「源氏物語」の光源氏のモデルの一人と言われています。貞観(じょうがん)6年(864年)中納言に任ぜられた後,陸奥按察使(むつあぜち,陸奥出羽按察使とも。現在の東北管区行政評価局長に相当)にも任ぜられていますが,当時は中納言のような高官が地方の任地に赴くことはなかったようですので,融が国府多賀城に下向することはなかったでしょうし,塩竈に来たこともなかったでしょう。従って,融が帰京後も塩竈の風景が忘れられず,塩竈の風景を模した大庭園(六条河原院)を造って栄華風流を極めたというのも,「見て来たような嘘」か,誰かから聞いた話に基づいて庭園を造り,そこで皇族,貴族が「どんちゃん騒ぎ」をしたということになります。しかし,そのお陰で塩竈は都人にとって「あこがれの地」,「美しいものの代名詞」になったのです。

 

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 愛宕神社(塩竈市泉ヶ岡)鳥居です。

 

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 煙波亭は藤塚知明の別邸の称です。ここには林子平ら多くの遊人墨客が来亭しました。その邸内に石碑「芭蕉翁晩鐘」が建立されています。それに,「おくのほそ道」の塩竈に関する部分と「天明二年壬寅六月」(1782年)とあり,基部に鶴里・魚行・文之らの俳人名が刻まれています。

 

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 「煙波亭」とあります。現在は地域の集会所として利用されているようです。

 

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 愛宕神社は,宮城県神社庁の神社検索によると,主祭神は軻遇突智命(かぐつちのかみ,火の神),由緒は「何時誰の勧請にかかるか審でないが,古くこの地に鎮座し火防の神又は辰巳生れの者の守護神として,全市の崇敬がある。」とのことです。

 

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 「東北遊日記 三月」の屏風サインです。吉田松陰(矩方)は,嘉永4年12月15日(1852年1月6日)出発日の約束を守るため,萩藩(長州藩)からの過書手形(通行手形)を持たずに(脱藩して),熊本藩士・宮部鼎蔵(増実)とともに東北遊学の旅に立ちました。江戸留学中,ロシア船の北方出没を知り,その防備を確かめるためです。嘉永5年3月18日(1852年5月6日)塩竈に立ち寄り,鹽竈神社に参拝しています。この屏風サインには書かれていませんが,松陰は「東北遊日記」の中で「仙台は行ふ所は,銅銭甚だ少なく,皆銑銭(ずくせん,銑鉄で鋳造した銭)の極めて弊悪なるものなり。 鈔幣(紙幣)には一歩札・二朱札あり,原(もと)は金と相抗せしも,漸く其の権を失ひ,今は即ち一歩札,三百七十五銭若しくは四百銭のみ。」と,仙台藩の貨幣政策を痛烈に批判しています。1両=4分(歩)=16朱=4000文ですから,1歩札は1000文のはずですが,その37.5%か40%の価値しかないというわけです。仙台藩の貨幣政策は,完全に失敗でした。ひたすら商取引を混乱させ,物価を高騰させたのです。結局,人々は通貨よりも米にしがみ付かざるを得なかったのです。

 

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 祓ヶ崎稲荷神社です。江戸時代仙台藩主が鹽竈神社参拝の折はこの地において祓い清めた後参拝したことなどから,鹽竈神社の祓所としての役割を担っていたとのことです。宮城県神社庁の神社検索によると,祭神は倉稲魂神(うかのみたまのかみ),猿田彦神(さるたひこのかみ),大宮賣神(おおみやのめのかみ)です。由緒は,「創祀年月は不明ですが,文政3年(1820年)7月社殿を再建し,京都の伏見稲荷大社から霊璽を奉遷して正式に稲荷神社となりました。平成元年11月に現在の社殿を改築し竣工」したとのことです。鹽竈神社氏子三祭(帆手祭,花まつり,みなと祭)において,祓ヶ崎稲荷神社宮司・榊原久康氏が鹽竈神社の神輿を先導する猿田彦役を務めています。

 

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 午後3時25分頃,JR仙石線・本塩釜駅アクアゲート口前で解散です。写真は構内の塩竈市観光案内所です。

 

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