朝日 新聞小説「C線上のアリア」(4)作:湊かなえ
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第四章 キャビン 89(7/1)~118(7/31)
他ブログでのレビュー紹介「羊と猫と私」
感想
ひょんな事から邦彦の妻菜穂の、北海道旅行の片棒を担ぐ美佐。
自身の疚しさからか、邦彦と高校の時の同窓生だった事を暴露。
それに対する菜穂も、一体どこまで知っているのか読めない。
そして美佐の、弥生さんと菊枝さん双方のケアが始まる。弥生さんは特養ホーム、菊枝さんは半日デイケアなので美佐もやれると踏んだのだろう。そんな滑り出しに邦彦からの電話。
実は心のどこかで邦彦は(仮)だと疑っていたが、これで確定。
そして話はサクサクと進み、邦彦所有のログキャビンでバーベキューをする事に。その中に高校の時、森に誘われてピクニックもどきをした思い出が挿入される。
しかし下巻しか読まない男に、上巻しか読まない男・・ヘンなのを呼び寄せる美佐も、相当ヘンな女か・・・
ビールを飲んで帰れない状態となり、小屋の中に誘われるものの踏み止まったのは、あの下巻ばかりの読書趣味が大人になっても続いていることへの違和感。
そして更に違和感を持った「ノルウェイの森」の上巻。
しかしまあ、何でこうも村上春樹の本をネタにするか(不愉快)
前にも書いたが、評価していない人の本をダシにしていることの「つまんなさ」これが延々続くなら「怒るデ」
弥生さんについても疑問が湧き上がる。元々淡い色が好きだったのに、なぜ赤い服が増えたのか?そして封筒に入った布製らしきもの。これはもう「スカーフ」に違いない。
なんせ金庫まで開けてしまった美佐なんだから、封筒の封なんかヤカンの蒸気で剥がして見るぐらいお茶の子だろうに(笑)
菊枝さんが「みどり屋敷の弥生ちゃん」という言葉だけに記憶があるのも何か示唆的。ひょっとして邦彦の父と弥生さんの間に何かあったとしたら、二代に亘る不倫の連鎖?(まだ未遂だが)
伏線「張り張り」の湊かなえらしいが、さてどうなるか。
多少「肩すかし」感も残しつつ次章「チェンジ」へ。
挿絵が何か「命の水」っぽい・・・
果たして菜穂は戻るのか?
うまい方向にチェンジしてくれ~~
オマケ
そういえばこの小説の第一章が、弊ブログの先月アクセス1位だった。世間の注目度は高い(のだ)
あらすじ
第四章 キャビン
89 7/1
午後の飛行機に間に合うよう、私の車で菜穂さんを駅まで送る。
一夜明け、菜穂さんの気が変わっている事も想定していた。
空想だけの家出でも気がラクになるのは、経験から知っている。
大抵は夜に想像する。荷物をまとめ、駅や空港に近付く。
途中までの達成でも気分は晴れるが、空想中に町内会の清掃、義母の病院への送迎などが絡むと現実に引き戻される。
午前10時ちょうどに山本家を訪れた。事前にスマホへ連絡があったのだが、最初菜穂さんだと分からず。
ニットアンサンブルにパールのイヤリング。大学生の息子が彼女を連れて来たような姿、雰囲気。昨日とは別物。
90 7/2
車に積んでいた「命の水」の段ボール箱2つのうちの1つを降ろし、そこにキャリーケースを積んだ。
──飛行機のチケットは、教えてもらった通りにやったら簡単に取れた、と言う菜穂さん。意外な行動力に驚く。フェイスブックでのバーベキュー写真から想像した、邦彦の奥さんに近い。
──旦那さんには何て?の問いには、短大時代の友人からヘルプ要請を受けた事にしたと言った。面倒を避けるため今朝伝えたという。家のことは、家事代行サービスに頼んだ事にしている。
デイサービスの迎えが少し遅れ、そのためにバス停ではなく駅まで送ることになったが、そもそも知り合ったのは一日前。
車内では無言の時間が続く。
91 7/3
ビートルズの音量を上げる前に声を掛けようとし、重なった。
どうぞ、と譲ると飛行機に詳しいし、スカーフの巻き方も上手だから、キャビンアテンダントをしていたの?と訊かれた。
今朝のスカーフの事。家に上がると昨日同様、菊枝さんはエルメスはどこだ、と怒鳴る。私が挨拶をして、菜穂さんが自身の一週間不在を伝え、その間の手伝いだと言って私を紹介。
訝し気な菊枝さんは、おかしな企みごとはやめときなと言う。
私はとっさに「浜辺美佐です。「なんでもザウルス」から来ました」と旧姓で名乗った。そこで目に留まったのがスカーフ。
赤いスカーフを手に取って、菊枝さんの首に巻いて結んだ。
すかさず手鏡を差し出す菜穂さん。
92 7/4
鏡を見て菊枝さんがにんまりと笑う。デイサービスの職員も褒め、上機嫌で「明日も頼むよ、何でも屋さん」と出掛けた。
10年程前に旦那の実家に引っ越すまでは航空会社のグランドスタッフをしていたから、スカーフ巻きは特技と話す美佐。
CAに憧れた時期もあった。就職氷河期の中、四大出の女子が総合職に就くのは困難だったが、そのために失ったものもある。
菜穂さんは自立が叶わず実家に戻り、親戚の紹介で見合いをして結婚したのだという。夫にはすごく好きな人がいたが一緒になれなくて、誰でも良くて結婚したのだろうと話す菜穂さん。
ドキリと胸が跳ね、アクセルに力が入り危なかった。
93 7/5
就活時期、二人で東京の大学に進学したのに、地元での就職を邦彦は望み、私は別れを切り出した。一人で森に帰ればいい、と。
一緒に暮らすうち、さっきのことを思い始めたという菜穂さん。
ひと月ほどの不在を夫に話した時のことを思い出した。
私がいない方が気楽でしょうけど、の言葉に不快感を見せた夫。
──ゆっくりしてくればいいさ。想定済みの言葉。
事情があって別れた相手は、思い出すのが不快じゃない。
そんな菜穂さんの言葉だけで、すすきケ原の景色が浮かぶ。
子育ての間は、家族に向き合ってくれていたという。
インドア派だったのに、息子のためにキャンプにも行った。
息子は関係なくない?邦彦はそういう事も好きだった。
94 7/6
菜穂さんは、息子が大学進学で家を出た後、菊枝さんの不調と共に、邦彦が現実逃避をする様になったと話す。
心をどこかに持って行くのを「森に行く」と呼んでいる。
山本家が所有する、すすきケ原高原の先の山林に、夫がログキャビンを建てた。息子が居た時はバーベキューなどで楽しんだが、今では夫の週末の隠れ家。だがあの目を見るよりマシだと言う。私の知らない、幸せな回想シーン上映中の目。
その目の奥の人を見られたら諦めもつくのに・・・
菜穂さんに試されているのか?疑われる証拠を私は残している。
「旦那さん以外、誰もいないかも」こちらを向く菜穂さん。
「全てから逃げ、伸びっ放しの一本の樹の気分になりたいとか」
95 7/7
「なんだか、美佐さんって夫に会ったことがあるみたい」
菜穂さんの視線が刺さる様に強い。余計な事を喋ったと後悔。
実は昨夜、高校の卒業アルバムを見たら、旦那さんと同級生だと分かったと話す。ただし同クラスになったことはない。
急に笑い出す菜穂さん。「高校の同級生にもぽつんと立つ樹だなんて言われて、昔から暗かったんですね」だがその後真顔に。
「さっき、何か言いかけたのは?」
それは私が「ノルウェイの森」の下巻を、山本家の玄関に置き忘れて来た事。見られた前提で、邦彦はあの本の世界に戻りたがっているなどと言えば、自分との関係を打ち明けるようなもの。
だから本がある理由の、他へのすり替えを考えた。
96 7/8
だが話を譲り、彼女の言う「森」の正体が分かった今、本の件は
出せない。邦彦が森に昔の恋人を重ねている、と信じている相手に本のタイトルを出せば、私が恋人だったと気付かれる。
本のことは、訊かれても知らない事にしよう。
「いや、北海道に行くより実家へ帰りたいと思わないかなって」
元々気になっていたこと。それには県内の実家に両親が健在で、近くに住む弟夫婦と仲がいいと返した菜穂さん。
嫁と姑の仲が良く、あまり割り込まない様にしているという。
菜穂さんは多分負けず嫌いの性格。仲のいい嫁姑を見て敗北感を抱くのかも。もし自分に兄弟がいて、同じ様な立場になったらどう思うか。今そんなシミュレーションは不要。
97 7/9
「じゃあ、心置きなく北海道を楽しめるね」
口にすると羨ましい、自分もあちこち行ってみたくなる。
駅舎の一角に車を停める。菜穂さんの見送りはここで充分。
「美佐さんにだけ、お土産買って来ますね」と満面の笑顔。
*
「やすらぎの森」を訪れ、弥生さんの部屋の冷蔵庫に「命の水」を移し入れた。水道水は安全だが、賞味期限の事もある。
他にも電気ポット、マグカップ、缶入り紅茶を持参。これらは山積みされていた贈答品の一部。だがそっけない弥生さん。
レクリエーション室で行う、クリスマスリース作り教室に早く行きたいのだ。先生に褒められたという。開始まであと30分ある。
98 7/10
身支度もばっちりだ。髪に化粧。水色セーターにグレーのスカートを合わせている。「そうだわ!」「なあに、弥生さん」
極力名を呼ぶ様にしている。
「今度、スカーフを何枚か持って来てくれない?」
「スカーフ!」思わず訊き返した。「エルメスの?」
いきなり連結していた言葉が出た。「エルメス、エルメス・・」
弥生さんの表情が硬くなる。却って不安にさせた。
弥生さんは昔から外出時、スカーフを良く巻いていた。自身で刺繍を入れたものもある。「わかった。明日持って来るね」
「ありがとう、美佐ちゃん」名前を呼んでもらえた。
行動に問題なく私の事も認識しているが、一週間は滞在が必要。
菊恵さんの事を訊いてみようか。
99 7/11
「弥生さん。私、昨日山本菊枝さんという人に会ったよ」
一瞬、弥生さんの動きが止まった様に見えた。
弥生さんに困っている様子はない。高校の同級生のお母さんとだけ言って、クリスマスリース、私にも見せてと話を戻した。
「もちろんよ、美佐ちゃんへのプレゼントなんだから」と言ってからしまった、という仕草。少しぎこちなく見えた。
*
電子レンジで温めたハンバーグセットをリビングに運ぶ。500円でお釣りが来る。こんなおかずセットは知らなかった。
ご飯もパックを電子レンジで温めた。手間など、価値を見出して喜んでくれる人だけにかければいい。焼酎ハイも開ける。
「いただきます」声に出し、両手を合わせた。
100 7/12
熱々のハンバーグを口に入れる。「おいしい」冷凍食品とは信じられないが、気持ちも作用しているか。
「やすらぎの森」の帰り、パンとコーヒーを買って昼食とした。
その後山本家に行き、預かった鍵で開けようとするが、施錠していなかった。上がり框を捜したが、あの本はない。
襖、障子等は全て開け放たれている。それにしても、寒い。
エアコン、ストーブ等の暖房器具も見当たらない。臭いはさほどではない。この程度で食事が摂れないなどと言ったのか。
かつて抱いた、邦彦との暮らしの幻想は砕けている。
考えるほど腹が立つので、掃除をすることにした。あの唾液の沁みたスカーフを思い出す。シートで縁側と和室を拭く事にした。
101 7/13
畳は目に沿って丁寧に拭く。
──そんなもので拭いたら畳が傷む・・家での事を思い出した。
一体誰のための仕事か。ありがとうが先だろう。
文句を言う人なしで行う家事の、何と清々しいこと。
拭き掃除を終えると菊枝さんが帰って来た。やや年配の女性職員が、菊枝さんをベッドに運ぶのを手伝ってくれた。
菊恵さんはスカーフを外しており、思い出した様に結び方を訊かれた。入浴時ほどきたくないとゴネたらしい。
他の住居者も知りたいから、講師として来て欲しいとの依頼。
自分の前職のことを話し、受けることは出来ると答えた。
驚かれたのは、私にその片鱗がなかったからだろう。
かつて言われた「キャリアウーマンぶっちゃって」
102 7/14
それ以来、最低限の事しかしなくなった。
部屋着みたいな恰好で病院に附いて来る、と言われても聞こえないフリを通す。そもそも私なしでは通院も出来ないのに。
その放棄したものを求めてくれる人がいる。
施設側として、一時間の講習を交通費込みで3千円と提示されたが、タダでいいのでやらせて下さいと返した。
食事を終えて片付けた。全部食べれば生ごみも出ない。
弥生さんのスカーフで、結び方の練習をしようと思い探した。
それは、2階の洋タンスの扉裏ハンガーに10枚ほどあった。
見覚えのある、コスモスで染めたというオレンジ色のスカーフ。
花とは全く違う色になったと話していた。覚えの刺繍が四隅に。
103 7/15
スカーフ以外のタンスの中身に違和感が生じる。赤い服が多い。
私が覚えている弥生さんの好みは淡色で、お気に入りは紫。
赤色ブームの時期でもあったのだろうか。ニット物を探し引き出しを開けた。真紅のセーターを取り出そうとした時、手に感触。
A4サイズの茶封筒。布製品が畳んで入れられている感じ。
と、階下から音が聞こえた。少し考え、電話だと気付いて慌てて階段を下りる。受話器を上げる。
「もしもし」名前は言わない。「森野さんのお宅でしょうか」
その声を認識する前に体が震えた。思考が乱れる。
「そ、そ、そ、そうですが」どうにか声を絞り出した。
「美佐?久しぶりだね」昔とまるで変わらない。山本邦彦だ。
104 7/17
県道からすすきケ原高原に向かう道は、今では整備されている。
高原にも店が建った。もう、二人だけの秘密の場所ではない。
初めて邦彦に連れられて来たのは、一年と二年の間の春休み。
受験勉強に入る前の時期。映画にも、書店にも行った。
そんな時、街で親戚のおじさんに出会った邦彦。気を回して小遣いをくれたおじさん。その後ため息をついた邦彦が言った。
──「ノルウェイの森」のイメージにぴったりの所があるんだ」
翌週訪れたそこは、緑の中に各色の花が咲き素敵な場所だった。
だが邦彦には不満。──春になる前に来たかったな。時間が止まっている様な景色の中であの本を読んでみたかった。
本は既に返していた。
105 7/18
高原にぽつんと立つ邦彦が、手入れされていない樹を見つめる。
その季節に本を読んだ時間を振り返っているのか。
以来すすきケ原には、用のない週末ごとに訪れた。シートを敷き弁当を食べ、本を読んだり。邦彦持参のシートは小さかった。
それで弥生さんに訊くと、イチゴ模様のビニルシートを譲ってくれた。ピクニックと聞いて、焼き菓子や紅茶も持たせてくれた。
初雪が降った日、どちらからともなく「たき火をしたい」
ここじゃ無理、と言うと、邦彦が「大丈夫な場所がある」
翌週来た、少し奥まった森には切り拓いた場所があった。
──うちの土地らしいから。
父親とキノコ採りに来たことがあるという。
106 7/19
もっと早く教えてくれれば、の気持ちを察して
──ここは父さんの隠れ場だから、と言った。焚火も一度きり。
そこで一斗缶に薪を入れて焚火をした。おかげでシートには穴が開いたが、大学に入るまで使い続けた。
時を経てシートはバイオチップの雨よけに使われ、結局捨てた。
なのに、私はまた同じ場所で焚火を眺めている。
焚火のための機材が充実している。これほどの需要。炎で頭のもやもやを燃やし、空っぽにしたいのかも知れない。
邦彦がバーベキュースタンドの前で動き回る。
料理の一品目は「エビとキノコのアヒージョ」らしい。
手伝おうか、と三度目の声掛けをするが、座って何か飲んでいて、という邦彦からの三度目の返事。
107 7/20
邦彦から突然、みどり屋敷に電話が掛かったのが三日前。
こちらに来た理由を訊かれ、弥生さんを施設に入れた事までを説明した。──本を持って来たのは、美佐だったんだ。
邦彦が玄関であの本を見つけ、菜穂さんではなく菊枝さんに訊ねると、みどり屋敷の弥生ちゃんが来たと言われたとのこと。
──そういうことか。そして翌日、また邦彦からの電話。
──二人で会えないかな?良かったら森で食事でもしよう。
邦彦には失望していたが、ドキリと胸が跳ねた。
が、現実が勝った。──お母さんはどうするの?
菊恵さんは日毎にしっかりして来たが、一人にするのは心配。
母さんは週末ショートステイに申し込んだと言う邦彦。
そして土曜に駐車場で待ち合せることが決まった。
108 7/21
その電話の一時間後に菜穂さんから、週末は訪問不要という連絡が、石狩鍋の画像と共に送られて来た。初めての連絡。
邦彦は、家事代行をしているのが私だと気付いていない様だ。菊枝さんは施設で教えた「CA巻き」から私を「CAさん」と呼ぶ。
何かを察しているかも知れない邦彦。
「お待たせ。まず一品目」下敷きに載せられた鉄板の料理。
バーベキュースタンドでジャークチキンを焼いているという。
「じゃあ、乾杯」二人ともアルコールを飲んでしまった。
そう思いながら後方のログキャビンを見る。外観から見て四畳半程度の一部屋か。トイレとシャワーは別棟の様だ。
それだけで安心。あの頃は麓の公衆トイレまで行っていた。
109 7/22
少し離れたクーラーボックスから、邦彦が缶ビールを取って来てくれた。残っているのを飲み干し次を開け、エビを食べた。
「おいしい!」菜穂さんと食べたペペロンチーノのオイルソースの味に負けていない。「それはよかった」
邦彦もエビを食べビールを飲むとバーベキュースタンドの方へ行き、肉をひっくり返して戻って来た。「ジャークチキンって?」
スパイス等を混ぜたタレに半日漬け込み、焼くだけと言う。
アウトドアなんて何十年も縁がないと言うのに、つい結婚してから、と言いそうになった。「旦那はどんな人?」
結局その話になるのか。褒めるべきか悪口を言うべきか。
「職場で会った人?」「職場ではある」だが同業ではない。
110 7/23
天候不良の欠航による空港宿泊客に軽食を配っている時、スーツ姿の男性が読んでいる本に目が止まった。「ノルウェイの森」の上巻。読んでいないと話し、いっときの会話。
翌朝、その男性は私を探し出し本を渡してくれた。
本には自宅の電話番号を書いた名刺が。
「旦那は・・本を上巻から買う人」「そうか、常識人なんだ」
邦彦はそう言うと、チキンの方に向かった。
旦那は上下巻の本の、上巻だけを読む人、の説明は略した。
本の感想を語り合いたくて電話したが、その後の付き合いでは出てこず。下巻など読む気もなかったと知ったのは結婚してから。
──本なんて、半分読めば合うかどうか分かる。
目先のことにしか興味がない人。
111 7/24
邦彦がチキンを皿に載せて持って来た。皿、チェア、テーブル等は彼が好きな緑色。ここは邦彦の、父から引き継いだ隠れ場。
「おいしい。邦彦って、こんなに料理上手だったっけ?」
大学時代は双方のアパートを行き来したが、料理や味の印象は特にない。彼に、私の思い出の料理などあるだろうか。
レシピが簡単に手に入るから、と淡々と話す姿は変わらない。
網の上の道具のことを聞いた。メスティンという炊飯器具。
外国に来た気分、と話すと「それはよかった」
邦彦が薪を足した。二人で眺める火。あったかもしれない時間。
もし山本家を訪れる前に邦彦と再会して、ここに来ていたら・・
パキリ、と薪がひび割れた。
112 7/25
ごはんはどうなるの?と訊いた。この流れでは白米ではない。蓋を開けたらパエリアかも・・とメスティンを見た。香りは白米。
「一緒に、作る」「えっ?」崖っぷちに追い込まれた気分。
待て待て、料理をするだけだ。軍手をはめた邦彦がメスティンを持ち、調理台に移動させて蓋を開く。ご飯が炊けていた。
邦彦が食材コンテナから出した袋は、温かいご飯に混ぜるだけの、あの「ちらし寿司の素」だった。この場に持って来るとは。
「混ぜようか」と言うと「美佐は、こっち」と卵二個渡される。
メスティンの蓋で作れという事。作った薄焼き卵を、邦彦が盛ったちらし寿司の上に載せた。もう一つ作ってオムちらしの完成。
113 7/26
大学生になった最初の冬のデート帰り。夕方急に冷え込んだ。
──寒いね、ちらし寿司が食べたい、の言葉に反応した邦彦。
邦彦のアパートで作ることになったが狭いキッチン。薄焼き卵を焼いたまま載せてみた。オムライスちらし寿司・・オムちらしか。訝し気だった邦彦だが、一口食べると目が輝いた。
その温かいちらし寿司は、二人だけの料理になった。
互いにオムちらしの皿を持ち、焚火の前に座った。
「夢の中みたいだ」と言う邦彦。あり得ない世代の友人たちと集まって、ボウリングをした夢を見たという。
私だって邦彦のフェイスブックを見たあと、夢を見なかったか。
この現実に延長はあるのだろうか。ちゃんと大変なこと込みで。
114 7/27
私なら菊枝さんと上手く付き合って、邦彦を逃避から連れ戻せるのではないか。邦彦は、新しい薪に手が行きかけて止まる。
「中で、コーヒーでも飲む?」ついに、あの中に入るのか。
それを回避するための様々な案・・「そうだ、片付けは?」
テーブルの上の皿を重ねた手に、邦彦の左手がかぶさる。
「火の始末だけして、あとは明るくなってやればいいよ」
この手は反則。それに指輪を嵌めていない。早く離れないと。
だがその一方で「これで、いい」との思い。
お手洗い、と言ってランタンを借りる。場所は小屋の裏手。
簡易水洗タイプのトイレ。芳香剤があるが、臭いは山本家の居間よりきつい。洗面台で洗う手が、縛れるほど冷たかった。
115 7/28
空には無数の星が輝く。行きには気付かなかったが、小屋の窓から中が見えた。気になってランタンをかざす。板の間にラグが敷いてあり、奥に本棚があった。老眼で遠くは見える。「ダンス・ダンス・ダンス」「海辺のカフカ」「騎士団長殺し」・・・
寒さにではなく、ゾクリと胸が震えた。風邪の前の様な悪寒。
小屋の前まで戻ると、焚火を消した邦彦が小型ガスバーナーコンロを持って来て「コーヒーは中で淹れるから」とドアを開けた。
車で寝ると言った私。シュラフもあるし、スマホ着信も心配。
邦彦がじっと私を見る。心変わりの理由を探すように。
昔からなぜ、とは訊かれない。どう感じたかも分からない。
116 7/29
邦彦は小屋に戻ると、緑色の畳んだ毛布を抱えて持って来た。
「シュラフだけだと寒いから」毛布は家族の分があると言った。
駐車場まで送ってくれると言う。
車までの山道を、私がランタンを持ち、邦彦が続いた。
訊きたいことがあると言う邦彦。菜穂さんの事かと動揺。
「うちの母親・・・弥生さんとどういう関係なのか知ってる?」
下からの灯りでホラーな顔。「二人、知り合いなの?」
驚きを夜道のせいにして訊き返す。
本を玄関で見つけた日「みどり屋敷の弥生ちゃんが来た」って言ったけど、初めて聞いたから「知り合いか」って聞いたら、誰だっけ?とポカンとされたと言う。
エルメスのスカーフの事は口にしなかったのだろうか。
117 7/30
弥生さんについて、私の事も高校時代の姿に見えることもあるから、菊枝さんと知り合いだったとしても忘れているかもしれない、と話した。弥生さんの老いも何とか理解した邦彦。
駐車場に着いた。停まっているのは二台だけ。
邦彦に毛布の返し方を訊いたら月曜、家に持って来てと言う。
家事代行の事は気付かれていた。
それで電話して来たのではなく、電話で私が
──お母さんはどうするの?と言った事で気付いた。
菜穂のために助けてくれて有難うと言われ、少しイラついた。
まだ燻っている思いが私に残っている?だが、これでいい。
「一つ言っていい?」「何?」
「菊枝さんのおむつ、替えてあげて」邦彦の表情が凍り付いた。
118 7/31
邦彦に会ったら言わなければと思っていた。
夕方交換したのがそのまま。少しかぶれも出来ていた。男に母親の下の世話は出来ないと言う邦彦。でも責任はある。
菜穂が戻るまでショートステイの延長を申し込むと言った。
その後はうちの問題だから、と静かな拒絶。そして別れた。
どうして私は気が変わったのだろう。
下巻ばかりの本棚。金に余裕のない高校生の行動がむしろ好きだったが、それが大学生でも変わらなかった意固地さ。
だが大人になっても下巻しか買わない。逃げ場を守っている。
そんな場所に自分も入り込みたくはない。
本棚にもう一つ違和感が。村上春樹の下巻ばかりが並ぶ中に、赤い「ノルウェイの森」の上巻がなかったか。