C線上のアリア(2) 作:湊かなえ | 私の備忘録(映画・TV・小説等のレビュー)

私の備忘録(映画・TV・小説等のレビュー)

日々接した情報の保管場所として・・・・基本ネタバレです(陳謝)

朝日 新聞小説「C線上のアリア」(2)作:湊かなえ

レビュー一覧  

第二章 コード 30(5/1)~59(5/31)

     他ブログでのレビュー紹介「羊と猫と私
感想
この章は概ね「金庫」の話に終始した。題字の挿絵も金庫。
しかしこの挿絵は誰が描いてるのかな?
ホームに落ち着いた弥生さんに、不用意に金庫の事を聞いた美佐は「私が戻るまで金庫を見張っていて」と釘を刺される。
どうしてそれが業者に金庫を開けさせる行動になる?
叔母と姪の関係で3年間一緒に暮らしていたとはいえ、その後30年近くもの空白期間がある。唯一の親族だという気負いか。
話の端々に嫁ぎ先の亭主、義母への不満が差し挟まれるが、この美佐の倫理観欠如も相当なもの。
開けた結果が「テーブルタップ1本」だったなんて、弥生さんには話せないという事は理解している(アタリマエダロ)
この件はなかった事にして墓場まで持って行くしかない。
でもこのテーブルタップが「とんでもない代物」だってか?
サスペンス・ミステリーに、この金庫と中味がどう関わるのか?

調べたのでここに開陳
百万解錠ダイヤル


ダイヤル錠の仕組みを徹底解説

 

第三章は「カバー」
これで題名の「C」の意味が明確になった。
第一章「カントリー(Country)」
第二章「コード(Cord)」
第三章「カバー(Cover)」
「だから何?」って気がしないでもないが・・・
「ノルウェイの森」が来たからブックカバー?
実はこの本(村上春樹)まともに評価していない。上巻から下巻の繋ぎがデタラメで、小説の体裁になっていないと判断した。
20年以上前の評価だけど。
でも次章ではこの本が話の流れに入って来そう。(気が滅入る)

音楽の「ノルウェイの森」はセルジオ・メンデスとブラジル66がお気に入りだった・・・

 


あらすじ
第二章 コード
30
あの金庫を開けたい。ごみ袋からあんな現金が出た以上、それ以上のものがあるかもと考えてしまう。旦那さんが残したかも。
それらを私が欲している?・・・居心地の悪い家から出るための金ぐらいはある。ならどうして出て行かなかったのか。
いや、それは今考える事ではない。
みどり屋敷が片付くと、今度は防犯への考慮が必要。
家には金目のものは置かず、銀行に預けるべき。
だが金庫を開けるには弥生さんの許可が要る。
片付けを中断し、弥生さんの手作りクッション類と衣類、化粧品を持って「やすらぎの里」を訪れた。
五階建ての最上階にある、弥生さんの部屋に案内してくれた梅原さん。御迷惑かけてませんか、との問いに少し顔を曇らせた。

31
問題と言うほどではないが、来てもらえてよかったと言う。
歩く途中の談話室からコーヒーの香りがした。サイフォンで淹れる。週替わりの焼き菓子と相まって好評の様だ。私自身がそれを欲していた。一日一回の食事は、コンビニののり弁当。
飲み物は水だけ・・・
弥生さんの部屋に着き、形ばかりのノックをして入る。
リクライニング式のベッドを起こし、背を丸めて座っている弥生さんは10歳も老けて見えた。
「弥生さん!」声をかけるが、こちらを向いた弥生さんは、とろんとした目をすぐ落した。
みどり屋敷にいた時も、弥生さんに調子の浮き沈みはあった。
少し経てば私を美佐だと分かるぐらいに戻るだろうか。

32
思わず梅原さんを見た。入居初日と翌日は皆とも快活に話したが、時間が経つごとに元気をなくして部屋から出なくなり、昨日夕食からは部屋に食事を運んでいるという。何かトラブルでも?と訊くが、思い当たる事はないと断言する梅原さん。
こうなるケースの多くは二パターンあり、一つはホームシック、もう一つは緊張がとける場合だと言った。森野さんは後者ではないかと続ける。弥生さんは苗字で呼ばれている。
確かにあの家では、転ばないよう歩くだけでも緊張があった。
リサイクル問題からも解放された。
元気になるんでしょうか?との問いには、皆ここで趣味や生きがいを見つけて元気に過ごしていると言った。

33
「よかった」弥生さんは、今までの生活の疲れが出ているのだ。
片手に持っていた黒いポリ袋を、弥生さんに見えない様にして中味を取り出し、ベッドに並べた。
「まあ、素敵」クッションを見て梅原さんが声を上げた。
みな弥生さんの手作りだと教えた。だが弥生さんの反応は弱い。
「森野さん、スゴいですね」の声掛けに、名前の方で呼んで欲しいと言う私。旦那さんを早くに亡くし、苗字に親しみがない。
承知した梅原さんが弥生さん、と言い眠り姫の刺繍を褒めた。
そう言われて、弥生さんが刺繍を指でなぞった。
「棘は二本取りなのに、三本でやってやり直したの」
それは説明書の指定内容。

34
弥生さんは根気強いんですね、の言葉にこの時のことを思い出した。弥生さんは刺繍、私は村上春樹の「ノルウェイの森」下巻を読んでいた。刺繍と、本を読み終えるのとどちらが早いかしらと言って、弥生さんが紅茶を淹れクッキーを出した。
寝ようかと思っていたが、読書を続けた。刺繍の方は例の棘。眠り姫を囲む棘には異なる緑色が使われていた。深い、深い緑色。
──完成!私が本を読み切る前に、弥生さんが声を上げた。
躊躇なく本を閉じられたのは、大ベストセラーの割りに没頭出来なかったから。それはくだらない理由から。
完成品に惚れ惚れしていた弥生さんだが、おや?と首を捻り説明書を読んだ。うわー、という声。棘は二本取りだった。

35
──別に気にならないよ。──ダメよ、ダメ、ダメ。
「イボに見えると言って全部やり直したんだよね」と話す私。
「三本だと先が尖ってないから。あら美佐ちゃん来てくれたの」弥生さんは、出て行こうとした梅原さんにも「梅原さん、ありがとうね」と声かけ。刺繍が弥生さんを繋ぎ止めてくれた。そんなアイテムは他にもある筈だ。困りごとなどないかと訊いた。
どんどん口調が明確になる弥生さん。
談話室のチーズケーキにも興味を示し、髪をとき始める。
弥生さんの消えかかった記憶を呼び戻せるのは、同じ時を共有した私だけ。ならば弥生さんの暮らしが安定するまで、日を置かずに面会を続けた方がいいのではないか。あとひと月くらいは。

36
準備を終えた弥生さんはカーディガンも似合い、私がイメージしていた姿に近付いていた。ごみ山の住人だったとは思えない。
弥生さんはチーズケーキを一切れ全部平らげた。料金はコーヒーも含めチケット制。今日は弥生さんにおごられた形。
家の片付けや、焼却場へ持ち込むごみが車の重量差で金額が決まる事などを話した。その意味をすぐ理解し、帰りに乗り忘れたら体重分が加算されるね、とシャレで返せる弥生さん。過去の紐付けでなく、今後の行動で症状の進行を抑えられるかも。

37
可燃物費用に絡めて弥生さんなら750円だねと言ったら、人一人の処分代なんて千円あれば足りるのね、と溜息をつく弥生さん。
ミステリ的発想か。おかしな計算をすべきでなかった。
二階の部屋を残してくれていた事に感謝を言うと、いつでも帰って来られる様にと話す弥生さん。姑の言う「親じゃないんだから」との愚痴まで見通していた。
弥生さんの声が頭に沁み渡り、涙が溢れ出た。目元にガーゼハンカチが当てられる。美佐ちゃんが耐えられなくなった時のため。お帰りなさい、と言って私の頭を撫でてくれた。やはり弥生さんは、私をあの家から連れ出すためにこうしてくれた・・・

38
直径8cmのダイヤルに目盛りが99刻まれている。生まれてから金庫を持った事は一度もない。それが目の前に現れた。
落ちていたクロスをかけてただ戻しておけばよかった、
少なくともあの場で口にすべきではなかった。
涙が収まった私は急に冷静になり、金庫の事を訊ねてしまった。
「どうしたらいい?」その途端、弥生さんの表情が厳しくなる。
──こんなに人がいるところで、やめてちょうだい。
確かに不用心な発言だった。金庫を家に放置するのが危険だと思っての相談なのに談話室という、人の居る所で話した。
用心が必要なのは他人だろうが、噂を流される可能性はある。

39
──ごめんなさい。でも放っておけなくて。部屋に戻る?
弥生さんは首を大きく振り「帰らなきゃ・・」と呟く。
呼吸が荒くなり医務室に運ばれる。過呼吸だった。後に来た梅原さんに訊かれ、知り合いの電話番号を聞いたと嘘をつく。
認知症患者に思い出し難い事を訊くのは、自信をなくすからタブーだという。だが弥生さんの場合は違う。耳元で言われた。
──私が戻るまで金庫を見張っていて。約束よ。
金庫には重要なものが入っている。だが気になって片付けも終わらなくなる。やはり中味は安全な場所に移したい。
自力で開けられないか。目盛りが100あるダイヤル二つなら最大でも一万通り。やれそうに思うが、そんなに簡単じゃない筈。

40
ネットで検索した金庫の開け方。ダイヤル2つの場合は2つの鍵があると解釈。左右に複数回回してから正しい数字にセット。よって1つのダイヤルでも百万通り以上の組み合わせだという。
世の中にはその道のプロがいる。YouTubeで金庫解錠のプロのサイトを見つけた。聴診器や、電動マッサージ器を使ったり。
費用は、みどり屋敷程度のものだと5万程度に交通費、宿泊費が加わる。費用回収出来る程度のものが入っていないとやれず。
いや、入っている筈だ。金庫以外にあれだけ出て来たのだから。
待て待て。弥生さんは金庫を見張れと言ったが、開けてとは言ってない。ひとまず私が立て替えて事後報告で貰えばいいか。

41
交通費を抑えるため近くの業者を探す。二業者に金庫の写真を送って相見積もりし交通費、一泊の宿泊費込みで7万円の「なんでもザウルス」に決めた。作業に来てもらえるまでの三日間は片付けに専念。それに加えて窓の要所に防犯フィルムを貼ったのと、ついに自室に鍵を付けた。

ピンポーン、というドアホンの音。玄関ドアを開けると上下緑の作業服を来た30歳ほどの男性。「なんでもザウルスの松田です」
ミルクティー色の髪で童顔。ネットでの解錠士は職人タイプだったので、少し不安がよぎるが、約束10時の5分前に到着。

42
「すみません、スリッパが・・・」準備を忘れていた。
全然オッケーっす、と馴れ馴れしいがフレンドリーさが勝る。
上がる時に靴を揃え、向き直ると90度に腰を折って礼をした。
急いで、と備考欄に書いたから「ゴッドハンド」のベテランの代理かも。暗い階段を上がる時、足元に気を付けるよう促す。
電球が切れている。まるで交換を想定していない設置位置。
馴染みの電気店に、他の用事のついでに替えてもらっていた弥生さん。そこも今はない。ごみが積まれていた時なら届いたか。

43
「この水」と松田君の声。例のダンボール。うちのじいちゃんも飲んでるヤツだと言って「お母さんも集会に行ったんですか?」
訊き返すと、年上の女性客には「お母さん」呼びだという。
彼の歳を訊くと27っす、と返した。自分の年齢から引き算した。
あの時・・・頭を振る。
集会のことを訊くと、景品で釣って人を集め水を買わせる商法。
弥生さんが同じ手段で購入したのなら、自ら足を運んだ?
叔母が買った水だと説明し、自由に飲んでいいと言った。
そして弥生さんの部屋のドアを開けた。「この金庫なんだけど」
松田君は金庫に片耳を当て、2つのダイヤルを数回まわした。
「これはけっこうやっかいっすね」

44
深刻そうに話す松田君。見るからに昭和だもんね、の言葉はスルーされ、これは老舗メーカーで1960年代後半に作られた「ダブルヒャクマン」という、防犯に特化した業務用金庫だと言う。
だがダイヤル錠2個は不評で、ダイヤル錠1個+シリンダー錠1個が主流となり'70年代には生産中止になったらしい。
それが民間に流れたのだろう。だがこれは何かおかしいと言う。
「このダイヤル錠は、百万変換ダイヤルと呼ばれるタイプっす」

45
溝の入った4つの円盤が重なり、回し方でその溝が一列に揃ったらボルトバーという棒が嵌り、ダイヤル横のつまみが動いて開く仕組みだという。解錠するには4つの数字が必要であり、百万変換ダイヤルはそのうちの3つを利用者が決められる。4つ目は縁起かつぎで必ず8と決まっているという。例として50、15、77の場合なら右に4回まわし50、左に3回まわし15、右に2回まわし77、左に1回まわし8。それで開くことになる、と言う松田君。
「3つの数字100×100×100=百万が2つでダブルヒャクマン」
「そうっす」と手を叩く松田君。
ただ、彼は音に違和感があると言って、金庫に耳をつけて数回まわすと「やっぱり」といった表情を向ける。

46
鍵内部の錆びや劣化で、正しい数字に合わせても開かない事があるが、この金庫は状態が良さそうなのに、異物が混ざっている様に聞こえると言う松田君。金庫にはサビ一つ見当たらない。
まあ、やってみますと言う松田君は、明日午後3時までに開かなければ、破壊して開けるか解錠を見送るかの選択になると説明。
破壊の場合は見積もり通り、見送りの時は半額になるとの事。
作業にかかろうとする松田君に、自分が居た方がいいか離れていた方がいいか訊いた私。他にやらなければならない事がある。

47
松田君の白い靴下が既に汚れているのを見て、まずはトイレをもう一度掃除しておきたいと考えた。音が良く聞こえる状態で仕事をしたいという返事に、階下へ行こうとすると「あーっ」の声。
実は、以前金庫を開けて空だった時、盗んだと疑われた事があるという。「そんな、酷い」
相手は、金塊が入っていると豪語していたという。
動画で見た解錠風景を思い出す。怒る人など居なかった。
もちろん、カメラの前での見栄もあるのだろう。

48
だが身内だけなら本心が表れる。
自分の身なり、態度も反省する松田君にフォローする私。
あざっす、と返しながらゴッドハンドとか天才鍵師とか褒められるけど、純粋に解錠を評価してくれる人は少ないと言う松田君。
あのゴッドハンドとは松田君のことだった。偏見に反省。
弁当何がいい?と聞くと、集中したいから水だけでいいと言う。
階段の段ボールを開けて2本持ち、テーブルの上に置いた。
「じゃあ、よろしくね」と声をかけ階段を降りた。

49
トイレ掃除を終えて、庭に出る。萎れた雑草はすぐに抜けて、大きなポリ袋3つになった。しぶとく生き残っている植物は「クリスマスローズ」実は弥生さんの誕生日、3月28日頃がピーク。
その誕生日に金庫ダイヤルの数字を思う。私ならどうするか。
生年月日は単純すぎて脆弱。学生時代に毎晩押した番号とか・・
そもそも私には金庫に入れる様なものはない。自分名義の通帳は中学時代からの英和辞典に挟んで、私専用の本棚にある。
一般家庭での金庫のメリットは何だろう。大切ものを家族で共有する・・・少なくとも、へそくりが入ることはない。

50
更に草を抜いて行く。雑草を押し上げる様に水仙、チューリップの葉が伸びている。やはり土がいいからか。
しまった。家の玄関前の鉢植えを、雨水の当たる所まで出しておけばよかった。メッセージを送る?それだけはダメ。

水やりしなければ花が枯れる事を、身を以って知ればいい。
いや無理か。あの人はきれいな花には気付かす、枯れたごみを見つけて私を非難する。そうしていればいい。私はまだ帰らない。
花壇の奥に転がる植木鉢。大きな中国風のものが目にとまった。
そういえば金庫解錠の動画で、こんな欠けた椀が出て来た回があった。回りは父が残したガラクタめいた骨董品。金庫の中味もロクなものではないと決めつけていた息子兄弟。

51
珍しい金庫のためか、番組でも人気の解錠士二人で挑む。
三日目に開いた金庫の木箱から出た欠けた茶碗。兄弟は笑ったが、それをTVの鑑定番組に出したところ、秦時代のもので何千万もの値がついた。祖父がそれを知っていたのか、真相は闇の中だが、もし私に子どもがいて、金庫を持っていたら・・・
「お母さん!お母さん!」と二階の窓から松田君が手を振る。
急いで二階に上がると、一つだけ開いたという。
水を飲んで一息つくと、金庫上側のつまみを捻る様言う松田君。
ゆっくり右に回すと「カチリ」という心地良い金属音が響いた。  

52
「すごい!」扉はまだ開かないが、つい拍手。「あざっす」
頭を下げる松田君。ボードに挟んだ紙に、何やら線や数字が。
「100万通り合せたの?」には「まさか」脱いでいた靴下を慌てて履き、ペットボトルの水を飲んで胡坐をかいた。
私も新しいペットボトルを取って一口飲むと、止まらなくなった。喉の渇きに気付いていなかった。プハーと息を吐く。
「お母さんも、お疲れさまっす」自宅だと苦痛なだけの作業が苦にならないのは、こうしてねきらってもらえるからかも。
「ありがとう。それでどうやったの?」自分の指を見る松田君。
俺の場合は耳で開けるというか・・・だが期待したものがない。
「聴診器は使わないの?」

53
彼は使ったことがないと言う。いわゆるパフォーマンスか。
指先にエネルギーを集中させ、その指先が耳で、本当の耳は受信機の様だと言い、金庫に右耳を付けて実演を始めた。
左手としての耳と本当の右耳の間の、絡まった糸のイメージが、左右の音が合うと、ピーンと一直線に張る感じなのだと言った。
私は刺繍糸を思い出した。細い糸六本が撚られて一本になっているのから二本取りを三組作る感覚か。単に逆に撚るのでは駄目。
弥生さんは糸を見ずに、指先だけでそれが出来た。
指先で音を聴くんじゃなくて、感触で探るだけだと言われるけど、と言う松田君。自分の指を見る。私には無理だ。

54
そう思いたいなら勝手にどうぞって感じ、だと言った。そして仕事始める時は金庫の前で座禅して「来た」となったら始めるとも言う。ハハッと笑ったが目は笑っていない。彼なりの防衛か。
わかんないけど、わかったと返す私。理屈じゃ分からないものを持っているのがその道のプロ。
めっちゃ嬉しいと言った松田君は、思い出した様にボードに書いてあった三つの数字を丸で囲んだ。44、11、22。
もし覚えがあるなら、下の鍵のヒントになると言った。
生年月日?電話番号?何も思いつかない。
誕生日はクリスマスで、結婚記念日は体育の日だと確か聞いた。
「よくわからないな」

55
大丈夫っす、と返す松田君。明日の午前中には解錠できそうだとの言葉に安心する。お腹の鳴る音が。それは松田君の方から。
4時44分。外での作業はもう厳しい。夕食を誘った。
社長に薦められたレストランがあるという。検索すると隣町にあるイタリアン。まず着替えたい。店へは互いの車で行く事に。
先に階段を降りかけた松田君が声を上げた。私が落としたタオルを踏んでしまったという。ケガはなく尻もちだけで済んだ。
振り向いてタオルを渡してくれたが、表情も見えない。

56
「お母さんも気を付けて」と階段を降りる松田君。手をケガしたら一大事。やはり電球は付け替えた方がいい。

午前9時、松田君が来た。「昨日はごちそうさまでした」
にこやかに言い階段を上がって行く。昨日、スパゲティの大盛りをもりもりと食べていた姿を思い出す。
松田君との話は楽しかった。何でも屋として遭遇したエピソードの数々。掃除のコツなども教えてもらった。
松田君には一階の奥の部屋にいるからと伝えた。
降りた廊下の突き当りの和室。一緒に住んでいた頃から物置部屋だった。引き戸を開けると半分以上はトイレットペーパー。
あとは雑多な日用品。小学校の教科書に載っていたオイルショックという言葉を思い出した。

57
震災、感染症・・・ほんの数年前、トイレットペーパーを買うために並んだ。そんな時ですら弥生さんの事を思い出さなかった。
早い段階で廊下が塞がれたため、部屋の奥は以前に近かった。
手前にある段ボール箱に目がとまる。大学時代、アパートから私が私宛に送った荷物。「帰ったら片付けるから」と当時弥生さんに電話で話した覚えがある。
30年前に買った、箱の中に入っているであろう品を思い出せる。
蓋を開けてみることにした。これは・・・どうしてここに?
「お母さん!お母さん!」廊下から松田君の声。
出ると階段下で手を振っている。「解錠できました!」

58
部屋に入ると、一つ目のダイヤルの時と同じ様に松田君が「どうぞ」と下側のつまみを指さした。
金庫に向かって正座し、つまみを右に回すが引っ掛かる。
それを言うと松田君は右に捻っては戻し、を繰り返す。

次第に振り幅が広がって行った。「これで行けると思います」
再びつまみに挑む。180度、しっかりと回転しガチリという音と感触が。扉の側面に手をかけゆっくりと手前に引く。
は?と声が出た。え?と松田君が呟いた。
「何これ?」声には出したが知っているもの。
3段ある棚の中段に黒いコードの二口タップ。あとは何もない。
いっそ空だったら、弥生さんが取り出して忘れたのだと思える。
無言で扉を閉めた。

59
立ち上がって振り返り深呼吸した。「えっと、七万円だっけ?」
務めて明るい声を出す。金庫が開いたことに対する満足が伝わるように。「そうっす。すみません」松田君が謝る事ではない。
弥生さんには請求出来ない。報告も。中身を知れば、弥生さんはまた体調を崩すだろう。七万円はパートの約ひと月分の給料。
片付けをしている松田君に渡した。下のダイヤル番号を紙で渡された。55、11、77。何か浮かびそうだが、もうどうでもいい。
松田君はサービスで、階段の電球を交換してくれた。
恥ずかしい、情けない。もう一度開けたら、段ボール箱で見つけた「ノルウェイの森」の下巻が入っていないだろうか。