C線上のアリア(3) 作:湊かなえ | 私の備忘録(映画・TV・小説等のレビュー)

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朝日 新聞小説「C線上のアリア」(3)作:湊かなえ
 レビュー一覧       7(終章)

第三章 カバー 60(6/1)~88(6/30)
      他ブログでのレビュー紹介「羊と猫と私
感想
前章の終りがけで、大学時代に送り返した箱から出て来た「ノルウェイの森」下巻から、高校時代の美佐の回想が始まる。ビートルズの同名曲の本がきっかけで親しくなった美佐と邦彦。
その本は交際の終りを象徴するものだったが、再び舞い戻った。

問題はそこから先。いくら挟んだ写真の裏に「返しに来てください」なんて書いてあったって、30年以上前の話。現在は妻子もいるのに、何でわざわざ会いにいく?美佐ってホントいかれてる。
だがその行った先で見つけたのは、もっとイカれた菜穂。
とは言っても本当に邦彦の妻なのか(美佐の思い込みかも)
ここはひとつ、行きつけのブログで仕入れた「邦彦(仮)」を使わせてもらおう(笑)
邦彦(仮)の妻 菜穂が義母 菊枝に行った暴行未遂を止めた美佐。
異常過ぎる知り合い方をしたのに、その後レストランでパスタを食べる二人。菜穂に輪をかけて、美佐から姑への愚痴が飛ぶ。

そしてあろうことか、家に帰りたくないと言う菜穂に「旅行、行ってきたら?」とけしかける美佐。家族でもない者が、初対面の人間にどうしてそこまで入れ込むのか。いくら小説とはいえ、リアリティがなさ過ぎる。それとも、菜穂のいないところで邦彦(仮)と会える期待に一点集中しているのか?
菊枝が弥生を知っているというのが、唯一拠り所ではあるが。
しかし美佐も嫁ぎ先をここまで放っぽらかして、どうする気か。
6/30の冒頭に
逃げ場を持たない人に、逃げることを提案するべきではない
との表記がある。この日の小説の中では、この言葉は回収されない。将来的に回収されるとすると「菜穂は戻ってこない?」
いよいよサスペンス色が滲み出してくるか・・・

オマケ

章題の「カバー」に何か深い意味でもあるかと期待したが、結局本のカバーで終わったみたい(なーんだ)

次章は「キャビン(Cabin)」

あらすじ
第三章 カバー
60 6/1
黴取り洗剤で磨き倒した浴室で体を洗う。体もピカピカだ。
本とスマホを持って自室に入った。枕を背に敷いて壁にもたれ、足を投げ出して弥生さんのクッションを足に載せると、私の読書スタイルの完成。だが当時のままの距離では目がかすむ。
クッション追加を考えたがやめた。今更これを読む必要はない。
閉じた本は、艶やかな緑に赤でタイトルと作者名。
みんな、この本の何に惹き付けられたのか。私の場合は・・・
ブックランキングで何ケ月も一位を独占。日本の書店には村上春樹の「ノルウェイの森」上下巻しかないと思えるほどに。
上巻は赤地に緑文字、下巻は緑地に赤文字。クリスマスカラー。

61
その並んだ書影は、カラータイルを貼るように私の頭に刻み込まれていった。最初は赤と緑が均等。ほどなくして緑が圧倒する。
今ここにある緑色カバーの本は、私が買ったものではない。
私の場合、書店が近くになく、高校周辺もバス停3つ先にしかない。それに高校生の小遣いには、単行本は高価。
ただ、そんな高校生の間でも話題には上がっていた。
新聞の書評や週刊誌情報を持ち寄り、話し合う。
自分らにはまだ少し早い大人の本、という意識は興味をそそる。
とはいえ、買った者などなく、家族が買ったという声もない。

62
そこで本の話題は終わる。昼休みには話すネタが多い。
音楽の話が盛り上がる。カセットテープで好きなアーティストのベスト集を作っての貸し借りとか。
私は洋楽担当で、父や弥生さんのコレクションから集めた。
本よりもカセットテープの貸し借りの方が流行っていた。
だからあの日、突然声を掛けられてもさほど驚かなかった。
バス停に立っていた時「──浜辺さん、だよね」と向かいのバス停から走って来た男子に声をかけられた。
その男子は、同学年ではあるが名前は知らない。
はい、とだけ答えると、彼は名乗りもせず用件を告げた。

63
──「ノルウェイの森」のレコード持ってる?カセットテープでもいいけど」本ではなく?首を捻る私に補足の彼。

──ビートルズの。
みどり屋敷に越して来た頃は、父のビートルズ・コレクションを良く聴いていた。弥生さんは「全部揃っている」と言っていた。
──多分、あると思う。喜ぶ彼。本を読んだら聴きたくなったのだと言う。「洋楽なら浜辺」という噂を友人から聞いていた。
──本を持ってるの?良かったら貸してくれない?
交渉成立。だが受け渡しは学校以外にしたいと言う彼。
提案されたのは、すすきケ原高原の麓にある音楽ホール。
次の日曜、午後一時に待ち合せ。別れ際、ようやく名を聞いた。

64
山本邦彦。私が「邦彦」と名前を呼び捨てにする様になったのは、周囲を真似てではない。普通は「山本さん」と呼ばれた。
懐かしい文字。スマホを手に取った。
この名前を検索したのは7年前だったか。
夫の転職に伴い、義母の居る夫の生家に引っ越したひと月後ぐらい。家事含め全否定される日々に、初めて沸き上がった思い。
結婚相手を間違えた。結婚を悔いてはいない。そして出産も。
では、誰なら良かったのか。その人と結婚していたら・・・
さほど期待せずに「山本邦彦」と打ち込んだ。同姓同名が多くある中、フェイスブックを発見。妻や息子とのキャンプ写真。

彼の顔はない。そこに自分を重ねる。慌ててページを閉じた。

65
検索なんかするんじゃなかった。スマホを叩きつけたい気分。
だが、そんな事をしても何も変わらない。夕食の支度にかかる。
おかずが少ないと隆司ちゃんがかわいそう、と言われる。
だが三品作っても残される。それは、競うように作った義母の料理を先に食べるから。夕方が近づくと手が震える現実。
以後、その名前を打ち込む事はなかった。
別れてもなお邦彦を思い続けていたのは・・・この本のせいだ。
父のレコードを探していると、弥生さんが見つけ出してくれた。
本を読んだ子から貸して欲しいと言われたと伝えた(男子とは言わず)──すごく流行っているみたいね、と弥生さん。
実は、弥生さんがいち早く購入するのを期待していた。

66
弥生さんの蔵書は洋書ばかり。日本の作家には興味がなさそう。
夕食後、二人でレコードを聴いた。歌詞までは訳せないが、下巻のカバーの緑色が頭に広がり、心地よい。
だが、弥生さんが本を読む動機までには至らない。
私が読みたいと言えば買ってくれるだろうが、ねだらない方針。
とはいえ、本を借りる目処は立っている。待ち遠しい。
その日、ロビーで待ち合せた後、外のベンチに移動した。
まずは私が紙袋に入れたレコードを渡した。中を覗きありがとうと頭を下げた彼。茶封筒をリュックから出して渡してくれた。
受け取りながら、あれ?と思う。手触りから言って一冊。
下巻は読んでいる途中で、上巻だけ持って来たのかも知れない。

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そう解釈して封筒を開けると「えっ?」と声が出た。
緑色のカバー、下巻だ。──間違えちゃった?となにげに訊く。
かっこよくて、部屋に飾りたかったから下巻だけ買ったという。
緑色についての思い入れを延々と話す割りに、上下黒の服。
私は手元の緑色を眺め、レコードを聴いていた時を思い出す。
──今まであまり好きじゃなかったけど、この緑色は好きかも。
だろ、だろと強調する彼。だから本も読んだらこの緑がぴったりで、三回繰り返して読んだのだという。──下巻だけでも?
上巻は作品世界のためのドアであり、下巻でそのドアが見つかれば不要だという理屈。全く理解不能だが、持論はまだ続いた。

68
人生が上下巻の本だとしても、ずっと同じ場所だとは限らない。浜辺さんが以前引っ越したと誰かに聞いたけど、そんな上巻を知らなくても君と友だちになりたい、と彼は言った。
この本が私の下巻なら、上巻は青色。両親と浜辺で暮らした中学までの話。友達と話しても、皆と同じ風景が思い浮かばない。
だが、下巻だけでいいという考え方もあるのなら・・・
──友だちになろうよ。名前は?みどり友の会とかにする?
誕生日やクリスマスは、互いに緑色の物をプレゼントし合った。
革製のキーケースを贈った時は驚かれた。何に使うのか、と。
お揃いで買った自分用のを見せた。
彼の家の玄関は一日中、鍵がかかっていない事を知った。

69
上下のある本を、彼は変わらず下巻だけ買い、私は上巻から買った(特別な本は「ノルウェイの森」だけでいい)
何が人生の下巻だ。高校時代など上巻の半分にも満たない。
今の人生を年齢で区切れば下巻の前半。結婚で区切るなら、なんてつまらない物語。だが、この本がなぜここにあるのか。
私は下巻だけ三回読み、彼に返した。
後ろの頁を開くと写真が一枚出て来た。積雪のすすきケ原高原。裏にメッセージ。「何十年後でもいい。この風景を懐かしいと感じたら、本を返しに来てください。K」彼の字だ。
仮定。この本はみどり屋敷のポストに入っていて、それを弥生さんが私の荷物に入れ直した?
返しに行ってみようか。今なら大きなショックなしに会えそう。

70
音楽ホールの駐車場に車を停めた。あの頃、邦彦はここへ自転車で来ていたが、徒歩でも20分程度だったろう。
商店街を歩くと、昼前でもあり揚げ物の香りが漂う。
そういえば三年になった頃、邦彦がコロッケパンをくれた。それは音楽ホールの多目的室で受験勉強をした時。コッペパンに、近所の商店街で買ったコロッケを挟んだだけ。大好物だと言った。
思い出補正だろうが、あれよりおいしいコロッケに出会わない。
肉屋が見えた。店先でコロッケを揚げている。

打ちのめされるだけの結果になったとしても、このコロッケを買って帰ると思うと、元気が沸いた。

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商店街を抜けると、一気に閑散とした。互いの家の行き来はしなかった。弥生さんが、英語の歌をスラスラ歌えると言った事で、彼女に会ってみたいと言われたことがある。なぜかすぐ取り消したが。弥生さんなら連れて来たら歓待してくれただろう。
そう思えたのは、弥生さんが親でなく、叔母だったから。
母も、連れて来た友だちをもてなしてくれたが、その後査定が始まった。挨拶やお礼を言わない。クラスで何番?家はどこ?などなど。もし男の子だったらいかほどか。
そもそも邦彦は一人で過ごすのが好きだった。
結局邦彦と弥生さんが会ったのは一度きり。音楽ホールにピアノコンサートを聴きに来た弥生さんとばったり会った。

72
──お友達と勉強って、男の子だったのね、と言われ赤面の私。
邦彦は「みどり友の会の山本です」と自己紹介。
楽しそうな会ね、と笑い大ホールに入って行った弥生さん。

──こんなところに、あんな人がいるんだ。そう呟いた邦彦。
私が彼の家族に会う事は一度もなかった。一人っ子とは聞いた。
知っているエピソードは、緑が好きな息子にアマガエルの様な服を買ったことぐらい。住所はすぐ分かった。高校の卒業アルバムには生徒、職員らの住所、電話番号が載っていた。
赤信号で待ち続け、押しボタン式だとようやく気付いた。
道幅が狭くなる。徒歩で正解。だが自分の間抜けさに気付く。
平日の午前中に、邦彦が居るわけがない。フェイスブック以外での彼の情報は、公務員試験に合格した所まで。

73
いや、不在でいいのだ。まずは家の様子を窺うだけ。
待てよ。そもそも実家に住んでいる?県職員は転勤も多いと聞くし、結婚を機に新居を構えたかも知れない。
実家だってあるかどうか・・・あった。
古い大きな日本家屋。石の門柱には「山本」
金木犀の太い木に年月を感じる。だが手入れはしていない。
門柱の陰から中を覗く。手入れされず何もない庭。
カーポートの車2台分のスペースには、軽が一台停めてある。
家の方から声がした。縁側でスウェット姿のおばあさんが、女性に支えられて椅子に座ろうとしている。背を向けている女性はトレーナーにジーンズ姿で、今の私の恰好とさほど変わらない。

74
女性は縁側の向こうの部屋から、スカーフ様のものを5、6本持って来ておばあさんに差し出すが、手で払いのけられる。
それは何度も繰り返され、最後の1本も。
「これじゃないと言ってるだろ!」言葉が私まで飛んで来た。
「こんな安物ばっかり。エルメスはどこにやった!」
立ち尽くす女性。「お前が盗んだんだろう。私のエルメスを!」
「この泥棒が!」「うるさい!うるさい、うるさい」
女性はスカーフの束をおばあさんの口に押し当てた。
「黙れ!黙ってよ・・」苦しそうに藻掻くおばあさんだが、手を緩めない女性。「ダメよ!」自分でも驚くほどの声が出た。
が、気付かない女性。

75
止めなければ。玄関のインターホンを連打。人の動きはない。
再び縁側を見る。女性の体勢は変わらず、おばあさんの腕は動きが弱い。再びインターホンを押して引き戸を開けた。
そのまま中に入り、靴を脱ぎ捨てて縁側に走る。
「やめて!」女性の両肩に手をかけて思い切り引いた。
とたんに振り返る女性。弾みで私は尻もちをついた。
「あの、私は何を・・・」女性は手にしたスカーフを見て、へなへなと座り込んだ。おばあさんはぜいぜいとひどい呼吸。
「水を、おばあさんに」女性に声をかけるが、泣いて動けない。
そうだ、とショルダーバッグから「命の水」を入れた水筒を出した。開けた蓋に水を注ぎ、おばあさんの口元に近付けた。

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「ゆっくり飲んで下さいね」とコップを傾けると、多少むせながらも、ゆっくり飲み干した。

もう一杯注ぐと、今度は自分でコップを持って飲み始める。
ふと床に落ちたスカーフに目が留まる。赤、オレンジ、黄色、薄茶、水色、そしてアマガエルの様な緑色。
勢い余って飛び込んだが、そもそも二人は邦彦の母、妻なのか。
そろそろ声を掛けても、と思っていると女性が顔を上げた。
「あの、私なんてことを・・・警察に通報されます、よね?」
怯えた目で問われる。だがおばあさんは無傷。
むしろ引っ掻き傷で女性の顔から血が出ている。
それを伝えてポケットティッシュを差し出した。

それで彼女が額を押さえると血が滲んだ。

77
女性の首筋にもひっかき傷が数筋。何度か拭いて血も止まった。
「私、とんでもない事を。止めてくれなかったら今頃・・」
そして正座をして私に向く。「ところで、どちら様でしょうか」
当然の質問だが言葉に詰まる。どう説明する?
玄関の上がり框に置いたあの本を思い出した。メッセージは抜いてある。どう言い訳に使う?

「あんた」ふいに後ろから声を掛けられた。
「やっぱり、そうだ」と頷く。
「みどり屋敷の弥生ちゃんじゃないか」「はい?」と返す。
女性に顔を向けたが、彼女にも分からない。二人の関係は?
「叔母と間違われているみたいです」と女性に説明。
「思い出した」と言うおばあさん。「エルメスのスカーフは弥生ちゃんが持っていた。やっと返しに来てくれたんだね?」
いったい、何を言ってるんだ?

78 6/20
私は「ベーコンと野菜のペペロンチーノ」向かいに居る山本邦彦の妻、菜穂さんは「地鶏ときのこのクリームソース」を注文。
先日解錠士の松田君と来たイタリアンレストラン「ベルデ」だ。
イタリア語で「緑」の意味だと彼女から聞いても、気の利いた返しが出来ない。何故彼女と向かい合っているのか。
邦彦の母 菊枝さんから「みどり屋敷の弥生ちゃん」と呼ばれ、スカーフを返してなどと言われた。言い返そうとした時、インターホンが鳴り「菊枝さん、こんにちは」と縁側からの声。
デイサービスの迎えで、車椅子に乗ったまま昇降機で降ろされた菊枝さんは、福祉施設の車で運ばれて行った。
──弥生ちゃん、また明日。私にそう言い残して。

79  6/21
「お姑さん、元気そうでよかった」明るく言ったが、彼女は体を硬くして詫びの言葉を重ねる。
翅のもげた妖精の様な彼女を、放って帰ることは出来なかった。
自分を責めて、取り返しのつかない事をされる恐れもある。
丁度腹がグウと鳴り、あのレストランを思い出した。
断られるかと思ったが、菜穂さんは頷く。店には私の車で行く事にして、音楽ホールまで歩きながら互いに名乗り合い、車の中では私が、叔母の世話をするために帰郷した事を一方的に話した。
介護施設の内容になると、私の方に向いて話を聞いた菜穂さん。
店に入り、店員に席の希望を訊かれると、菜穂さんがテラス席と告げた。私は感じないが、異臭を気遣ってくれた様だ。

80  6/22
沈黙が辛い。「義母は、デイサービスが嫌いなんです」と言う。
協調性が低く自分ばかり喋るから、利用者から疎まれる。
四大を出ていることだけが自慢で、短大卒の私もバカにされていると続けた。それに反応して「酷い」と反論した。
するとあわてて「でも、いいところもあるんです」と弁護。
息子が小三で不登校になりかけた事かあるという。一応家は出るのだが、途中で引き返して来る。いじめ等ではなく、学校が近づくにつれて腹が痛くなるとのこと。夫の説得も不調。
夫、に反応してしまうが、頷いて先を訊く。
そんな時に義母は、痛くなった場所から電柱1本分先まで行って引き返して来たら百円やると言った。結局休むのに何故?

81  6/23
「それで、息子さんは?」
やっぱり帰って来るが、行けたところまでの報告に、義母も褒めて百円を渡したという。一週間後には学校まで行けるようになり、それからはご褒美が2百円になった。
金で釣ったという事ではなく。息子の背中を押してくれた。
私たち夫婦は暗いから、とも言う。だが今年の夏前に背中を打ち、寝たきり生活で体力低下と共に認知能力も落ちた。
うちの義母も足を骨折してから老化が進んだと話す。今は自分の事は出来るが、私が手を貸す前提なのを義母も夫も気付かない。
だが菊枝さんは背中が治っても寝たきりとなり、デイサービスでないと入浴が出来ず、駄々をこねられて弱っているのだとか。

82  6/24
だがふた月ほど前に、首が寒いからスカーフを巻きたいと言われて、義母のタンスから出して巻いたら、お迎えのスタッフが褒めてくれ、施設利用の方にも好評で、それからデイサービスに出掛けるのが楽しいらしい。家族の皆もプレゼントしたという。
だが、息子が贈った赤色のフカーフが払い落されるのを見た。
「じゃあ、どうして」「もの忘れがどんどん進んで」
菜穂さんはそう言ってスープを飲んだ。私もサラダを食べる。
どうせ忘れるなら嫌な事から忘れればいいのに、と愚痴を並べる菜穂さん。私もつられて、結婚式の日に義母の着付けを予約しなかった事を今でも言われる、と話した。

83  6/25
美穂さんがくすりと笑った。だがすぐ顔が曇る。
徐々に記憶がすり替わり、仲間外れにされたとかのいいがかり。
いきなりスイッチが入った様に怒る、と返す私。頷く菜穂さん。
そしてついにはあのスカーフ騒ぎ。エルメスがない・・・
どこを捜してもなくて、夫も覚えがない。全部を並べて見せると、お前が盗んだんだろうって。頭が真っ白になったという。
それからは毎日の様に泥棒扱い。ため息をつく菜穂さん。
同じ一日がループする映画のよう。抜け方も分からない。
「旦那さんは?相談しないの?」邦彦なら声が掛けられる筈。
「夫は・・」とすすきケ原高原のある山に目をやった。
「森へ行ってるんです」パスタが運ばれて来た。

84  6/26
先の返事はスルーした。邦彦と同窓生だった事も話していない。結局弥生さんから菊枝さんへの挨拶を言付かった事にしている。
「熱いうちに食べましょう」とフォークを取って食べ始めた。
ベーコンの塩味と唐辛子の辛さが程よい。「ああ、おいしい」
食べ始めた菜穂さんも笑顔を見せる。あっちでもよかったか。
「よかったら、一口交換しない?」菜穂さんの顔が曇った。
当然だ。初対面の人から言われたら不快なだけ。
「ごめんなさい。私の悪い癖で」弥生さんの癖でもある。
菜穂さんも食べてみたいと言うが汚れを気にする。使っていないスプーンで取り分ける事にし、まず菜穂さんが皿を押し出した。

85  6/27
「じゃあ、遠慮なく」スプーンを2つ使って、手をつけていない方の部分を取り、次に自分の皿を美穂さんの方に出す。
互いに交換したパスタを食べ、おいしいと笑い合った。
ママ友ランチ会の様なノリ。子育ての話はないが、私たちには共通点がある。だが愚痴を言い合わなくても、充分心は休まる。
最後に飲んだカプチーノが体全体に沁み渡る。
こんな店に来たのに自分の臭いに気付けなくて、と話すと彼女の方が「違います。臭っているのは美佐さんじゃなく、私です」
思いがけない口調。目も真剣だ。

86  6/28
菜穂さんは臭わないから、自分のことだと思ったと話すと、二人とも同じ臭いが沁みついているかも、と言う菜穂さん。
事情を訊くと夫の話を始めた。ある日、カーポートに停めた車でおにぎりを食べている夫を見つけた。ごめん、と謝る夫。
家の中で食事を摂りたくないと言う。君の作ったものも・・・
「どうして?」「おしっこ臭いから」と言って泣く菜穂さん。
義母は骨折中のおむつ交換を息子にさせた事はなく、役にも立たなかったが臭い、なとと言われた事はなかった。
「あんたの親じゃん!」顔を覆った手を外す菜穂さん。
泣いていたのではなさそう。涙を流せないと悲しみは蓄積する。
「ごめんなさい、自分が旦那に言われたと思って、つい」

87  6/29
頭に浮かんだ顔は夫か、邦彦か。だが邦彦がそんな事を言うか?
自分も言いたかったが、気付けなかった事を申し訳なく思ったという菜穂さん。「そんな」私はそんな思いをした事などない。
換気や消臭剤の工夫をしても、夫は最低限の時間家に居るだけ。
主婦ってだけで、どうして辛く当たる人の面倒を見なくちゃならないのか、と呟く菜穂さん。
重ねて私の愚痴が出る。その言葉に少し微笑む菜穂さん。
多少は私との話がストレス解消になっているのか?
冷めたカプチーノを飲み「帰りたくないな・・」と呟く菜穂さん。あの家での私の姿と重なる。今さら逃げ出せない。
「一週間、好きな所に行けるならどこがいい?息子さんの所?」

88  6/30
逃げ場を持たない人に、逃げることを提案するべきではない
菜穂さんは北海道がいいと言った。友人が民宿をやっている。
「行ってきたら?」「はい?」きょとんとする菜穂さん。
自分は叔母の件でここへ来てループから抜けた。だから戻っても前進する日々になると思う・・・
義母の世話を心配する菜穂さんに、日中は私が行くと返す。
デイサービス送迎の合い間に弥生さんのケアをすれば両立可能。
不足分は旦那にやらせて、分からせればいいと言った。
しばらく考えていた菜穂さんは「本当に、いいんですか?」
会ったばかりなのにと驚く菜穂さん。自分でもよく分からない。
それに、弥生さんと菊枝さんの関係にも興味がある。