天賦人権説と国賦人権説の概要とそれぞれに抱える問題点
まず最初にお断りしておきますと、私はじつは「どちらを支持するのか?」と言われると「わからん・・・」としか答えられません。しかし議論を明確にするために線引は必要であろう、という意図でそれぞれの問題点などを指摘してみたいと思います。
まず天賦人権説ですが簡潔に言えば「天(神様ではない)から人権は与えられたものであり、政府や国家ごときが制限ないし抑圧して良いものではない」と考える説かと思います。
もしくはア・プリオリな概念とも表現されます。ア・プリオリとは「経験の前に存在する原理」とされておりまして、強いて別の表現をするのならば「本能として自明であること」でありましょうか。
たとえば生存権は生物としての本能から求められるものであり、「生存権を保証するというのは自明である」という議論からスタートすることになろうかと思います。
つぎに国賦人権説ですが、これは国家が人権を保証するのだという議論になります。この議論の要点はおそらく、人間は社会的生物であり、したがって共同体を自然に形成する。その最大単位が国家であるから、国家と便宜上表現しているけれども、共同体によってこそ人権というのは保証されるものだという議論です。
ただしこの国賦人権説は弱点もありまして、つまりはその共同体が人権を制限する決定をしたときに、その共同体の構成員はそれを受け入れなければならない、という議論に発展しかねないところです。とくに右派的価値観によると。
というか現在の日本においてはリベラル・ナショナリズムの議論ではなく、国家が権威を持って的な「与える側と与えられる側」という議論になりがちです。
2つの人権に関する説をご紹介したところで、それぞれの問題点を述べてみたいと思います。
まず天賦人権説からですが、形而上の概念としては非常に良く出来ていると私は考えます。しかし実際の人権の保証という形而下で考えるときに、それを保証する主体が国家ないし共同体しかない、ということは現段階では自明でしょう。
つまりプラトンのイデア論のような話になってしまっておりまして、形而上として存在はするけれども、形而下としてはその存在が非常に儚い、ないし他の方法でないと存在させられないという話になってしまうんじゃないか?と思います。
つまり完全な正三角形は存在しない、というわけです。
補足:イデア論によると概念としての正三角形は存在するが、では現実的に図面に完全な正三角形は存在するのか?と問うた説話。
一点補足しておきますと、形而上の話が形而下で矛盾が生じるからといって、それは形而上の話が否定されるわけではないということ。「天が与えた」という表現がまずければ、「人間の本来性、神性や道徳によって与えられた」としても良いわけですから。
概念として完全な正三角形は存在するのですから。現実の図面には存在しないとしても。
逆に国賦人権説は現実の民主政治との兼ね合いや、共同体の議論とは噛み合うのですけれども、形而上の概念としては不完全性が否定できない点に問題があるでしょう。
つまり人権という概念を形而下に引きずり下ろしすぎて、俗なものにしてしまっているとも表現可能です。
少なくとも形而上の概念としての人権という議論においては、天賦人権説のほうに軍配が上がるのでは?と私は判断しております。
ちなみに国賦人権説が権威主義と結びつくと、途端に胡散臭いものになるというのも事実です。
天賦人権説をとりつつも、リベラル・ナショナリズムの議論は可能か?
私はリベラル・ナショナリズムという議論を支持しておりますが、これは天賦人権説をとりつつ論じることが可能かどうか?について検討してみたいと思います。
まずリベラル・ナショナリズムの議論とはなにか?日本語に訳せば「自由主義・共同体主義(ないし国民意識、ないし国家主義)」とでも訳せばよいでしょうか?
つまり今までは天賦人権説に則って「人権は天から与えられたもの」であるから、「国家は人権を阻害、抑圧してはならない」という「個人vs国家」という構図で議論が展開されることが多かったわけです。
この場合の自由主義(リベラリズム)は表現の自由などを含む人権を保証することでありますね。
しかし近代が始まって人権という概念がかなり浸透をして、ある意味で自生的秩序の一角を担うようになっている状況において「個人vs国家」という議論はやや古びてきているのではないか?とも感じます。
むしろ人間は社会的生物であり、どうしたって社会を形成しなければならないし、共同体だって形成するでしょう。その最大単位が国家であると言うだけの話であるとすれば、共同体意識と天賦人権説は必ずしも矛盾しないのではないか?
むしろ共同体意識、いわば「チームジャパン」という意識はむしろ天賦人権説が「天」と表現するもの、人間の本来性や神性、道徳などを高める働きがあり、共同体であるからこそ「天」が存在する、ないし高められるのではないか?とも解釈可能です。
つまり天賦人権説が過去にとっていたような「個人vs国家」という二元論的な話ではなく、循環論的な話として人権を捉えようというのがリベラル・ナショナリズムの議論であると言えます。
補足
天賦人権説でよく誤解されがちなのが、「天=神様」というものです。しかし天賦人権説は自然権思想をそのように訳しただけであって、むしろフーゴーやグローティウスなどの自然権思想の大古典はどちらかと言うと、人間の理性重視の思想と言えるでしょう。
なにせルソーの社会契約論に影響を受けているのは間違いなくて、それは今まで自明とされてきた共同体や国家といったものを一旦取り払った自然状態というものを想定してみて、そこから理性によって推論されたものなのですから。
その意味で左派が天賦人権説を擁護するのは割と当然な話なのですね。
しかし右派においても天賦人権説は(議論では否定しても実経験と日常において)あまり否定できたものでもなくて、すでに自生的な秩序の中に組み込まれていると考えて良いんじゃないかと私は考えています。
そして私は議論としては、「天から与えられる」「国から与えられる」といった話ではなく、また形而上としては自然権思想は偉大であると確信しているものの、形而下としては(完全な正三角形は存在しいのだから)、リベラル・ナショナリズムの議論がしっくり来るわけです。
リベラル・ナショナリズムの議論につきましては、詳細はまたの機会に譲ろうと思います。
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