絶望が足りないという楽観論について | 反新自由主義・反グローバリズム コテヤン基地

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皆様、絶望したことがありますか?

 十代などならともかくとして、それなりに長く生きている人は絶望という感情を味わったことがあるかと思います。失恋、生活、自身の個人的問題、身体、仕事、家庭などがその理由だったりするでしょうか。

 心が落ち込んで何も手に付かない、手につけても上の空で作業的に繰り返すだけ、なんていう状態になってしまったりとかね。

 絶望という感情をどのように定義するのか?というのは非常に難しいのですけれども、そのような状態から精神がどのように回復していくのか?というのは、誰しも経験はあると思います。

 

 まず「絶望」とは現実的に「希望(選択肢)がない」という状態でしょう。その事柄に関して「自身が選択できることは何もない状態」と捉えても良いかもしれません。

 とするとその状態から精神が回復していくには、「選択肢がないということを受け入れる、諦める」という自己の肯定作業が必要になってきます。

 1つ個人的な話をするのならば、私はゲイというセクシャリティを十代の早い頃に気づきまして、それはまぁ、それなりには絶望しました。特に1990年代でしたからインターネットもない、情報もない、ゲイ雑誌も殆ど見かけない、ゲイタレントもいない。ま、とにかく情報がない以上、自分にどのような選択肢があるかすら判断ができないのは必然でしょう。

 いくら自身の中で何か答えを探そうとしても、情報がない以上は見つかるはずもないというのもまた当然。簡潔にいえばあまり楽しい青春時代としての十代ではなかったように思います。

 自身が自身を受け入れたのが20歳になった頃であり、それは自身がそういうものであると肯定した瞬間でもあります。選択肢がないという選択を受け入れた、とでも申しましょうか。

 ・・・まあ20歳以降の数年間は、性的な意味で乱れ咲いたという話は、聞いても楽しくないでしょうから脇においておいて(笑)

 

 ただしお断りしておくと、自身のことを受け入れるというのは特段、私のようなゲイに限った悩みではなく、例えば自身のルックスや性格、性質、もしくは環境などで「受け入れがたい」と感じる人達もいくらかはいるはずで、特別な悩みであったのかどうか?は、じつはノンケになったことがないので、私にはわかりません。今では「特段、特別な悩みではなかったのかもしれない」とすら思っていますが、分からないが正確なところです。

 

 さて、以上のようにつらつらと自身の経験をもとに「絶望」というものを考えると、人は選択肢がない時に絶望するんじゃねーの?と思うわけです。選択肢がない以上、現実として肯定し、受け入れ、諦めるしか方法はないのでしょう。

 失恋などはまさに、そーいう話でありますね。相手にフラれた以上、どーしようもないという。

どこかの社長の決まり文句は必要ない

 絶望という感情が形而下的には「選択肢のない状態で起こること」とするのならば、「絶望が足りない」という主張は「選択肢がないことを自覚しなさい」という話か、もしくは「選択肢がありすぎるからダメなんだ!」という話かの何れかでしょう。

 

 もし「選択肢がない状況が絶望を生みだす」のであれば、「現実としてそれを自覚していない」というのは確かに困った話でありますけれども、一方で「絶望が足りない」と言っている側は「選択肢がない」と思っているのですから、そもそも論として、なら言論活動をする必要すら見いだせないでしょう。とすると、これはおかしな話です。選択肢がないのなら、言論活動において何かを変えることは不可能であり、つまりはその意義が見いだせません。

 なのでこの解釈は却下せざるを得ない。

 

 とすると後者の「選択肢がありすぎるからダメなんだ!」というのが「絶望が足りない!」という決まり文句の真意なのか?というと、どうもそれも異なる気がします。選択肢はあればあるだけ良いに決まっております。

 

 もう1つの可能性は「絶望の中で苦悩して、ニーチェの言うような超人になりなさい!」という啓蒙主義的な発想。キルケゴールはそれを”真の自己”と表現しましたし、ニーチェは”超人”と表現しました。

 偉大な哲学者2人に真っ向から反論するようで心苦しいのですけれども、真の自己やら超人が存在するとしても私含めて誰しもがなれるわけではありませんし、なりたいとも思わないし、出来れば「絶望が絶望を呼ぶ中で真の自己にいたる」なんて状況も勘弁してほしいところです(笑)

 恐らく水島社長はこの解釈、つまり「真の自己に至ろう!」「絶望の中で真の自己を発見しよう」という意味で「絶望が足りない」と主張されているのだと思うのですけれども、これは楽観論でしょう。どう考えても。人間の性質なんて歴史を見ても、そう簡単に変わるものではないですから、すなわち”真の自己”なり”超人”というものも至る人は勝手に至るし、至らない大多数の私を含めた人は至らない。

 啓蒙活動をしたくらいでその数が上下するなんてことは、殆どありえないと思うのですけれども。つまりは言論活動においてそれが増えると思うこと、それ自体が楽観論であると解釈可能ではないか?と思うわけです。

悲観的なシナリオを私が描くわけ

 上述した通り「絶望が足りない!」という主張は楽観論ではないか?と私は解釈しております。私はそれなりに十代の時に絶望してみたはずですが、超人に至ったなんてことはないですし(笑)

 

 ではなぜ私は悲観的なシナリオ、ストーリーを記事にて言及するのか?ですが、端的に申し上げると「危機感を煽るため」であります。「悲観的」と形容しましたが、私自身は内容的には「十二分にありえるシナリオ」として提示しているつもりで、あまり脚色や事実と異なることを書いているつもりはありません。

 ただし商売人である私の悪い癖で、常に「最悪の可能性を真っ先に想定する」というものがありまして、この影響を受けているのは間違いありませんが。

 

 絶望とはそもそも「選択肢がない状況」でありますので、絶望する状況になってから絶望してもまあ、大概は遅いわけです。足りるか足りないか?ではなく「遅い」。

 ならば絶望する前に危機感を持って、絶望しない状況、つまりは選択肢が残されている状況にコントロールするほうがよっぽど建設的なんじゃないでしょうか?

 これもまた難しい話ではあるのです。平時において危機管理というのは甘くなりますし、人間の性で「この平和は続くはず」と思いたいというのもありますし。

 しかし危機管理、安全保障の話である以上は論理である程度、いろいろな人に周知が出来るというのは間違いないでしょう。

 少なくとも「絶望が足りない!」と叱って、超人、真の自己を生み出そうとするよりは幾分かは可能性があるはずです。

 

 というわけで「絶望しないように、危機感を持っていろいろしようぜ!」というのが、私の悲観的シナリオの根源だったりします。絶望してからじゃ、遅いんじゃね?と。

P.S

 今日の進撃の庶民への本日の寄稿、これもまた小説形式を取っておりますが「かなり悲観的にすぎるんじゃ?」という内容です。ええ、私自身もそう思わないでもありません(笑)

 しかし最悪に備えておけば、最悪以外の未来が来たときには喜べますしお寿司。

 「最悪に備えよ、それこそが災厄を招かない唯一の術である」とは誰がいった言葉だったか・・・・・・・・・・・。ええ、私がいま思いついた言葉です(笑)

 

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本日の男の料理 キャベツの胡麻和え

 最近は自炊でも簡単なものしか作っていません。そしてなぜか玄米食になりました。画像の左上がキャベツの胡麻和え。その横がセロリと新玉ねぎのサラダ、下段の左からアジの開き、玄米ご飯、豆腐と大根とわかめの味噌汁。画像に載ってませんが納豆と生卵を混ぜたものもこの日のメニューでした。ウマウマ。

 こーいう質素(?)な和食が落ち着く最近です。

材料

  • キャベツ
  • すり胡麻
  • 胡麻ペースト
  • 醤油
  • みりん

調理手順

  1. キャベツはざく切りにして、茹で汁に塩をひとつまみ入れて茹でます。茹ですぎないように。
  2. ザルにあげて水で粗熱を取って絞り、ボールに入れてすり胡麻をぶっかけます。
  3. 胡麻ペースト、醤油、みりんを混ぜてタレを作って、ボールで2と混ぜれば出来上がり!

 蒸鶏などを入れても美味しいと思います。

 

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