「グローバリズムは不可避説」は本当だったのか?(3) | 反新自由主義・反グローバリズム コテヤン基地

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経済史から見たグローバリズムと経済学

 グローバリズムは不可避であったのか?ということを検証する場合に、政治、国際情勢、技術的要因などを検討してきましたが、経済学という大きな要素を外すことは不可能でしょう。経済学の3つの潮流についてさっと大まかな説明をしたあとに、グローバリズムが広まり始めた1980年代に何が起きていたのか?なぜ1970年代に経済学におけるパラダイムシフトが起きたのか?を見ていきたいと思います。

 

 経済学は「ケインズ」「マルクス」「新古典派(新自由主義)」の3つに分類されます。先にそれぞれがどのような道筋を辿ってどのように扱われてきたか?だけ述べておきましょう。

 新古典派経済学はその名の通り「古典派経済学」の流れを引き継いでおり、古くは市場における経済自由主義を重視します。1945年の第二次世界大戦の終戦後には、第一次グローバリズムによる各国間の関係の悪化などの反省により一度は放棄されるわけですが、1970年という四半世紀にも満たない時間でまたもアメリカに採用される運びとなったわけです。

 1945年当時にアメリカやイギリスなどが主導して世界のレジームに組み込んだのがケインズ経済学です。これは景気の循環における政府の役割、つまり不景気には公共事業などで歳出を拡大して失業率などを改善し、好景気には歳出の削減で行き過ぎたインフレを抑制するというものでありました。

 ではマルクス経済学は?というと派生したのはイギリスの産業革命当時の第一次グローバリズムに端を発し、資本家による労働者の搾取という観点から共産主義を唱えたものとされております。

※共産主義と社会主義には「私有財産を認めるか否か?」という違いがありますけれども、マルクス自身がこの当時はこの2つを曖昧に使用していたようです。

 マルクス経済学はご存知の通り、1991年のソビエト崩壊と共にその勢力は減退し、今では学ぶものはほとんどいないというのが実情でありましょう。

 

 整理しますと1945年までは古典派経済学(後の新古典派経済学の祖)が、グローバリズムの弊害というものが知られていなかったので採用されていたが、1945年に2回の世界大戦を経てその反省から西側陣営はケインズ経済学、東側陣営はマルクス経済学を採用した。しかし西側陣営は1973年からの石油ショック、ニクソンショック、もしくはインフレ退治のために新古典派経済学を採用してケインズ経済学を捨て去り、東側陣営は体制そのものが1991年に崩壊してマルクス経済学は忘れ去られたという流れになります。

 本日はおもに1970年代になぜケインズ経済学が敗れ去り、新古典派経済学が再び台頭してきたのか?について考察をしようと思います。

1970年代の状況

 最初に新古典派経済学を採用したのはアメリカのレーガン、イギリスのサッチャーであったわけですが、その理由は明快に「当時、イギリスもアメリカもインフレに悩んでいたから」です。ではなぜ悪性のインフレが起きたのか?というと石油ショックが大きな原因であると考えられます。これは中東の戦争などが主な原因であり、内生的な経済運営が原因であったとはいい難いでしょう。

 しかし外的要因である石油ショックによる悪性なインフレは経済学の世界では違う捉え方をされました。つまりケインズ経済学にはこの悪性インフレに対処する手段がないと考えられたのです。こうしてミルトン・フリードマン率いる新古典派経済学が台頭するわけですけれども、これは明らかに「学問としての正当性の議論がなされた」というよりは「イデオロギー的な勢力争いにケインズ経済学が負けた」という話になります。

 なぜならば悪性インフレの大きな原因は外的である、実のところは新古典派経済学にしても有効な対処法を示せたわけではなかった。よしんばインフレ退治として一定の効果があったと百歩譲っても、その後の格差拡大や世界の経済成長率の鈍化、減少というのは統計上も明らかであり、むしろ長期的に見るならば弊害のほうが大きいのは現在から見れば明らかであったからです。

 

 つまり学問的な正当性、もしくは優劣でパラダイムシフトが行われたわけではない、ということは明記するべきでしょう。そしてそのパラダイムシフトには様々な要素が絡まり合っていたことも確かです。

新古典派経済学とケインズ経済学

 大雑把に申し上げますと新古典派経済学というのは大資本、グローバル企業に大変に都合のよい理論を述べる経済学であるといえます。本質的に「市場は均衡する」「従って政府の介入は最小限にするべきだ」「つまりは小さな政府が望ましい」という筋立ては表現を変えるのならば「政府や政治での弱者保護を弱体化し、市場原理による弱肉強食を目指すべきだ」ということとほとんど同一であるのです。

 この方針で得をするのは誰か?というと資本を持っているものや大企業、金融家などであり、必然的に大半の庶民や国民は自由競争という美名のもとに格差を強いられるということになります。

 有名なトマ・ピケティのr(資本収益率)>g(経済成長率)という式ですが、これは「野放図な自由競争と資本主義は格差を拡大し続ける」と統計上の事実から示したものです。現実にはトリクルダウン、つまり誰かがも受けたらその恩恵は庶民にまで滴り落ちるという現象は起きなかったし、世界中の1980年代以降とそれ以前の統計を比べれば格差拡大、経済成長率の鈍化というのは事実であるのです。

 

 ケインズ経済学はどのような方向性を持っているのか?というと、大雑把に申し上げれば新古典派経済学の自由競争主義とマルクス経済学の統制主義の中間に位置すると考えて良いでしょう。端的にいえば不景気のときには失業率や所得、こういったものに注目しながら政府が財政出動で市場に需要を創出して景気を上向かせる。そして景気の良いときには政府は歳出削減で市場の自由を尊重する、というようなものです。つまりは政治が経済に対して一定の関与をするというのがケインズ経済学であるといえます。

 

 戦後のわずか四半世紀の間に、規制が強化された金融や資本、そういったものが新古典派経済学に飛びついたのはいうまでもありません。そしてその大義名分となったのが外的要因である石油ショックとそれに伴う悪性インフレであった。このどちらの経済学でも解決しがたい問題をケインズ経済学の不完全さという指摘にすり替え、勢力争いの結果、世界中に新古典派経済学、つまりは新自由主義とグローバリズムが蔓延ることとなったといえます。

 加えて1991年のソビエト崩壊により共産主義は崩れ去り、資本主義の勝利といわれたわけですけれども、1980年代以前の西側陣営の資本主義はそれ以降の資本主義とは全く異なっていた。つまりは資本主義が勝利するというときには、その内容を大きく変質させていたといえましょう。

※1980年代までの西側陣営の経済政策も、じつは統制経済であったといえます。

 

 しかし世界的に新自由主義・グローバリズムの問題が明確になっていくのは2008年まで待たねばならなかったわけですが、この時間差には「ケインズ経済学で築き上げた富が、皮肉にも新自由主義経済学の問題の発現を遅らせた」ということが原因として存在します。

 なんのことはない、新自由主義経済学はそれまでに富を食いつぶしてのさばっていたというわけでしょう。そのせいもあり2000年~2008年までは新自由主義の黄金期とも呼ばれており、ご紹介したルーカスなどが2003年に「もはや恐慌は起こらない。経済学はその問題を完全に解決した」などという楽観的な論が蔓延するわけです。

 こうして辿っていくと、経済学のパラダイムシフトとこの新古典派経済学の楽観論の罪悪というのがいかに凄まじいか?がご理解いただけると思います。

 グローバリズムの蔓延には国際情勢、政治力学も大いに関係してきますが、しかしグローバリズムに経済”学”というお墨付きと権威を与えたという意味では、まさに派閥としては勢力を伸ばしたが学問としては死んだとすら、経済学を形容できます。

ノーテンキな日本の経済学界隈

 日本の経済学に焦点を当てますと、じつは戦前の日本の経済運営というのは経済の本質を常識的に捉えていた面がかなりあると思います。高橋是清などはその代表例でありまして、ケインズ経済学が確立する前から、それと同様の経済運営をしておりました。もしくはアメリカのニューディール政策も同様でしょう。

 ここで重要なのは経済学というものがなくても、経済は存在するしその本質を見極めることも可能であったということでしょう。経済が人の営みである以上、多くの前提条件を必要とする経済学の理論よりも、実践知が経済運営には必要であると思われます。

 

 しかし戦後日本というのはいわゆる対米従属、対米追従でありましてアメリカで新古典派が流行ったら日本もそれに倣うという、一種の思考停止状態であったわけです。その証拠に1990年代、もしくは2000年からそれまでうまくいっていた日本式経営を何のためらいもなく捨て去り、グローバルスタンダードとやらの流行ものに飛びついたのがその証左でしょう。さらにそれを後押ししたのは、アメリカに倣うだけの経済学であったといえます。

総論としてグローバリズムは不可避であったのか?

 この総論を述べる際にこのような例えを持ち出したいと思います。「イジメが蔓延するクラスで、イジメに加わること、もしくはいじめられっ子を助けられないことは不可避か?」

 多くの人は「なんとか問題を解決するべきだろう!」「イジメられている子に手を差し伸べるべきだ!」などの見解を持つでしょう。

 藤井聡さんの「凡庸という悪魔」というご著書では、ハンナ・アーレントと全体主義について言及しているのですが、このご著書によると「全体主義とイジメとはほとんど似ている」のだそうです。実際に上述したような状況、つまりクラスにイジメが蔓延っているような状況では多くの人が見て見ぬふりをし、そして思考停止に陥るというのは事実でしょう。学校で例えましたが、大人の世界にだって理不尽なイジメは存在しますが、ではそれに対してどのような行動を取ったのか?というと、多くは思考停止に陥り見過ごす、遠巻きに眺めるだけ、かかわらないなどだと思います。

 これを「不可避である」と思うのであれば、グローバリズムの蔓延も不可避であったといえるでしょうし、「解決するべきだ」「立ち向かうべきだ」と思うのであればグローバリズムの蔓延は不可避ではなかったといえるでしょう。

 

 なぜか?私はグローバリズムというものが全体主義的性格を強く帯びていると判断するからです。ざっくばらんな表現でいうのならばケインズ経済学を意味のない理由でイジメ倒し、大資本、金融家、グローバル企業に擦り寄り、その資本はロビイストをつかって、ないし日本では民間議員として自分たちに都合のよい政策を立案して庶民をイジメ倒す。その結果がたとえばアメリカやドイツにおける「30年間上がらないボトム9割の所得」であり、日本の「国民の所得がどんどん下がっていくデフレ」だったのであります。

 しかも2000年~2008年のリーマン・ショックまでの間は「グローバリズムは不可避だ」「グローバルスタンダードが正しいのだ」という言説に異を唱えようものならば、それに耳を傾けないどころか無視をするというのは、金融不安定性仮説を唱えたハイマン・ミンスキーが経済学界隈で異端扱いを受けていた、無視されていた事実からも明らかでしょう。

 つまりは「グローバリズム・全体主義」「新自由主義・全体主義」とでもいえる状況が発生していたわけです。

 多くの人に「ナチズム・全体主義」はドイツにおいて不可避であったか?と質問すれば「いや、避けるべきであった」と答えるように、歴史的に起こってしまったことを「不可避であったからしょうがない」と断じるのは思考停止の極みでしょう。

 このように考えていくと、私は断じて「グローバリズムは不可避であった」という言説に組することはできないし、その主張が正当とも到底思えないわけです。

 

 そして藤井聡さんは「凡庸という悪魔」という著作の中において「全体主義は必ずや破滅的な結末を迎え破綻する」と書いておられますが、これは裏を返せば「破綻するまで全体主義というのは一度進行すると継続する」という意味でもあります。そしてそれは2008年のリーマン・ショックであったということです。

 ただし注意する点としては、1つの全体主義が、この場合は「グローバリズム・全体主義」が破綻したからといって健全に戻るという保証はどこにもなくて、また別の全体主義が台頭する可能性は存在するということです。

 それはあたかもイジメっ子が、また別のイジメの対象を探すようなものでしょう。

 

 このどうしようもない「全体主義」という人間の負の側面に対抗するためには、道徳や常識、それを育む伝統や文化といった「ちゃんとした保守思想」ないし「人間に通常備わっている判断力や美徳」といったものが重要となるでしょう。

 そして残念なことに日本においては「いわゆる保守」「主流派の保守(っぽい何か)」には保守思想も常識的な判断も思考もできなかったからこそ、1990年代に諸手を挙げてグローバリズムを礼賛したというわけです。これは世界的にみてもそうであったかもしれない。

 とするのならばグローバリズムがこれだけ蔓延したのは、保守思想そのものではなく保守といわれている知識人、有識者、言論人、メディアなどの劣化、つまりは知的エリートたちの知的劣化こそが原因であったのかもしれません。

 

 明日は世界の現状と日本の現状を描いて、どうしたら良いのか?という議論を展開して、このお題を締めくくりたいと思います。

 

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本日の男の料理 和風ペペロンチーノ

 今日は和風のペペロンチーノ。

材料

  • スパゲティ
  • にんにく
  • 鷹の爪
  • ベーコン
  • 野菜の具材(キャベツ、しいたけ、しめじなどなんでも)
  • アンチョビ
  • オリーブオイル
  • 胡椒
  • 薄口醤油

調理手順

  1. ベーコン、野菜はカット。にんにくは薄くスライス。鷹の爪は輪切りにします。
  2. スパゲティを茹でます。塩多め。
  3. オリーブオイルをフライパンに敷いて弱火。にんにくを入れて香りが移ったらアンチョビ、鷹の爪、ベーコンを入れて炒め、野菜を入れます。
  4. スパゲティの茹で汁をお玉で1杯いれて混ぜて乳化させ、塩少々、胡椒、薄口醤油で味を整え、茹で上がったスパゲティを入れたら火を止めて混ぜて完成。

 スパゲティは湯で時間がおおよそ袋に記載されているもので7分程度かと思いますが、1分短めにすることで食卓に上がる頃にちょうどよい茹で加減になります。

 

P.S

 毎週水曜日は筋トレがオフなので「どうせ朝に時間があるからいっか」と、前日に記事を用意するのを怠けていました(笑)んで「30分位で書けるやろ、多分」と思ってたのですが1時間半、書くのにかかったのは秘密(汗)

 

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