人権と自然権、テーゼとアンチテーゼ | 反新自由主義・反グローバリズム コテヤン基地

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自然権と自然法の簡単な変遷と要約

 自然権とはなにか?といいますと「人間が生まれながらに与えられた権利が存在する」という考え方でありまして、主に近代以降に広がったと一般的にはされておりますが、たとえば古代ギリシャやもしくはキリスト教などの一部にもその考え方に近いものがあったことが認められているそうです。通説としては近代のような自然権、自然法が重視されるようになったのはルソーの社会契約論が契機となったと見るのが一般的でしょう。

 では社会契約論とは何か?というと端的にいえば自然状態(要するに完全な個人、孤立した状態)を想定したときに、個人は生存のための障害を取り除くために個人の自由意志で協力しあい、契約し、共同体となりそれが国家となったという論です。上記の論に従っていえば個人の自由意志という自然権を保持した状態で契約をしたのだから、国家はこの自然権を守らなければならないというのがおおよその考え方のようです。

 自然権=基本的人権と要約したほうがわかりやすく、生命、自由、財産、健康などの権利を総称してそのように呼ぶようです。

※現在ルソーの社会契約論は読みかけですので、解釈が間違っているところがもしかしたらあるかもしれません(汗)

 

 この基本的人権(とここからは書きます。自然権)の生命、自由、財産、健康ですがこれは国家によっても不可侵である、とするのが近代の自然権の考え方でしょう。アメリカなどでは国民は政府にたいする抵抗権を保持していると解するのが一般的なようで、だからアメリカは銃の所持が比較的簡略に認められるのだそうです。

 しかしここに注意が1つ必要で、この自然権という思想そのものは欧州を中心に発達した概念であり、ルソーによると「自然状態で孤立している個人が”生存の障害を取り除くために”協力ないし契約していった」としていることです。

 とするのならばその優先順位や性質は地域によってちがうのかもしれない、ということがいえます。たとえば日本においては災害大国であることは、自然権が生存のためのものだとするのならば災害のときに自由を著しく毀損しても全体の生存を優先させるということが起こり得るからです。

 また日本では銃の所持は基本的には認められておりませんが、これは抵抗権という自由よりも銃の所持により懸念される犯罪発生の抑止、つまり生命の侵害抑止を優先させていると解釈が可能ではないでしょうか。

 経済関係でわかりやすくいいますと新自由主義は「小さな政府」を私的財産の侵害阻止のためとして、ときどき言い訳に持ち出してきます。しかし「小さな政府」は確かに私的財産の侵害を最低限にするものの、再分配機能が働かずに格差が広がり結果的には著しく生命、自由、健康を侵害する可能性が高い。

 つまり本来国家は自然権を尊重し守らなければならないとされますが、あちらを立てればこちらが立たずという状態があり得る場合には、いわゆる一般意志によって何を優先するのか?何を後回しにするのか?という裁量が国家及び国民には存在するということになります。そしてこの裁量というのは存外大きいはずです。

テーゼとアンチテーゼと弁証法

 テーゼとアンチテーゼは聞きかじった程度なのですが確かヘーゲル(だったか?自信がないので間違っていたら指摘をしてください)が歴史はテーゼとアンチテーゼの間を行ったり来たりしながら、より良いものを選び取っていくとしたようです。(もしかしたらそれを私に聞かせた人の独自解釈かも)現在でいえばグローバリズムがもてはやされていた時代は終わり、しかし過去の歴史からファシズムや独裁は否定されている。従ってファシズムや独裁にならない範囲でグローバリズムにたいするアンチテーゼが提出されて、そちらに振れてまた問題点が出てきたらそれに対してアンチテーゼが提出され、より良い方向に絞られていく的な感じですね。

 もう少し専門的にいうとテーゼに対してアンチテーゼが提出され、議論する中でより高度なジンテーゼ(統合命題)が導き出される、このジンテーゼに対して新たなアンチテーゼが提出されて、さらに高度なジンテーゼが導き出されるというのを歴史と解釈したのかもしれません。

※あくまで聞きかじった程度ですので、ヘーゲルがこの解釈をしたのかどうか?はわかりません。聞かせてくれた人がそういう解釈をしていただけの可能性が大きいかも。

 

 これは一見して説得力のある歴史観のように思えますが、私はじつはあまり納得ができておりません(笑)というのもヘーゲル自身がこのように言っているからです。

 「我々が歴史から学ぶことは、人間は決して歴史から学ばないということだ。」

 

 上記はじつは私、至言だと思っております。第二次世界大戦の大きな要因の1つはグローバリズムによる利害の衝突でしょう。決して市場は見えざる神の手などによって調整はされなかったどころか、金融危機と長引く不況によって各国は自国優先の度合いを高めていき、国際関係としては遠心力が働き、従って衝突があらゆるところで起きたというわけです。

 ところが少なくともソ連の崩壊した1990年代から世界はまた懲りずにグローバリズムに走ったわけですね。つまり世界各国のエリートもまた歴史から学ばなかったと私には見えます。

 端的にいえば第二次世界大戦の後にジンテーゼとしてグローバリズムを抑制しようとした体制は、わずか45年程度しか続かなかった。統合命題から退化したと解釈可能でしょう。

自然権とグローバリズムと国家

 最初に論じたとおりにルソーによると基本的人権とはその国家を形成した国民と国家の契約によって成り立っているとされます。とするのならば国家を融解しかねないグローバリズムとは、じつは人権という概念すら融解させるといえはしませんでしょうか?

 さらに基本的人権は生命、自由、財産、健康の4つの概念が互いに矛盾し合う状況があり得るとも書きました。つまりどちらを優先するのか?を民主制国家であれば国民及び国家として決定しなければならないし、そしてその裁量の範囲というのは存外大きい。従って自然権というものは「存在している」としたほうが便利ではあるけれども、その共同体によって様々な裁量と状況と歴史で変化し、全く異なるものに見える場合もありえるわけです。

 つまり自然権という考え方自体は良いとしても、それは風土、歴史、慣習、伝統などによって「何が優先されるのか?適しているか?」で形態が著しく異なって形成されることがありえる、従ってわかりやすくいえば「人権とは国家によって保証される」と解釈するほうがストンと落ちるというのが私の解釈です。

 ルソー的にいえば「(国家の)一般意志によってその運用が著しく異なる」とでもいうべきでしょうか。

 ヘーゲル的にいえば「風土というテーゼと自然権というアンチテーゼのジンテーゼ(統合命題)として、長い時間をかけて慣習や伝統などのかたちで残った」というふうに解釈可能でしょうか。ヘーゲル自身が「人は歴史に学ばない」と言っちゃってますから、このような物言いになると想像します(笑)

 

 とするとさきほど書いた通り、グローバリズムとは共同体、国家、民主制、伝統、文化、慣習などを破壊していく行為であり、いわば合理的経済人なる画一的なフィクションのモデルを現実に押し付けようという、ある意味で左翼的合理主義的な考え方でありますから、彼らが自然権の一部の「自由」に着目した理由も納得でしょう。

 つまりは自然権の中の(消極的、縛られない)自由を「絶対的善」と位置づけて「お前は自由を侵害するのか!」と反論を封じてきたというわけです。印象論でかけばソ連のスターリンを同志と呼びながら、絶対的独裁者にしたあの歪みに似てますね。

P.S 人間という存在

 人間という存在はあまりうまく割り切れるような、単純なものではないのでしょうね。前に記事で「複雑な現実を、面倒くさいので単純化するのが人間」というようなことを書きましたが、これは「どれが善で悪かなかなか難しいから、どこかに絶対善を想定する」という行為も同様なのだと思います。自然権は私からすると尊重するべき考え方の1つでありますけれども・・・というかゲイである私にとっては非常によろしい考え方であります(笑)なにせ「自然権!」といっておけば、大抵の反論は封じられそうな気がしますもの(無敵感)

 と言うのは冗談として(笑)しかし記事で書いたように、考えていくと「やっぱり国家にこそ人権を保証する責務と仕組みがあるんじゃねーか?」というところに行きつくわけです。国家には国民が含まれますから、要するにその国家の人権がどのように保証されるのか?は国民自身が求めなければならないものでもあるわけです。

 

 よく私はやや冗談も含めて「イスラム教の国家に生まれなくてよかった」と書きますが、イスラム教国家のゲイには同情をしますし私だったら多分自殺するか革命家にでもなるか、もしくは亡命や海外移住という選択肢になっていたかもしれません。しかし宗教と伝統の話はややこしく、軽々に他国に口をだすべきではないというのもまた事実でありましょう。アラブの春で民主制になったはずの諸々の国家が、結局は民主制を維持できなかったというのは記憶にあたらしいところです。近代的な価値観が全てにおいてうまくいくというわけではない、という良い例です。

 我が国もどこの外国だか知りませんけど「捕鯨をするな!ホゲー!」とかいっていちゃもんを付けられておりますし、または男女平等が進んでいない!ともなんだかいわれておりますけれども、生理学的、脳科学的にも男と女はかなり異なるのだからそれぞれの役割分担があってもよいのではなかろうか?とも思うわけですね。平等という概念は時に悪い結果や不幸だって生みだすわけです。機会の平等というのは必要でしょうけれども。

 たとえばですが消防士の半分が女性だとしたら、その社会はなんて男のだらしがない社会だろうと思ってしまいませんかね?(笑)あとやっぱり体力的に不安でしょうし。

 男女平等という近代的価値観すら「この程度」でありますから、自然権についても絶対視してしまうのは危険というものと思っておりまして、ありのままに人間を見つめようと努めているわけですけれども、どうも複雑すぎて矛盾に満ちて、大衆的にアホなところもあれば、心温まる良いところもあるという非常に厄介な存在が人間なのであります。

 その矛盾に満ちた存在が政治をしているのだから、政治だって矛盾に満ちたものになるのは間違いがありません。あまりよろしくない時代でありますけれども、少しでもよくしたいと思うのならば、やはり己自身がまずは思考停止しないことこそが大切なのではなかろうか?などという凡庸な結論で本日はお終い。あと考えたことを発信することも重要な気が(笑)

 

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本日の男の料理 ほうれん草の梅肉和え

 ほうれん草の梅肉和えは簡単、酒のツマミにもなる、ご飯も進むと三拍子そろったお料理です。さらに簡単にするために、本日は麺つゆを使ってレシピにしますよっと。

材料

  • ほうれん草
  • 梅干し
  • 麺つゆ(ストレートタイプ)

調理手順

  1. ほうれん草は塩少々を加えて茹でます。根っこから入れて30秒弱、シナっとしたら葉も入れて30秒ほどと少し固めに茹でましょう。目安は茹で鍋からほうれん草の香りがしてきたらOK。
  2. 梅干しは叩きます。ほうれん草は茹でたら水にさらして絞ってカット。根っこも縦にスライスしてやると美味しく食べられます。
  3. 2をボールに入れて麺つゆ少々、和えたら出来上がり!

 麺つゆを使わない場合は鰹出汁、醤油、みりん少々で味付けしましょう。あっさりとして、熱くなってきた最近の気候にピッタリのレシピですよっと。

 

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