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ブックダイアリー(中年男おたく的読書日記)

読書好きの私が、毎日の読書の進み具合や感想をブログにします。ただしおたく的読書なので、今の小説の話はほとんどありません。昔、世界文学全集や日本文学全集に親しんだ方、文庫本を読み漁った方は是非ご覧ください。

前々回に私がおもしろいと思う本のキーワードをいくつかあげました。


①歴史  ②昭和(昭和史) ③ギリシャ・ローマ ④長編小説(大河小説) ⑤戦争 ⑥明治 

⑦ルネッサンス ⑧サスペンス ⑨中国現代史  ⑩ロシア  ⑪文豪 ・・・・


さてこのうちまず①の「歴史」から選んでみたいと思います。

と言っても②昭和、③ギリシャ・ローマ、⑥明治、⑦ルネッサンス、⑨中国現代史 もいずれも歴史関係ですから、それだけ私は歴史が好きな訳です。


さてこれらのうちアトランダムにあげますと、・・・・・。


まずローマ物で感激したのは、辻邦夫の「背教者ユリアヌス」です。この本が出たのは1972年(昭和47年)です。いとこから借りたとても装丁の美しい本で感動して読んだことを覚えています。その叙情性、文体の美しさ、文間からただよう地中海の風、明るさ、そのロマネスク、全てに感動しました。


その後2~3回は読んでおり、今手元にあるのは中公文庫のものです。特にキリスト教側から背教者と批判されるようになる皇帝ユリアヌスがなぜそう呼ばれるようになったのか、なぜ古代ローマの多神教に帰依しようとしたのか、そんな背景が丹念に、その生き方や生い立ちを、作家の創造力を駆使しながら書いています。


この本を読んで、辻邦夫が好きになりましたし、ローマ物も好きになりました。


辻邦夫で好きな歴史物としては他に「春の戴冠」「フーシェ革命暦」があります。


「春の戴冠」はルネッサンス期の芸術家で「春」とかの絵で有名なボッティチェルリを主人公にした小説です。イタリアのフィレンツエが花の都として栄えた15世紀、メチジ家の治世の下、数々の芸術家が輩出されたルネッサンスの時代。主人公ボッティテェルリと彼をめぐる様々な人間模様が絢爛と描かれます。



「フーシェ革命暦」は、フランス革命前期の王政の時代から、ロベスピエールに代表される革命の時代を経て、ナポレオンに至る長きに亘って、時には僧侶として、時にはジャコバン党の政治家として、そして時にはナポレオンの警察長官として変幻自在に生きた謎の人物、フーシェの物語です。

三島由紀夫「豊穣の海」第4巻「天人五衰」を読んでいます。

主人公である本多繁邦はもうすでに78歳で、妻も数年前には他界しています。


人間は年をとればとるほど、現実と非現実の割合においてより非現実の割合が大きくなるようになるのでしょうか。78歳の本多にとっては、現実はもうすでに極めて希薄な、移ろいやすく、霞のかかったようなものになっています。


本多にとってより身近で実体のあるのは、かつての思い出であり、思念であり、愛であり、理想であり、友人清顕の面影です。そのもう既に半分死んでいるような本多が、最後に清顕の生まれ変わりの若者と出会う、というのがこの「天人五衰」の出だしです。


話は違いますが、この「豊穣の海」を通して読んでいると、三島の絶望感がひしひしと感じられます。その絶望とは、何に対しての絶望なのか?


おそらく最も大きいのは、戦後の「昭和」というあり方そのものでしょう。日本の日本たるもの、すなわち日本の美しさが、敗戦後の一億総懺悔の中で、悪しき軍国主義的思想や旧態依然たる階層社会等の諸々の旧弊とともに、根こそぎ洗い流されてしまった、というような意識が強くあったように思います。


戦後の日本の社会に違和感を覚えた日本人はおそらく多くいたでしょうが、三島は、それをとても純粋に、かつデリケートに感じた人だったのではないでしょうか。


それから、「老い」というものに対する思いもあったでしょう。三島の本多に関する描写を読むと、三島の「老い」に対する恐怖のようなものを感じます。「老い」というものをかなりどぎつく描きながら、そのどぎつさに自ら傷ついているような、そんな印象を受けます。


そう考えると、三島の豪華絢爛たる文体や小説、あるいは肉体を鍛え上げるその切羽つまった思いの裏側には、少年時代にそうだったようなか弱い、おばあちゃん子の、傷つきやすい別の三島がいたようにも思われます。


三島は45歳で自決しました。おそらくそれ以上は生きられなかった、老いていく自分を想像することができなかったのでしょう。


私は、すでに三島が死んだ年齢を過ぎてしまいました。もし三島が生きていたら・・・・・。彼はどんな「老い」を生き、そして死んでいったのでしょう。


三島はおそらく一生「仮面」をかぶって生きていたのでしょう。しかしその「仮面」は決して陳腐なものではなく、並の人間には到底できないような美と教養と思想に形づくらえたものです。しかしその一方で「仮面」の裏側に別の人間がいたのも事実で(「仮面」を長くかぶっていると、「仮面」そのものが肉体の一部となり、「仮面」と意識することもなくなるようになるかもしれません)、私この2人の三島に大変興味を持っています。




今日は昼休み本屋に行ってきました。


本当は茂木健一郎の「脳と仮想」という本を探していたのですが、見つかりませんでした。


ただ、茂木の本はいくつかあって、「クオリア降臨」という本にちょっと惹かれましたが買うのはやめました。

しかし、茂木健一郎というのは今人気なのでしょうか?結構本がありました。肝心のやつはありませんでしたが。


代わりに、保阪正康の「「特攻」と日本人」(講談社現代新書)を買ってきました。先日の週刊ブックレビューで辺見じゅんさんが推薦していた本です。


本を買うときにどんな基準で選ぶのか?これはなかなか難しい問題です。私の場合は、新聞や雑誌の書評とか週刊ブックレビューで紹介されたものから自分がをおもしろいと思うものを買いますが、おもしろいと思うかどうかを説明することは案外難しい問題です。


私の場合に、おもしろいと思う場合のキーワードを考えると、以下のようなものでしょうか?


①歴史  ②昭和(昭和史) ③ギリシャ・ローマ ④長編小説(大河小説) ⑤戦争 ⑥明治 

⑦ルネッサンス ⑧サスペンス ⑨中国現代史  ⑩ロシア  ⑪文豪 ・・・・


自分の買う本の範囲はかなり広いように思っていますが、案外整理してみると、いくつかの分類にカテゴライズされるのかもしれません。本棚をみて、分類表をつくってみるのも意外に自分の気づかないことに気づくことになりおもしろいかもしれません。






今日は日曜日です。

日曜日に見るテレビに「週間ブックレビュー」があります。

この番組で紹介される本を時々買ったりします。


今日は女優の岸田今日子さん、映画監督の東陽一さん、詩人の辺見じゅんさんのお奨めの一冊でした。

その中でおもしろいと思ったのは、東さんお奨めの「イン・ヒズ・オウン・サイト ネット巌窟王の電脳日記ワールド 」 (小田嶋隆著)という本でした。インターネットでの日記をまとめた本ということで、まさにこのようなブログそのものです。


東さんは新しい日記文学の可能性ということを話しておられましたが、確かにこういうブログから新しい文学の可能性がみえてくるのかもしれません。でもそれも結局は淘汰に淘汰を重ねて、本当にいいものだけが残っていくことになるのでしょうが。


そういえば先週の「週刊ブックレビュー」でも、コラムニストの天野祐吉さんが「ブログ 世界を変える個人メディア」 (ダン・ギルモア著/平和博訳)という本を紹介していました。文学やマスコミなどはこれまで一部のプロが供給側にいた訳ですが、これからは普通の素人が情報や文学の送り手になりうるかもしれない、というのは本当に新しい時代になるんでしょうね。


週刊ブックレビューのHP

http://www.nhk.or.jp/book/review/index.html


さて、三島由紀夫の「豊穣の海」第3巻「暁の寺」をようやく読み終えました。いよいよ最終巻の「天人五衰」に入ります。


以前三島由紀夫に関する傑作評伝である猪瀬直樹の「ペルソナ-三島由紀夫伝」を読んだことがあります。内容はほとんんど忘れてしまいましたが、三島の父と祖父が高級官僚であり三島自身も東大法学部を卒業して大蔵省に入ったエリートであったこと、三島はおばあちゃん子であり、両親と一緒に暮らしながら、祖母の部屋でずっと暮らしていたことなどが印象に残っています。






これまで私は三島由紀夫とドストエフスキーについて書いてきましたが、何気なく文庫版の「仮面の告白」を開いたら、巻頭に「カラマーゾフの兄弟」の一文が載せられているのに気づきました。何気なく三島とドストエフスキーとを書いてきて、偶然その2人の接点をみつけてしまったわけです。もちろん三島は私が足元にも及ばないほどのとてつもない読書家であり、その膨大な読書量の中に「カラマーゾフの兄弟」が入っているのはむしろ当然で、かつ三島がこの小説から何らかの影響を受け「仮面の告白」を書いたというのも想像されることですが、私としてはこの偶然がとても楽しく思われます。


巻頭に載っているその一文は、「カラマーゾフ兄弟」第3編「好色な男たち」の3「熱烈な心の告白-詩によせて」の一部で、3男アリョーシャが、ドミートリーのかつての恋人であるカテリーナの家に行く途中、父の家の隣の家の庭でドミートリー偶然会い、その時にドミートリーがアリョーシャに、過去の自分の生い立ちやカテリーナとの出会いのきさつ、そしてそれに対する自分の行動を振り返てりながら話すその長い話の中に出てくる言葉です。


読書をしていると、このような偶然が時々あり、また小説好きのものにはこのような偶然がたまらなくうれしいものなのです。


おはようございます。

今日は朝からすごい雪です。

今日はまた土曜日で休みですから、こんな日は読書をするのに限ります。


若い頃から本を読むのは好きでしたが、この年になって読書の欲求が強くなってきました。

残された時間が徐々に短くなっていくことが意識されるような年になって、生きているうちに読んでおきたいという気持ちが強くなってきたのかもしれません。


その中でも特に読みたいと思うのは長編小説で、内外の名作といわれる長編小説を読みたいと思っています。中でも、プルーストの「失われた時を求めて」ジョイスの「ユリシーズ」は生きている間にとにかく最後まで読み通したいと思っている小説です。


どちらもこれまで何度か挑戦し、そのたびに挫折してきました。

同じ長編小説でも「カラマーゾフの兄弟」トルストイの「戦争と平和」などに比べると、極めて難解で読みにくいことはなはだしい小説です。「ユリシーズ」なんか注だけでも一冊の本になりそうです。


それに比べると「カラマーゾフの兄弟」は難解な部分もありますがそれでも読みやすいし、おもしろい小説です。話の筋は比較的簡単で、離れ離れになっていた3人の兄弟が財産問題等もあり、父の住む町に集まってきて、その町の様々な人間たちとの関係を深めていく中で、兄弟の父が殺されるという事件が起き、その犯人探しが始まるというような話です。


その中で小説の舞台回しをするのが3男アリョーシャで、アリョーシャは、ある時は修道院でゾジマ長老という高名な修道士と会い、ある時は父フォードルと会い、ある時は長男ドミートリーの告白を聞かされ、ある時は次男イワンとキリスト教に関する論争を行い、ある時はドミートリーのかつての恋人や現在恋焦がれている娼婦と会い、ある時はその町の貧しい少年を訪問し、とまさに八面六臂の大活躍です。


そのような現実には存在しないけれでもリアリティのある様々な登場人物たちが、現実にはないけれでもやはり現実味のある演説のような会話を通じて、恋愛や嫉妬や宗教や人類愛や子供たちの悲しさや老いや死や貧しさやその他人間が生きていく上で避けては通れないような様々な事柄を話し合う、というのが

この小説の醍醐味であり、おもしろさです。


江川卓というドストエフスキー翻訳者の名著に「謎解きカラマーゾフという本があり、その中ではカラマーゾフという名前に隠れている意味、登場人物たちの名前の付け方にこめられたドストエフスキーの思いやウィット、ロシア民族が長い歴史の中で培ってきた風習や迷信、ローマカソリックに対するロシア正教の特徴等の謎が明らかにされており、とても興味深いものがありますが、しかしそんなことを知らなくても「カラマーゾフの兄弟」はおもしろい小説です。


つまり、様々なレベルでの読み方が可能ということで、予備知識のない人が読んでもそれはそれでおもしろいし、研究者の立場でより深く吟味していこうとしてもやはりおもしろい、という非常に稀有な小説なのではないでしょうか。



前2回は三島由紀夫の「豊穣の海」について書きましたが今回からはドストエフスキーです。

最近、昔読んだ本を読み返してみたいという気持ちが強く、この間まではドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」を読んでいました。


ドストエフスキーと言えば、なんと言っても「罪と罰」でこれまで4、5回は読んでいると思います。高校生の頃、寒い冬の夜、勉強もそっちのけで、ストーブにあたりながら「罪と罰」を読んだ思い出があります。当時読んだのは旺文社の黄緑色の文庫版で(今はありません)、それには挿絵もついており、その絵を今も覚えています。


ドストエフスキーの小説のおもしろさはたくさんありますが、まずは登場人物のおもしろさです。「罪の罰」にも、主人公のラスコーリニコフのほか、その恋人である聖なるソーニャ、ラスコーリニコフの妹ドーニャ、ドーニャの恋人でラスコーリニコフの変わらぬ友人ラズーミヒン、ソーニャの父の小役人マルメラードフ、その狂ってしまう妻、謎の人物スピドルガイロフなどなど本当に様々なキャラクターの人物が登場します。


この点、三島由紀夫と比較するのもなんですが、三島の小説の登場人物はあまりおもしろくありません。

ドストエフスキーという人は、なぜにこれほどまでに人物を描く力があるのか、人間を洞察する力があるのか、その想像力と創造力には驚嘆するばかりです。


それはともかく、「カラマーゾフの兄弟」ですが、こちらも「罪と罰」に劣らず登場人物が多士済々です。まず、カラマーゾフの3兄弟、熱血漢で直情型でかつ単純な長男ドミートリー、冷静で知的であるが心の底に熱情を持つがゆえに狂ってしまう次男イワン、愛にあふれ現代のキリストとして登場する3男アリョーシャ、この3兄弟の父で、好色で破廉恥で金にきたないフォードルともうこれだけでも興味津々です。それに加えて町の修道院の長老とその長老を許せない修道士、カラマーゾフ家の召使でフォードルの子供とも思われるスメルジャコフとその育ての親、カラマーゾフ家と様々なかかわりを持つ2人の美しい女性、などなど個性的な人物が目白押しです。


これらの登場人物はいかにも現実の世界にも存在するようなリアリティを持っているのですが、しかし実はこんな極端な性格を持つ人間は実は現実にはいないのです


そういえば、ドストエフスキーの小説のおもしろさには会話のおもしろさがあるのですが、その会話とてつもなく長く、まるで演説をするようで、実はこんな会話も現実には絶対ないものです。


このような現実にはない登場人物tと会話の中に、いかにもリアリティを感じさせるところに、ドストエフスキーの腕というかうまさがあるのだと思います。

三島由紀夫「豊穣の海」第3部「暁の寺」を読んでいます。これは第1巻の主人公である松枝清顕(映画では妻夫木が演じました)の友人である本多(この人物だけ第1部から第4部までずっと出てきます)の約30年後、40年後に清顕の生まれ変わりであるタイの皇女に再会する話です。


どういう訳か本多(弁護士をやっています)が大金持ちになり、別荘を建てるのですが、その別荘には秘密があり、書斎の本棚に小さな穴を作って、となりの様子がうかがえるようになっています。本多は、計略を図って、この別荘にタイの皇女を招待し、知り合いの軽薄な若い男に、この部屋で皇女に迫らせ、それを隣の部屋の穴から覗き見しようとします。結局この試みは失敗するのですが・・・。


という具合に、第1部では非常に清らかな悲恋を書いているのに、第3部になると中年から初老にかけての男の歪んだエロチシズムが描かれます。覗き見するというシチュエーションは、確か「午後の曳航」で、少年が母と情人との密会をやはり覗き見するという場面があり、三島は覗き見がすきなのかなあと思ってしまいます。


ここまで読むと三島は一体何を言いたかったのかなと改めて思います。おそらくこれを書き上げてからそう時間も経たないときに三島は割腹自殺をしている訳で、このような小説を書きながら一方では自衛隊での蜂起を考えていたのだとすると、その心の振幅の大きさには驚かされます。


しかし、ここまで読んできてもやはりこの小説をなかなか好きにはなれません。文章は流麗で、それを読むことに一種の快感も覚えますが、なぜか感動することはありません。








三島由紀夫「豊穣の海」の第1巻である「春の雪」が映画化されました。皆さんはご覧になりましたか?私はみてません。みる気もあまりありません。なぜなら主人公である妻夫木竹内がどこからみても明治時代の貴族にはみえないからです。そして「春の雪」が映画で描かれているような悲恋物語ではないと思うからです。


三島由紀夫の小説はこれまでもいくつか読んでいますが、あまり感動した記憶がありません。高校生の頃「午後の曳航」を読んで心がちょっと騒いだぐらいです。「春の雪」は今度はじめて読んでみました。やはり高校生の頃、友人がこれを単行本で読んでいるのをみて感心した思い出があります。


「春の雪」はとても読みにくい本です。三島由紀夫の文章は凝りに凝っていますので、難しい漢語もちりばめられていて、話の筋自体は難しくないのですが、それを描写する文章はなかなか難解です。そして「春の雪」だけではなく「豊穣の海」そのものが「輪廻転生」をテーマにしているので、仏教(それも小乗仏教や大乗仏教)の言葉や思想がかなり色濃く出てきますので、現代の我々からは縁遠い感じがします。