今三島由紀夫「豊穣の海」の第3部「暁の寺」を読んでいます。これは第1巻の主人公である松枝清顕(映画では妻夫木が演じました)の友人である本多(この人物だけ第1部から第4部までずっと出てきます)の約30年後、40年後に清顕の生まれ変わりであるタイの皇女に再会する話です。
どういう訳か本多(弁護士をやっています)が大金持ちになり、別荘を建てるのですが、その別荘には秘密があり、書斎の本棚に小さな穴を作って、となりの様子がうかがえるようになっています。本多は、計略を図って、この別荘にタイの皇女を招待し、知り合いの軽薄な若い男に、この部屋で皇女に迫らせ、それを隣の部屋の穴から覗き見しようとします。結局この試みは失敗するのですが・・・。
という具合に、第1部では非常に清らかな悲恋を書いているのに、第3部になると中年から初老にかけての男の歪んだエロチシズムが描かれます。覗き見するというシチュエーションは、確か「午後の曳航」で、少年が母と情人との密会をやはり覗き見するという場面があり、三島は覗き見がすきなのかなあと思ってしまいます。
ここまで読むと三島は一体何を言いたかったのかなと改めて思います。おそらくこれを書き上げてからそう時間も経たないときに三島は割腹自殺をしている訳で、このような小説を書きながら一方では自衛隊での蜂起を考えていたのだとすると、その心の振幅の大きさには驚かされます。
しかし、ここまで読んできてもやはりこの小説をなかなか好きにはなれません。文章は流麗で、それを読むことに一種の快感も覚えますが、なぜか感動することはありません。
