僕の留学体験記〜第4章 語学学校初日から大遅刻!?〜
*ブログ読者数が増えてきたので改めてここで断るが、これは僕の3週間という極めて短い期間のアメリカ滞在より得られた極めて主観的な価値判断によるもので、中には僕が断定形でブログを書き進めていくことに嫌悪感を抱くものもいるだろう。中には間違った考えもあるに違いない。その点については自分自身、社会を知らない甘さというもの、若さ故に狭い視野でしか物事を見ることができないということ、しかしながらそれを理解した上でも自分の見た世界が全てであり、そしてまたそれが正しいと錯覚してしまう点については十分理解しているつもりであるし、そして何よりあくまでこの体験記は僕の趣味という域を出ないものであることを再確認してもらいたい。何をこの若造が偉そうにと思わずに、ここはぐっと堪え軽い気持ちでこのシリーズを読み進めていただけられたら僕自身それ以上結構なことはないと思っている。だいぶ間は開いたが、前回からの続きそんなわけで一睡もしてないわけだが、頭は変に冴えていた。明るくなったといっても朝食の7時半まで1時間以上あり、朝シャワーを浴びることにした。果たして寝間着でリビングにむかうべきなのか、外着を着ていくべきかには迷ったが、無難に寝巻きに黒ジャージを羽織ることにした。Yutaro, Breakfast is ready!!そう呼ばれたのは8時近かった。さすがに時間にルーズだなぁと呑気なことを考えていたが、よく考えてみれば学校に果たして間に合うのかという看過することのできない疑問が湧いて来た。8時に朝食を食べて、家出るのは早くても8時30分、語学学校まではバスで片道30分近くかかる。どちらにせよ9時の試験にはギリギリに着く。しかし今日クラス分け試験を受けるのはサラも同様だった。優等生のサラと同じ行動をしていれば全てなんとかなる気もしていたのが正直なところでもあった。(なんとも女々しい!!)呼ばれて上がってみたのにも関わらず、机にはまだ誰もいなかった。ホストマザーがWould you like tea or coffee?とキッチンからたづねてくれたのでコーヒーをお願いした。朝食の席ではキッチンを手伝わなくていいと言われたので、窓際に行き、手持ちぶたさで外を眺めているとやがてサラがやって来て、いい景色ねと後ろから声をかけてくれた。びっくりして振り返るとサラは席に着く所だったので、僕もそれにならって昨日と同じ席に着いた。どうやら一晩かけて得体の知れない東洋人と共同生活することを受容したようだった。席に着いてから、スイスにあるあなたの家もこんないい景色じゃないの?と聞いてみた。そしたら大抵の人はスイス人はアルプスに住んで牛とか羊とかと暮らしているんでしょて言うんだけど私はゼリックという大都会に住んでるから、そんな生活とは全然無縁なのよ!と笑いながら答えてくれた。そうは言っても自分の家は小高い丘の上にあって毎日1時間近く自転車をこいているんだとか。こちらがゼリック(チューリッヒ)ちなみにこのゼリック、最後の週になって判明したが、チューリッヒのドイツ語発音らしい。(サラはドイツ系スイス人)それまでゼリックという名の都市だとばかり思っていた。それにしても外国の都市名の発音は難しい。人名に関しても簡単だとは言わないが大抵はスペル通りに発音すればいいし、また略称のようなものを持っているのでなんとかなる。しかし都市名についてはそうはいかない。まだミラノがミランになるとかだったらかわいいものだが、ウィーンがヴィエナになったり、今回のようにチューリッヒがゼリックに変化するとなると非インド・ヨーロッパ語族の日本人の僕からはまず想像できない。挙げ句の果てに、知らないと正直に答えるとあなたそんなことも知らないの!?教養のない人ねなどと白い目で見られる。しかし覚えるべき都市名など世界に数えるほどしかないのだからこちらも着実な勉強でカバーすることができるといえよう。そうこう話しているとホストマザーがコーヒーを二つ持ってきてくれた。コースターを4人分机に置いた。この期に及んでまだイタリア人は部屋から出てこない。優雅な朝だなと思いつつ、コーヒーをすすった。まだ朝ごはんの出てくる気配はなく時おり沈黙が流れた。今こそ昨日覚えたスイスの知識を披露すべき時だった。まず手始めにスイスには4つの言語があるのは本当なのか聞いてみた。ドイツ語、フランス語、イタリア語、ロマンシュ語。最後の言語については発音が通じなかったがスイスについての知識を日本人の僕が持っていることを素直に喜んでいるようだった。続けて簡単な歴史や、大統領の名前を諳んじて見せた。思った以上に彼女の反応が大きいことに気を良くした僕は、続いてスイスが誇る研究機関、スイス連邦工科大学チューリッヒ校(Swiss federal institute of technology Zurich)の名前を噛まずに披露してやった。そしたら、わあ何でそんなこと知ってるの?!と手振りまでつけてまで喜んでくれたのだった。外人はいちいちアクションが大きいので話していて楽しかった。この時点で彼女は僕のことをかなりのの秀才だと思ってくれたようだったが、日が進むに連れ、僕がネットで得られるような浅薄な知識を上っ面に塗ったくてるにすぎないということは陽の目を見るように明らかになっていくのだった。10分ほど話しただろうか。ようやくエレナとラウラが眠そうな目をして、寝間着のままやって来た。8時20分過ぎだ。まさに寝起きという顔をしており、モーニングと挨拶しただけでその後は一言も言葉を交わさなかった。彼女たちが来てすぐに朝食のパンケーキが運ばれてくると、今度はイタリア人二人にお茶かコーヒー飲む?とたづねた。ラウラはコーヒーをお願いしたが、エレナは贅沢にもカモミールティー今日もある?と聞いた。朝食が始まると、みんなくちゃくちゃと音を立てながらパンケーキを口に運び、それぞれのスマホにかじりついていた。母国の友達とチャットをしているようだった。僕だけスマホを見ないのもおかしく感じられたのでスマホを取り出したが、とりわけラインする相手もいないので仕方なくヤフーニュースを開いた。しかし興味を引くようなニュースもなく、また自分だけチャットをしないのも変に感じられたので、開き直ってスマホをしまい、大人しく外の景色を見ながら食べることにした。こんな贅沢な朝食は日本じゃまず経験できないだろうと思ったりもした。ご飯を食べていると、ふと自分はいちゃいけないところにいるんじゃないか、そうした感覚に襲われた。白人集団とともにサンフランシスコ湾の綺麗な景色を前にして、西洋風の朝食を食べながら黄色人種がひとり。自分から見れば全員白人なのでとりわけ変な感じはしなかったが、はたから見れば変わった景色だっただろう。ちなみにこの自分が黄色いという意識は逆説的にも彼女達と仲良くなるに連れて強まることとなる。食べてそうそうエレナとラウラは部屋に戻り、学校の準備に取り掛かっていたようだったが、ある程度準備も終わり、残すは着替えと歯磨きだけだったサラと僕は残っていたコーヒーを最後まで飲むことにした。イタリア人がいた間はサラもスマホをいじり目もくれなかったが、彼女たちが帰るとサラもスマホをしまい、同じ景色を眺め始めていた。コーヒーをすすりながら、彼女は色々な身の上話をしてくれた。彼女もおとといついたばかりで、それまで1ヶ月近く弟含めた4人でグランドキャニオンやLA、ラスベガスなどを通って北上する旅をしていたんだとか。バークレーの街で家族とおさらばしてホストマザーにダウンタウンで拾ってもらったそう。緊張でおとといは潰されそうだったけどホストマザーもイタリアンガールもいい人だったから、ここは4ヶ月過ごすのに最適な場所ねと彼女は言った。話す話題もなくなったように思え、沈黙をコーヒーをすすることでごまかす時間がしばらく続いた。もういい加減動き出さなきゃねと彼女はいい、マグカップをキッチンに戻し、サンキューとホストマザーにお礼を言った。各自に部屋に戻りさっと着替えを済ませ玄関に集まったのが、8時45分くらい。この時点で遅刻は確定したのだが、乗ろうとしてるバスはまだ来てないらしい。靴を履き次第、各自家のすぐ目の前にあるバス停に向かい4人でバスを待った。イタリア人二人は友達同士で仲がよくイタリア語で話していた。結果、必然的に余る形ななったサラと僕が再びペアのような形になった。いかにもアメリカ風のバス停だった。バスは左手、少し高くなってるところからやってくるのだが、その先はすぐ角で見えなくなっており、その先はかすかに霧がかっていた。この起伏のある丘ががまた絵になるのだった。試験開始時刻の9時過ぎになってようやくバスはやってきた。サラも時間はさほど気にしている様子はなく、この時には僕も外国なんだからこれくらいでいいんだと開き直っていた。バスの作り自体は日本とさして変わらなかったが、客に対してのサービスについてはひどいと言わざるを得なかった。降りる場所のアナウンスもしてくれなければ、降車ボタンが作動しないことも多々あった。僕たちなどのような乗り慣れてないものは、降りる場所を間違いないようにGoogle Mapに頼ざるを得ない始末。そして降車ボタンが動かない時にはplease let us get down at next stop (次で降ろして!)とバス後方から運転手に聞こえるように叫ばなければいけない。バスに乗り込むと後方の席にサラと隣り合って座った。朝食の席の続きのような感じで、あなたは東京からどのくらいの場所に住んでいるのと聞かれたので、事前に覚えて来たマイル換算をして答えると、あなたの国ではメートル法じゃないの?あんな変なのを使うのはアメリカだけよと言った。ちなみに僕の関わる人は概して非アメリカ人が多かったのでマイル法はほとんど使うことはほとんどなかった。時折僕の英語は伝わらないようで、何度か聞き返された。その度に私も頑張ってみるからもう一回言ってと年下ながら優しいことをいうのであった。前日の夜にUC Berkeleyに少し興味あると言ったことを覚えてくれてたようでバスからキャンパスが見えると、これがUC Berkeleyの敷地なんだと教えてくれた。確かにキャンパスは日本で見たことがないくらい自然豊かで広大だった。UCBerkeleyのグリーンゲート途中あなたは英語を習ってどのくらいなの?と聞かれた。とてもじゃないがこの英語力で7年目とは言えなかった。彼女にとっては一年でこれくらいのレベルに達することができると思うくらいの英語力だった。無論日本人よりヨーロッパ人の方が短い期間で英語ができるようになるのは努力の問題でも、能力の問題でもない。ヨーロッパ系言語の多くは英語と先ほども少し触れたが言語系統が近いということもあり、文法や単語がよく似ている。それ故に泣きながら英語を勉強してもなかなか上達しない日本人から見たら信じられないような話だが、海外ドラマを見たりするだけである程度自然に英語を操れるようになるそうだ。羨ましい限りだ。英語圏のものにとって最も難しい言語は日本語とアラビア語というのだから逆も然りなのである。バスは30分近くかけて丘を降りて来た。ダウンタウンバークレーに着くとバスは昨日と違うところで停車した。見たことのない景色の場所だった。同じストリートをバス停手前で停まったならまだいい。しかしバスは停留所手前の角を一つ曲がった、ワンブロック近く離れたところに停まったのである。バス運転手の無性の他でもなんでもない。そのことをサラに尋ねると Its(アメリカのバス)was always mysteryなんだと教えてくれた。たかがバスが毎回異なるところに止まることをミステリーだと表現する彼女の語彙的センスに奥ゆかしさを感じたのだが、前にも述べたホストマザーの言い回しなども含めて考えるとそこには英語という論理的な言語の冷淡さを中和する役割があるのかもしれない。この点については来年進学予定の英米文学科で掘り下げられることを楽しみにしている(だから意識高いっ😓)バスを降りてからはイタリア人二人とは完全別行動だった。語学学校はバス停から5分くらいのとこにあった。大通りを超えたところにある治安の悪そうな、海外旅行ではまず通るのをためらってしまうようなストリートにあった。目の前を工事しており、柄の悪い大工たちがたむろしているのもまた何か事件でも起こりそうな殺伐とした雰囲気を醸し出しているのである。手前の小さな建物が語学学校入り口は階段を上った二階にあった。全面ガラス張りのドアを開けようとしたのだが開かない。中から金髪の30代ぐらいの女性が中からドアを笑顔で開けてくれた。防犯上の理由から、4桁の数字をドアノブのボタンに打ち込まないとと外から開かないようになっていた。中に入りサラが彼女にテストはどこで受ければいいの?と聞くと教室番号を教えてくれた。語学学校には中庭がついておりそこの階段を使って一階に降り指定された教室へ向かった。その過程でラウラとエレナにすれ違った。教室へ入ると席がコの字型になるように配置されており、東洋人の男女が二人ほどが席についていたに過ぎなかった。後から分かったが二人とも日本人で、その日やってくるはずの9人の新入生は日本人を除き全員遅刻ということだった。サラとは一つ席を開けて座った。しばらくするとサラとの間の席に黒人とも白人とも取れるような男性が座った。彼の名前はモイゼでブラジルからやって来たんだとか。席に着くや否やずっともじもじしていた。正直そのときには午前中の行動が大体同じサラがいたため彼女にくっついていれば万事休すくらいに考えており、僕自身緊張は全くといっていいほどしてなかった。それより昼あと僕がイタリア人と行動を共にしていいのかの方が心配だった。その後、僕から向かい合った反対側の席に見た目も背丈もそっくりな恐らく双子であろう台湾人二人が座った。9時開始予定だったのにも関わらず半になっても始まる気配すらなかった。やがて先ほど上で話した女性が入って来て一人一人分厚い資料を手渡し、これはとても重要な資料なので無くさないようにと念を押した。彼女の名前はキャサリンで自分の自己紹介を終えると今度は生徒一人一人に自己紹介をさせた。全員の自己紹介が終わり、キャサリンはよろしくねと言い、分厚い資料を一ページ一ページ丁寧に読み上げた。最後にはいくつかの書類にサインをし、保険証のコピーを求めた。これがないと入校を認めないとまで言われていたものなので、家で学校の準備をする際真っ先にしまったものであった。しかしその場ではサラ含め数多くの者が忘れていた。翌日提出しますと口々に言ったが、中には毎日忠告されながら最後まで平気な顔して持ってこないものまでいた。分厚い書類には語学学校の設備の説明や母語禁止といった基本的なルールが説明してあった。バークレーの治安情報といったことについては触れなかった。そんな説明を受けている最中、スタイルのいい西洋人女性が入って来た。モデル並みに美しかった。これほど美人は見たことがないというほど美しく、遅れて来たのがまた余計にも彼女の美しさを増しているようにも思えた。この美魔女とは幸運なことにも同じクラスに振り分けられたのだが、無念にも隣に座るのも憚れるほどの美人であったが故に一言も話すことなく終わってしまった。そんな冗談はさておき1時間近くかかった説明が終わると、次のパートは校長のグレッグが担当するからしばしお待ちをと言って部屋を出て言った。先生の感じだと今呼びに行くから少し待っててといった感じのニュアンスだったが、みんな思い思いにトイレに行ったり外へタバコを吸いに行ってしまった。実際校長がやってくるのは10分近くあとのことであり、それまでには部屋を出て行った者もちゃんと戻って来て着席しているのであった。学校が時間通りに始まらないこと含め西洋人には何と無くそういう共有された時間のルーズさみたいなものが備わっているらしい。その休憩時間に、もじもじと挙動不審であった隣のモイゼに話しかけてみた。とはいっても何と声をかけるべきなのか分からなかったので、大して興味はなかったがHow long will you stay here?と聞いてみた。もちろんこの語学学校のあるバークレーにどのくらい滞在するかを尋ねたつもりだったのだが、何を思ったか彼は40 or 50 minutesと答えたのであった。聞き方がまずかったのかなと迷う僕、なんでそんなことを聞くのか悩むモイゼ、両者戸惑っているととその様子をみたサラが僕の言わんとしてることを汲みHow long will you stay here in Berkeley?と言い直してくれた。絶妙なタイミングだった。すると彼は3months と答えた。なるほど少しのニュアンスの違いでも英語は通じないんだとこの時痛感した。座ったままの距離で今度はサラから今日の午後はイタリア人たちとケーブルカーに乗るの?どうする?と聞かれた。なるほど今日はケーブルカーに乗るのか。その時初めて知ったのである。どうやらラウラに聞くよう頼まれたらしい。遠回しについてこないでと言われた感じがしないでもなかったが、せっかく留学してるんだからと思ってここぞとばかりに貪欲精神を発揮し、多分(行く)と伝えた。すると多分(maybe)?昼前には行くかどうかは決めてちょうだいと言われてしまった。これこそ日本人の曖昧さを端的に表している出来事だと思う。多分と伝えた場合日本では肯定的に捉えるが、外人にとっては後の行くということは汲みしてくれないのだ。日本人は以心伝心や阿吽の呼吸という言葉に頼らないコミュニケーション能力というのが日本で育つ以上ある程度備わる。しかし外国にはそのような文化はなく言葉を濁さずはっきりと伝えなければ、伝えたいことは伝わらないのだ。そう言われてハッとしてやっぱり行くということを改めて彼女に伝えると、分かった、ラウラにそう伝えとくわと言った。サラは僕たちとは違い熱心にも週2、3日だけ午後まで授業を入れていた。今日の午後はそのために僕らとは別行動だった。校長のグレッグがやってくるとこれからクラス分けに使うテストを受けてもらうといった。ようやくだった。試験はリスニング有りの90分でまた途中で二人ずつ呼び出し別室で面談するとのことだった。試験問題を配布するとグレッグはタイマーウォッチを取り出した。Are you ready, ready ready?と冗談を交えた合図で始まった試験はセンター試験を少し簡単にしたようなものであり、受験全盛期に解けば30分も掛からないようものであった。問題ほ解いてるときサラはチラチラこちらに目をかけ、僕の問題を解くスピードを観察していたようだった。リスニング問題以外の全ての問題を解き終わり周りを見渡すと同じように大体のものが終わっていたようである。しばらくするとグレッグが最初の面談グループを呼び出した。僕は隣のモイゼとともに二番目グループで呼ばれた。教室の外はめちゃくちゃ寒かった。バークレーはアラスカからの冷たい空気がサンフランシスコ湾上空を通ってやってくるから寒いのだとサラがバスの中で説明してくれたことを思い出した。この小さい赤いピンがあるところがサンフランシスコ。見てわかる通りアラスカとはかなり距離がある。別室に案内され、3人がけのテーブルに座ると、寒さからか緊張からか体が震えていた。グレッグはまずモイゼに自分のことそして、この留学で何を学びたいかを説明するように促した。まずそこでモイゼが子持ちの既婚者であることが発覚した。失礼ながら老けた大学生くらいだと想像していたので衝撃だった。また今はブラジルで弁護士業を営んでいるが、これからはアメリカとブラジルとの関係を専門にする国際弁護士になりたいんだとも言った。そのほかにも自分が大学生の時のこととか、今の趣味を話していた。発音についてはところどころ間違っていたが、スピーキング力については僕よりもやはり上だった。次に僕。同じようなことを聞かれたので、大学一年生で文学部、今は教養課程だということ。クラブ活動はディズニー愛好クラブとギターサークルに入っており、ビートルズといったブリティッシュロックにも興味があると伝えた。するとへえーと頷き、アルバムは何が好きか、メンバーは誰が好きかと逆質問をされた。ビートルズファンは今なお世界中に健在であると実感した。一通り話し終わるとモイゼがグレッグにここは寒いですねと話しかけた。もちろんまだ面接中である。もはやどっちが年上なのかはわからなくなっていたが、グレッグはそうですねえといってアラスカ海流がどうのこうのとサラと同じようなことを彼に説明していた。10分近い面談が終わり教室に戻ると、やはりみんな暇そうにしていた。次の二人が呼ばれた。流石にケータイをいじりだすようなものはいなかったが、じっとしているのには耐えられないようで、机に足を乗っける者もいた。かれこれ30分近くかけて、全員分の面談が終わり、最後のペアとともにグレッグが戻って来て今からリスニングを行うと言うとリスニング試験が始まった。正直こんな問題じゃ差がつかないだろうと思えるほどのレベルであった。ストップウォッチを確認することなく試験はリスニングの終了とともに終わった。手応え的には、ほぼほぼ満点といった感じであったが、結果クラスは上から2番目だった(クラスは確か全部で5つだったと思う)日本とは大きくかけ離れた教室内風景に衝撃を受けつつも、こういうのも悪くないと早くも西洋かぶれし出していたのである。これで僕たちは解散だった。サラとはその教室で別れ、言われた通り二階の外のベンチで待つことにした。ベンチでイタリア人二人を待っていると、サラがモイゼと二人で出てきた。二人で食事に行くところだった。彼女はニコニコしながら僕にあとでケーブルカーの写真見せてねと言って階段を降りていった。果たして既婚者のモイゼが金髪碧眼のハイティーンの女の子と食事に行くことに問題はなかろうかと思ったが、母国にいる家族が知る由もないだろうし、それ以前にこの程度で浮気認定はされないのだと思う。サラとは見てわかるようにだいぶ打ち解けることができた。しかし対照的にイタリア人二人とは昨日の悲惨な晩御飯からほとんど会話を交わしてない。やはりあの時点で断るべきだったと後悔したりもした。彼女たちが僕に対してどういう感情を持っているか、この時点でもさっぱり理解できなかった。サラから貰ったラウラのワッツアップにチャットしても既読はつかない。12時を過ぎたら授業が終わる。その時までベンチに座ってずっとスマホを見続けていよう、イタリア人たちから声をかけられたらその時になって初めてついて行くことにしよう、とまたなんとも曖昧な態度を心に決めていたのである。次回『予期せぬ市内観光』