陽も高く上がり過ごしやすい気温になった。授業が終わったことは分かっていたが遠くから目があっても気まずいし、付いていく気満々みたいに思われるのも嫌だったので声をかけられるまでスマホに夢中になって気づかないふりをしていた。

 

スマホに視線を落として熱心にネットサーフィングをしていると、スマホの右上に足が4本現れた。

 

Yutaro ?

 

僕はその時になって初めて気がついたというように顔をあげニコっと笑ってみせた。

 

彼女たちに続いて階段を下ると、ラウラに私たちは昼ごはんを持ってるけどあなたは持ってる?と聞かれた。まだだと答えるとどこかで買う必要があるけどどうする?サンフランシスコで買ってもいいけど、ここでも買えるわよと言った。彼女たちが持ってるのなら早めにこっちも買ったほうがいいと思いバークレーで買うことにした。まだダウンタウンバークレーの右も左も分からないような状況であったため、彼女たちにメキシカン料理屋を紹介してもらった。店の前で私たちは外で待ってるから、テイクアウトでお願いねと言われた。店に入ってみて、どれを頼めばいいのか分からなかったので一番大きな文字で書いてあるトルティーヤを頼むことにした。

 

これがそのメキシカン料理屋

 

 

 

店を出ると彼女たちと合流してバートのダウンタウンバークレー駅に向かった。昨日ホストマザーと来た時にも思ったが、駅構内はとても暗くもの凄く治安が悪そうだった。エレナに好きな時間に食べればいい、でも私たちは今食べると言った。3人でベンチに座ったわけだが、とりわけ3人で話すような話題もなく、仲良し二人組にくっついていっている形なので悪いと思い彼女たちには極力話しかけないようにしていた。次の電車が来るまで時間はたっぷりあるようだった。日本じゃみられないようなボリューム感のあるトルティーヤを口いっぱいに頬張った。僕の口よりもトルティーヤは大きかった。うまく食べきれず汁が僕のほおをしたった瞬間、ティッシュのようなものを持ってくるのを忘れたことに気がついた。トルティーヤに詰まった具のきれも悪くどうやって口から離そうと考えている間にも汁はほおを滴り、ズボンにもかかった。こんなところを女の子に見られるわけにはいかない。バレないよう体を若干外側にそむけ、トルティーヤを咥えた口を上に向け豪快に噛み切ることで残りの汁を口の中に垂らすことに成功し、なんとか被害は最小限にとどまったようだ。トルティーヤを咥えた口を下に降ろし、包んでいる紙袋の中に食いかけた部分スッと戻した。幸い袋の中にキッチンペーパーのようなものが二枚ほど入っていたのでそれで口を拭き取り、再利用できるよう捨てずに持っておいた。

 

それ以降はチミチミと小さな口でトルティーヤはかじることにした。噛み切りにくい肉や硬いレタスが出てきたら、それだけを口で器用に引っこ抜き無難に食べた。流石にボリュームが僕には多すぎたようで最後にキッチンペーパーが口を拭く分くらいしかなくなったところでトルティーヤの4分の1くらいを残して食べ終えた。正直食べ残しを詰め込んだ袋を持っておくのは気分が悪かったので早く捨てたかった。彼女たちにゴミ箱はどこかと聞くと周りを見渡してうーんないみたいねと言われた。

 

 

 

 

 

 

こちらがダウンタウンバークレー駅。正直もっと薄暗かった記憶がある

 

15分ほどしてバートはやって来た。

 

バートの席はドア付近のボックス席と新幹線のように全部同じ方向を向いた席があった。(新幹線のように終着駅ごとに進行方向に向け回転するような器用なものではなかったが)彼女たちが腰掛けた二人席の前の席に一人で腰掛けた。彼女たち二人はひたすらイタリア語で何かを喋っていた。僕がイタリア語を分からないことをいいことにもしかしたら悪口を言っているのかもしれない。ここでボロクソ言われてもまず気づけないだろう。この時イタリア語が思ったより英語に近い事に気づいた。イタリア語の中に英語と同じ発音の単語があるのはまだいいとしても、一文まるっきり英語と同じようなものまであったのには驚いた。前章でも触れたが、なるほどイタリア人が英語を習得するのは容易である。

 

 

バークレーを抜けオークランド市を超え、サンフランシスコ湾をトンネルでくぐるとそこはサンフランシスコ市内である。トンネルを抜けている間、後ろから次で降りるわよと教えてくれた。

 

ポーウェル駅で降り、構内のエスカレーターを上るとゴミ箱があった。やったようやく捨てられる!と思った自分は小走りでゴミ箱に駆け寄り、先ほどの袋をポイと捨てた。振り返るとラウラは駆け出した僕の姿を見て、子をかわいがるような目で僕のこと笑って見てくれていた。

 

駅を出るとそこはまさしく観光都市だった。Forever21やGAPなどのアパレルブランドやその他多くのブティックが並び、たくさんの大道芸人がワザを披露していた。中にはどっからどう見てもヤクをやってるようにしか見えないものもいた。ケーブルカーに乗るためには、少し離れた小屋のようなところで片道大人チケットを一枚買わなければならなかった。僕はもちろん自分のポケットマネーで払ったが、彼女たちはラウラのクレジットカードでまとめて支払った。

 

ポーウェル駅前

 

ケーブルカーを乗るための列にはたくさんの人が並んでいた。かれこれこれから1時間近く待つことになる。最後尾に並び、彼女たちのイタリア語に黙って耳を傾けていた。英語で話しているのならまだしもイタリア語で話しているところに割り込んで話すのは流石に迷惑だと考えた。彼女達も僕に気を使うような素振りを見せなかったので、このままでいいのだと思った。

 

そこはケーブルカーの終着駅。ケーブルカーは回転レールで向きを変え、また来た道を戻る。ケーブルカーがやって来ては客をパンパンに乗せて発車するという単純作業の繰り返しを何回見ただろうか。やがてこれらの作業に従事する人々の姿に目が行くようになった。割合的には白人、アジア人が4割ずつくらい、残りが黒人といった感じであった。さすがにサンフランシスコはアジア人が多いなと思いつつ、このアジア人にはルーツが日本人のものがどれだけいるだろうかと考えたりもした。なんとなく日系っぽい顔立ちのものもいる。彼らはケーブルカーのいすに寝そべりながら談笑したり、鐘を鳴らしたりしていた。仕事中とは思えない態度だ。そしてほとんど全員がサングラスをかけていた。

 

ここで私はアジア人や黒人、ヒスパニック、白人、この多種多様な人種が英語という一つの言語によって結ばれていることに強く感動した覚えがある。この国に来た彼らの行動に民族差は感じられなかった。見た目こそ違うが彼らはアメリカ人である。理由は様々だろうが彼らは一度故郷と決別して移民としてこの国にやってきた。ケーブルカーの運転という肉体労働に近い仕事をしている彼らは、母国で何らかの才能を認められてこの国に引き抜かれたわけではないだろう。何世かにもよるが、少なくとも彼らの祖先は母国での貧困を嘆き、違法か合法かは知らないが、ナップザック一つかそこらでやってきたのではなかろうか。しかしこのアメリカという人類史上、最も強大な国を作ったのは旧大陸における負け組たちではなかったか。今でこそ何もしなくても世界中から優秀な人物が集まるようになったが、宗教上の理由で迫害されたり、貧困に喘えいだり、そして母国から亡命してきた人々がこの地に王様のいない共和国を作った。彼らはたった300年前に発見されたばかりであるこの大陸にたまたま同居しているに過ぎない。この色々な文化を引きずった彼らの文化的多様性は幅広く自由だった。とてもじゃないが、独立と自由、そして神、こんな曖昧な概念の元に立つ合衆国憲法という一片の紙にまとめ上げらるような人々ではなかった。ではこの血のつながりの薄いものを結びつけているのは何なのであろう。それは、星条旗の下、また戦争のたびに鼓舞され続ける愛国心ではなかろうか。国語や民族といったものでまとめ上げられない以上、必要不可欠なもの。よくそんな曖昧模糊としたもので結びつけられていると思うが、スペインや中国で見られるような民族独立運動というのを僕は聞いたことがない。それはアメリカという国の成立した成立背景がこのように特殊だったことにも起因するだろう。この国が民族の集合体で成り立っていることは、裏を返せば民族独立運動が間接的にも最終的には国家の瓦解につながるということなのではないか。それゆえに国民の間にも多くの民族、人種との共生の結果生まれた多様性、そして普遍性をアメリカ文化の最大の特徴として誇りに思っている節があると僕は思っている。

 

 

この血の繋がりが薄いこと、それはある意味で日本人である僕がアメリカ人になることを容易にする。自分がアメリカ人になれば僕の中に眠る、経済、文化、そしてその他多くの点において抱いていたアメリカに対する嫉妬感情や、敗戦国としてアメリカにつよく物を言えない歯がゆさといった感情は全てなくなる気がした。日系人でこの国の陸軍のトップに立った者もいれば、上院議長になって大統領継承順位3位にまで上り詰めたものまでいる。この人種的、民族的寛容性そして何よりこの国が努力さえすれば裸一貫でも成り上がることを許してくれるということは僕を強く惹きつけた。100万円があれば国籍は無理だとしてもグリーンカード(永住権)くらいならなんとか得られる。こういった事情は僕の脳裏にアメリカ人に生まれ変わるという浅はかで誠に短絡的な考えをかすかにちらつかせた。

 

ケーブルカーで働く人々、ここに僕はアメリカ社会の成立背景そして自分の行くべき姿のひとつの可能性を感じ取ったのだった。

 

 

話外れたが、

 

ここを登る笑Σ(゚д゚lll)

 

ケーブルカーの乗り場に近づくにつれ、大道芸人が増えて来た。並んでいる一人一人に歌を聞かないかと聞いて回る強引なものもいれば、大声で意味のないことを叫びながら適当に絡んでくる怖いものもあった。もちろん話しかけられても基本無視だが、中にはやばそうなやつにあえて自分から話しかけ注意する強者観光客もいた。

 

 

その中に少し離れたところでアイパッドとマイクとスピーカーを使って音楽を奏でている黒人があった。周りに人が集まっても金を毟り取ろうともせずずっとニコニコしながら、よかったらお金入れてねといった感じのスタンスとても良心的なものでもあった。髪の毛や服装といった風貌からして明らかに貧しい生活をしているのが見て取れた。(いや、わざとそういう格好をして同情を集めようとしているのかもしれない)電子音だけで構成される軽快なリズムにアーとかウーとか合わせるだけのものだが、僕にとっては聞いたことのない斬新なものだった。この音楽がいったいどこのジャンルに属するのかわからなかったが、是非日本でも聞いていたいと思った。この黒人に奏でられた音楽は少なくとも僕自身日本で聞いたことのないリズムとテンポを持ったもので、黒人音楽に由来するものなんだと思う。そういうのが電子音という限りなく人工的な音交わることで新たな音楽を産み出していた。無論音楽に造詣がある方であるならばこれはなんていうジャンルで日本ではなんていうアーティストが取り入れているよと即答するかもしれない。しかし大学のアメリカ音楽史の授業で、たまたま汽車で相席になった白人が黒人の鼻歌のようなものを聞き、それが後のブルースに発展したという話を聞いたばかりだった私は、こういったところからまた新たな音楽ジャンルが生まれ発展していくのかもしれないと感受性豊かにも思ったのであった。アメリカという国は創造性豊かで新たなものが次々と生まれる場所だなあと感心したものである。

 

 

 

ここまで読めば分かる通り僕はこのころ完全にアメリカ信者になっていたのである。大したことでなくても、アメリカのやることはすごい、アメリカとは偉大な国であり、アメリカが正しいと。この簡単に日本を捨てアメリカに寝返る自己アイデンティティの希薄さ。日本にいた頃はかつての戦前の良き文化を根こそぎにしたアメリカを憎んでは、日本人の何でもかんでもカタカナ名をつける英語信仰にイライラしたものだった。

 

 

回転レールをぐるっと回りこみ、ケーブルカー乗り場に近づくと突然エレナにAre you excited?

と聞かれたので低い声でYeahと答えてやった。

 

 

それにしてもこっそり割り込む輩が多いこと。彼らは金さえ払わずにこっそり乗り込む。家族ぐるみの犯行も目撃した。

 

ラウラにステップ乗車したい(体の半分だけを車内に入れ、手で手すりを掴む乗り方)かと聞かれたのでもちろんと答えた。長い間待った分、素直に楽しみだった。

 

 

いよいよケーブルカーに乗り込んだ。先頭にエレナ、ラウラと一番後ろに僕が乗った。やはりステップ乗車が一番人気のようで、ベンチ席にはまだ余裕があった。運転手が待ち列に向かってベンチ席だけど乗りたい人いるかー?と大きな声で尋ねていた。

 

 

 

ベンチは外側を向いてぐるっと細長いコの字型をしており、中に運転席があった。運転手はヒスパニック系白人、ふくよかで人が良さそうだった。ケーブルカーの最後の方にもベンチがあり、そこにもおじさんがいた。そちらはサングラスをかけた50代くらいの中華系だった。

 

動き始めてすぐにケーブルカーは急な傾斜を登り始めた。確かに風を肩で切りながら丘を登って行くのは気持ちよかった。しかしながら体の半分は外に出ているので少しでも気を抜いたら落ちそうで怖かった。すぐ隣を車がすごいスピードでビュンビュンと追い越していく。

 

ユニオンスクエアを超え、交差点を四つ目くらいに迎えた時にケーブルカーは急に止まった。道のど真ん中だった。運転手はすぐさま鐘を鳴らし無線でcabel is down!!と叫んだ。どうやら故障のようである。道のど真ん中に立ち往生してしまっているのでこれは大問題だと思ったが、運転手含め焦った表情をしているものは誰もいない。途中で乗ってきた日本人親子が止まっちゃったね、えー大丈夫かしらというくらいだった。

 

これがその時に撮った写真。まさに道のど真ん中

 

すぐさま後ろに座っていた中華系アメリカ人が降り一人で交通整備を始めた。2車線はケーブルカーを挟むように別れて進んだ。止まってる間、運転手は気さくに客席に話しかけていた。

 

 

 

 

 

余談だが最初あんなに並ばなくてもケーブルカーには途中で乗ることができる。この場合待ち時間がない代わり混んでいたら乗れない可能性があるというデメリットのほか、大声で運転手に乗ってもいいかと尋ねなければいけない。

 

実際途中で何人かそうやって割り込んできた。ラウラの目の前に割り込んで来たアメリカ人は運転手にどこからきたか尋ねられテキサスからやってきたと答えていた。テキサスか、と運転手は頷くと、自分がかつてテキサスに行った時の話を始めた。ベンチに座っていた4歳くらいの女の子がときおり声をあげ、また反対側にいた白人の若いお兄さんも話に割り込みといった具合で話の輪はどんどん広がっていった。

 

まだ動く気配はない。ケーブルカーをいじっているものは誰もいないが果たしてどこに問題があるのだろうか。そしてここはサンフランシスコのどの辺りなのだろうか。止まっている場所からは綺麗にトランスアメリカピラミッドが見えた。サンフランシスコにきたことを実感させてくれるような場所だった。もしかしたらここもドラマや映画の一本ぐらい出てるかもしれない。

 

30分近く待たされたであろうか。ケーブルカーはようやく動き出した。後ろを振り返るとケーブルカーが2台も3台も連なっているのが見えた。あの乗り場で来ないケーブルカーを待つのはどんなに退屈だったであろう。乗ってから止まってくれたのでまだよかったと思った。何事もなかったかのように動き出したケーブルカーは、多種多様な人を満帆に乗せて力強く急な坂を登るのだった。やがて頂上付近まで上り詰めると、当然今度は下り出した。よくこんな急な坂に街を築いたと思う。アメリカなら街を作るのに適した平野ならいくらでもあろうに。途中で人を少しづつ乗せながら、もう無理だというところまで詰めてもいざ人が乗るとなると毎回2、3人が乗れるくらいのスペースは捻出できるのであった。

 

 

 

 

下りきると最後は平らな道を走った。かすかに海の塩の匂いがそよ風に乗って運ばれ、鼻についた。海は見えなかったが感覚的に海が近いことはなんとなく分かっていた。終着駅まで数ブロックといったところで乗ろうとしてくる夫婦がいた。乗ってもいいか尋ねるその声はかすかに震えていた。訛りからしてまず間違いなく日本人だった。運転手にもう数ブロックしかないぞと笑われながら言われると、自信なさそうに面食らった様子で中途半端な手振りでじゃあ大丈夫です、と答えていた。なるほど日本人はこういう風に見られるのかと思った。自分でもあのような対応しかできなかったろう。

 

 

およそ後2ブロックかそこらというところで、ケーブルカーは前を走るケーブルカーにぶつかった。交差点ではなかったが、駅でもないところでまた中途半端なところだった。中では黒人と若いヒスパニック系の太った女性が寝ていた。こちらの運転手がメイスン!メイスン!と目の前の止まっているケーブルカーの運転手であろう人の名前を叫ぶとうるせえなといった様子で起き上がろうとしない。するとこともあろうか運転手は今日の終点はここまで!といい客を強引におろしたのである。

 

いや雑!!!まあアメリカのこういうところがまた好きだったりして笑

 

 

降ろされるとラウラとエレナが今からレンタサイクリングの値段を聞いて回るといった。海の方へ歩きながら、道沿いにあるサイクリングショップに入っては値段を聞き、時おり値切り交渉を行った。

 

しばらく歩くとフィッシャーマンズワーフ見たい?と二人に聞かれた。そんな名前のところがあることは知っていたが、なんなのかよくわからなかったので聞き返すと港だと教えられた。アメリカの港は日本とはまた違ったものでまた風情があっていいんだろうけど特段興味わかなかった。ここから近いの?と聞いたら、すぐそこだというので行くことにした。

 

 

 

フィッシャーマンズワーフに近ずくにつれ、お土産ショップが増えてきた。所々でイタリア人達はお土産ショップに立ち寄っては、服だったり、サングラスを買っていた。(エレナはイタリア人らしくイタリア人らしくサングラスをコレクションしているようだった。)

 

 

 

途中、彼女たちはお腹が空いたようで、ハンバーガーショップに立ち寄った。先ほど食べたトルティーヤで十分腹は膨れていたので、僕は何も食べなかった。ポテトをテイクアウトし店を出た。

 

 

入るときは気づかなかったがバーガーショップすぐ左斜め前は海だった。手前には英語でFishermans Wharfと書かれた円形状の大きな看板があった。(USJにも確か同じのがあった気が…)

 

フィッシャーマンズワーフの入り口(ちなみにこの赤ジャンバーがラウラである。)

 

 

 

 

 

これが僕とフィッシャーマンズワーフの最初の出会いだった。サンフランシスコで一番大好きな場所。僕が訪れた数多くの世界の都市の中でもサンフランシスコが僕の中で一番好きな街たらしめる場所であった。旅行会社に勤める父親の影響で小さい頃からいろんなところへ海外旅行をしていたが、これほど自分にとって心地の良い場所はなかった。

 

今でもサンフランシスコの名前を聞いて真っ先に頭の中に浮かぶ原風景はこの場所である。高く太陽が照りつけ、海からやって来る風に身を任せながらカモメは青い空高くを飛び続ける。多くの観光客で賑わい、屋台やテントからやってくるクラムチャウダーやハンバーガーのいい匂いがあたりを満たす。ブログ読者もサンフランシスコに行く機会があればぜひここに立ち寄って、名物のクラムチャウダーでも食べながら清々しい潮風に思いを馳せてほしい。

 

その後も何度となくこの場所には一人で訪れ、そしてベンチに座ってはしばし長考にふけったものだった。

 

しかしこの時はまだ1回目だったので大して心は動かされなかった。フィッシャーマンズワーフは先ほどケーブルカーを乗った場所とはまた雰囲気の違う観光地だった。まさに西海岸といった感じでネオンで象られた映画館やゲームセンターの看板などが所狭しと並んでいた。夜だったらとても綺麗だと思う。道の途中でパンフレットが配られており、エレナは3人分を受け取ると一つを僕に渡した。道路を渡り、駐車場を横切り海の方まで向かうと真ん中に大きな島があった。あれがかの有名なアルカトラズ島かと思いあれがアルカトラズ島?と尋ねるとエレナがそうだと教えてくれた。ふーん、こんな所にアルカポネを収容されていたのか。海に浮かぶ孤島はまさに監獄という感じだった。絶対に逃げられそうもないこの刑務所から数多くの囚人が逃げ出そうとする様は多くのドラマを生み出し、そして何度も映画化された。

 

フィッシャーマンズワーフから撮った写真。一見穏やかそうな海に見えるが、こことこの島との間には強力で冷たい海流が流れており、脱獄囚の多くは結局波に呑まれてしまったんだとか

 

 

 

 

 

そこから海沿いを東に進んだ。同じく多くの大道芸人が音楽を奏でたり、絵を書いてたりして居た。彼らが演奏する南国風の音楽はフィッシャーマンズワーフの雰囲気にうまくマッチしていた。 ここから駅までかなり歩くけどいい?と聞かれたので、僕は全然平気だと答えた。その間も彼女たちはレンタサイクリング店を見つけては強引に値切り交渉を行ったりしていた。

 

駅まで僕は彼女たちとはほとんど喋らなかった。およそ1時間近く歩いたのだが、二人並んでいる後ろにくっついて行くだけだった。時折彼女たちは横を振り返り僕がついてきているか確認していた。

 

フィッシャーマンズワーフを東の方へ抜けるとやがて倉庫地帯に入った。中にはもう使われていないような錆びた倉庫もあったが日本と違いそれがまたいい味を出していた。夕日が背後から差し込み、倉庫の外壁は赤く染まっていた。

 

海の向こう側には僕たちの家があるバークレーや全米で3番目に危険だというオークランドがあった。かすかに霧がかかって遠くにあるそれらの街はミニチュアのように小さく、手に取るように見えた。

 

 

 

かなりの距離を歩いたと思う。エンバーカデロ駅に着きホームでバートを待った。しかし思ったよりサンフランシスコの鉄道網は複雑のようで、何本も電車を見送った。バークレーにはリッチモンド行きしかいかないそうだ。時刻表のようなものはなく、次の列車は何分後といった表示が電光掲示板になされるだけだ。サンフランシスコはいわば東京のようなものだった。もちろん東京よりは小さい街だろう。しかし、ここはサンフランシスコという中心的な都市圏の周りに数多くのベッドタウン、そして衛星都市が分布する独立した都市圏であった。東京から大阪まで通う人がいないようにサンフランシスコからロサンゼルスに通う者はいない。日本の実家から東京までの時間とバークレーからサンフランシスコ市内までの時間はどちらもちょうど40分くらいだった。地理的なスケールも、シリコンバレー含めたベイエリアと東京都市圏では同じくらいだったと記憶している。

 

 

 

この時間帯はサンフランシスコで仕事を終えた者が自らの住む街に帰るラッシュ帯だった。東京のラッシュは世界でも稀に見るほどだと聞いていたが、バートの混み様も大して変わらなかった。乗り込むとラウラとエレナは奥の方へ押し流され、僕はドア付近にとどまった。バークレー駅近くになるとラウラが彼の名前はユータローだったっけとエレナに小声で聞き、僕の名前を呼んだ。次で降りるからと。

 

バークレーまで列車はぎゅうぎゅうだった。電車を降りるともうダウンタウンバークレーは真っ暗だった。昨日ついたばかりだったが、なぜかこの街に着くと帰ってこれたという安心感のようなものが僕を包んだ。バス停に向かい早速バスに乗り込みボックス席に向かい合った。3人ともとても疲れて果てていたので大して話さなかったし、さしてそれが気まずいといった感じでもなかった。バスを降りると エレナはIm hungry Im hugry とぴょんぴょん口ずさみながら家の門を真っ先に押し開けた。 外からはホストマザーが料理を作ってるのが見えた。Im home(ただいま)と声をかけるとホストマザーはご飯は8時過ぎだけどいい?と僕らに尋ねた。

 

まだ夕飯まで1時間以上ある。その間だけでも眠れるかもしれない。そう思った自分はすぐさま部屋に向かい、外着のままベッドの上に寝転んだ。

 

気づいたら昨日と同じようにホストマザーが起こしに来てくれた。重たい目をなんとか持ち上げながらもリビングに向かうと、ホストマザーは笑いながら彼は寝てたのよとみんなに説明した。今度は僕以外全員揃ってた。昨日とは異なり、ホストマザーの一番近くに僕が座った。隣は昨日と同じくサラで前にイタリアンガールたちが座った。もう9時過ぎだった。料理が出るのを待ってるとサラがケーブルカーには乗ったの?と尋ねた。エレナがルートなり待ち時間なりを丁寧に説明していた。サラはわたしも午後の授業がなければいっていたのに、、、残念だわといった。まあ私は長くここにいるからいつか行く機会はきっとあるわと続けて言った。

 

ホストマザー含め全員が席に着くとようやく食事が始まった。ホストマザーが作る料理は全てが美味しかった。ホストマザーは今日のアドベンチャーを聞かせてといった。そこでエレナが中心となって再び今日何をしたかを説明した。ケーブルカー博物館は行かなかったの?と聞かれたので行っていないと答えると、彼女が代わってサンフランシスコにおけるケーブルカーの歴史を説明してくれた。サラと僕は割合熱心に聞き入っていたがエレナは飽きたのか机の上でスマホをいじり出した。確かにサラは僕と大して年齢は変わらなかったが、エレナは僕より四つほど下だと考えれば無理もない。

 

30、40分間くらい話すと今日もゲームは無理ねと言って、食器をキッチンに片付けた。

 

 

昨日よりはだいぶ短く夕飯の会食は終わったが、そもそもの始まる時間が遅かったのでもう11時近かった。イタリア人たちとは半日間行動を共にしたわけだが、雑談なるものは全くしなかったし、サラの方が心理的距離は近いように感じた。正直、今日1日も僕の存在なんてはっきり言って無のような感じだった。しかしそれでもやはり昨日よりはイタリア人含めこのグループに打ち解けた感はあった。

 

翌日どこ行くかをホストマザーと彼女たちが相談している間、ネイキッドビーチという言葉が飛び出し驚いた。どうやら僕とサラがやって来る前にイタリア人たちは遠くからネイキッドビーチを観察し、色々なものを眺めては楽しんでいたんだとか。滞在中、一人で行ってみるのも悪くないと思った。なんせ日本ではなかなか経験できないものなのだから笑

 

部屋に戻り、昨日と同じようにすぐ寝れる体制を整えた。流石に疲れたので今日はぐっすり寝れる気がした。

 

昨日のような絶望感はなかったがそれでもストレスフルな生活だった。一人の時間がもっと欲しかった。今から寝ても十分な睡眠時間は取れないだろう。朝だってそれなりに早い。こんな生活をしていたら身がもたない。そう思ったら一刻も早く寝なければという気がしてきた。布団に入ると昨晩と異なりすぐに深い眠りについた。しかし時差ボケのせいか眠りは浅かったようで夜中2、3回、正体不明のガサゴソっという外の物音で起きてしまった。翌日それを話すとそれは多分ケビンだわとホストマザーは言った。昼夜逆転生活を送ってるらしい。同じ家に住んでいるのにも関わらず彼とは一度も会うことはなかった。

 

 

次回『トンデモ授業風景』