今から140年前、海外渡航が禁じられていた時代、見つかれば一発で死刑になりかねない時代に薩摩藩士たちは勇敢にもイングランドへと密航した。彼らの目的は進んだ西欧技術を盗み取り、日本に持ち帰ることであった。当然、自分たちが最初のイングランド来訪者だと思っていたが、ロンドンに着くや否やイングランド銀行の来訪者名簿に目を通すと、そこには驚くべきものが記されていた。なんと自分たちが来る直前にも日本から密航使がやってきたのである。自分たちよりも最初にイングランドに降り立った彼らは長州藩士。日本から船で片道3ヶ月もかかる辺境の都市・ロンドンで両藩は偶然にも巡り合ったのであった。
時を同じくして、この頃日本では坂本龍馬の斡旋によって薩摩と長州の間で密約が結ばれようとしていた。革命一年前、江戸から遠く離れた辺境の地、薩摩と長州から江戸城に向かって革命の大砲が轟こうとしてた。
※日本史に関しては素人なので記事の内容には責任を持ちません。何か間違ってることがあればご指摘してくれるとありがたいです。
2/15日、私は宮島から鉄道を乗り継いで、山口県萩市に降り立った。昨日とは打って変わって天気は曇り空で、登りきった太陽は厚い雲に覆い隠されていた。三方は山に囲まれ、他の都市とは遮断されているようであった。山の稜線は霧によって曖昧になり、遠くの山々は水墨画のように色を失っていた。
ここ萩市は長らく外界とを結ぶ交通手段は発達せず、陸の孤島状態が続いていた。しかしながら元より、ここの人々は中心たる東京志向が強く、幕末から維新、明治初期にかけて非常に多くの国家官吏を輩出し、一時はほとんどの重要役職を薩摩藩とともに独占した。本来、日本海側に面した「静的」な場所であったこの地がいかにして、国を揺るがすほどの「動的」な場所へと生まれ変わったのだろう。その陰には吉田松陰の影響力があったのは否めない。
この地に住んでいた吉田松陰は、江戸にペリーが大軍を引き連れて日本にやってくるのを目の当たりにし、このままでは日本は植民地になりかねないと危機感をあらわにする。松陰はこれを防ぐためには「彼を知り、己を知れば百戦危うからず」と、敵軍を知る必要があると考え、下田からこっそり米艦に乗り込もうと企てる。しかしながら、この試みは失敗し、幕府に捕まってしまう。通常ならここで死刑は免れないが、ペリーは野蛮人と見下していた日本の中にも外国を知りたいと一途に思う少年がいることを好意に思ったようで、幕府側に減刑を要求した。その結果、松陰は萩市へと送り返されることになり、一命をなんとかとりとめた。
松陰は萩に戻った後、自分の教えを広く啓蒙すべく、松下村塾という塾を起こし入塾生を募った。時の長州は尊皇攘夷の考えが浸透し、天皇を中心にして、外国を排除するという考えがことさら強く、フランス、イギリス、オランダ、アメリカの連合艦隊に戦争をふっかけるほど現実感覚から遊離していた。
江戸に米国艦隊が来訪したことに危機感を覚えた若者たちは、結果この萩市に集まることになり、その中には伊藤博文や、井上馨、山縣有朋、木戸孝允、乃木希典、高杉晋作、久坂玄瑞といった後に国家中枢を占める優秀な人物が多く集まることになった。
中でも長州ファイブと呼ばれた五人の長州藩士(遠藤謹助、井上馨、井上勝、伊藤博文、山尾庸三)は、松陰が江戸で処刑された後、松陰の意志をつぎイングランドに密航することを企んだ。
「もう二度と日本の地を踏めないかもしれない。しかし今行かなければ、この国の将来はない」という思いを胸に、彼らは長州藩主の黙認という形で、こっそり帆船の石炭室に隠れ混んで、上海へと出港した。その後、彼らは運よく、上海のマセソン商会の斡旋によって、イングランド行きの船に乗せてもらうことを許可されたのだという。初めは船員共々皆、英語すら喋れない日本人を怪しんだそうで、「何をしに行く?」という英国人の問いには「Navy(海軍学)」と答えるところを(「Navigation(航海術)」と彼らは毎回、間違えて答えていたそうである。結果として、船の見習いとして、船内での仕事を割り振られた彼らは、航路、水夫に殴られ、蹴られという散々な始末だったという。それでも何とか途中で誤解は解け、日本を変えるためにイギリスに勉強をしに行くという彼らの熱い想いは、船員たちにも伝わり、丁重な扱いを受けることになったそうだ。この扱いはイギリスに着いても続き、ロンドン大学への入学、および教授宅の居候が認められたという。今でさえイギリスは保守的な国と言われてるのだから、当時のイギリス人の東洋人に向けられた眼差しがいかほどだったか、想像するに難くない。(昨年、筆者がイギリスに旅行した際には道を尋ねた地下鉄の係員に、アジア人がイギリス人を呼ぶ時にはsirをつけなさいと強く言い返されたことがあった。)因みにこのおよそ40年後にロンドン大学に二年間留学した夏目漱石も「ロンドンに住み暮したる2年は最も不愉快なる2年なり」と回想している。夏目漱石はこの後ロンドン生活になじむことはなく精神を病み、「夏目発狂せり」との一報が国に届くと文科省より帰国命令を出され本国に帰還している。
総理大臣になるには、事務処理能力以上に人望が大切だと言われる世界だから、初代総理大臣を務め上げた伊藤には世界共通で人を動かす人情、人徳というものが備わっていたのかもしれない。ちなみに今でもロンドン大学には長州5の名前が刻まれた石碑が残っており、日本人留学生がよく尋ねにくるという。
ロンドン大学に通う傍ら、彼らはイングランド銀行で造幣技術を学んだり、グラスゴーの造船技術を学んだりと大忙しであったようだ。因みに、イギリス側は彼らが密航使だとはつゆにも思わなかったという。
長州藩士たちがイギリス生活に何とか馴染み始めた頃、今度は薩摩から密航使たちがやってきた。彼らは当然、自分たちが最初のイングランド来訪者だと思っていたので、イングランド銀行の名簿に日本人の名前を見つけたときは驚愕したという。その後も、多くの日本人が、個人、無許可問わずイングランド銀行にやってきては、既に名簿に日本人の名前があることを見て驚いたという。わずか数年の間にはるか離れた日本からこれだけ多くの人々がはるばる海を越えてイングランド銀行にやってきたということを考えると、当時の人々の国を思う気持ちが相当のものだったかわかる。今のように「日本はオワコン」といって簡単にアメリカ人に寝返れる時代ではなかったのである。日本で生まれたからには一生日本人なのだ。
因みにイングランド銀行を訪れた長州ファイブはのちの新政府の造幣局長を順繰りで勤めている。中でも遠藤は「日本人の手で日本の貨幣を作る」と意気込み、歴代2番目の長さで局長を務めた。
一緒にイングランドに渡った5人だったが、それぞれ帰る時期はバラバラだったようで、初代総理大臣を務めた伊藤博文や、初代外務大臣を務めた井上馨は「呑気にイギリスには居られない、今すぐにでも藩主に尊皇攘夷という考えを捨てさせなければ」と早々にイギリスから引き上げ、いかに外国が日本よりも優れている国かということを藩主に説いたという。
一人最後までロンドン大学を卒業した井上勝は、日本に帰国後、イギリスの蒸気機関車を日本に開設すべく、新橋ー横浜間の鉄道を開設に尽力し、今でも彼の功績を記念して東京駅には銅像が建てられている。また鉄道を開設するにあたり美田良圃を潰してしまったことに対する彼なりの埋め合わせとして岩手県に国内最大規模の農場「小岩井農場」を建設し、農場には資金繰りを助けた三菱の「岩」崎弥太郎、その保証人で国鉄社長の「小」野正義、そして「井」上勝と3人の名前の頭文字を冠してつけられた。(順不同)
他方、山尾はイングランド在住時代、長州藩からの資金が底をつくと、藩から莫大な後押しを受けていた薩摩藩士たちから資金援助を受け、何とかグラスゴーへと造船技術を学びに行き、(当時は車でも飛行機でもなく、船が最大の武器であった)、そこで学んだ造船技術を日本に持ち帰り、海軍建設に尽力したという。
こうして長州ファイブたちは、それぞれイギリス留学で得たものを携え、日本に帰ったのち、近代政府の樹立に尽力したのである。その後の長州藩は新政府軍を薩摩藩とともに樹立し戊辰戦争を経て、明治維新を達成した。
2年前、私は一年の浪人期を経たあと、会津若松市を訪れた。会津は戊辰戦争時、途中で幕府軍から新政府軍に寝返ったものの、長州藩によって子供の含め全員の皆殺しを命じられ、白虎隊の悲劇も招いた場所である。当時は、会津藩に同情したものの、国をひっくり返すためにはこれくらいの気概が必要なのかもしれない。(因みに会津若松市は120年の節目に提案された萩市との友好姉妹都市の誘いを断ったほか、3.11の際も萩市からの救援物資に対しては、感謝はするがこれで仲直りということはない旨を市長が萩市に向けて述べたという。現地人の背負った傷は今なお相当深いらしい)
山口県は伊藤博文を始め、現在までに8人もの首相を輩出し、首相出身県ランキングでは堂々の一位である。維新の影響のない戦後だけ見ても、岸信介、佐藤栄作、安倍晋三と人口比から比べると尋常じゃないくらい多い。「坂の上の雲」、「竜馬がゆく」を執筆した司馬遼太郎は長州人から優秀な政治家が次々と出てくるのを見て、おそらく遺伝子レベルで何か特有なものを持つのではないかと分析した。その「遺伝子」の起源たるものを河村元文科大臣は吉田松陰に求める。志半ばで処刑された松陰であったが、彼の思想は間違いなく弟子たちに引き継がれ、明治維新、近代国家成立への大きな原動力となった。
萩市にある松陰神社を訪れると、新型肺炎の影響もあってか人は閑散としていた。ここに今でも残る松下村塾は当時の面影をそのままに残している。曇天の下、松下村塾の暗い小屋の中は複雑な影を折りたたんで静まり、世俗を一切受け付けないかのように何かを湛えてじっとしているようであった。
そこで私は初代総理大臣から、現在の総理大臣までの山口県出身の政治家の系譜を思った。近くの水溜りには、精緻な松陰神社の鳥居の投影があり、梅の花は来るべき春に向けて、蕾を垂らしていた。
松陰神社の御朱印。
明日は島根県、津和野へと向かいます。