写経屋の覚書-フェイト「今回も朝鮮人の集団不法行為の話なの?」

写経屋の覚書-なのは「うん。今回は富坂警察署襲撃事件について見るよ」

写経屋の覚書-はやて「あー、ウィキにも載ってたやつやな」

写経屋の覚書-なのは「そうだね。ウィキの参考文献にある警視庁編さん委員会『警視庁史 第4巻 昭和中編上』(警視庁編さん委員会 1978)のp719~721を引用するよ」

写経屋の覚書-警視庁史719
写経屋の覚書-警視庁史720
写経屋の覚書-警視庁史721

         一 朝鮮人の富坂警察署襲撃事件
(一)事件の発端
 昭和二十年も押し迫った十二月二十六日と二十九日、連続して小石川駕籠町二五一番地先道路で、同一手口によるけん銃強盗事件が発生した。所轄富坂警察署と捜査第一課が合同捜査の結果、同月三十日、都下北多摩郡三鷹町二七六朝鮮人岩崎享吉(二三)、長谷川隆(二八)、金村某の三人を容疑者として逮捕した。
 当時、富坂警察署庁舎は戦災で全焼したため、小石川国民学校(小学校)の一部を仮庁舎としていたので、留置場は板張り急造の不完全なものであった。このため通謀や逃走のおそれがあったので、主犯と目される岩崎と金村は本部の留置場に、長谷川は隣接の大塚警察署の留置場に嘱託留置しておいた。
 翌年一月二日、富坂署司法主任鈴木警部補は、長谷川を自署に引き取って取り調べた後、そのまま自署の留置場に留置しておいた。

(二)事件の概要
 翌一月三日午後零時十五分ごろ、春日町交差点で交通整理に当たっていた同署の交通巡査が、朝鮮人らしい者約八十人がトラック二台に分乗して、富坂署方面に向かって疾走していくのを認めて不審を抱き、本署に速報した。
 報告を受けた宮坂警察署では、朝鮮人、台湾人による不法要求事件等が各所に続発していたときであったので、速やかに在署員三十名をもって万一に備えた。
 間もなく、トラック二台に分乗した朝鮮人約八十人が同署に乗り付け、警戒員の制止を無視して一挙に署内に殺到し、衆をたのんで署員を威迫し「留置中の朝鮮人を即時釈放しろ」と要求し、極めて不穏な形勢を示した。そこで、細野署僚警部は、数人の代表を署長と面会できるように取り計らうことを約し、しばらく廊下で待つように説得したうえ、自ら電話室に入り、この状況を警備隊中央大隊に通報し、応援隊の即時派遣を要請し、続いて警備課に急報しようとした。ところが、これに気付いた約二十人の朝鮮人が、電話室に乱入して送受話器を奪取、同室を占拠し、外部との通信連絡を絶ってしまった。署僚警部は、やむなく、署員に自動車で各派出所を回り、署員を本署に招集することと、隣接各警察署に対し応援急派を要請することを命じた。
 一方、朝鮮人代表と会った田國署長は、長谷川を自署に移監した旨の報告を受けていなかったため、被疑者の朝鮮人釈放を迫る彼らに対し「朝鮮人は留置していない」と要求を拒否した。
 しかし、彼らは、事前に長谷川が留置されていることを察知していたらしく、あくまで朝鮮人が留置されていると主張して、署長との話合いは意外に長引いた。このため、廊下で待機していた朝鮮人が騒ぎ出し「留置場はどこだ。案内しろ」とわめきながら署内を探し始め、これを制止する署員に対し、いす、棍棒等を振るって襲い掛かり、殴る蹴るの暴行を加えて、ついに留置場を探し当て、警戒に当たっていた司法主任以下数名が全力を挙げて阻止に努めたが、圧倒的多数の彼らの暴力を受けて負傷者が続出し、ついに留置場に乱入されてしまった。
 留置場に乱入した彼らは、留置中の長谷川を見つけると朝鮮語で合図し、監房の施錠を破壊し、長谷川を場外に連れ出した。
 長谷川を連れ出した朝鮮人は「署長は、朝鮮人は留置してないと我々を欺いた」などと署長をつるし上げ、午後一時十五分ごろ、署前に集結し、通りかかったトラックを停車させ運転手にけん銃を突き付けて脅迫し、そのトラックに乗って逃走した。
 一方、富阪署及び警備課から応援要請を受けた警備隊中央大隊は、応援のため直ちに一個中隊を出動させたのであるが、現場に到着した時には、犯人らは既に逃走してしまっていた。
 その後、富坂署はもちろん、手配を受けた各署がこの犯人の捜査に当たったが、前述のように終戦直後の混乱と当時の朝鮮人、台湾人に対する捜査権の問題などから不徹底なものに終わってしまった。

写経屋の覚書-はやて「ウィキはほとんどこれの丸写しなんやね」

写経屋の覚書-フェイト「ここにも『朝鮮進駐軍』なんて単語は出てこないね。あれ?『富坂警察署100年史』は引用しないの?」

写経屋の覚書-なのは「所蔵が東京都立中央図書館だからね、複写できてないんだよ」

写経屋の覚書-はやて「なのはちゃん。これって、田國署長はほんまに長谷川を自署に移監した報告を受けてへんかったん?なんか疑ってまうで」

写経屋の覚書-なのは「うーん、報告を受けていたけどしらを切ったって可能性もあるよね。ほんとのところはどうなのかな?」

写経屋の覚書-フェイト「ちょっと、なのは、はやて、思考が黒くなってるよ(汗) でもたしかに可能性はあるよね…」

写経屋の覚書-はやて「ま、署長が嘘ついとったとしても、朝鮮人集団が留置場を襲撃して暴力で容疑者の身柄を奪還したんは事実やし、それ自体の不法性は消えへん。せやけどこれは『朝鮮進駐軍』の所業いう証明にはならへん」

写経屋の覚書-フェイト「そうだね。朝鮮人が集団で警察署に押しかけて犯罪者を奪還したってことだけど、彼らが『朝鮮進駐軍』と名乗った証拠もないし、だいたい、体系的に組織化された集団っていう証拠もないしね」

写経屋の覚書-なのは「そうなんだよね。そういうわけでこの事件も『朝鮮進駐軍』の実在を証明するものじゃないってのが結論。じゃ、今回はここまでにするね」

大阿仁村事件
生田警察署襲撃事件
大滝事件

写経屋の覚書-はやて「今回は何の事件を見るん?」

写経屋の覚書-なのは「大滝事件といってね、奈良県の川上村・吉野町で起きた事件だよ」

写経屋の覚書-フェイト「あれ?前にも少し触れているよね?たしか作者が昔住んでた家のすぐそばで起こったって言ってた事件だよね」

写経屋の覚書-なのは「うん。『朝鮮進駐軍』初出テキストの検証(5)『朝鮮進駐軍』動画テキストの検証(3)で触れた事件だよ。じゃ、あらためて奈良県警察史編集委員会『奈良県警察史 昭和編』(奈良県警察本部 1978)p362~365を引用するね」

写経屋の覚書-奈良362
写経屋の覚書-奈良363
写経屋の覚書-奈良364
写経屋の覚書-奈良365

(前略)このような犯罪情勢の中で、特に注目すべきものに、当時「第三国人」と呼ばれた在日外国人による犯罪があった。これら一部の外国人は、公然と戦勝国民と自称し、白昼堂々とトラックを乗りつけて物資を強奪し、闇市場に運び込むという行動がみられた。大阪・神戸などに居住するこれら外国人が県内に侵入し、食糧品などの物資を保管していた各地の農協や倉庫をねらった。当時、県庁や桜井町・高田町役場などにあった砂糖・米などの旧軍需物資を目当てに押し寄せたり、いわゆる闇ブローカーとなった外国人の行動に町当局や地元警察は手を焼いたという。この事例の一つに事項に記述するいわゆる「大滝事件」がある。県警察部が当時、大阪との県境の要地に検問所(二上・王寺検問所など)を設置したのも、この種犯罪に対処するためでもあった。
 これら外国人犯罪の取扱いについては、終戦直後には適確な法的根拠が示されず、警察の権限行使の不明確さから警察官が犯行を現認してもそれを制止しうるだけで、彼らを逮捕できないのが実態であり、県下警察官の中には「正義の通らんような世の中で警察官をしていられない」と辞表を提出する者さえいるほどだった(大和郡山市居住故山岡正雄談)。
 しかし、その後いわゆる「大滝事件」発生一か月後の昭和二十一年二月一九日、GHQから「刑事裁判権の行使」についての覚書やこのほか二、三の覚書が日本政府に対して発せられた。すなわち、中国人は連合国民として連合国軍が逮捕権・裁判権を有し、朝鮮人は「解放されたる国民」であって連合国民に合まれず、一切の日本法令に服する義務があり、台湾人は「将来変更されることあるべきもそれ迄は朝鮮人同様の立場に置かれて可なり」とされた。内務省警保局は、これに基づいて
  21・3・2  刑事裁判権等の行使に関する件
  21・4・15  鉄道輸送に於ける朝鮮人等の不法行為取締に関する参考資料送付方の件
  21・5・8  朝鮮人等の不法行為取締に就ての参考資料送付の件
 などの関係指令を全国庁府県に通達した。

大滝事件 昭和二十一年一月十七日午後一時五十分ごろ、吉野郡川上村の大滝巡査駐在所から上市警察署(吉野警察署)に事件発生の報告が入った。署長は、時を移さず県警察部長に報告するとともに直ちに全署員・管内警防団員を非常召集し、司法主任らに現場へ急行するよう命じた。司法主任らが現場に着いた午後三時過ぎには、犯人たちは略奪物資を五台の貨物自動車に満載し逃走しようとするところであった。犯人は川上村大滝の倉庫に県の委託保管となっている綿布その他の物資があることに目をつけ、「中華民国領事館の命令でやって来た」と称して執ように物資引渡を迫り、倉庫の扉を破ってこれを略奪したのである。
 犯人は司法主任から物資搬出の証明書提示を求められても中華民国の国旗を示すなどとしてこれに応じようともしなかった。その後、警察官による積載物資の確認作業が行われたが、これに対しても午後五時ごろになると「神戸で話をつけよう」と強引に出発、逃走した。止むなく警察官六名と川上村警防団約四〇名が二台の自動車でこれを追跡した。
 犯人らが川上村東川領の中井橋(中居橋)に差し掛かった時、現場急行中の署長ら六名の警察官に阻止されたが、「敗戦国日本警察の命令に従わなければならない理由はない」などとくってかかり、その上、犯人四八名が各こん棒・ジャックナイフをもって警察官に躍りかかり、署長ら四名の警察官に負傷させてこれを突破、再び逃走を開始した。
 国樔村(吉野町)のカキノセ仮橋(現存せず、写真参照)では、犯人逃走阻止のため地元巡査駐在所員指揮のもとに国樔村の警防団員が橋梁破壊作業を進めていた。ここでも犯人は警察官に集団で暴行を加え、全身打撲・骨盤骨折の重傷を負わせた上、これを拉致し逃走を続けた。続いて上市警察署前付近で材木を路上に並べて阻止線を張った警察官や警防団員に対しても、けん銃を突き出して抵抗し、これに立ち向かった警察官二名と中竜門村警防団員一名を負傷させて逃走した。
 このようにして犯人は次ぎ次ぎと阻止線を突破し逃走を続けたが、大淀町下淵巡査駐在所前に差し掛かったとき、県警察部から出動要請をうけ応援に駆け付けた九八師団砲兵隊管下の米将兵ら一行に遭遇し、自動小銃を突き付けられたため全員両手をあげて降参し、そこに待機していた下市警察署員に逮捕された。
 この事件は、その後奈良地方裁判所で審理され、昭和二十二年九月十八日公訴棄却、即日、連合軍裁判所に移管となり、同裁判所は翌二十三年十二月三十日主犯格三名に重労働五年の刑を言渡した。

写経屋の覚書-フェイト「この上市警察署が作者の住んでた家のすぐそばなんだよね?」

写経屋の覚書-なのは「そうだよ。犯人グループが逃走した道は当時の国道で、車二台がどうにか行き違いのできる程度の幅なんだよ」

写経屋の覚書-はやて「たしかこれって、『朝鮮進駐軍』動画テキストの検証(3)で見たように、犯人グループは台湾人・朝鮮人・日本人の混成やったやんなぁ」

写経屋の覚書-なのは「うん。事件と犯人グループについては朝日新聞に詳しく載ってたね」

写経屋の覚書-460119朝日(大阪)

1946年1月19日付朝日新聞(大阪版)
物資を狙ひ暴行
【奈良発】十七日午後一時半ごろ奈良県吉野郡川上村大滝山見嘉志郎さん方の倉庫へ大阪市福島区海老江町二丁目料理店業台湾省民林則忠ほか四十八名(運転手など十二名の日本人を除く以外は台湾省民と朝鮮人)か五台のトラックで乗り込み、保管中の地方事務所の旧軍需物資を強制的に買上げると称し、酒三石(一升瓶入り三百本)砂糖十六樽、缶詰二十箱、綿布三十六梱などを積込み立去る途中急報により駆けつけた植田上市署長ら警官七名を棍棒で殴打し、人事不省に陥らしめた上、上市署に至り窓ガラスを破壊して大阪に引揚げんとしたが、大淀町下渕で米軍第九八師団兵士並に奈良県米軍政部員の応援によつて逮捕され、一味は奈良刑務所と下市警察署に折半収容された

写経屋の覚書-はやて「川上から下渕までは一本道やけど、この下渕を過ぎたら、北上して芦原峠を越すんか車峠を越すんか、それともそのまま吉野川沿いに下って五条・橋本に出るんか選べるさかい、簡単に捕まえられへんようになるもんね。よう下渕で捕まえたもんやで」

写経屋の覚書-フェイト「逮捕が1946年1月17日で、公訴棄却が1947年9月18日、判決が1948年12月30日って、刑の確定まで3年近くかかっているんだね。ちょっと長過ぎないかな?」

写経屋の覚書-なのは「ほんとだね。どんな事情があったのかはわからないけど」

写経屋の覚書-はやて「ま、結局この事件も『朝鮮進駐軍』とは関係あらへんいうことでええねんな?」

写経屋の覚書-なのは「うん。名乗ってもないし、第一、台湾人・朝鮮人・日本人の混成グループだしね」

写経屋の覚書-フェイト「そうだよね…これを『朝鮮進駐軍』の関与した事件としたり『朝鮮進駐軍』実在の証拠とするなんてとてもできないよね」

写経屋の覚書-なのは「そういうことだね。じゃ、今回はここまでにするね」

大阿仁村事件
生田警察署襲撃事件

写経屋の覚書-フェイト「タイトルを見ると、今回は朝鮮人集団不法行為について見るんだね」

写経屋の覚書-はやて「いわゆる『朝鮮進駐軍』の話やな」

写経屋の覚書-なのは「うん。今回は神戸の生田警察署襲撃事件について見るんだよ。まずはウィキを引用するよ」

生田警察署襲撃事件

第1回目の襲撃事件

1945年12月24日午後9時頃、50名を超える朝鮮人の暴徒が「岡山の刑事を出せ」と叫びながら署内に侵入。署員を拳銃・日本刀・匕首を突きつけて軟禁した上で、岡山県警察部の捜査員を探し始めた(理由は後述)。捜査員らが脱出に成功した一方で、暴徒によって署内の警察電話線が切断されたため、警察署は外部との連絡手段を絶たれてしまった。その後、事件を聞きつけた連合国軍部隊(当時日本は連合国軍の占領下)によって暴動が鎮圧された。

襲撃以前、岡山市内にて7人組による拳銃強盗事件が発生しており、強盗犯を追って岡山県警の捜査官が神戸市まで出張にきていた。この捜査員に生田署が協力していたため、暴徒の襲撃を受けることになった。もっとも以下に挙げた資料には、確かに報復を仕掛けたのは朝鮮人の一団であったが、元の拳銃強盗事件の犯人が朝鮮人であったのかどうかまでは記されていない。

第2回目の襲撃事件

翌年1946年1月9日、三宮ガード下で賭博団(国籍未詳)が検挙されたことを受け、30-40人の朝鮮人が犯人の奪還を目的に再度署内に侵入したが、この事件も進駐軍の協力を得て鎮圧し、首謀者3人を検挙した。

写経屋の覚書-はやて「参考文献として「兵庫県警察史編さん委員会編『兵庫県警察史 昭和編』兵庫県警察本部、1975年」って書いとるね」

写経屋の覚書-なのは「じゃ、その兵庫県警察史編さん委員会『兵庫県警察史 昭和編』(兵庫県警察本部 1975)p445~447を見てみるよ」

写経屋の覚書-兵庫445
写経屋の覚書-兵庫446
写経屋の覚書-兵庫447

 第三国人をめぐって さて、以上みてきた強窃盗団は、三宮自由市場と深いかかわりを持っていた。自由市場の実態はヤミ市であり、更には泥棒市場としての側面を持っていたことは既に述べた。その自由市場に大きな勢力を張っていたのが中国人・台湾人・朝鮮人などのいわゆる第三国人であった。彼らは戦勝国意識を誇示するため腕章をつけて行動し、敗戦国日本の警察権行使を認めようとしなかった。連合国の占領政策が具体化しない段階における、日本警察のもつ捜査権の不明確さと、日本警察官の敗戦国意識が影響して、その取締りの徹底を期し得ず、残念ながら一時期同地区は無警察状態に陥った。そうした状況下で、これら第三国人とかかわりあいをもち三宮自由市場を根城とする、凡野こと菅谷政雄が率いる国際ギャング団の掃滅作戦が展開されたのである。この事件の一斉検挙は警察の弱体と無能を非難する世論の中で、本県刑事警察陣が警察威信を回復し、その態勢建て直しを図る、いわば起死回生の策であった。
 ところで、国際ギャング団事件を語るには終戦直後における第三国人の動静を、ひとわたり眺めておかねばならない。
 終戦当時本県には、神戸を中心として約三二〇〇人の華僑、約二万(神戸四五〇〇)の台湾人と、一三万に近い朝鮮人が居住していたが、これらの人々の処遇をめぐって種々の紛争が起こった。終戦によって日本の統治から解放された台湾・朝鮮ではあったが、在日朝鮮人・台湾人の具体的な権利義務問題は、すべて占領軍当局の政策決定を待たなければならなかった。G・H・Qが朝鮮人・台湾人の一般犯罪に対する日本の裁判権を確認したのは、昭和二十一年二月十九日のことであるが、例外的に本県では、これに先立つ一月三十日に、第三一軍政中隊保安宮ハイヤー憲兵大尉の名で、次のような布告が出され神戸市内の要所ならびに各官公署に掲出された。
  (1)各国人は現行の日本法令に従うこと。
  (2)日本警察の法的命令は、国籍の如何にかかわらず各人により遵守さるべきこと。
  (3)現行の保健・衛生・保安に関する諸法令ならびに、民法・刑法その他如何なる現行法令を問わずこれに従い、その法令に対する警察措置を妨害する者は逮捕処罰せらるべし。                             (『神戸新聞』昭・21・1・31)
 このように本県では他府県に先駆けて、進駐軍警察当局から第三国人の不法行為は許されないとする見解が示されたわけであるが、それとても昭和二十一年に入ってからのことであり、それ以前は日本警察が準拠すベき何らの方針も示されていなかったのである。
 こうした、いわば無重力状態の中で第三国人の不法行為が相次いだ。そのまず第一は華工(中国人労務者)によるいくつかの事件である。中国人労務者の実態については、221ページで触れたが、終戦直後の八月二十日の夜約八○○人の中国人労務者が、戦勝国民としての生活権擁護を理由に海岸通の三井倉庫に侵入し、米・砂糖などを強奪して以来毎夜のごとく倉庫を襲い、あげくの果てには水上署ならびに警察部外事課に乱入のうえ暴力を揮うに至った。他方、逆に相生市内では播磨造船所で、中国人労務者の無法ぶりに激しい憤懣を抱いていた刑余者が、ささいなことから中国人労務者三人を殺害するという事件も起こっている。
 しかし、この中国人労務者問題はまもなく解決し第三国人問題は日本人・朝鮮人・台湾人による混成犯罪者集団対策にしぼられ、特に三者相互間の角逐に発する抗争は、治安上最も重視しなければならない問題となった。ところが残念ながら当時警察の威信は地に落ち、三宮自由市場は無法をほしいままにしていた。そうした中で警察にとり極めて不名誉な事件が突発した。昭和二十年十二月二十四日の夜半、僅かな時間とはいえ生田警察署が暴徒に占拠されたのである。この事件は生田暑が岡山県警察部の捜査に協力したことが発端となっている。同署では岡山市内で発生した七人組の拳銃強盗犯人を追って神戸に出張してきた岡山県の捜査員に協力した。ところが午後九時頃「岡山の刑事を出せ」と叫びながら、突然乱入してきた五〇人をこえる朝鮮人の一団が、拳銃・日本刀・匕首を突きつけて署員を軟禁状態に置き、署内の捜索を始めた。岡山の捜査員は幸い脱出に成功したが、暴徒は電話線を切断し、外部との連絡手段を絶ってしまった。急を聞いて進駐軍M・Pがジープで駆けつけ事態はようやくにして拾収し得たが、この事件は無法者集団を増長させる結果をもたらした。一月九日、生田署が三宮ガード下でハッタリ賭博団を検挙した際、またも三、四〇人の朝鮮人が署内に乱入し犯人を奪還しようとしたのである。しかし、同署では断固これを制圧し、M・Pと協力して首謀者とみられる三名を検挙した。

写経屋の覚書-フェイト「たしかにウィキにあるように「確かに報復を仕掛けたのは朝鮮人の一団であったが、元の拳銃強盗事件の犯人が朝鮮人であったのかどうかまでは記されていない」よね」

写経屋の覚書-はやて「ちょっと待って、フェイトちゃん!警察史に「第三国人問題は日本人・朝鮮人・台湾人による混成犯罪者集団」とあるように、犯人集団が朝鮮人だけで構成されてたかどうかは分からへんけど、問題はそこ(ちゃ)うやろ?朝鮮人集団が官公署を襲撃したことが問題やん」

写経屋の覚書-なのは「そうだね。この場合、はやてちゃんが言うように、朝鮮人集団が警察署を襲撃して仲間を奪還しようとしたってことが事件の本質なんだよ。実は新聞記事にも出てるんだけどね…」

写経屋の覚書-451227朝日(大阪)

1945年12月27日付朝日新聞(大阪版)
強盗犯を一味が奪ひ返す
これはまた警察署に留置中の強盗犯が一味によつて強奪されたといふ無警察ぶりが神戸に起つた――

岡山市南方酪農林三郎方へ去る二十三日夜十数名の集団強盗が押入り、日本刀、ピストルなどで脅迫、家人を縛りあげて現金五千円、衣類、時計などを強奪一同車座となつて飲酒ののち逃走したが、このうち数名を二十四日岡山県刑事課員が神戸市で逮捕、生田署に留置取調べにかゝつたところ、同夜五十余名の一味が生田署を襲撃、犯人のうち二、三名を奪還して逃走した

一味の強盗団は大掛りなものらしく兵庫、岡山県警刑事課が目下全力をあげて犯人検挙につとめてゐるが右につき生田署では言明を避け、たゞ奪還された事実を認めてゐる

写経屋の覚書-フェイト「え?逮捕した犯人は奪還されたの?警察史にはそんなこと書いてないよ!」

写経屋の覚書-はやて「あまりにも不名誉やさかい、口拭って書かへんかったんかな?」

写経屋の覚書-なのは「新聞記事だと生田署のほうも奪還されたことを認めてるみたいだしねぇ…当時兵庫県警察部の刑事課長だった秦野章の自伝『逆境に克つ―「一日生涯」わが人生』(講談社 1988)p128には警察史を引いた記述しかしてなくて、奪還されたとは書いてないんだけど、続けてこんなことは書いているんだよね」

 私が刑事課長になる以前にも、彼ら集団暴徒が警察署に侵入し、逮捕した犯人を強奪していったことが一度か二度あった。まさに、警察の威信の失墜ここに極まれり、である。
 県警察部にいた私も同様の体験をした。部下の刑事がそういう外国人を現行犯逮捕してきたときのことである。それを知って、仲間が集団で犯人を取り返しに来た。
 刑事課長席にいた私は、たちまち彼らに取り囲まれてしまった。
「戦争に負けた国の警察のくせに、なぜ戦争に勝った国の人間を逮捕するのか!」
「俺たちは戦勝国の人間なんだ。同胞を返せ!」
 結局私はだんまり作戦をとることにした。ひとたび私が口を開けば、彼らとの交渉のテーブルにつくことになる。警察の威信を守るためにも、ここは沈黙しかないと判断したのだ。
 彼らは私のまわりでののしり、さわいだ。言葉はわからないが、彼らの語調と顔つきで内容はおよそ察しがつく。たとえ半日続こうが、一日続こうが、私はひとことも口をきかなかった。根気くらべだ。いくらさわいでも、口を開こうとしない私に、さすがに結束の固い彼らも、ついにアゴを出しはじめた。なんど押しかけても同じとあって、彼らが押しかけてくる回数は目に見えて減った。

写経屋の覚書-はやて「…やっぱり、生田署事件で犯人奪還されとったん(ちゃ)うんいう気がするで…」

写経屋の覚書-なのは「まぁ断定はできないけどね。ともかくこの事件も「朝鮮進駐軍」の実在を証明するものじゃないよね」

写経屋の覚書-フェイト「そうだね。朝鮮人集団が朝鮮進駐軍を名乗ったなんて記述も出てこないし、その朝鮮人集団も制度化された組織の行動ってわけじゃなくて、単に強盗集団ってことだしね」

写経屋の覚書-はやて「ただ、朝鮮人あるいは台湾人集団、所謂三国人集団によるの官公署襲撃があったこと自体は事実やって言えるやんなぁ」

写経屋の覚書-なのは「うん、前に史料の信頼性の担保で田岡自伝を見た時にもちょっとだけ触れてる話なんだよね」

写経屋の覚書-フェイト「あ!警察史と新聞記事で生田署襲撃事件の詳細は確認できるけど、兵庫署襲撃事件については警察史と秦野回顧録に少し書いてるだけで詳細が分からないって話だったよね」

写経屋の覚書-なのは「そうそう、その話だよ。じゃ、今回はここまでにして、兵庫県警察史についてはまた別の記述をいつか見ていこうかな」

大阿仁村事件