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小川村塾ブログ

小・中学生・高校生のための学習塾 [小川村塾]
〒417-0842 静岡県富士市三新田9-20TEL 0545-32-0662   
生徒一人ひとりに合わせて「分かりやすい」を心がけて講習を行っています。

挨拶(あいさつ)をする。

塾において挨拶は重要なものだと思っている。

 

多くの生徒は塾において挨拶をしてくる。

「こんにちは」「さようなら」「ありがとうございました」

 

丁寧に挨拶をする生徒もいる。

でも 残念な事に挨拶をしない生徒もいる。

 

朝起きたら日本だったら、「おはようございます」「おはよう」

寝る前には、「おやすみなさい」「おやすみ」

 

色々な国が色々な言葉で「おはよう」「おやすみ」

を言う。

国々の風土に合った「おはよう」「おやすみ」だ。

 

朝起きたら「さあ、これから頑張ろう」という「おはよう」

寝る時には、これから安眠をという「おやすみ」

 

これらの言葉が各国の言葉で言われているはずだ。

各国の風土に合った言葉で言われているはずだ。

 

暑い国では朝起きた時に暑いけど頑張ろう。

寒い国では言葉も凍るような寒さだけど今日も一日頑張ろう。

 

挨拶はそんな気持ちが込められた言葉のはずだ。

だからこそ挨拶は大切にしなければならない。

 

人に会う時に挨拶は重要だ。

でも、挨拶もしない。

そういう人もいる。

 

挨拶は重要なコミュニケーションの道具である。

使える道具はできるだけ有効に使った方が良い。

 

 

「どうしてだろう」を体中いっぱいにする。

いつかその「どうしてだろう」が出てくるのを待つ。

出てきたら、それを手にする。

 

はじめて手の中に「どうしてだろう」の中身を見るかもしれない。

中身を見ようとするかもしれない。

そんなことになればしめたもの。

ならなくてもよいと考えているくらいでちょうどよい。


「どうしてだろう」が「そうなのか」になって「それはこうだからなのか」と思考がつながるのがよい。

そうなれば論理的思考ができるようになり、物語などの起承転結が分かりやすくなってくる。

 

考え方の道ができる。

問いかけから結論までの道が開けてくる。

見えてくる。

 

本を読むのが好きな子供に本を読んだ後に感想文を書くように言う。

読解力がつくだろうと思ってよかれと思って言う。

 

でもそれが逆効果になることが往々にしてある。

読書感想文を書くということは好きではない。

ただ本を読むことが好きなのだ。

 

その結果、読書感想文を書くのが嫌で本を読むこともやめてしまう。

本を読むことも嫌になってしまう。

逆効果である。

 

だから、考えることも、どうしてだろうと思うことも、思うだけで調べる必要はない。

そう思っていた方がよい。

 

強制から積極性、自主性はなかなかうまれない。

強制は受動を作るだけで自主性はできない。

 

今の時代はちょっと調べようと思ったらすぐに何でも調べることができる。

そんな時代だからこそ、疑問に思うことを多く持ち、またそれがすぐ調べることができるようになれば、分からないことがどんどん理解できていく。

仕組みが分かると面白い。

 

理解できたことの喜びも多くなってくる。

そうなればよいと思っている。

また、それができる時代でもある。 

 

 

今の時代調べようと思えばすぐ調べることができる時代である。

スマホでちょっと検索なんて、みんなやっていることだ。

 

「どうしてだろう」と思う気持ちは大切である。

子供が「どうしてだろう」と思った時、子供のその気持ちを大切にしようと思って、「それじゃ一緒に調べてみましょう」とか、「その疑問を解いてみよう」とか言う。

 

その「どうしてだろう」という気持ちの答えを出そうとする。

往々にしてそのようにしがちだ。

 

子供も喜んで一緒に調べてみようとするならよい。

しかし、そうではない場合もある。

そこまでしたくない。

と思うこともあるだろう。

 

そんな気持ちにはお構いなしに一緒に調べようとする。

自分で調べてみなさい、と言う。

 

それは子供の「どうしてだろう」と思う気持ちを段々失くして行ってしまう可能性がある。

大切なことは「どうしてだろう」と思うことだ。

それが重要である。

答えは二の次だ。

そのように思っている方がよい。

 

「どうしてだろう」がいっぱい集まると、いつかその「どうしてだろう」が体の中から出てくる。

どれか一つの答えが見つかることがある。

 

そんな時、見つかった時に他の物についても答えを出そうと思うかもしれない。

そんなつもりで子供の「どうしてだろう」を見守る必要がある。

 

「どうしてだろう」を体中いっぱいにする。

そして、いつかそれが出てくることを待つほうがよい。

 

 

何故だろうと思うことが大切。

疑問を持つことが大切。

別にその疑問に対してどうしてだろうと調べる必要はない。

疑問のままで構わない。

 

「どうしてだろう。」「どうしてそうなるのだろう。」

と思うことが大切。

その「どうしてだろう」を体の中にたくさんため込む。

 

たくさん体の中に疑問が詰まっていると、そのうちなんかの拍子で疑問の一つが体の中から出てくることがある。

 

その疑問が解けることがある。

分かることがある。

 

その分かった時、そうだったのかと思う時、体は喜ぶ。

その喜びが次に疑問を解こうと思わせる。

 

住んでいる場所の関係上、目の前に富士山が見える。

いつも同じ姿をしているわけではない。

 

富士山の頭に笠雲がかかると雨が降ると言われている。

実際に雨が降る。

 

どうしてだろうと思う。

どうしてだろうと思ってそのままにしておく。

 

中学の理科の天気の問題にこんな問題があった。

 

(問1)

前線付近や山の近くでは水蒸気をふくむ空気が上昇して雲が発生しやすい。

標高0mにある気温25度、露点15度の空気が上昇していくと何mのところで雲が発生するのか。ただし、空気は100m上昇するごとに1度下がるものとする。

 

(問2)

富士山には秋から初冬にかけて笠雲がかかることがある。

「富士山に笠雲がかかると雨」など、いろいろなことわざがある。

その笠雲にはいろいろな種類があり、低いところにできるものと高いところにできるものがある。

このように笠雲のできる高さに違いが出るのはなぜか。

雲のでき方から考えられる理由を述べなさい。

 

こんな問題を見た時に、いつも見ていた富士山に対して思った「どうしてだろう」が、体の中から出てくる。

 

すると、この問題がとても気になって、しっかり解いてみよう。

どうしてか、しっかり答えを出したい。

知りたいと思うようになる。

体の中から疑問の一つが飛び出した。

 

上記の簡単な解答

(問1)

露点は現在含まれている水蒸気が水滴になる温度のこと。

露点15度の場合、気温が15度になると水滴が発生する。

雲は水滴の集まりと考えると、上昇した空気が15度になれば雲が発生することになる。

つまり気温25度が15度に下がれば雲が発生する。

25度-15度=10度 

空気は100m上昇すると1度下がるので10度下がるには

100m×10度=1000m

よって1000mのところで雲が発生する。

 

(問2)

空気中に含まれる水蒸気量が違うため。

(空気中に含まれる水蒸気量が多いと露点が高くなり地上の気温と露点の差が少なくなり(問1)から上昇する高さが低くなる。

結果、空気中に含まれる水蒸気が多い場合は低い位置に雲ができる。)

小学1年生で学習する足し算、引き算において最近は学校でも指を使っての足し算引き算をしないように注意しているそうだ。

 

5-3=2 というような計算を暗記するような風潮もある。

そうすれば計算が速いからだ。

 

実際に計算は速くなる。

中学受験においても円周率の関係する計算などは暗記させられる。

限られた試験時間においては計算にかかる時間は速い方がよい。

 

インドの数学が発達している要因の一つに2けたの九九を覚えているということだと聞いている。

 

ただこの計算の暗記には弊害がある。

足す、引くの概念が頭の中に出来にくい。

 

5-3=2 という計算を暗記しているだけでは、ただの数字が頭の中に入っているだけとなる。

 

りんごが5個あります。

みんなで3個食べました。

あといくつ残っているのでしょうか。

このような問題の内容が理解しにくくなってしまう。

 

丸を5個描いて3個消すでもよいし、棒(線)を5本書いて3本消すのでもよい。

指を5本立てて3本折って残りを数えるのでもよい。

とにかく、目で実際に多くなったり少なくなったりするのを見ておくというのが大切なことである。

 

これが小学1年生など低学年で体得しておくべき重要なことになる。

 

往々にして計算が速くできるということが、「算数のできる」につながるように思われがちだ。

でも、そこに落とし穴がある。

 

当然、最低限の計算はできるということは前提だ。

ただ、計算の速さだけに重点を置いてはならない。

 

低学年の時には計算の暗記よりも概念を覚えておくのが後々のことを考えると重要になってくる。

 ということは知っておかなければならない。

 

 

らんちゅう(金魚)を飼っている。

6、7年ほど飼っているらんちゅうがだいぶ前から転覆病になっている。

 

転覆病とは簡単に言えば体が浮いてしまって水面に浮かんでしまう病気である。

このらんちゅうは体長12cm位でかなりまるまるとした体形の老体である。

 

転覆病に効果があるという餌に変えて与えていたが効果がみられないままだった。

だんだんと水面で動かなくなり、死んでいるのかといつも心配をして見ていた。

 

もうこれは仕方がないとあきらめていた。

ダメもとで、らんちゅうが好きな餌とネットに書かれていた餌を購入し与えてみた。

 

すると、今まで死んだように水面上で逆さになって浮いていたらんちゅうがその餌欲しさに底に落ちた餌をがんばって食べに来た。

 

今まで満足に泳げもしなかったらんちゅうが餌を食べたくて無理やり泳いできている感じだ。

 

その後、そのらんちゅうは餌を与えた時には底の方に泳いでくるようになった。

転覆病が治ったわけではないけれども、体を動かして泳ぐということがされるようになっただけでも改善されたと思われる。

 

このことと同様に、勉強することも自分が好きだと思われるものならば勉強しようという気持ちになれるということは誰もが知っている。

 

まずは自分が好きだと思われる科目を伸ばす。

このことを意識した勉強法を考える。

これが効率のよい勉強法のひとつとなります。

長所伸展法です。

 

これを上手く利用して勉強することを習慣づけることが大切です。

まずは得意科目を作ること。

 

 

この前のサッカーW杯結果においてPK戦によって勝敗が決まるのが多いような気がした。

 

サッカーにはそんなに詳しくないけれど、守備に徹して引き分けに持っていってPK戦で勝ちにいくというのも勝つ方法としてはアリとなる。

要はPK戦で勝敗を決めるということだ。

もうそんなことは常識だよと言われるかもしれない。

繰り返して言うけれども、サッカーには詳しくないので…。

 

その方法で勝ちにいくなら、ゴールキーパーと選手にはPKの練習を特別にしてPK戦では負けないようにしなければならない。

「効率的な練習方法はどんな方法があるのだろうか。」

と思っていたら、テレビで興味のあるPKの練習方法を言っていた。

 

それは「毎日の練習の本当の最後に一本だけPKの練習をして終わりにする。このPKは実践と同じ気持ちで真剣に一本だけ蹴る。」

ということだった。

 

この一本だけの実践と同じ真剣勝負でPKをして練習終了。

これは効果的だ。

 

実践と同じ気持ちで最後に締める。

これはサッカーだけに限ったことではない。

なんでも実践と同じ気持ちで緊張感を持って行うことは効果的である。

 

勉強に対しても同じことが言える。

普段からテストを受ける気持ちで勉強できれば効果はより上がる。

 

そのためには環境からテストのときと同じ状態にしておくことが必須条件となる。

まずはテストを受ける時の周りの状況を想像してみよう。

それができたら、どのように勉強していけばよいかも分かってくる。

 

 

 

 

字の大きさ、丁寧さは勉強ができる、できないに関係するのか。

 

字が大きいと勉強はできない?

小学3年生から上の学年では字の大きさに注意する必要があります。

字が必要以上に大きい場合は 注意しなければなりません。

 

字が大きいと字に勢いがついて字が雑になります。

算数の計算など筆算では目に入ってくる範囲は決まっているので視覚的には字が大きいと狭い範囲の情報量になります。

すると計算がしにくくなるわけです。

 

この状態が中学生まで続くと数学において計算問題及び文章問題に影響してきます。

それらの式の順序がちゃんとつながって縦に書いていくことができなくなります。

等式の左辺と右辺が等しいというような状況にならず間違いが多くなるのです。

 

その点を考えると早めに字は適切な大きさで丁寧に書くようにしなければなりません。

算数の筆算等で順序よく整理された計算をしていく習慣をつけなければなりません。

 

そのためには式を書かないでメモ的な計算を所々に書くことで問題を解いていく癖がついている場合はなくさなければなりません。

 

この方法では思考が整理されずミスが多くなります。

字を大きく雑に書くことはこのようなメモ的な計算による解法につながります。

 

その事を考えるとまずは大きすぎる字を書かない。字を雑に書かない。

いうことを小学校低学年から習慣づけておくことが重要です。

 

当然、適切な大きさで丁寧な字を書くことだけで勉強ができるようになるわけではありません。

しかし、勉強ができるようになる一つのステップではあります。

 

 

 

0は曲者
数字の0は何もないと覚える。
でも、その何もない0の左横に1を書いて10とすると十進法では1が10個集まった10となる。

ここで普通に使っている0が計算では大きな落とし穴になる。
例えば、小学4年生で学習する一桁でわる割り算で824÷4のように答えの十の位が0になるような計算において0を書かない子供がいる。

割り算の筆算で答えが立たない位には0を忘れずに書く、
というのがこの計算での注意点である。

でも、よく考えると何もないのだったら何も書かないのでも良いのではと考えることもできる。
確かに一理ある。

そんなことを考えて計算において答えに0を書かないということはないだろうが、答えに0を書かないで間違える子供はいる。

840÷4のような計算の時もそうである。
計算でつまずく時の一つがこの0という数字が関係してくる。

0という数字は曲者だと思っている。

 

ずいぶん昔のこと、東京立川の映画館で観たい映画が上映されるので立川に行った。

 

映画館がどこにあるのかも知らないで行ったので、立川駅の周辺を歩き回って映画館を探した。

 

見つからないので人に聞くしかないと思った時、信号待ちで立っていた前の二人組の会話が聞こえてきた。

 

一人が通りを指さしながら

「あそこの映画館の前を通って……。」

その姿はまるで僕に「映画館はあそこにあるよ。」

と教えてくれているようだった。

 

図書館でよく本を借りていたころの話。

 

10冊くらい本を図書館で借りて自宅に戻って借りてきた本を見ると、借りた覚えがない本が一冊あった。

 

著者名は僕が知らない人だった。

その本を読んで、その後、その人の書いた別の本をすべて借りたり、購入したりして読んだ。

 

映画館の時に感じた。

一生懸命がんばっていれば道が開ける。

見えない力が引いてくれる。

一生懸命がんばることが必要だ。

 

図書館の時に感じた。

自分に必要なものは目の前に突然現れる。

それが自分に必要なものか、どうか。

それが分かるか、どうかだ。