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小川村塾ブログ

小・中学生・高校生のための学習塾 [小川村塾]
〒417-0842 静岡県富士市三新田9-20TEL 0545-32-0662   
生徒一人ひとりに合わせて「分かりやすい」を心がけて講習を行っています。

今年も2階の屋根の軒下に、鳥が巣を作り始めたようだ。

ガサゴソ、ピーチク、うるさい。

非常に困っている。迷惑だ。

 

ツバメが巣を作るなら、縁起が良いということで、皆ツバメの巣は守っている。

ツバメは害虫を食べる益鳥として、また、人通りの多い家の軒先に巣をつくるので、商売繁盛の象徴として大切にされている。

 

友人の歯科医の玄関の軒下にも、毎年ツバメが巣を作っている。

「ツバメの巣あり注意」なんて張り紙がしてある。

 

東名のサービスエリアにもトイレの軒下に、やはりツバメが巣を作っていた。

これも「頭上注意」なんて張り紙がされていた。

 

やはり、ツバメは守られているようだ。

ツバメなら糞のことを考えると躊躇するが、やはり歓迎ということだろう。

 

春になると、鳥たちの姿が映像で流される。

ピーチク、ひな鳥が餌を欲しがっている姿や、親がくちばしでひな鳥に餌を与えている姿などだ。

 

映像は微笑ましい、親子愛を感じさせるような作りになっている。

特に親の子への愛情が見てとれる。

 

子が成長しなければ種が途絶えてしまう。

そんな切実な思いも見られる。

 

何年か前に東京でカルガモの親子が、よちよち歩いて引っ越しをしている姿を見たことがある。

これもまたよくテレビなどで引っ越しの様子がニュースになっている。

 

それを実際に目の当たりにして、驚きと共に感動をした。

なんか有名人を見た時と同じような感覚になった。

 

親鳥の後をひな鳥が7羽くらいよちよちと一生懸命に歩いている。

 

その姿は人間社会にも当てはまる。

 

親は子供に愛情をそそぐ。

子供には分からないかもしれないけれど。

子供は親の愛情に包まれている。

 

自分は、そんな子供達を教えている。

それは肝に銘じておかなければならない。

 

 

字について考える必要があります。

 

字が上手いか下手かは関係ありません。

それよりも字が丁寧に書かれているかどうかが問題です。

 

小学1年生と小学6年生では、当然、書く字の大きさは変わってきます。

小学1年生では大きく、間違えないように注意して書くようにします。

 

小学6年生では字を書くということは文を書くことになります。

小学1年生のように字を大きく書くことはありません。

 

このように学年ごとに字に対する考え方が変わってきます。

 

小学高学年になっても、小学低学年の頃のように大きな字で書いている生徒もいます。

これは、変えていかなければなりません。

 

大きな字を通常の大きさの字と同等の時間で完成させるためには線を書く速度を速くしなければなりません。

 

円を手で描くのを想像してみてください。

半径2㎝の円を手で描くのと、半径5㎝の円を描くのとを比較してみます。

 

同じ速さで線を描いていけば、当然、半径5㎝の円の方が時間はかかります。

2つの円の完成時間を同じにするならば、半径5㎝の円の線を描く速度を速くするしかありません。

 

その結果、線は雑になってしまいます。

 

文字は線の組み合わせで成り立っています。

上述の理由より、字が大きいと一文字を書く時間がかかることになります。

 

小学高学年になると板書を写す量など増えてきます。

板書を写す時間も速くなければなりません。

そのためにも字は大きくてはいけない。

ということになります。

 

板書を写す時間が足りない。

 

その結果、写すことをしなくなってきます。

写す字が雑になってきます。

後から何と書いてあるのか自分でも分からない。

なんてことにもなります。

 

また、速く字を書くために「う」を「-」と書いたりしてしまいます。

たとえば、「ぐうすう」を「ぐ-す-」なんて書いたりします。

このような癖がつくとなかなか癖はなくなりません。

 

字は丁寧に書く。

これは重要なことです。

 

そんなこと言われなくても分かっている。

だけど、現実はなかなかできない。

 

それも分かります。

意識の中に入っているだけでも違ってきます。

 

まずは意識してみてください。

 

 

まずは子供の意識が勉強のできるようになる状態なのか見てみる。

 

小学校低学年においては、親の子供への干渉はその後に大きな影響を与えます。

テスト結果だけでは見えないものがあります。

勉強している時、子供は意識が勉強に向いているのか。

知る必要があります。

 

いちばん分かりやすいのが筆箱の中。

特に消しゴムです。

 

新しい消しゴムをやってもすぐなくなってしまう。

そんなにはやく消しゴムはなくなるものではありません。

 

でも、また新しい消しゴムを与えなければならない。

なぜか消しゴムの消費がはやい。

そんな時は要注意です。

 

筆箱の中の消しゴムを見てみると小さく分かれている。

消しゴムを線引きで小さく切っている可能性があります。

 

それを周りに投げている可能性もあります。

消しゴムが字を消す以外に使われています。

 

そのような筆箱の中身の子供はなかなか勉強ができるようにはなりません。

 

筆箱の中身が消しゴムのカスでいっぱい。

または消しゴムのなくなる周期がはやい。

そんな場合はそのような行為をなくすようにしなければなりません。

 

鉛筆も先が丸いままになっている。

それではいけません。

いつも先を削っておく癖をつけておく必要があります。

 

シャープペンも分解されて使えない状態で入っている。

シャープペンは分解するものではなく字を書くものです。

 

無意識のうちに、いつの間にかシャープペンが時間をつぶすおもちゃになってしまっているかもしれません。

 

筆箱の中は子供の勉強に対する意識の在り方を表しています。

 

筆箱の中が上述のような状態で乱雑になっていた。

それならば、それを変えることが勉強のできるようになるための一歩となります。

 

勉強をする時に使う物の扱い方でその人の勉強に対する意識が示されます。

そのことは注意しておくとよいでしょう。

 

 

前にテレビで芸人がクレジットカードをお金が出てくる打ち出の小槌と思っているような発言をして周囲の芸人に批判されていた。

 

芸人だからふざけてそんな発言をしているのだろうと思った。

でも、ひょっとしたら本当に思っていたのかもしれない。

自分の尺度で他人を見てはいけない。

 

世の中にはいろいろな人がいる。

このことは良い意味でも、悪い意味でも認識しておかなければならない。

 

日本では通常生活において文字が読めないということは根底に考えられていない。

でも、世界中で考えれば文字が読めない人が多くいる。

そういう人たちがいるということも頭に置いておかなければならない。

 

けれども、日本にいると、そんなことを考えたりしない。

むずかしい字が読めなかったり、書けなかったりはする。

でも、通常の生活で困るような範囲で読み書きができないということはあまりない。

 

時代劇などで、庶民が他の人に文字が読めないので読んでくださいと頼んでいるようなシーンがある。

 

それは昔のことだからと思うかもしれないが、現在でもそういうことはあるのだ。

そういうことも認識しておかなければならない。

 

常に自分を基準にして考えて物事を判断する。

そういうことに疑問を持つ必要がある。

 

いろいろな人がいるということを認識すべきである。

そうすれば、そのいろいろな人がいろいろな考えを持っているということを知る。

そして、自分もいろいろな人の一人だということも…。

 

自分の考えが正しいと思ってしまっていないか。

自分の考えが間違っているということは考えないのか。

 

そもそも正しい、間違いは基準がどこにあるのかによって変わってくる。

このことは一番頭の中に入れておかなければならない。

 

そうすれば、相手の立場に立ってみることがしやすくなる。

そうすれば、間違いを正しやすくなる。

 

 

若い人と話をする機会があった。

(この言い方は年よりじみていて嫌だが…。)

 

その時、スマホを見て

「iPhone じゃないんですね。」

と言ってきた。

 

「iPhoneは高いから、安いスマホでいいんだよ。」

と言うと、

 

「でも、月々払うようにしておけば払うのは安くて済むじゃないですか。」

と言ってきた。

 

「でも、払う総額は結局同じで高いからね。」

と言ったら

 

「そうですかあ。」

と言って、別に気にしていないようだった。

 

月々に払っている額はそれほど高くなくても結局払う総額は高くなっているという感覚が少ないのだろうか。

 

あるいは、いっぺんに高額は払えないけれど月々少なくして払うことにより高額な物でも手に入る。

だからよい。

という感覚なのだろうか。

 

きっと、その考えなのだろう。

そして、これが今の主流なのだ

 

今、どうしても必要な物がある。

でも、それを手に入れるにはお金が足りない。

そんな時でも手に入る。

ありがたいことだ。

 

確かに昔だったらお金がたまらなければ手に入らなかった。

それが分割払いで、すぐ手に入る。

欲しいと思った時に手に入ることは喜ばしい。

 

お金がたまるまで待っていたら、なかなか手に入らない。

お金がたまった頃には欲しい物ではなくなっている可能性もある。

 

豊かな時代になっている。

 

でも、高額で手に入れた物の支払いはしなければならない。

そのことはしっかり頭に入れておかなければならない。

 

でも、やっぱり豊かな時代になっている。

それは実感して、感謝すべきだ。

 

 

物事が上手く進むにはそのための順序がある。

その順序通りやれば効率よくできるようになっている。

 

その効率のよい順序を知るためにはいろいろな試行錯誤が必要だ。

常にこの方法が一番なのだろうかと考える習慣もつけておいた方が良い。

 

数学においての計算問題など効率のよい順序で計算をしていれば間違いも少なく、時間もかからない。

 

自分が効率のよい計算をしているのかを知るためには計算過程が書かれていなければならない。

でも、それがなかなか実行されていない。

 

計算過程を順序よく書きながら計算をしていく生徒と頭の中で計算をして答えだけを書く生徒がいる。

やはり、計算過程を書いている生徒の方が計算結果は間違いが少ない。

 

頭の中で計算をして答えだけ書いている生徒に

「ちゃんと計算過程を書いて計算するといいよ。」

と言う。

 

すると、

「書くと時間がかかるし頭の中でやった方が速いから。」

という答えが返ってくる。

 

果たして、その答え通りなのだろうか。

 

頭の中で計算をしているという生徒を見ると計算過程を書いて順序よくやっている生徒よりも時間がかかっている。

 

頭の中でいろいろ考えているようだが、それは時には苦痛のようにも見える。

頭の中だけの作業なのでかえって大変なことのように見える。

時間もかかってしまっている。

 

目を使ったり、手を使ったりする計算過程を書く方が脳にも分かりやすいはずだ。

無理に考えて計算する必要がない。

 

計算過程を紙に書いて計算するのは、ただ書き出して順序よく数字を動かしている感じがするくらいだ。

 

それは疲れが少ないことも意味している。

時間がかかるからと言って紙に書かないで頭の中で計算する方がよっぽど時間がかかり脳にも負担がかかることになる。

 

効率のよい順序は目で見て、いろいろ工程を並び替えることにより見つけられる。

 

頭の中にあるものは一回外に出して形のあるものにして考えるとより分かりやすくなる。

そうではないだろうか。

 

 

「分からない。」「できない。」

と問題を見ただけで言う生徒がいる。

 

気持ちは分かる。

問題を読んでも分からない。

という気持ちになるのも分かる。

 

でも、言葉にしてしまうと、その気持ちが確定されてしまう。

より確実になってしまう。

だから言葉に出してはいけない。

 

精神論から言うとそのようになる。

 

でも学習法としては間違っている。

精神論でいろいろ言っても、できないものはできない。

 

この時の学習法としては、

「分からない。」「できない。」をいかに言わせないか。

 

「分かる。」「できる。」をいかに言わせるかになる。

そのためにはこんなことぐらいはできるだろうという位のレベルに下げて問題を出す。

 

それによって始めは「分からない。」「できない。」

と言っていた生徒もよく読んでみると簡単な問題なので仕方なくでもやるようになる。

 

すると、「分かる。」「できる。」が繰り返される。

この繰り返しを徐々にレベルアップさせて行う。

 

「分からない」「できない」を言わせない。

これがポイントだ。

 

「分かる。」「できる。」

今度は言葉に出した方が良い。

 

言葉にすると確定するなら、確実になるなら、

今度は言葉に出したい。

 

 

言葉を魔法の言葉とか言霊とか呼んでいろいろ書物が出ている。

言葉にどれほどの力があるのかは分からない。

 

ただ言葉によって印象が変わる実感はある。

 

文章に表してみると同じものでも口から出される語調によって大きく印象が変わる。

怒っていたり甘えていたり、話し言葉と書き言葉で変わってくる。

 

私たちは話す、言葉にするということを注意する必要がある。

言葉は相手に影響を与えるものだということも再認識する必要がある。

 

そして、そんな言葉を使えることにも感謝しなければならない。

 

お店で買い物をする。

レジで「いつもありがとうございます。」

と言われる。

ただ、「ありがとうございます。」ではなくて、「いつも」がついている。

 

いつもこの店で買い物をしているわけではないのだが、いつもと言われて悪い気はしない。

ちょっと、うれしい感じもする。

 

このように言葉はちょっとしたことで受け取り方が変わる。

言葉にはそんな効果があることを忘れてはならない。

 

それは、逆の場合もあるということだ。

何気なく発した言葉が相手には大きなダメージを与えることがある。

そういうこともある。

 

そのことは頭に置いていた方がよい。

 

 

言葉とは本来その土地の環境民俗に合わせて発達していったと思う。

世界を見ても環境は寒いところ、暖かいところ、日本のように四季があるところなどさまざまだ。

 

その環境に合わせて人間は進化し、ひとつのかたまりとなる。

それが民族だ。

民族に合わせて言葉は発達しているはずだ。

 

侵略戦争などにより民族が淘汰されていく。

勝者、弱者に分かれ、勝者による弱者の植民地化が始まる。

それによって、本来持っていた民族、環境に合わせた言葉も淘汰されて勝者の言葉となる。

 

それが繰り返される。

今は世界的標準語としては英語が考えられる。

これは、侵略戦争の勝利の結果とも考えられる。

グローバル化によるものだ。

という考えの方が強いかもしれないが、それも勝者の言葉だ。

 

本来、言葉は前述したように環境、民族に合わせて発達しているはずだ。

 

体のつくり、周りの空気の振動の仕方等で、それらに合わせた最適な言葉が本来は使われ、発達したはずだ。

 

世界で考えられることは小さな日本においても同様に考えられる。

ありがたいことに日本は近代の戦争において他国の植民地とはならなかった。

そこで日本語は守られた。

 

それでも、日本の各地に育てられた方言はどんどん薄くなっていっている。

世界の状態と同じ状態になっている。

それが悪いというわけではない。

 

しかし、言葉がその環境に合わせて発達していったものだとすると少し寂しい感じがする。

 

 

挨拶(あいさつ)をする。

塾において挨拶は重要なものだと思っている。

 

多くの生徒は塾において挨拶をしてくる。

「こんにちは」「さようなら」「ありがとうございました」

 

丁寧に挨拶をする生徒もいる。

でも 残念な事に挨拶をしない生徒もいる。

 

朝起きたら日本だったら、「おはようございます」「おはよう」

寝る前には、「おやすみなさい」「おやすみ」

 

色々な国が色々な言葉で「おはよう」「おやすみ」

を言う。

国々の風土に合った「おはよう」「おやすみ」だ。

 

朝起きたら「さあ、これから頑張ろう」という「おはよう」

寝る時には、これから安眠をという「おやすみ」

 

これらの言葉が各国の言葉で言われているはずだ。

各国の風土に合った言葉で言われているはずだ。

 

暑い国では朝起きた時に暑いけど頑張ろう。

寒い国では言葉も凍るような寒さだけど今日も一日頑張ろう。

 

挨拶はそんな気持ちが込められた言葉のはずだ。

だからこそ挨拶は大切にしなければならない。

 

人に会う時に挨拶は重要だ。

でも、挨拶もしない。

そういう人もいる。

 

挨拶は重要なコミュニケーションの道具である。

使える道具はできるだけ有効に使った方が良い。