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Nothingness of Sealed Fibs

見た映画、読んだ本、その他もろもろについて考えたことを書きとめてあります。

先週末は宮城まで昨年中国研修で一緒になったみなさんといってきました。

仙台→塩釜→宮島とあっという間でした。


1日目の昼に仙台駅集合。新幹線を乗り間違えて集合に遅れました。すいません。


牛タンとビールで腹ごしらえの後は市内観光バスで仙台城見学へ。

昔の遺跡があんまり残っていなくて残念だったが、「ずんだシェイク」をいただき、満足。

城から駅まではタクシーでもどる。東北大学がとても大きくてびっくり。

まえに、北海道大学に観光しに行ったときも感動したけど、東北もなかなか素敵。

僕は、本当にせまいところで学生生活をおくってたんだと実感。よくやってたなぁ。えらいえらい。


電車で塩釜に移動した後は、ロウソクの灯でやわらかく照らされた塩釜神社を見学。

雅楽演奏の開始を待って境内をぶらぶらしていると、宮司さんとおぼしき方から声をかけられ、

そのまま神社の歴史を説明してくださいました。ありがたいことです。


ロウソクの灯りは本当に幻想的で、いかに普段の生活が明るすぎるかを痛感させられた。

人類は暗闇と友達だった時間のほうが長いんだろうなとか、適当に思う。

境内でおでんとお団子もたべました。すーさん、ごちそうさまです。


塩釜神社からはタクシーで松島の宿へ。夕食はすてきな水なべで新鮮な海鮮とお肉でおなかいっぱい。

たべすぎたもんで、夜はお酒をセーブしていたら、あまりはめをはずさずにすみました。


日曜日は快晴。

松島を遊覧船「龍鵬」で見物したあとは、国宝を所蔵する瑞巌寺を参拝。みずからの心見つめ直しました。

お昼は松島魚市場でさば寿司とあら汁にありつきながらほっこりしました。


あーたのしかった。もっとながくいけたらなとおもうけど、しょうがない。

家に帰ると、どっと疲れがでてきて、ぐっすり眠れました。


なんか、ひさびさに普通の日記を書けた気がする。

現在、ポール・オースターの『リヴァイアサン』を通勤電車で読んでいます。


今日、気に入った部分を忘れないように覚書き。


【その1】

 "『自由の女神にいくのは裏庭で遊ぶのとはわけが違うんですよ。この国の象徴なんですからね。ちゃんと敬意を示さなくちゃいけないのよ』

 まだ子供だったけれど、ここに隠れた皮肉は僕にもわかったよ。自由という概念に敬意を表しにいこうっていうのに、僕はがんじがらめに束縛されてるんだからね。"(新潮文庫『リヴァイアサン』 p.59)


【その2】

"「あなたいつも、まじめそうな顔していたわ」と彼女は言った。「この人はきっとすごく真面目な人なんだなって思ったのを覚えているわ。いずれ自殺するか、世界を変えるか、そのどっちかの若者っていう感じ。」

 「いままでのところ、どっちもやっていない。ということはたぶん、昔の心意気をなくしちゃったんだろうね」

 「いいのよ。過去に囚われる必要はないわ。人生ってそうするには面白すぎるもの」

彼女なりの謎めいたやり方で、ファニーは私を苦境から救ってくれていたのであり、と同時に、私に警告を発してもいた。"(同書p.81)


まだ1/3までしか読んでないので、これからいろいろと気に入った部分が出てくるとおもうので、また書きます。



三連休はほんと、あっという間。2日間は仕事に出て、3日目に漸く休むことができた。

連休の締めくくりとして、話題の映画『包帯クラブ』を観てきました。


話の中身は、心に傷を負った人々を癒すため、依頼の場所に包帯を巻いて回るクラブを結成した若者たちの青春ストーリー。


個人的には、この作品、いいと思う。


まず、「包帯まくだけで、世界が変われば、めっけもん」という主人公ディノの台詞がいい。

この台詞は、見た目は適当な感じだけれど、内実は、ある種の祈りだ。

自分の行為がどのような効果、結果を生み出すか分かりきらない状況で、自分の行為に賭ける。

いや、賭けるというと少し重たい。自分の行為で「遊ぶ」とでもいったらいいか。


人生に、一生懸命に取り組む価値がある事柄があるとすれば、「遊び」しかないと僕は思っている。

このときの「遊び」とは、真面目になりすぎないで物事に臨む態度と言い換えることもできる。

だから、学問だって遊びだし、仕事だって遊びと言える。


ディノは、「人間の心の痛み」という重みを、「遊び」によって軽くしていると言えるかもしれない。


それに、自分の行為が「正しい」と言い切れないことを自覚しているところ、とはいうもののその言い切れないことをネガティブにとらえずに、むしろ明るく言い放っているところ、そのあたりの感覚がいいと思う。


人間の行為は複雑である。同じ行為が、良いほうにころがったり、悪い方向にころがったりする。

当たり前のことだが、行為する本人には、自分のなしたことが、どう転ぶかなんてあらかじめ分からない。

裏返していえば、ある行為のよしあしは、常に、行為がなされた後で決まるのだ。

(もちろん、どうころんでも悪しという行為はあると思うが、この流れからは省く。)


だとすれば、いっぱしの人間ができることといえば、畏れずに行為し、その結果、悪くなればその対処をする。

それしかないと思う。

真面目に正しいことだけをしようとすれば、何もできなくなる。


勘違いしないほうがいい。人を救えるのは、その人自身しかいない。人を癒せるのは、その人自身しかいない。

救いのヒントやきっかけ作り、癒しのヒントやきっかけ作り、それぐらいしかまわりの人にできることはないのだ。



柳楽君はいい俳優になった。織田裕二に若干似ている。

石原さとみは、あんまり他のドラマとかと芸風が変わらないんですけど。でも、結構素っぽいところがうまい。


生きていくって結構タフなことだとおもう。

すべてが多義性をもつ世界で、自分という芯を貫いて生きていくのはかなりハードだ。

でも、ちょっとした優しいさや、気遣いの積み重ねで、人がそういうタフさに立ち向かえる気持ちをもてるなら、ちょっとしたことを積み重ねればいいじゃないのかと思う。


『包帯クラブ』はそんなことを僕に考えさせてくれた。


岩井俊二のエッセイを立ち読みしたら、『なにを観たかではなく、いつ観たかが大事なんだ。』という言葉があった。

そんなものかもしれない。

なんか、あっというまに時間が過ぎていきます。

一年前からあんまり考えてることが進歩してないっていうちょっとした閉塞感と一緒に生きているのにも飽きたんだが、そんなときはもがいてみるしかない。

もがきたいときには冒険するに限る。ちょっときつくて、それでいて達成感のある冒険を。


そんなわけで。



会社の同期(国際協力クライマー!)と男2人で富士山に登ってきました。朝5:20に取った日の出の写真。


ご来光

登ったのは9/8-9の週末。

9/8の昼ごろ、5合目をスタートして、8合目にある山小屋『太子館』へ出発。

太子館には16時くらいに到着して寝床をきめると、あんまりすることもないので、2人で外にでてビールを飲む。

気圧が低いので、酔いが回るのが早いらしい。1本(350ml缶)で6本ぐらいの効果だとか。

ビールと一緒に食ったカキピーがうまかった。同期のSには深謝深謝です。


もう、登山シーズンは終盤で、『太子館』は営9/8が業最終日。

とはいえ、富士山登山を目指す人たちが結構たくさんとまってました。

山頂で日の出をという人が多くて、翌日0時ごろ出発する人はもう17時ごろから就寝。

僕らは、山頂だと雲がおおくて日の出が見えないことが多いという同期Sの意見に従って出発を朝4:00に設定。


山小屋の中ではとくにすることもないので、夕ご飯(カレーとおかず少しとお茶)の後は、

もっていった本をよみつつ、うつらうつら。おそらく18:30には寝てたと思う。


翌朝4時に山小屋を出発。外は普通に真冬並みの寒さ。風も結構吹いていて、足を動かしてないと凍りそう。

なんとか足を前に動かしているうちに、9合目に到着。日の出予定時刻が近かったので、そこで休憩をかねて

サンドイッチと釜飯の朝食をくらう。

ものすごく冷たいご飯なんだけど、うまい。日の出を見ながらのサンドイッチはなんか素敵やった。


目の前180°どこをみわたしても地平線だけ。地平線がカーブを描いているのがよくわかる。

地球は丸いっていうけど、宇宙飛行士にでもならんとそんな「丸さ」の実感はできないと思っていたが、日の出を見ながら、体感として地球は丸いんだとわかった。


日の出の後は、山頂までちゃっちゃとのぼって、ちゃっちゃと下山。昼11時に5合目まで戻ってこれました。

お土産をかって、富士山登山終了。


午後は、家に帰って、読みのこしてた『私のメタフィジックス』(永井均著)を読了。

生きている世界の空気感を味わい直した週末でした。


この3連休のうち、土曜、日曜は仕事の予定。がんばりどきです。

先週末は京都に行ってきました。同級生と飲んだり、後輩と飲んだり、またいろいろ考えるテーマをもらった旅行でした。
昼間は暇だったんで映画を見に行きました。

原爆の影響を受けた人々の姿を淡々と描いた日本映画です。
正直映像の作り方が映画としては水準以下。ほとんどテレビドラマ。ストーリーを動かすという目標のためだけの映像になっているところが惜しいけれど、麻生久美子の重たい台詞がとても印象に残りました。

「私らは、一度死んでしまえばいいと思われたのにも関わらず、生き残っている。それでええんやろか。」

麻生久美子演じる皆実が被爆から13年たってつぶやくこの台詞は本当に重たい。
自分ではない存在から「死んでしまえばいい」と思われることの悲しさは、すでに程度とかでは語りえない絶対性を帯びている。

ただし、上の台詞をもとに「死んでしまってぃい人なんていない。人間の命はみな尊いのだ」というところまで行くと飛躍しすぎだと思う。

人間の命が尊いかどうかはなんて本当は誰も分からない。みんなでそう思っていればうまくやっていけるという類の共同幻想にすぎない。

また、皆実の抱く悲しみを皆実ではない他者が共感することは難しい。皆実は被爆という出来事によって特殊な経験をもつ、ある種選ばれた者だからだ。
従って、皆実の悲しみにたいして、「人の命は尊い」という主張まで行くのは勇み足だし、そういう論理的には証明しようもない主張は、極端な経験の持ち主によって重みを持って語られる以外に意味の持ちようがないから、皆実ではない=選ばれていない者達が主張したところで空虚でしかない。

では皆実の悲しみにどう近づいていくのか。
一つの方向性として、次のような方法はないだろうか。

 

皆実の経験に届き得ないことの悲しみをつかまえること。
相手との距離を正確に測ることが、相手に近づくことになったりする。

 

自己欺瞞だろうか。

言うまでもなく、戦争とは「死んでしまえばいい」という思いが当事者同士で交換される事象である。
その規模の大きさは僕という精神ではとらえきれない。


だからなんとなく戦争に対して僕は歯切れのいい言明ができずに、自分としてもどうしたらいいか分からなくなってしまう。でも、どうにかしないといけない状況でなければ、こんなあいまいな態度でることがかえって柔軟に出来る可能性もある。 正直、よく分からない。