『夕凪の街 桜の国』 -死んでもいいと思われた人たち- | Nothingness of Sealed Fibs

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見た映画、読んだ本、その他もろもろについて考えたことを書きとめてあります。

先週末は京都に行ってきました。同級生と飲んだり、後輩と飲んだり、またいろいろ考えるテーマをもらった旅行でした。
昼間は暇だったんで映画を見に行きました。

原爆の影響を受けた人々の姿を淡々と描いた日本映画です。
正直映像の作り方が映画としては水準以下。ほとんどテレビドラマ。ストーリーを動かすという目標のためだけの映像になっているところが惜しいけれど、麻生久美子の重たい台詞がとても印象に残りました。

「私らは、一度死んでしまえばいいと思われたのにも関わらず、生き残っている。それでええんやろか。」

麻生久美子演じる皆実が被爆から13年たってつぶやくこの台詞は本当に重たい。
自分ではない存在から「死んでしまえばいい」と思われることの悲しさは、すでに程度とかでは語りえない絶対性を帯びている。

ただし、上の台詞をもとに「死んでしまってぃい人なんていない。人間の命はみな尊いのだ」というところまで行くと飛躍しすぎだと思う。

人間の命が尊いかどうかはなんて本当は誰も分からない。みんなでそう思っていればうまくやっていけるという類の共同幻想にすぎない。

また、皆実の抱く悲しみを皆実ではない他者が共感することは難しい。皆実は被爆という出来事によって特殊な経験をもつ、ある種選ばれた者だからだ。
従って、皆実の悲しみにたいして、「人の命は尊い」という主張まで行くのは勇み足だし、そういう論理的には証明しようもない主張は、極端な経験の持ち主によって重みを持って語られる以外に意味の持ちようがないから、皆実ではない=選ばれていない者達が主張したところで空虚でしかない。

では皆実の悲しみにどう近づいていくのか。
一つの方向性として、次のような方法はないだろうか。

 

皆実の経験に届き得ないことの悲しみをつかまえること。
相手との距離を正確に測ることが、相手に近づくことになったりする。

 

自己欺瞞だろうか。

言うまでもなく、戦争とは「死んでしまえばいい」という思いが当事者同士で交換される事象である。
その規模の大きさは僕という精神ではとらえきれない。


だからなんとなく戦争に対して僕は歯切れのいい言明ができずに、自分としてもどうしたらいいか分からなくなってしまう。でも、どうにかしないといけない状況でなければ、こんなあいまいな態度でることがかえって柔軟に出来る可能性もある。 正直、よく分からない。