Nothingness of Sealed Fibs

Nothingness of Sealed Fibs

見た映画、読んだ本、その他もろもろについて考えたことを書きとめてあります。

『どこへ行こうか、心理療法』(創元社、2022年)を読んだ。神田橋條治先生と3人の達人心理療法家の対談集である。

 

神田橋先生がイギリス留学から帰ってきた時、迎えた西園昌久先生の「僕が留学から帰ってきた時のことを思い出したよ」というフレーズに、神田橋先生は、相手の主体性を引き出す言い方を読み取っている。この神田橋先生の着眼はすごいと感じた。神田橋先生は、ちょっとした語尾や言い回しの取り扱いが絶秒である。僕の中では、勝手に神田橋先生を「語尾のアーティスト」と呼ばせていただいている。

 

ほかにもたくさん、神田橋先生のフレーズに魅了された。いくつか抜き書きしておく。

 

「出会いに別れはない。(中略)別れがあるなら、本当には出会ってないんだと思うんですね」

「ちょっと皮肉で言うと、クライエントは治らなくても治療者は治る」

「その質問にはあなたの意図が込められているから、その質問を忘れないようにいつも持っておくと、きっといいよ」

「文字を読み書きできない人は、素晴らしい表情をしている」

 

語尾のアーティストは、やろうと思えばいくらでも無限に文章を続けられる日本語だからこそ成り立つ。語尾の豊かさが思考の自由さを担保しているといってもよい。語尾砂漠は、そのまま生命のエネルギー減少を示唆する。語尾療法なんてのも良いのかもしれない。

1年に1回、矢作俊彦さんの小説を読んでいる。

 

去年は『悲劇週間』を通勤電車で読んだ。矢作さんの作品は家でゆっくりしているときに読むよりも、移動中のほうがなじむ気がする。

 

今年は『ららら科學の子』(文春文庫、2006年)を読んでいる。同書91−92ページで交わされる主人公と義父の会話にしびれた。

 

義父は、人民公社が飢餓を生んだと指摘し、次のように続ける。

 

「腹が減るから皆、怒りやすくなる。空腹が生む怒りは他人にしか向かわない。民、食をもって天と成すだ」(同書92頁)

 

色々な争いの起源に空腹がどれほど関わっているのかを思うと、しばらく続きを読めなくなってしまった。

 

矢作さんの作品には、合理性が第一に優先される社会のもつ危うい側面が、滲んでいる。それゆえ、矢作作品の登場人物は、しばしば複数の合理性を架橋し、いわばメタ合理性を生きることになる。

 

僕は矢作作品を読むと、高倉健さんの映画を思い出すことが多い。どうしてそうなるか、まだ自分でもうまく説明できないでいる。

 

■追記

展開が加速する後半を読了し、いくつかの文章にが心に残った。

「主義が間違っていたとしても、主張は間違っていなかった」(同書402頁)

「いい映画ほど、気楽には見られない」(同書474頁)

「戦う相手も方法もそう的外れじゃなかったって。間違いは、戦う理由だ」(同書521頁)

 

この本を読んで、僕には、鉄腕アトムの戦いが人間的に、人間同士の戦いがむしろロボット的に見えるようになっていた。

「胸に手を当てる」、「頭を抱える」など、自分の手で自分の身体に触れる動作がとっさに出ることがある。


「考える人」は手を顔に当てている。これはいったいどういう意味をもつ動作なのか気になってきた。


自分の手を自分の身体に当てると、冷たい感覚と温かい感覚の両方がする。おそらく手は冷えているので、手の皮膚は顔の皮膚に触れて「温かい」という信号をおくり、顔の皮膚は手の皮膚に触れて「冷たい」という信号を脳に送るのだろう。理屈ではそう理解できる。


しかし、手を顔に当てながら感覚に集中しても、「温かい」「冷たい」のどちらが手の皮膚の感覚なのか、どちらが顔の皮膚の感覚なのか判然としない。


そこでふと思ったのは、「冷たい」「温かい」という信号を両方受け取っている「自分」を感じるために、人は自分の手で自分の身体に触れるのではないだろうか、ということだ。


「自分」を感じるということが、どんな意味を持つのかは分からない。ただ、僕はストレスが多かったり頭が忙しくなった時に手で身体に触れることが多いように思う。もしかすると、手で身体に触れると情報処理量が多くなったときに情報による負荷を減らす作用があるのかもしれない。あるいは、情報の多さに引っ張られて考えが散らかったときに、落ち着きを取り戻す意味があるのかもしれない。


どうして話が佳境に差し掛かると手の動き「ジェスチャー」が増えるのか、そのあたりも気になってきた。



「マインドフルネス」という言葉に警戒心しかもっていなかった僕ではあるが、食わず嫌いはよくないとおもって、香山リカさんの『マインドフルネス最前線』(サンガ新書、2015年)を読んでみた。精神科医香山さんと4人の異業者(哲学者永井均さん、僧侶アルボムッレ・スマナサーラさん、宗教人類学者永沢哲さん、心療内科医熊野宏昭さん)との対談が収録されていて、ハッとさせられるところが多く、面白かった。

 

しかし、この本では対談メンバーから分かるように、マインドフルネスと脳・頭・思考とつなげる話が多かったので、もうちょっと身体論よりの本を読んで中和した方がよいかなと思って、藤田一照さんの『現代坐禅講義』(角川ソフィア文庫、平成31年)を読んでみた。坐禅について藤田さんが解説されている部分については、『仏教を哲学する』シリーズである程度頭にはいっていたので、びっくりするまでは無かった。ただ、この本には、哲学者パスカルや詩人キーツから引用されていたり、内山興正老師とのエピソードや、ヨーガ・気功指導者たちとの対談も収録されていて、身体感覚を磨くヒントが多くちりばめられていて、楽しく読み終えた。

 

一つ印象深かったのが、藤田さんも対談相手のかたも、「揺れる」ことを重視していることだった。無理なく楽な身体の姿勢に到達するために、身体を前後左右に揺らす動作や体操を取り入れるのが良いらしいのである。

 

そういえば、乳幼児を抱いている親御さんは身体を揺らしながら子どもをあやしている。「揺れる」ということは「落ち着く」ために必要な作業なのかもしれない、と思いついた。ちょうどよさを探すには、適度に揺れることが必要なのかもしれない。このことは、身体的にも言えるのだろうが、思考や感情にも応用できそうな気もする。

 

自動車や鉄道などの長距離移動手段が適度に揺れていることの意味もなにかあるのかもしれない。これがリニア・モーターカーになると、どうなるのだろうか。

9月の連休はちょうど勤務が当たらず、コンサートにでかけたり、出演したり、歌を練習する日々をおくることができた。

 

僕は中学校に入ってから断続的に合唱を続けている。「低音は伸びないが、高音は練習すれば伸びる」という先輩方の言葉を真に受けて長年練習しているのだが、一向に高音が楽に出るようにならない。いまだにFisやGで声は裏返るし、裏声メインなのでpとfを歌い分けられない。近年はいかに喉や身体に負担をかけず、力の抜けた楽な発声ができるかというテーマで練習しているのだが、なかなか思うようにはいかず、むしろ年々疲労しやすくなっているありさまである。声との付き合い方の研究は、僕の中で一種の修行となっている。

 

一番困るのが、コンサートの本番になると練習と違った感じで高音が出せてしまうことがあるのだが、どうして出せたのかわからないので再現性に乏しいということである。ただ、練習よりも本番のほうが、終わった後の消耗がひどいので、結局本番ではいつもより力がはいって、何とか乗り切れているだけのような気がする。「楽で疲れず、力みのない自然な発声」への道はまだまだ遠いようだ。

 

それにしても近年の日本の合唱作品は、新しい作品がどんどん発表されていて、ジャンルとしては活況を呈しているように思われる。日本人の作曲家が日本人の詩人の詩に曲をつけ、日本のアマチュア合唱団が演奏するという形式が成り立っているところは、日本文化の底力を感じさせる。すごい詩人とすごい作曲家が日本にいて良かったねという話ではあるが、この連休中に先輩が出演するコンサートで聴いた「青い小経・春」(詩:竹久夢二、曲:森田花央里)という混声合唱組曲は、和声とピアノの重ね方が僕がこれまで聴いてきた合唱作品と似ていなくて、とても新鮮に感じた。

 

8月には新幹線に飛び乗ってスウェーデンから来日したZero8というグループのコンサートにいったり、9月上旬にはプロの声楽家からなるアンサンブルのコンサートにでかけられたので、音楽漬けの2ヶ月間だった。さすがに疲れてきたのでしばし、音楽に触れる時間は減らしぎみにして、読書時間を増やそうかと考えている。

 

連休最終日は、敬老のお祝いで祖母に会いに行った。いつもどおりさつまいもと鶏肉の天ぷらを揚げて祖母は待っていてくれた。おしゃべりしながら昼食を一緒にとり、畑に実ったかぼちゃと、賞味期限切れ寸前のお供え物のおさがりをもらって帰ってきた。家族への感謝を新たにした連休でもあった。