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Nothingness of Sealed Fibs

見た映画、読んだ本、その他もろもろについて考えたことを書きとめてあります。

NHK制作の『敗戦前夜』『豊臣兄弟!』に対して、「ドラマ内の描写が史実からかけ離れている」という批判が寄せられているらしい。ニュースでは「史実を歪めている」や「史実改変だ」などという強めの表現が用いられている。

 

歴史に題材をとっているとはいえ、ドラマはフィクションである。フィクションに対して史実との乖離をツッコんでどうするという意見がまずあるだろう。しかし、そもそも「史実」といわれる共通認識も、しょせんは古文書に残された記録をつなぎ合わせて形成されたものにすぎない。古文書の書き手が実際に起こった出来事どおりに記載しているのか?という疑問には、タイムマシンが発明されない限りは答えられない。タイムマシンの代わりに人間の想像力を使って再構成されたのが「史実」である。その意味では、「史実」すらも一種のフィクションである。

 

興味深いのは、「史実改変」という言葉自体に、史実がフィクションであるという認識がすでに含まれている、という点である。過去に起きた出来事を変更するという荒業は、現在の人類の力では成し遂げがたい。しかし、「史実」は古文書に基づくフィクションであるから、人間の力で「改変」できるのである。

 

つまるところ、ドラマの描写と史実の乖離を批判するということは、エンターテイメントとしての脚色が行き過ぎていると言っていることになる。すなわち、歴史ドラマには、どこまでの脚色が許されるのか、という問題が問われているのである。

 

ここで少し見方を変えてみよう。例えば、民放ドラマやハリウッド映画で同じような脚色がなされる場合、「史実改変」という批判が寄せられるだろうか。おそらくそうはならないと僕は思う。民放であれば「エンターテイメントだから」、ハリウッド映画であれば「日本のことよく知らないから」で片付いてしまうのではなかろうか。この推測がそれほど的外れでないならば、今回話題になっている批判は、NHK制作のドラマだからこそ起こった現象であると言えそうである。


どうしてNHK制作の歴史ドラマでは、行き過ぎた脚色が批判されるのか。この問題に答えるのはとても難しいように思われる。NHKは偏りのない番組制作を謡う公共放送である。たしかに、大河ドラマの原作が、研究者なみの文献を渉猟した上で書かれた司馬遼太郎の「歴史小説」や海音寺潮五郎の「史伝」からとられていた頃には、しばしば、原作小説同様、歴史的な正確性(その当時の)が魅力になっていた。しかし、現在、ネット配信の台頭とともに民放の力は弱り、ドラマについてもNHKに期待されることがだんだん増えてきているように思われる。そこまで思いを巡らして、僕はそれ以上考えるのを止めてしまった。真面目に考えていくと、なんだか日本人に深く刻み込まれている心性にたどり着いてしまいそうな気がしたからである。

 

僕自身は、史実との乖離の仕方は脚色の手腕の見せ所であり、エンターテイメントとして楽しめればそれでよいのではないかという気楽な考えの持ち主である。だから僕は、NHK制作であろうとなかろうと、ドラマを歴史に忠実かという視点から観ることをそもそもしない。

 

そんな僕ではあるが、『豊臣兄弟!』での今川義元・氏真父子のあからさまな酷薄描写には辟易した。僕は、完全な善人も完全な悪人もいないと思っている。真剣に生きている人々は、分かりやすくはない。人質時代の徳川家康を苛め抜く今川父子の描写には、戦国時代というよりも現代の人間関係が反映されているように思えて、嫌な気持ちになった。名作『鎌倉殿の13人』が善悪入り混じる群像を描いていたのと好対照のように思う。

 

人間を簡単に分かったつもりにならないために、僕はこの嫌な気持ちを覚書きしておく。

三連休は、やたらに暑かった。そのせいか、家のノートパソコンの電源がすぐに落ちてしまうという不調が発生し、買い替えのため、数年ぶりに家電量販店に行くことになった。


目的のパソコンはすぐに買えた。せっかく来たのだからということで、わが家のやや不調家電について、買い替え候補を探すことにした。


我が家では、テレビは15年ぐらい、洗濯機と掃除機が7年ぐらい、電子レンジが20年ぐらい使っている。テレビは5年ぐらい前から左端の液晶が映らなくなってしまい、字幕が一部見えなくなっていた。


テレビの売り場を見ていると20万円〜30万円もする巨大画面のものから、2万円ぐらいのものまである。こんなに機能のバリエーションがあるのか、とびっくりさせられた。


一番安いやつでもこれまで使っていたテレビより画面が大きい。これはいいねと店員さんにきいてみると、地上波デジタル放送・BS放送のアンテナが別売だから安いとのこと。なるほど、昨今のテレビは、単に画面やスクリーン代わりに使う人もいるのだ。


とはいえ、テレビ放送は見れたほうが嬉しいので、アンテナ付きの商品をみていくと、今度は「倍速」機能に対応しているテレビが8万円〜、対応していないテレビは4万ぐらいと値段が倍ほどに違う。何の倍速かを店員さんに尋ねてみると、you tubeやNetflixなどの動画をテレビで受信した場合の倍速とのこと。倍速を達成するには、それなりの情報処理力が必要ということのようだ。


家族内で相談し、動画を倍速で見たい場合は、パソコンで倍速再生してテレビ画面に映せばいいかという話になり、「倍速」対応していないテレビを選んだ。


家に戻り、新しいテレビを設置して見ると、15年間使っていた前のテレビに比べて画面が見やすい。技術の進歩はすごいと感じるのと同時に、機能を磨き続けている企業さんの尽力にも頭が下がる思いがした。


新しいテレビが家に来てから、今まで倍速で中国ドラマを見ていた相方さんが、なぜか通常速度で韓国ドラマを見始めた。音楽が気に入っているドラマは通常速度で見たほうがよい、ということらしい。そういえば、音楽が中心のyou tube musicにははじめから倍速機能がない。


僕は最近、ワールドカップを見逃し視聴していてスポーツ番組を倍速で見ると違和感を強く感じることを痛感した。一方、将棋番組は倍速で見てもそんなに違和感がない。


倍速で違和感が生じるものと生じないものは、何が違うのだろう。おそらく、ミラーニューロンの情報処理力の問題なのではないか。もしそうならば、僕という人間は、実はドラマや演劇よりも、スポーツや音楽番組でミラーニューロンが強く活性化する、ということになる。何に対してミラーニューロンが強く反応するかが、個人によりバラバラなのか、それともかなり共通しているのか、気になってきた。


古いほうのテレビをリサイクルに持ち込んだ帰り、近くの神社に寄ってみた。暑さのためか全く人がいない。鳥居に設置されたミストを浴び、湖から届く風に涼みながら、みたらし団子をいただいた。最先端の技術に触れると、古から変わらないものに触れたくなるのかもしれない。

『チ。』というアニメを見た。※以下ネタバレがありますので未見の方はご留意ください。

 

はじまって早々、打算的・日和見的に生きてきた少年が、地動説に出会うことで変わっていく姿が描かれる。彼は、地動説の研究に喜びを見いだし、使命感を持って取り組む。しかし、異端審問官に見つかってしまい、自身の信念を曲げずに死を選ぶことになる。生命よりも信念を優先する彼の姿は、異端審問官に恐怖感を与え、庶民にある種の感銘を与える。

 

彼が受け継ぎ、残した地動説についてのメモをめぐって物語が展開していく。天体の観測結果とその動きを予想する数式をめぐり、何人もの人々が生命を落とす。

 

アニメ版の最後では、冒頭で死を選んだ少年が、実は地動説を守ろうとして、他人を殺害していたことが明かされる。

 

僕はこのアニメを観終わってから、考えこんでしまった。物理的な正しさを追求するためであれば、自殺や他殺が許容されて良いのか?と疑問を感じてしまったからだ。

 

科学的な正しさを標榜し、多数の生命を奪った出来事といえば、ナチスドイツのホロコーストである。『チ。』の少年は、一見するとホロコーストで迫害されたユダヤ人側にいるように見える。しかし、僕には彼がナチス側にいるように「も」見えたのである。

 

自説を曲げず、拷問に屈せずに死を迎える人々を見ると、生命よりも大切にした理論はきっと凄い真理を示しているに違いないと思ってしまいそうだ。だが、僕には命がけで守られたものを警戒してしまうという癖がある。その僕にとっては、『チ。』の少年よりも、裁判で意見を表面上翻したガリレオや、十字架の上で「我が神、我が神、なにゆえ我を見捨て給いしか」と叫んだイエス・キリストのほうが、しっくりくる。

 

僕は、物理と倫理は大事な点で重ならないと思っている。「物理学的な倫理学」や、「倫理学的な物理学」が変な感じに聞こえるのはそのせいだ。物理は、モノの世界の理論であり、倫理はヒトの世界の理論だからである。

 

ヒトとモノは、重なるところと重ならないところがある。『チ。』の少年は、ヒトとモノを重ねすぎてしまっていないだろうか。もっというならば、少年をそのように仕向けた異端審問という裁判制度も、ヒトとモノを重ねすぎているのではないか。

 

このアニメを見て、モヤモヤする側に僕は居たい。

 

仕事上、1日の大半の時間、僕はあいづちをうっている。

 

かの中井久夫先生がどこかで、「ほぅ」の言い方を工夫するだけで臨床はかなり動いてくると述べられていた、と思う。

 

僕は「ほぅ」以外に、「ひぃ」「へぇ」「はぁ」をよく使っている気がするが、多分,、中井先生ほどには落ち着いて仕事に臨めていないのだろう。

 

あまりにもあいづちにハ行が多いなと思い、一度、「はひふへほ」を順番に使ってみようとやってみた。すると、自分の声のトーンや声量に対する感度、注意深さが増えたように感じた。

 

調子にのって逆に「ほへふひは」の順番で使ってみたら、相手の発言後にあいづちをうつまで一呼吸増えて、会話がのんびりした穏やかな流れになった。

 

中井先生が「はひふへほ」のなかでも敢えて「ほぅ」に着目されている意味は何かあるのだろう。「お」という母音は、最も攻撃性が少ない母音のように思われるが、どうだろか。

 

そういえば、かのダークヒーローであるバイキンマンの登場するときのセリフが「はひふへほ〜」であった。彼は、あいづちを先に言い終わり(?)、自分の力を誇示するが、アンパンマンファミリーの底力に敗れ、「バイバイキーン」と挨拶(?)して退散する。

 

ある意味で、臨床という仕事はバイキンマンみたいな役回りなのかもしれない。不屈のバイキンマン氏を見習い、せめて最後の挨拶はしっかりやりたいと思うこの頃である。

つづき。

 

・神田千里『戦国と宗教』岩波新書、2016年

ルイス・フロイスが京都の寺院で聴いた一向宗の説教師の立居振舞を称賛している(同書104頁)、イエズス会の宣教師たちが、日本にかつてのキリスト教の痕跡が見いだせるという先入観を持っていた(107頁)、大友宗麟はイエズス会の修院に行くたびに侮辱を受けたと述べている(147頁)、キリシタン大名の蒲生氏郷が伊勢半国の大名となったときにルイス・フロイスが「主が彼に天照大神を破壊する力と恩寵を与えるであろう」と書いている(同書182頁)などが面白く思った。敵対する寺社のみを破壊した織田信長と、敵対していないのに寺社を破壊しようとしたイエズス会の論理の対比(同書138ー139頁)も興味深かった。

 

・内村祐之『精神医学者の滴想』中公文庫、昭和59年

アイヌ女性のヒステリーをあつかった「イムの話ーアイヌの奇病」の章が抜群に面白かった。イムでは、マムシやカエルなどアイヌで嫌われている言葉を言われて驚いた患者が突然一変して強い躁暴状態になる。数分間で発作は収まり、患者は普通人に戻る。発作中は朦朧状態や反響症状を伴うことがあるらしい。ほかにエコノモ脳炎で名前が残っている「エコノモーの人と業績」も貴重な情報満載であった。

 

・山形孝夫『砂漠の修道院』平凡社ライブラリー、1998年

第5章「あるコプト教徒の憂鬱」で紹介された歯科医の話が印象深かった。彼は、朝8時から昼12時まで政府の運営する歯科診療センターで働き、夕方5時から夜9時まで自分の診療所で働く。修道士生活にあこがれながらも、家族の生計を担う身として修道士にはなれず、日曜日に修道院へ歯科医療奉仕へいくことを楽しみとしながら、政局の不安定化によりその奉仕ができなくなってしまったことを彼は憂う。そのような人生を送っている人が同じ地球にいるということが、なんだか僕の心を落ち着かせてくれた。あとがきの「死者たちも共にいる、明るく透明な個人主義の可能性を私は諦めてはいない」という一文も忘れがたい。

 

・デーヴ・グロスマン『戦争における「人殺し」の心理学』ちくま学芸文庫、2004年

物騒なタイトルではあるが、真摯な研究書である。第二次世界大戦時の米国兵は平均15~20%しか敵に相対したときに発砲しなかった(同書43頁)、戦闘では敗走する敵を追跡するときに最も殺人が起こりやすい(同書57頁)、ナポレオンは最も危険な瞬間は勝利の直後であると言っている(同書139頁)、夜間の戦闘が増えて暗視装置越しに見える敵は非人間的な姿をしているため殺人の罪悪感を減らすことができる(同書282頁)、国連平和維持軍の兵士は発砲されるリスクを減らすためにヘルメットではなくベレー帽をかぶっている(同書287頁)、自分が人を殺したことを合理化し正当化することは心理的・精神的健康のために必要(同書375頁)、第二次世界大戦時は帰国兵は船で何日も仲間と一緒に帰国したがベトナム戦争では飛行機で帰国しすぐに社会復帰したことでがPTSD発症に影響したのではないか(同書420頁)など、ハッとさせられる箇所がたくさんあった。この本の末尾で、著者はゲームや映画が殺人の脱感作として機能していると警鐘を鳴らしている。そうしたゲームや映画では、実際に人を殺してしまった人に後から起こる苦悩については何も触れられない。歴史は勝者に都合よく書かれるとよく言われるが、この本を読み終わった僕には、勝者は歴史を書くことで敵を滅ぼした自責感を和らげている(=合理化している)のだと思われた。敗者が歴史を書くとすれば、敗れたにもかかわらず生き延びてしまった罪悪感を和らげるためなのかもしれない。耳を疑うようなプロパガンダも、相手を殺傷しなければならない兵士の苦しみを軽減する意味では心理的な効果をもつ。客観的な事実だけでは人や国家の苦しみは癒されないのかもしれない。だが、癒さねばならない心の傷をそもそも作らないために、何ができるのだろうか。重い読後感であった。

 

・高取正男『仏教土着 その歴史と民族』NHKブックス、昭和48年

江戸時代、島津薩摩藩領内では浄土真宗が禁止されていた。しかし、ひそかに真宗の教えが一部の集落で伝えられ、次第に真宗と地元の習俗が折り重なった「カヤカベ教」となったことをこの本で知った。カヤカベ教では「枕ハズシ」という死者の枕を力いっぱい跳ね飛ばす葬礼や鶏肉を食べない、親鸞の遺体がミイラとして京都の本山に伝えられていて、親鸞の霊魂だけが浄土にいったなど真宗に見られない教えがある。高取さんは、カヤカベ教が生き延びた原動力として、抽象的な教理や個人の信仰心の強さを想定しない。高取さんの「世俗の権力による迫害ということ自身が、つねに信仰や論理の次元からはずれた物理的な暴力としてあらわれたから、それに耐え抜いた力も必然的に現実にこの世で姿あるものに依拠していた」(同書97頁)という指摘は言われてみるとなるほどである。また、仏教と合わせて理解されやすい即身成仏に、高取さんは仏教と関係のないシャーマニズムの名残りを見ており、その視点も新鮮であった。

 

・上垣内憲一『勝海舟と幕末外交 イギリス・ロシアの脅威に抗して』中公新書、2014年

勝海舟が陸奥宗光に辛辣な評価をしていたことをうけて、上垣内さんが「もちろん権謀、マキャベリズムは外交には必要である、しかしそれが主となってはだめなのだ、これが勝海舟の外交思想の基本である」(同書50頁)という箇所にハッとさせられた。英国領事オールコックが対馬占領を本国に提案していたこと(同書155頁)、ロシアのプチャーチンが日本側の筒井政憲と行った交渉により江戸幕府がロシア外交に好感をもっていたことが興味深かった。太平洋戦争末期の日本は、アメリカとの和平交渉をソ連に打診するという無謀とも思える外交策に期待していたが、ロシアへの期待の背景にプチャーチン外交への好ましい記憶はなかったのだろうかと、ついつい考えてしまった。

 

・上垣内憲一『文禄・慶長の役 空虚なる御陣』講談社学術文庫、2002年

日本側の従軍医僧慶念さんが『朝鮮日々記』で日本軍の残虐行為を記録していること、藤堂高虎の群に捕らえられた儒学者姜沆が連行された日本で藤原惺窩と交友を通じたこと、徳川政権が文禄・慶長の役で一兵も渡海させていなかったという理屈で朝鮮側と講和交渉したことをこの本で知った。キリシタン大名小西行長、法華経への帰依が有名な加藤清正は朝鮮出兵で功績をあげている。当時、平和を嘉する思想が儒教の「礼」しかなかったということは、覚えておきたい。

 

・米田彰男『寅さんとイエス 改訂新版』筑摩選書、2023年

米田さんが寅さんの名場面を再現する筆致が素晴らしい。一方で聖書学としてもかなり本格的。共観福音書のQ資料や、三位一体論など主なトピックは知らず知らずのうちに説明されている。一番印象深かったのが、神が自ら名乗った「在りて在る者」をヘブライ語では「エーイェ アシェル エーイェ」と発音され、ほぼ呼吸音のようであるという指摘から、「神を忘却したかの我々は、呼吸するたびに、知らずして神の名を呼んでいるのかもしれない」(同書241頁)と指摘する箇所だった。多くの聖書では「私に触れてはならない」と訳されるヨハネ書20章17節をギリシャ語文法に基づいて「すがり続けてはいけないよ」という訳を提案する箇所も興味深かった(同書65頁)。

 

おわり。