Nothingness of Sealed Fibs -2ページ目

Nothingness of Sealed Fibs

見た映画、読んだ本、その他もろもろについて考えたことを書きとめてあります。

梅雨になると傘を使う機会が増える。仕事には折り畳み傘を持っていくことが多いのだが、先日とあるコンビニに立ち寄ったとき、傘立てに折り畳み傘用のエリアがもうけられていてびっくりした。

 

通常の傘に比べて、折り畳み傘は丈が短く、たたんでも太いため、これまでの傘立てだと上手く立てられないので、壁に立て掛けておいておくことが多かった。

 

その数日後に銀行のATMに立ち寄ったのだが、荷物を置くための台の端に、杖と傘を引っかけるための窪みがもうけられていた。

 

いつからそうなっていたのかわからないのだが、少しずつ色々な工夫と配慮が積み重ねられていることを知ると、日々をすこし能動的に過ごしてみたい気になってくる。その次の瞬間、否、能動的な生き方は時間制限付きでないと僕にはとても無理だと思ってしまうのではあるが。

 

僕の場合、やる気が意志に変化するために、工夫と配慮が欠かせないようである。

 

追記(2024.7.20)

中井久夫先生の『「昭和」を送る』を読み返していたら、折しも「勤勉と工夫」という項目があった。中井先生は対話篇の中で「日本人の勤勉は、「甘えの禁欲」の上に成り立っていると思う」と指摘された後、二宮尊徳を「偉大な哲学者」「疲弊した村の治療者」と高く評価されている。「彼(二宮尊徳)は、天道すなわちnatural wayは自然法則であって、畜生道であり、善悪を知らないと言っている。神の許しなしには鳥一羽も落ちないという考えとは対極だ。(中略)おそらく天道から見れば、荒れ地の方が天道にかなっているのであろうが、「それでは人道立ち申さず」というわけだ。(中略)それは予定救霊説とは正反対だけれども、結果的には、同じく勤勉と自己規律を生むわけだ」と指摘されている。R・N・ベラーや山本七平は石門心学や鈴木正三の禅を勤勉の背景に見出しているが、土居建郎先生、中井久夫先生の指摘も今後注目されてよいと思う。中井先生はさらに踏み込み、「ただの勤勉なら、日本人よりも勤勉な民族はいくらでもいる。わが国では、勤勉だけだとうつ病になりやすい。つまり勤勉だけではやりとおせないのだ。(中略)勤勉と工夫がセットになっているのだ」、「工夫とは、既存のものをあまり目立って変えないようにし、外見は些細に見える変更の積み重ねによって重大な障壁を迂回し、精力の浪費なくして、中程度の目標に達することだ」と指摘される。加えて、勤勉と工夫だけでは解決できない大問題が残りやすいという日本の特性ゆえに、バランス感覚とそれにむすびついた変身能力(転向)がしばしば必要になると述べられている。エッセイのなかでちらっと太平洋戦争期の枢密院に対して、「『あてにする』とは土居の指定の通り、甘えの堕落的形態だな。信頼せずして期待し、あてはずれが起こると『逆うらみ』する」と中井先生が嘆息されているところが印象深かった(以上の引用は『「昭和」を送る)』みすず書房、2013年、pp.101-105より)。

「信頼せずに期待する」などということにならないよう、心のゲリラ戦を展開していきたいと思っている。

 

以前、NHKの番組で紹介されたジャズピアニスト海野雅威さんについて書いたことがある。その海野さんが一年前の2023年5月に発表されたのが『I Am, Because You Are』である。

 

久々にアルバムタイトルを見て即買いした。このタイトルは英語圏ではしばしば耳にするフレーズのようであるが、短いけれども大切な意味を含んでいると思われる。和訳すると「私は在る、あなたが在るから」、あるいは「私は私である、あなたがあなたであるから」とでもなるだろうか。僕個人としては後者の訳のほうがしっくりする。

 

第一曲「Somewhere Before」から心に沁みた。静かな広がりをもつメロディと、ペースを変えながらコツコツと刻まれるリズムが心地よい。聴き終わったときにすこし気持ちが広がったように感じた。不思議な魅力をもったアルバムである。

 

暑さがきびしくなってきた。太陽光が暖かさよりも強さとして感じられる。人間には現象を自分にとっての快不快の感情とともに認知する特性がある。その意味で、人間は客観的である前に、まずは主観的である。そして、この人間の特性は、私において成り立ち、他者においても成り立つといってよいだろう。

 

さらにもう一段階洞察を深めたとき、私と他者の関係にbecauseを見出すことができるか。もしも見出すことができたとして、見出し続けることができるのか。あるいは、becauseは真理なのか解釈なのか、へそ曲がりの僕はついつい考えこんでしまう。だが、海野さんのアルバムを聴いているうちに、ピアノ・シンバル・ドラム・ベースのアンサンブルが、それこそがbecauseなのかもしれないという気になってきた。

 

音楽CDアルバムをタイトルを見て即買うというのは、僕にとって初めての経験だった。こんな誠実なタイトルを掲げるアーティストの音楽が、素晴らしくないはずがない。僕のはじめての即買いは、大当たりであった。

2024年も約半分すぎているのだが、ようやく2023年の読書記録最終版である。

 

■ハンス・ジンサー,橋本雅一訳『ネズミ・シラミ・文明』みすず書房,1966年
原著は1935年。邦訳には「伝染病の歴史的伝記」と副題がついており、著作の意図を的確に示唆してくれる。本書の主題は発疹チフスではあるが、その親類として日本洪水熱(ツツガムシ病)も紹介されていて、洪水が感染流行の契機として認識されていたことがうかがえる。また数々の戦争が兵士たちの間で流行した感染症によって終結した事例も紹介されている(巻末の感染症年表は保存版である)。戦場でブドウ酒が欠乏し、水を飲み始めてから伝染病が流行ったという記録もあるそうだ(本書345頁)。アルコールは酔って楽しむ以前に、安心して飲用できる水分なのである。個人的にジンサー博士がすごいと感じたのは、ヒトで激烈な症状をおこすウイルスが、他の種(ウサギやウシなど)に感染するとヒトへの病原性が減少し、ヒトの神経組織に対する親和性を獲得する(ただし、免疫が弱い個体では脳炎を引き起こしうるようにもなる)傾向があるという点を指摘している点だ(本書74頁)。ウイルスが向神経性を獲得するメカニズムとその意味は、最新の感染症学ではどのように考えられているのか気になった。


■姜在彦『朝鮮半島史』角川ソフィア文庫,2021年
司馬遼太郎さんのエッセイや対談で、古代朝鮮から日本列島にわたってきた渡来人、帰化人がたくさんいたことを知った。そうなると朝鮮の歴史について基本知識がないことに思い至り、手にとった入門的な一冊。読了して思ったのは、苛烈な三国時代(高句麗、新羅、百済)の後に、統一新羅を経て、中国王朝ですらなしえなかった400年近く続く王朝(高麗・李氏朝鮮)が出現した意味をもう少し理解したいということだった。個人的には、高句麗・新羅・百済それぞれから渡来人・帰化人が日本列島にやってきたのだろうが、どうやって争いなく過ごしていたのかが気になった。本国での争いが、日本にやってきて以降つづいたのか、つづかなかったのか、宿題が増えた読書になった。

■M・ワット,三木亘訳『地中海のイスラーム世界』ちくま学芸文庫,2008年
三木亘さんの本を読む中で手に取った一冊。イタリアのシチリア島が中世から近代にかけてイスラム化されていたことをこの本で知った。十字軍が、イスラム側からは関心の低い些細な周辺地域問題とみなされていたこと(同書160頁)、トマス・アクィナスがイスラム教は軍事力で広まったと誤解していたこと(149頁)などが興味深かった。

■宮崎市定『アジア史概説』中公文庫,1987年
この本にはトルコ、ペルシャ、インド、中国、日本と広大な範囲を「アジア史」として通観するという力業が収録されている。古代日本を扱う章で、「大陸の政変、民族移動のたびごとに、多数の人民が安住の地を求めて日本に渡来した」(同書415頁)という一文があり、その主張の論拠は示されていなかったが、なぜだかものすごく腑に落ちた。この本を読み終わってから中国史、朝鮮史、儒教、道教、マニ教、ゾロアスター教の文献を手にとるようになった。もしかすると大陸から日本に文化が伝わるときに、様々な宗教が混淆して受容されたのではないかと、想像は膨らむ。

 

■宮崎一定『中国史(上)(下)』岩波文庫,2015年
宮崎先生の本は、読みやすい文章ながら、はっとさせられる指摘も多く、楽しんでよめる。中国の通史としては抜群の読みやすさで、いわゆる景気史観(資質に優れた人物が名君になるのではなく、経済活動が盛んで人々の生活が豊かな時代の君主が名君とされる)は、とても説得力がある。宮崎先生は「外国にはないと思われる景気という言葉」を「通貨流通量が多く、容易に入手出来、しかも通貨に対する信用度が高い時が最も好景気の時代と言える」と説明している(『中国史(下)』360頁)。王陽明の学説が「でなければならぬ」という命令の形で組み立てられているのが特徴であるという指摘も、王陽明に影響を受けたとされる西田哲学のことが連想されて興味深かった(『中国史(下)』209頁)。

■酒井シヅ『病が語る日本史』講談社学術文庫,2008年

縄文時代から明治時代に至る医学的話題を紹介した本。縄文人は骨折しながらも歩き続けていたらしいこと、日本で牛痘種痘法が実施される1849年よりも50年以上前に秋月藩の緒方春朔によって安全性の高められた人痘種痘法が研究・実施されていたこと、この2点が特に印象深かった。

■阿満利麿『歎異抄講義』ちくま学芸文庫,2022年

歎異抄を解説する本で、結文の「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとえに親鸞一人がためなりけり」を正面から取り扱わない本はあまり読む意味がないと個人的におもっている。滝沢克己先生の『歎異抄と現代』然り。阿満さんのこの講義もきちんと結文を取り扱っているので好感が持てる。一番ハッとしたのは、「『称名』の『称』は、重さを比べるはかりの意味です。誓願の力と自分の力とでは、阿弥陀仏の力のほうが圧倒的に重いのだ、ということを示すのが称名の『称』の解釈なのです」(同書408頁)という箇所だった。この指摘を読んでから「称名」への理解がいままでよりも深まったように思われる。

 

■鈴木大拙、曽我量深、金子大栄、西谷啓治『親鸞の世界』法蔵館文庫、2011年

1961年に比叡山で行われた巨頭対談と講演を収録した本の文庫版。太平洋戦争を経て日本が失った自信をとりもどしつつあった時期に、鈴木大拙91歳、曽我量深86歳、金子大栄80歳、西谷啓治61歳が集って縦横無尽に話した貴重な記録である。91歳の鈴木大拙が「教行信証」の英訳をしていたという話から対談がスタートする。曽我・金子両氏の話は浄土真宗について知識がないと分かりにくいが、時折はさまれる鈴木大拙の発言は、仏教という枠を超えて笑いに達していて面白い。対談の最終盤で、西谷氏が「真宗とキリスト教がいかに似ているといっても、根本は違うと思うんです。だからそれを知らせることは、やはり非常に意味があると思うんです」と述べたあとに、鈴木氏が「仏教は大いに奮起せんならん。君らはまだ若い、これからなんだから」といって、西谷氏が「え?」と応答しているところが一番笑えた(同書339‐340p頁)。そのすぐあとに、鈴木氏がトインビーの宗教観を紹介し、インドの仏像の優れた点として座禅や涅槃の姿を像にしていると指摘する下りも印象深かった。笑いの後にサラッと重要ポイントをいうあたり、達人である。

■ダン・ショート他,浅田仁子訳『ミルトン・エリクソン心理療法 〈レジリエンス〉を育てる』春秋社,2014年

心理療法で達人と言えばエリクソンである。催眠療法が有名だが、晩年には簡潔な一言でクライエントを好循環に導く手法に移っていったことで、現代のブリーフセラピーの源流にもなっている。この本でエリクソンがポリオの後遺症で下肢不全麻痺を患っていたことをはじめてしった。自分の身体が思うようにならないときに、それでもある程度身体をあやつるためにエリクソンが工夫した個人的な技法が彼の臨床に生かされているようだ。エリクソンの言葉には、手法というひとことで片付けられない智慧があるように感じられた。

■坂口ふみ『〈個〉の誕生 キリスト教理をつくった人びと』岩波現代文庫,2023年
キリスト教を考えるときにキリスト両性論、三一論の理解は外せない。坂口先生の本はエッセイ風の筆致で、ギリシャ哲学とラテン教父神学の交流過程で、ヒュポスタシス=ペルソナという図式が成立した歴史を描いている。この本でもテルトゥリアヌスの先見性が幾度か指摘されている。やはりいつかは「不合理ゆえに吾信ず」に挑戦せねばなるまい。

 

■大塚節治『キリスト教要義』日本基督教団出版局,1971年

坂口先生の本だとキリスト論、三一論は「思想の歴史」として説明されているが、「信仰の歴史」として説明しているのが大塚先生の本。古い本だが、明快にきっちりと書かれている。大塚先生は、執筆時点で調べきれなかった点、調べたけれどわからなかった点について、その旨を明記されていて、非常に良心的である。教義学について確認したいことがあるたびに開くことになりそうだ。個人的に不思議だったのは、一見とっつきやすいエッセー風の坂口さんの本よりも、一見真面目で硬い感じの大塚先生の本のほうが親しみやすく感じたことである。印象の違いはどこからくるのか、僕はまだ自分の言葉で説明できないでいる。

 

■並木浩一・奥泉光『旧約聖書がわかる本 〈対話〉でひもとくその世界』河出新書,2022年
旧約学の泰斗並木先生と、その教え子の作家奥泉さんの対談をとおして旧約聖書の概要を学ぼうという一冊。丸山眞男の「自己内対話」から神の複数性を考えたり、イヴの想像力から大江健三郎に言及したり、さらっとレヴィ=ストロースの『野生の思考』が引かれたりと、並木先生の旧約学以外の学識に目を見張ることがおおかった。専門分野以外のことをどれだけ勉強しているのだろうか、この人は。奥泉さんのツッコミ力にもハッとさせられる。旧約聖書のテキストは、一文ごとに彫琢されてきたものであり、細かくつっこみながら読むとものすごい豊かな内容をもっているということが伝わる対談だった。並木先生の発言でハッとさせられたところを記しておく。「ユダヤ教を離れても信仰は個々人の責任だから処罰なんかない。そこがイスラムとの違いです。イスラムは原則として棄教できない」(76頁)。「幻想を抱かない人間が理想主義者になる。(中略)理想主義者は理想に到達できないのだということを覚悟する」(本書195頁)。

■阿部謹也、網野善彦、石井進、樺山紘一『中世の世界(上)(下)』中公新書、1981年

西洋中世史と日本中世史から2人ずつの気鋭の学者があつまり、対談した本。冒頭の「海・山・川」の章から飛ばしている。井上鋭夫さんの『一向一揆の研究』を参照しつつ、ワタリ(舟をあやつって交易や物資の運搬に従事する人)・タイシ(聖徳太子信仰をもち、箕作りや筏流しを業としていた)という非農業民が紹介されているのがおもしろかった。タイシの人々は、もともとは仏像や寺院の建造に携わる技術者であり、聖徳太子信仰をもっていたが、材料となる鉱山や山林と材料を運ぶ河川のそばに住むうちに山の民から川の民と変化していったと説明されている。個人的には聖徳太子創建と伝わる古寺は多すぎるぐらいあるのだが、そのなかにタイシの人々が作ったお寺も含まれているのだろうと想像した。ほかの章も興味深い問題提起がおおかったが、書ききれない。また折をみて読み返そうと思う。

 

■直木公彦『白隠禅師 ー健康法と逸話』日本教文社、昭和30年

江戸時代に独自の養生法、治療法を提唱したことで名高い白隠禅師の著作がコンパクトに紹介されている本。白隠禅師が京都の白幽仙人から教えをうけたという「軟酥(なんそ)の法」は、そのままでマインドフルネスとして通用しそうな内容をもっていた。個人的には、白隠禅師が地獄と極楽について教えてほしいと訪ねてきた武士に応対したときの逸話が面白かった。白隠禅師のおられた松蔭寺に一度は行ってみたいと思う。

 

■シーセル・ロス『ユダヤ人の歴史』みすず書房、1966年

旧約聖書を読むにはイスラエルの歴史をおおまかに知っていたほうがよいと思い手に入れた一冊。フランス革命がユダヤ人にもたらした解放感と、ナポレオン失脚後にユダヤ人が直面した迫害の対比につい言葉を失ってしまった。しかし、この本を読んでいると、近代の西洋が文明の優越を誇っていたとき、その文明を牽引したのがユダヤ系のキリスト教徒だったということがよくわかった。

滝沢克己先生の『現代における人間の問題』(三一書房、1984年)を読んでいたら、ライ病を患ってなくなった明石海人さんの歌集『白描』から次の言葉が引用されていた(同書28頁)。印象深かったので覚え書いておく。

 

「深海に生きる魚族のように、自らが燃えなければ、何処にも光はない」

 

「人の世を脱れて人の世を知り、骨肉を離れて愛を信じ、明を失っては内にひらく青天白日をもみた」

 

滝沢先生は、上記の言葉について、「西田幾多郎が『絶対矛盾的自己同一』と言い、カール・バルトが『インマヌエル(神ともに在ます)』と称えた、同じ生命の泉から溢れ出たものと言わなくてはならないでしょう」とコメントしている。

 

『現代における人間の問題』は、滝沢先生の講演3本とその質疑応答を収録している。明石海人さんの言葉が引かれているのは、山口大学学園祭での講演である。一般向けだったからかもしれないが、難解な用語がなく、宮沢賢治なども引用されており、読みやすい。

 

「自らが燃えなければ~」のくだりを禅の言葉でいうなら、「自明灯」となるのだろうか。真実・生命・自己の区別が困難になる一点を、区別が困難であるがゆえに確かな「生命の泉」として掴むためには、僕自身まだまだ探求が必要なようである。

 

ややこしいことは、ともかく。「日常生活を深海魚族として生き延びる」という明石海人さんの言葉は、読んだその時から僕にすんなり染みこんでいる。

■『新約聖書(口語訳)』

冗談で書いているのではない。ついに、本当に新約聖書を一度通読することができた。最後まで読み残していたヤコブの手紙、ペテロの手紙、ヨハネの手紙を寝る前に少しずつ読み進めての達成である。新約聖書のなかでやや存在感の薄いこれらの手紙だったが、印象に残ったのはペテロの第二の手紙3章15‐16節でペトロがパウロについて述べている下りである。ペトロは、パウロの手紙の中に「ところどころ分かりにくい箇所があって、無学で心の定まらない者たちは、ほかの聖書についてもしているように、無理な解釈をほどこして、自分の滅亡を招いている」と表現している。ペトロからみてもパウロ書簡が「分かりにくい」のだと思うとなんだかほっとした。その一方、パウロ書簡についての無理な解釈、つまり誤解がペトロの時代から横行していたのだと思うと、その後の基督教の困難な歩みを示唆していそうで、暗い気持ちになった。そんなときこそパウロなら「闇の業を脱ぎ捨て、光の武具を身に着けよう」と言ってくれるのだろうが、闇と光の区別は、簡単なようで案外難しいのである。

 

■前嶋信次『玄奘』岩波新書,1952年

図書館で借りて読んだ一冊。玄奘という人は、旅人としても、翻訳家としてもあまりにもすごい業績をあげており、天才的な人物である。「大唐西域記」をいつか読みたいと思っているが、なかなか時間がないということで、コンパクトに玄奘の生涯を紹介している本書を読んでみた。シルクロード系の古典翻訳で有名な前嶋氏の文章は読みやすく、内容はとても面白かった。読み終わった後、いつか「大唐西域記」に挑戦してみたいという気持ちが強まった。

 

■阿満利麿『宗教の深層 聖なるものへの衝動』ちくま学芸文庫,1995年

第二章”専修念仏の「世俗化」”にハッとさせられた。阿満氏は同章で「日本における最初の超越宗教である専修念仏は、(中略)ほぼ六百年を経て、宣長の国学という、ひとつの世俗化形態を生むにいたったのである。そこでは、超越者に対しては不可知論をもってのぞみ、人情という感情が最終の根拠とされている」(同書150頁)と指摘する。この文章をよんで、僕には本居宣長(1730-1801)とF・シュライアマハー(1768‐1834)が思想史的に似た立ち位置にいるのではないかということに思い至った。ふたりとも文献学者・解釈学者という側面をもち、国学・神学という領域で個人の感情を最終根拠においた立場を切り開いた。このアナロジーがどれぐらい妥当なのかはわからないが、遠く離れた場所で、別々の宗教をめぐる思想が同じような歩みをみせるということに何だか不思議な気持ちにさせられる。ほかにも、西洋でトマス・アクィナス(1225‐1274)がスコラ学という哲学的神学体系を完成させた同時期に日本では鎌倉新仏教の巨頭がでてくる。親鸞(1173‐1263)、道元(1200‐1253)、一遍(1234‐1289)然り。そうみてくると西洋のキリスト教の展開と、日本における仏教の展開が比較思想史として興味深い主題のように思われてきた。

 

■植木雅俊『仏教、本当の教え インド、中国、日本の理解と誤解』中公新書,2011年

植木先生の手法は、漢訳仏典を挟まずに、仏典をサンスクリット語、パーリ語で読み解こうという文献学的には至極妥当な立場である。中村元先生もそうなのだが、サンスクリット語やパーリ語から直接日本語訳された原始仏典はとても分かりやすい。サンスクリット語から漢字に音写され、そのまま日本語に入っている言葉の雑学も満載で楽しく読め、なんども「へぇ~」とつぶやいた。例えば、インドが信度や身毒という音写になっていることを知ったのだが、そうなると折口信夫の「身毒丸」は印象が異なってくる。この本のスタンスでちょっと気になるのが、原始仏典が正しく、翻訳を通した誤解に基づく日本仏教のいくつかの議論は間違っているという基本姿勢がみられる一方で、道元や日蓮の漢訳仏典の恣意的な読み替えを実り豊かであるとして肯定的に評価しているところである。是々非々といわれればそれまでなのだが、やや一貫性に欠けるように思われた。

 

■K・リーゼンフーバー『西洋古代・中世哲学史』平凡社ライブラリー

■K・リーゼンフーバー『中世思想史』平凡社ライブラリー

なかなか読む機会のないラテン教父についての基礎知識を得ようと読んでみた本。リーゼンフーバーさんはイエズス会士なので、キリスト教を背景とした中世哲学の解説に読みごたえがある。個人的にはギリシャ哲学と基督教の融合と対立の渦中にいながら基督教の信仰について考え続けたテルトゥリアヌスの言葉にハッとさせられた。「哲学者とキリスト教徒とのあいだにはたしてどのような類似があるというのか、前者はギリシアの門弟、後者は天の門弟であるというのに。一方は名声を追い求め、他方は命を渇望しているというのに、また一方は口舌の徒であり、他方は実践の人であるというのに」(『中世思想史』26頁)、「神の子は十字架に架けられた。これは恥ずべきであるがゆえに、われわれはそれを恥としない。神の子は死んだ。このことは不合理であるがゆえに、まったく信ずるに値する」(『中世思想史』27頁)などのテルトゥリアヌスの言葉は、彼がみていた信仰の確かさを反映しているように感じられた。

 

■児玉聡『オックスフォード哲学者奇行』明石書店,2022 年

20世紀の哲学界を牽引したオックスフォード大学の哲学者たちについて、その人となりを示すエピソードをまとめたエッセイ集。ケンブリッジ大学にいたウィトゲンシュタインの話は含まれないが、もらったコメントにそれ以上の返事コメント返していたデレク・パーフィットのエピソードが面白かった。酒場で「何をしているの?」という質問をうけた彼が、「大事なことについて考えているんだ」と返したシーンが気に入った。

 

■片岡弥吉『浦上四番崩れ』ちくま文庫,1991年

幕末に長崎で在留外国人のキリスト教信仰が許可されてから、長崎にふたたびカトリックの神父が来日した。江戸時代の間、ひそかに信仰を守っていたキリシタンが、神父のもとを訪れたことで隠れた信仰が明らかになり、江戸幕府による弾圧がおきた。浦上の村民たちは、様々な藩に預けられ、苛烈な待遇のなかで棄教を迫られた。信仰をまもりつづけたり、棄教後にまた受洗したり、いろんな人がいたことがこの本に引用されている記録でわかる。信徒たちは棄教の促しに対し、「天主(パテル)がこの世界とはじめの人間を作ったので、本当の親である。他の宗旨は信じられない」という素朴な反論で応じた。個人的には、潜伏キリシタンたちがキリスト論ではなく創造論によって信仰を守ったという点が興味深かった。

 

■岡本隆司『曾国藩』岩波新書,2022年
■岡本隆司『李鴻章』岩波新書,2011年
■岡本隆司『袁世凱』岩波新書,2015年
■菊池秀明『太平天国 皇帝なき中国の挫折』岩波新書,2020年

太平天国について一度はまとまって本を読みたいと思っていた。図書館で菊池先生の本を手に取ってみた。太平天国についての知識は増えたが、気になったのが乱をなかなか弾圧できない清王朝の人材不足である。そこで岡本先生の本を遡って読んでみた。曾国藩については、なんども太平天国に敗れていて戦争が下手というイメージしかなかったが、科挙を通った超エリートで詩文集が出版されるほどの文化官僚であり、軍人ではなかったとこの本で知り、びっくりした。曾国藩は清王朝からの実質的な援助がない状態で地元のひとたちと軍隊を作り、太平天国と戦うなかで実力をつけ、最後は太平天国を鎮圧した。彼は、科挙の試験には全く出てこなかった戦略・戦術を実戦のなかで磨き上げ、結果を出した。李鴻章を育てた点も曾国藩のスケールの大きさを物語っていると思う。


■池見酉次郎『催眠』NHKブックス,昭和42年

■池見酉次郎『心療内科』中公新書,1963年

■池見酉次郎『続・心療内科 人間回復をめざす医学』中公新書,1973年

催眠にかけられたワニや、催眠で消えるイボなど、びっくりネタが真面目に書かれている本。医学が強い治療手段をもっていなかった時代、催眠・暗示はかなり強力な治療手段としてもちいられていた。個人的に興味深かったのが、催眠療法は精神科的症状よりも内科的な症状の治療目的に用いられていたということである。池見先生は日本の心身医学の草分けだが、オカルト視されやすい催眠についても、客観的で冷静な分析をされており、好感をもって読める。聖典に記載されている宗教的な癒しの奇蹟は、科学的に否定的に扱われることが多いが、池見先生の本を読んでいると、そういう癒しの業は実際に起こりえたのではないかと考えさせられた。

 

■きたやまおさむ『コブのない駱駝』岩波現代文庫、2021年

このきたやまおさむさんの自伝的な本からは医療者の宿業について学んだ。僕は20代のとき、E・レヴィナスを読んで「生きることは、生き残ることである」と青臭くつぶやいていたが、この本を読んで、W・ウィニコットとE・レヴィナスがみていたことが案外近いのではないかと感じた。

 

■山鳥重『ヒトはなぜことばを使えるか 脳と心のふしぎ』講談社現代新書,1998年

神経心理学の泰斗、山鳥先生の本からはプロソディという概念について学んだ。概念をしらなければ把握できない機能がある。まだまだ僕は、自分の行為や思考について十分に説明できるだけの概念を手に入れていない。

 

つづく