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Nothingness of Sealed Fibs

見た映画、読んだ本、その他もろもろについて考えたことを書きとめてあります。

年次をとると職場関係の研修にいくことが増える。この夏は東京と福岡でそれぞれ2泊3日の研修があった。僕は普段いかない場所にいくとき、時間が許せばその地域の本屋さん、とくに古本屋さんを訪ねるようにしている。出張と古本は僕のなかでは、ケーキとコーヒーとならぶ相性である。

 

東京出張では、台風近づく中、東海道新幹線の運行が不安定となり、はじめて北陸新幹線での上京となった。東京のホテルは混んでいて、値段もびっくりするほど高く、今回やむなくカプセルホテル2泊を経験した。お風呂やサウナが付いてるのは助かるが、さすがに年を取るとゆっくり休めない。研修前に栄養ドリンクを飲んでなんとか乗り切るありさまであったが、体力の衰えと向き合わざるを得ない出張になった。いつも出張でしかお邪魔しない東京だが、今回面白く思ったことは、色々なお店の店員さんに色々な肌の色の人がいたこと、カプセルホテルの目の前に24時間営業の居酒屋さんがあって終電後も盛り上がっていたことだった。喧騒が苦手な僕は、1日目の研修終わった夕方に谷中墓地まで足をむけた。日暮里駅を降りて薄暗い坂道をあるいていると、急に京極夏彦さんの世界が広がる。東京出張で一番充電になった瞬間だった。力尽きて本屋さんはいけなかったのだが、研修会場の近くで「切腹最中」という和菓子を見つけたのがよい思い出になった。

 

福岡出張は、職場の同僚のかたと4人組で。1日目は博多ラーメンともつ鍋、2日目は博多ラーメン(別のお店)と鳥皮、と食べ過ぎない程度に地元グルメを堪能した。1日目夜は、食事会解散の後、長年行きたいと思っていた名島の「滝沢克己記念館」を訪れた。開館時間が過ぎていることも知っていたが、外観だけでもと思い、西鉄名島駅を降りた。坂の上の住宅地にひっそりと建っている滝沢先生旧宅跡の石碑を拝見して、満たされた気持ちでホテルに戻った。2日目は博多駅前のブックオフを訪問。ドラえもんを大人買いする外国人に驚きながら、本棚とにらめっこし、猪木正道『日本の運命を変えた七つの決断』(文春学芸ライブラリー)、加藤九祚『ユーラシア文明の旅』(中公文庫)、宮崎市定『論語の新しい読み方』(岩波現代文庫)を購入した。

 

数か月遡るが、後輩の出演するコンサートを聴きに福井県までお邪魔した時、帰り道に敦賀駅前の「ちえなみき」に寄ることができた。「ちえなみき」は先日亡くなられた松岡正剛さんがプロデュースした書店である。ちょうど福井を訪れるすこし前に、中井久夫先生のお弟子さんたちの論文集『治療のテルモピュライ ー中井久夫の仕事を考え直すー』(星和書店)のタイトルが、ペルシャ戦争のなかの有名な戦闘であることを知ったばかりであった。「治療場面でのここぞというとき」を示すのにデルモピュライをもってくる中井先生の感覚にすこしでも近づきたいと思い、「ちえなみき」を訪れた記念にヘロドトス『歴史 上中下』(岩波文庫)を購入した。

 

どこで本を読むか以外に、どこで本を買うかも、僕の人生においては大切なことのような気がする。不思議なことに、そのとき関心を持っている分野の本に偶然訪れた(古)本屋さんで出会うという経験を僕は何度かしている。だから、(古)本屋さん巡りはやめられない。

友人と会うと「AIが凄いね」と言う話が時々出る。先日参加したコンサートではチラシ・パンフレットともにAIが提案してくれたデザインが使われていた。話し合いで迷ったときに論点をまとめてAIに聞いてみるのはすでに定例となっている。

 

先日、とある記事で「AI時代でも人がになう医療」として終末期医療、精神科医療が挙げられていた。果たしてそうか?と思う。

 

AIの特徴は「膨大な知識を持つ」と「実技ができない」であると僕は思う。このポイントから容易に想像できるように、AIには手術をこなすことができない。一般の人はあまり知らないが、いわゆる総合病院では内科系・外科系ともに侵襲的な手技を伴う大小様々な手術がある。内服薬だけではいかんともしがたい疾患がまたまだあり、手技・処置・手術が必要とされる限り、AIではない人(術者)の力は欠かせない。とある記事の発想とは異なり、「AI時代でも人がになう医療」という言葉から僕がすぐに思い浮かべたのは、外科だった。

 

記事に挙げられていた終末期医療と精神科医療医療では、コミュニケーションという「実技」がAIには置換できないとされていた。しかし、対話型AIが登場し、かなりのレベルの医療面接に対応できるようになっている。患者さんが病院に行かずにまずはAIに相談し、AIと対話することで自己解決できるようになる時代はそう遠くないと僕は思う。少なくとも、AIとロボットに一連の手術をまるごと任せられる時代よりも、精神科医療の大半がAIに担われる時代のほうが早く来るだろう。

 

ではAIに担うことのできない精神科医療はあるのか?もちろんある。それは自分の状態が異常だと思えず、AIに相談しようという発想が出てこない患者さんたちへの対応である。精神保健福祉法に基づく入院の必要性判断には、しばしば手術に似た計画性、言動への配慮が要求される。外来治療でも「自分は病気ではない」と主張する患者さんへの対応が最も難しい。

 

精神科領域では、「自分は病気である」と主張する患者さんへの対応で、対話型AIが医療者の力量を超える日は近いと思われる。いや、すでに超えているのかもしれない…。

 

一昔前であれば、膨大な時間と労力を投入して咀嚼する必要のあった人類の過去の叡智に、AIを通して気軽に触れられるようになったことは、ものすごいと思う。段々と、AIに相談することは、長老や賢人の知恵を拝借することに似てくるのではないかと僕は予想し、その方向性を歓迎したいと考える。

 

その一方で、一昔前生まれの人間である僕は、過去の叡智に触れる膨大な時間の楽しさが段々と体験されなくなっていくだろうことに、少し寂しさを感じる。たぶん僕は、AIが節約してくれることで増えた自分の時間の使い方に、まだ自信がないのだろう。

2025年7月20日に参議院選挙があった。結果からすると自民党・公明党がはじめて衆参両院ともに過半数割れとなった。共産党、社民党も議席をへらし、立憲民主党・国民民主党・維新の会があまり変わらず、参政党ほかいろいろな新しい政党・会派の台頭がみられた。大まかにみると、古参が苦戦、中堅が横ばい、新入りが躍動と整理できる。

 

ついに、政治の世界も「新鮮さ」が売りとなる時代に入ったように見えなくもない。だが、各党の主張を比べてみると、「減税」「少子化対策」「貧困対策」「教育・福祉の充実」など大きな方向性は共有されており、その大きな方向性の中での程度や手段の差ぐらいにしか、それぞれが違いを表せていない。どの主張にも新鮮味はなく、既視感をぬぐえないものとなっている。大事とされる問題について多くの人数から支持を得ようとすると、どうしても各党の主張が収斂してしまうからである。どうやら「新鮮さ」は、主に党名の看板書き換えによって担保されているようである。

 

ちなみに、僕はNHKの選挙サイトで自分と意見の合う政党を判定する便利なアンケートを利用したのだが、一番意見が近い政党でも意見の一致率は50%だった。この一致率を高いとみるか、低いとみるかは意見が分かれるところだろう。自分の考えと重なる政党や候補者がそもそもないという人は案外多いのではないだろうか。

 

そうなると、僕の場合、政策内容うんぬんというよりは、候補者なり政党なりが「ちゃんとやってくれそうか」「ちゃんとやれないときはそのことをちゃんと正直に言ってくれそうか」という観点から投票先をきめることになる。「ちゃんとやる」の定義はなかなか難しいが、今のところの僕の暫定的な定義は「自分の主張を通すための議論に固執せず、議論の結果によっては主張を変えることができるひとたち」ということになる。

 

この定義によると意外にも石破首相が高評価になってしまう。もしかすると、自民党内で出てきた「石破おろし」に対して「石破やめるな」というデモがおこっているのは、この定義で政治を評価している人がある程度いるということなのかもしれない。

 

選挙で敗れた与党党首に「辞めるな」運動がでてきたのは、目新しく、面白い。おそらくこの運動をする人たちにとって石破首相は、選挙はダメだが政治はしっかりやっていると評価されているのだろう。そういう政治家は党員にとっては困るだろうが、国民にとってはありがたい存在である。

 

ちなみに「石破おろし」の理屈として「民意は示された」といわれているが、示されたのは投票した58%の意見だけであり、残り40%の人は今の政治で良くも悪くもないといっていると考えられる。そのことは忘れずにいたほうよいだろう。

 

最後に。参政党の躍進が目立ったとされているが、先だっての兵庫県知事選挙と今回の参政党躍進とに似た匂いを感じたのは僕だけだろうか。そういえば、やんちゃな主張をする人が良識派から叩かれたあとに票を伸ばすという構図は、海の向こうでも見られている。海の向こうの大統領は実は戦略的な凄腕であると僕は思うのだが、日本の知事と政党は果たしてどうだろう。良識派の人たちは、そろそろ「叩く」という攻撃的戦略を見直すべき時期に来てはいないか。

 

新入り政党の主張に陳腐さがみられ、「石破辞めないで」運動に新鮮さを感じた今回の参議院選挙であった、と今の僕は思っている。

 

追記:政治とは原則的にモヤモヤする営みである、と僕は思っている。しかし、昨今、政治にスッキリ感を求めている人が多くなってきてはいないだろうか。政治にふさわしいのは、論破ではなく交渉である。僕はそう思っているのだが、政治を外交のように見なし過ぎているだろうか。

野村實さんの『海戦史に学ぶ』文春文庫、1994年を読みはじめた。「まえがき」に終戦当時のモスクワの駐ソ連大使・佐藤尚武さんが当時の外務大臣・東郷茂徳あてに打電した文章が引用されている。

 

「…もって国家存亡の一歩手前においてこれを食い止め、七千万同胞をとたんの苦より救い、民族の生存を保持せんことをのみ念願す」(同書7頁)

 

7千万同胞、一億総懺悔、そういった言葉に1945年当時の感覚が刻まれている。ちなみに太平洋戦争勃発前の時期には人口増加への不安が喧伝された。当時の日本国内の農業生産力では7000万~8000万人程度の人口しか食料的に養えないとされ、ハワイや南米、満州国への移民が募集された。7000万の日本人が何はともあれ世界一の国力を誇るアメリカを相手に戦争をし、敗戦後の復興を成し遂げ、国力を回復させてきたのである。

 

厚生労働省の統計予測によれば2070年に8700万人程度の人口になるとされている。そのころには人口分布や産業構造は現在と変わっているだろう。それでも8700万人いるのである。国が消滅してしまうとか、立ち行かなくなるという人口ではないだろう。

 

少子化の議論では「人口が減ることは問題だ」ということばかりがいわれ、すこしでも出生数を増やそう、現在の人口をキープしようというアイデアがどんどん出されている。しかし、そうした議論には「日本の社会が安定して維持されるにはどれぐらいの人口が適正なのか」という論点がかけていると思う。そして僕の憶測によれば、7000万人になったら7000万人なりの社会の形があるはずなのだ。

 

人口を増やしたり、減らしたり、国家はいろいろと策を講じているが、結局は人口推移に応じた社会政策をその都度考えねばならない。だとすれば、少子化対策よりも、少子化が進んだ場合にどうするかを考えておくことのほうが本質的な問題のように思えるのだが。はたして?

ふとテレビをつけたときにNHKで「斬られ役 大部屋俳優 58歳の心意気」がやっていた。話題の『侍タイムスリッパー』のアイデアの元となった斬られ役俳優・福本清三さんのドキュメンタリーである。

 

ヒーロー戦隊ものではなく、時代劇で人生を勉強した僕は、福本さんのお顔を何度も拝見して存じあげていたが、失礼ながらこの番組ではじめてお名前を知った。ガキんちょ時代は、福本さんが同じ番組で2回斬られている!と突っ込んだりして楽しんでいたことを思い出す。

 

このドキュメンタリーでは、新世代時代劇映画『RED SHADOW 赤影』で「斬られない役」に挑んだ福本さんの姿が収録されている。大作映画の撮影が終わり、テレビ時代劇で顔の映らない名もない町人役を務めていた福本さんは、次のようにインタビューに答えておられた。

 

「反省しながらの40年ですけどね」

「これといって自分で納得したこともないし」

「でもやっぱりなかなか思うようにいかないですね」

「これからもやっぱり毎日ステップですね」

「これからいけるところまでいこうと思ってるんですけど」

 

笑顔でインタビューに応じる福本さんの率直な言葉を聞いているとなんだか胸が熱くなってきた。医療の仕事にも、患者さんという主役を引き立てるという意味で、福本さんの姿勢は参考になるかもしれない。「心意気」という昨今耳にすることが減った言葉も気に入った。日々の仕事のなかで、僕なりの「心意気」ということについて考えてみても面白そうだ。

 

撮影所から帰る福本さんの後ろ姿は、上下運動の少ない「ナンバ歩き」だった。刀を腰に差していた時代の人の歩き方である。一生懸命仕事をやっている人は、仕事を離れても仕事をしているのだ。