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Nothingness of Sealed Fibs

見た映画、読んだ本、その他もろもろについて考えたことを書きとめてあります。

むろん、赤信号は渡ってはいけない。いかなる理由があろうとも。しかし、渡り方について考えをめぐらすことは、少し日々の制約を緩めるのに役立つのではなかろうか。


と、こじつけて、赤信号のわたり方について、時々話す相手の考えを聞いてみることにしている。


実際に尋ねてみると、「赤信号、みんなで渡れば怖くない」という有名な標語にどういう反応をするのか、その時は何が「怖くない」のか、人それぞれの意見があって、面白い。


最近、自分自身を省みて、「赤信号、ひとりで渡るほうが、みんなで渡るよりも怖くない」という表現が、自分にはしっくり来るということに気がついた。


僕は少し外れていることを好むようだ。おそらく、ガキンチョのときにみていたテレビ番組の影響である。


「あぶない刑事」「はぐれ刑事純情派」「はみ出し刑事情熱系」など、刑事ドラマはみんな少し外れていたし、「水戸黄門」「暴れん坊将軍」「遠山の金さん」もハイ・ソサエティな人が身分をかくしてお忍びする話である。


時代劇や刑事ドラマで育った小学生頃の僕は、「人生楽ありゃ、苦もあるさ~」と通学路で歌いながら、ちゃんと信号を守っていた。


大人になった僕は、歌と信号の守りかたについて大いなる変貌を遂げていた。このままでいいやと思っているといつの間にか変わってしまい、このままではいけないと思っているとなかなか変わらない。


これだから人生は興味深い。

NHKラジオ「宗教の時間」で禅僧の藤田一照さんと腫瘍精神科医の清水研さんの対話が放送されていた。お二人の会話の表現というよりも、藤田さんからの質問に清水さんが答えるとき、文字通り「胸に手をあてて」答えられていたという藤田さんの指摘が印象深かった。そこで考えさせられたことについてメモしておく。

 

「頭を抱える」という表現と、「胸に手をあてる」という表現がある。どちらも身体の特定の部位に手を当てる行為なのだが、意味するところがだいぶ違う。頭には両手を、胸には片手を当てるというのも違いかもしれない。

 

「頭を抱える」のは、困っている時、途方にくれるときのしぐさだ。一方、「胸に手を当てる」のは、じっくりと落ち着いて考えるときのしぐさだ。

 

頭と胸でこれほど手を当てた時の意味が異なることには、なんらかの生理学的根拠があるのではないだろうか。もしその根拠がうまく探究できたなら、脳と心臓の働きの違いがより明確に理解できるようになるのではないだろうか。

 

同様の発想で人間の仕草や姿勢について見直してみるのも面白い。例えば、合掌や拍手、仏像の印などについて生理学的に考え直すとどうなるのだろうか。またそういう仕草や所作の心理学的な意味はなんなのだろうか。気になってきた。例えば、座禅の結跏趺坐では左足が上になるように足を組む。どうして左足なのか、解剖学的あるいは生理学的に説明できるのだろうか。

 

やや話は飛ぶが、終戦後に「手かざし」によって病気を癒すという不思議な宗教(岡田茂吉氏の世界救世教)が流行った時期があった。医学史に詳しい方なら、21世紀のような問診、検査、診断、治療の体系が確立する以前の医療では、催眠や漢方、祈祷による治療がかなりの効果を上げていたこともご存じであろう。

 

昔の人々は、身体の力を引き出す方法を、現在よりもっとよく知っていたのかもしれない。

最近、病気にかかっている気がする。「~かもしれない」という言葉が口癖のようになってしまっているようなのだ。この状態を僕は勝手に「かもしれない症候群」と名付けている。

 

僕は自分の仕事の中核に、『患者さんが「絶対こうだ!」と思っている考えをできるだけ相対化すること』を置いてきた。仕事の経験を積むにしたがって、自然にそういうスタイルになってきた。現象に対する解釈は、時間・空間・文化をずらして見直してみると自ずから多様になる。

 

このスタイルになってしまっていることが果たしてよいのかどうか、実は不安になることもあったのだが、先日、最相葉月さんの『中井久夫 人と仕事』(みすず書房, 2023年)を読んでいたら次のような一節にぶつかった。

 

いままで聞いたことがないような言葉を耳にして,その人が「なんだろう?」と考えるようにすることが精神療法.患者さんの考えを広げていく.自由にする.そのためには,「またか」ということは話さない.(同書 p.128)

 

僕がひそかに思っていたことは、中井先生の言葉とそんなにかけ離れていないのではないだろうか。そんな風に思えたのである。もちろん、「またか」ということを話さないためには、豊富な知識、ここぞというときの知恵が必要になる。中井先生だからなしえるのだということは重々承知の上で、かなわないから無理だとは思いたくないというのが僕の偽らざる心境である。

 

「かもしれない」という表現はとても曖昧だが、表面上の曖昧さこそが、人の根底にある生命力を働きやすくするような気が僕はしている。もしもこの直観が的外れでなければ、「かもしれない症候群」は病気というよりむしろ、健康の別名と言ってよいのではなかろうか。

 

どれだけ多くの「かもしれない」をひねり出せるか。中井先生の「はたしてそうか」や「わからなくても、目鼻はつけられる」という言葉をヒントにして、おやつを食べながら頑張ろう。それで良いのだ、と言ってもよいのかもしれない。

中井久夫先生の口癖であったとどこかで読んだフレーズをタイトルにしてみた。いくつか気になることについて書きたかったからである。

 

先日、NHKの「こころの時代」で福島県宝鏡寺住職の早川篤雄さんの回を観る機会があった。福島第二原発の地元である楢葉町で、原発建設時から反対運動をおこなってきた早川さんは、原発事故に遭遇し、檀家さんや運営していた障害者施設の利用者さんたちと伴に避難を余儀なくされた。画面の中の早川さんは、飾らない口調で、事故後の悲しい出来事、あるいは住職をつとめるお寺の檀家から太平洋戦争に出征してなくなった人たちのことを語られていた。早川さんは、太平洋戦争への仏教界の協力体制、原発事故に対してどちらも「なんなんだ、これは?」という素朴な気持ちを持ち続けた人なのだと感じた。福島第二原発が建設されたときに、建設地の条件として「人がすくないこと」、「首都圏への送電コストがかかりすぎないこと」が挙げられていたことを僕はこの番組で初めて知った。早川さんが大学時代に増谷文雄氏の宗教概論を受講されたときのことを話されていて、僕は、積読になっていた増谷文雄氏の新書『ブッダ』を段ボールからとりだすことになった。

 

あとは、職場でおきた変化の話。一昨年から職場で人事評価制度がはじまった。昨年からはサンクスメッセージの運用がはじまり、毎月今月のメッセージ数というメールが送られてくるようになった。家で家族に話すと、人事評価もサンクスメッセージも、世間の流れらしいとのこと。組織に所属して仕事ができているありがたみを軽視するわけではないが、僕はどこかでいつも個人商店として自分を規定しているので、組織が自分になにを求めているかという点はさておき、今の自分にどれだけのことを期待できるか、今の自分はどの部分を伸ばしていくべきなのか、あるいはどの部分でほかの人の助けをかりるべきなのかを意識しながら業務に臨むようにしている。あまりに自分勝手な自己規定ではあるが、結局のところ、組織が何を期待してくれようとも、そのときの自分にできる範囲のことしか対応できないのだから、と僕はいつものくせで「詰まるところ」まで考えてしまう。そのためなのだろうか、人事評価制度にもサンクスメッセージにも、いま一つあるいはいま二つ身が入らない。困ったものである。

 

最後は、NHKの「こころの時代」で早川さんのひとつ前の週に放映された宗教学者山折哲雄さんの回について。90歳を超えられてお元気な山折さんのインタビューは、思索者ではなく歩く旅人としてブッダやイエス、芭蕉らを捉えなおす視点、「何者にもならない人」、「人間が最終の、心の、精神の頼りにするものは、無、空、幻、それぐらいの覚悟で生きていく以外にない」、「妄想三昧、昼寝三昧。無、空って言ってた方が楽だな。最後はその辺で死んでいくか」といった言葉が印象に残った。山折さんも早川さんも同じ東北地方に生まれ、同じように親鸞に影響をうけておられるが、それぞれに違いがある。僕の印象では、山折さんの闊達な笑顔と、早川さんの優しいけれど寂しさの漂う笑顔の違いが、原発事故という途方もないできごとのもたらしたなにかによって生じているように思われた。

2025年も一月過ぎ去ってしまった。忘れないうちに残りの2024年の読書記録を残しておく。

 

〇松岡正剛、津田一郎『初めて語られた科学と生命と言語の秘密』文春新書、2023年

2024年は松岡正剛さんが亡くなった年だった。碩学という呼称に値する希少な存在だった松岡さんが、亡くなる直前にカオス脳研究者の津田一郎さんと対談した本がでていたので読んでみた。内容が濃すぎて、とても理解できたと言う自信はないのだが、アイデアを進める洞察がちりばめられていて面白かった。いくつかぐっときた言葉を抜き書いておく。「あのね、理科系にも文科系にも、互いにどこか悔しい思いが必要なんです」(32頁)、「Noise induced orderはカオスにノイズをかけると秩序化するというものです」(37頁)、「物質がその時間でする経験を圧縮することによって時間圧縮する機能を、脳は持っているようです」(48頁)、「おそらく自己は「ここ」に生ずるんだと思います。、いや正確には「むこう」を感じた「ここ」に生ずるのだろうと思う」(79頁)、「おそらくどんな思考もどこかで置換なしには次に進めないからです」(95頁)、「神経は筋肉と同じです。ちょっと負荷をかけて、いまの自分よりもちょっと難しいことをやると、力を発揮するようになる」(247頁)、「意識は何かを引くものとしてあるにちがいないと思っています」(314頁)、「世界の成立の仕方を説明するのに引き算型が必要だ」(324頁)、「場所(トポス)に情報(トピック)が宿っていくという話」(347頁)、「脳は意識化したものを無意識に落とす装置です。ですからうまくいっている機能を意識化するのがむつかしい」(365頁)。津田さんは『心はすべて数学である』で「偶然(ランダムネス)でも必然でもない偶有性(contingency)」について言及されていて面白かった記憶がある。カオスにノイズをかけると秩序化するという図式を、脳に世界を知覚させるとあるパターンの意識・行動が生じると置換すると、なにかが見えてきそうな気がする。


〇米沢富美子『人物で語る物理入門(上)(下)』岩波新書、2005年

物理については中学時代から苦手な科目だった。古典力学や電磁気学の背景にある発想が理解できていなかったせいだと思う。自分なりに物理アレルギーを中和したいなとおもって読んでみた本。米沢先生の説明はとても分かりやすい。キュリー夫人が「女性」科学者として当時男性中心だった科学者集団のなかで孤軍奮闘していたこと、第一次大戦でレントゲン車を運転してフランス軍のために貢献していたことを知った。湯川秀樹先生の自伝から「四書五経を習得した後ではどの本も容易に読めた」と引用されているところも興味深かった。
 

〇岡倉天心『日本の名著39 岡倉天心』中公バックス、1995年
天心の文章は英語からの翻訳であるが、ハッとさせられる名文が多い。「一般の西洋人は、(中略)日本が平和な文芸にふけっていたころは野蛮国と見なしていた。しかし、日本が満州の戦場に大殺戮行動をおこしてからは、文明国とよんでいる」(268頁)。「まこと茶道は道教の仮の姿なのではないか」(280頁)という提言は、しばしば禅とともに語られる茶道を、道教の文脈におくことで思想史的にも興味深い。。中国北方出身の孔子による儒教の系譜、南方出身の老子・荘子から南方禅の六祖慧能にいたる道教的な禅の系譜の指摘にもハッとさせられた。「悲しいことに、われわれは花を友としながら、獣性の域をあまり脱していないという事実をおおいかかくすことはできない」(302頁)、「わが国の伝統によれば、はじめて花を活けたのは初期仏教徒で、彼らは生物にたいするかぎりない思いやりから、嵐に吹き散らされた花々を拾い集めてこれを水差しにいれたということである」(307頁)、「あまり感傷的になるのはやめよう。奢侈をつつしみ、気宇壮大になろうではないか」(309頁)。明治時代に中国、インド、アメリカを旅し、英語をあやつり、道服を身にまとった岡倉天心の『茶の本』は、最後、「暴君との友情」(311頁)ゆえに自刃する千利休を描いて終わる。僕には、なぜかこのシーンが、太平洋戦争に敗れた日本の姿の予言のようにおもえて仕方がなかった。


〇網野善彦『歴史を考えるヒント』新潮文庫、平成24年

日常語に染みこんでいる歴史を繙く一冊。講演がもとになっているので読みやすい。「潰れ百姓になるのがわかっているのに、田畠を分けて五反百姓以下にしてしまうのは、「田分け」といって馬鹿者の表現になる」(85頁)、「加賀・能登・越中で「藤内」と呼ばれていた人々の中には、「藤内医者」と言われて医者として扱われている人たちがいた(中略)、医学の発達にも、被差別身分の人々が大きく寄与していることは、決して見落としてはならないと思います」(151頁)、「「手」には交換という意味が含まれている(中略)切手は「切られる」ことによって「無縁」なものになり、相互に交換が行われるようになった文書を指していると解釈できる」(166-167頁)、「「落とした」物は誰のものでもない無主物となり、いうなれば神仏の物となってしまうのです」(178頁)、「「コミュニズム」を「共産主義」と訳したのは、歴史上、最大の誤訳の一つではないか」(213頁 解説)。知らないことが多いことを知る本だった。

〇加地伸行『儒教とは何か 増補版』中公新書、2015年
〇加地伸行『沈黙の宗教 ー儒教』ちくま学芸文庫、2011年
祖先祭祀や祖霊信仰というアジア文化圏に受け継がれてきた原初の宗教性を体系化したのが儒教であるというスタンスで儒教の歴史的な展開、思想的な展開を記した2冊。仏壇の位牌が儒教の影響にあることは以前から知っていたが、ほかにも姓の感覚や、忠魂碑など、儒教的な発想が残っている点がいろいろあることを知って興味深かった。古代ギリシャ・ローマにも祖先崇拝があり、「キリスト教がこの祖先崇拝の<家族宗教>をヨーロッパから駆逐してしまった」(155頁
)という指摘は面白かった。しかし、仏教の伝わった日本がそうだったように、キリスト教の伝わったギリシャ・ローマでも祖先崇拝はこっそり生き延びたのかもしれないと思うのだがどうなのだろうか。人間同士の関係を超える普遍思想が、人間同士の関係に根差す素朴思想と重なるとき、国家という共同体幻想が現実味を帯びるのかもしれない。東洋と西洋それぞれの辺境で暴力的なナショナリズムが勃興した理由が少しみえた気がした。

 

〇石橋湛山『湛山回想』岩波文庫、1985年
2024年夏に身延山久遠寺にいく用事があり、読んでみた一冊。石橋湛山の父が日蓮宗の法主をつとめた高僧だったことを知って驚いた。甲府中学校時代にであった大島正健の影響で、湛山自身はキリスト教にも造詣が深かったのだが、この父子の宗教観についていつか調べてみたいと思う。

 

力尽きたのであとは書名だけ挙げておく。いろいろ読んだのだが、池谷先生の本を読んで思ったのは、どうやら脳は、無限を入力すると振る舞いが安定するらしいということだった。宗教はそもそも無限なるものを考えるという点にポイントがあったのかもしれない。

 

〇伊藤正男『脳と心を考える』紀伊國屋書店、1993年

〇池谷裕二『複雑な「脳」、単純な「私」』ブルーバックス、2013年

〇スチュアート・カウフマン『自己組織化と進化の論理』ちくま学芸文庫、2008年

〇中川米造『医学をみる眼』NHKブックス、昭和45年

〇高坂正堯『国際政治』中公新書、1966年

〇麻田雅文『シベリア出兵 近代日本の忘れられた7年戦争』中公新書、2016年
〇麻田雅文『日ソ戦争 帝国日本最後の戦い』中公新書、2024年

〇黒田俊雄『寺社勢力 もう一つの中世社会』岩波新書、1980年

〇岡谷公二『神社の起源と古代朝鮮』平凡社新書、2013年
〇水谷千秋『継体天皇と朝鮮半島の謎』文春新書、2013年

〇水木しげる『劇画ヒットラー』ちくま文庫、1990年
〇橋川文三『黄禍物語』岩波現代文庫、2000年
〇上田泰己『脳は眠りで大進化する』文春新書、2024年
〇藤原辰史『トラクターの世界史』中公新書、2017年
〇高取正男・橋本峰雄『宗教以前』NHKブックス、1968年