最近、病気にかかっている気がする。「~かもしれない」という言葉が口癖のようになってしまっているようなのだ。この状態を僕は勝手に「かもしれない症候群」と名付けている。
僕は自分の仕事の中核に、『患者さんが「絶対こうだ!」と思っている考えをできるだけ相対化すること』を置いてきた。仕事の経験を積むにしたがって、自然にそういうスタイルになってきた。現象に対する解釈は、時間・空間・文化をずらして見直してみると自ずから多様になる。
このスタイルになってしまっていることが果たしてよいのかどうか、実は不安になることもあったのだが、先日、最相葉月さんの『中井久夫 人と仕事』(みすず書房, 2023年)を読んでいたら次のような一節にぶつかった。
いままで聞いたことがないような言葉を耳にして,その人が「なんだろう?」と考えるようにすることが精神療法.患者さんの考えを広げていく.自由にする.そのためには,「またか」ということは話さない.(同書 p.128)
僕がひそかに思っていたことは、中井先生の言葉とそんなにかけ離れていないのではないだろうか。そんな風に思えたのである。もちろん、「またか」ということを話さないためには、豊富な知識、ここぞというときの知恵が必要になる。中井先生だからなしえるのだということは重々承知の上で、かなわないから無理だとは思いたくないというのが僕の偽らざる心境である。
「かもしれない」という表現はとても曖昧だが、表面上の曖昧さこそが、人の根底にある生命力を働きやすくするような気が僕はしている。もしもこの直観が的外れでなければ、「かもしれない症候群」は病気というよりむしろ、健康の別名と言ってよいのではなかろうか。
どれだけ多くの「かもしれない」をひねり出せるか。中井先生の「はたしてそうか」や「わからなくても、目鼻はつけられる」という言葉をヒントにして、おやつを食べながら頑張ろう。それで良いのだ、と言ってもよいのかもしれない。