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Nothingness of Sealed Fibs

見た映画、読んだ本、その他もろもろについて考えたことを書きとめてあります。

2025年も一月過ぎ去ってしまった。忘れないうちに残りの2024年の読書記録を残しておく。

 

〇松岡正剛、津田一郎『初めて語られた科学と生命と言語の秘密』文春新書、2023年

2024年は松岡正剛さんが亡くなった年だった。碩学という呼称に値する希少な存在だった松岡さんが、亡くなる直前にカオス脳研究者の津田一郎さんと対談した本がでていたので読んでみた。内容が濃すぎて、とても理解できたと言う自信はないのだが、アイデアを進める洞察がちりばめられていて面白かった。いくつかぐっときた言葉を抜き書いておく。「あのね、理科系にも文科系にも、互いにどこか悔しい思いが必要なんです」(32頁)、「Noise induced orderはカオスにノイズをかけると秩序化するというものです」(37頁)、「物質がその時間でする経験を圧縮することによって時間圧縮する機能を、脳は持っているようです」(48頁)、「おそらく自己は「ここ」に生ずるんだと思います。、いや正確には「むこう」を感じた「ここ」に生ずるのだろうと思う」(79頁)、「おそらくどんな思考もどこかで置換なしには次に進めないからです」(95頁)、「神経は筋肉と同じです。ちょっと負荷をかけて、いまの自分よりもちょっと難しいことをやると、力を発揮するようになる」(247頁)、「意識は何かを引くものとしてあるにちがいないと思っています」(314頁)、「世界の成立の仕方を説明するのに引き算型が必要だ」(324頁)、「場所(トポス)に情報(トピック)が宿っていくという話」(347頁)、「脳は意識化したものを無意識に落とす装置です。ですからうまくいっている機能を意識化するのがむつかしい」(365頁)。津田さんは『心はすべて数学である』で「偶然(ランダムネス)でも必然でもない偶有性(contingency)」について言及されていて面白かった記憶がある。カオスにノイズをかけると秩序化するという図式を、脳に世界を知覚させるとあるパターンの意識・行動が生じると置換すると、なにかが見えてきそうな気がする。


〇米沢富美子『人物で語る物理入門(上)(下)』岩波新書、2005年

物理については中学時代から苦手な科目だった。古典力学や電磁気学の背景にある発想が理解できていなかったせいだと思う。自分なりに物理アレルギーを中和したいなとおもって読んでみた本。米沢先生の説明はとても分かりやすい。キュリー夫人が「女性」科学者として当時男性中心だった科学者集団のなかで孤軍奮闘していたこと、第一次大戦でレントゲン車を運転してフランス軍のために貢献していたことを知った。湯川秀樹先生の自伝から「四書五経を習得した後ではどの本も容易に読めた」と引用されているところも興味深かった。
 

〇岡倉天心『日本の名著39 岡倉天心』中公バックス、1995年
天心の文章は英語からの翻訳であるが、ハッとさせられる名文が多い。「一般の西洋人は、(中略)日本が平和な文芸にふけっていたころは野蛮国と見なしていた。しかし、日本が満州の戦場に大殺戮行動をおこしてからは、文明国とよんでいる」(268頁)。「まこと茶道は道教の仮の姿なのではないか」(280頁)という提言は、しばしば禅とともに語られる茶道を、道教の文脈におくことで思想史的にも興味深い。。中国北方出身の孔子による儒教の系譜、南方出身の老子・荘子から南方禅の六祖慧能にいたる道教的な禅の系譜の指摘にもハッとさせられた。「悲しいことに、われわれは花を友としながら、獣性の域をあまり脱していないという事実をおおいかかくすことはできない」(302頁)、「わが国の伝統によれば、はじめて花を活けたのは初期仏教徒で、彼らは生物にたいするかぎりない思いやりから、嵐に吹き散らされた花々を拾い集めてこれを水差しにいれたということである」(307頁)、「あまり感傷的になるのはやめよう。奢侈をつつしみ、気宇壮大になろうではないか」(309頁)。明治時代に中国、インド、アメリカを旅し、英語をあやつり、道服を身にまとった岡倉天心の『茶の本』は、最後、「暴君との友情」(311頁)ゆえに自刃する千利休を描いて終わる。僕には、なぜかこのシーンが、太平洋戦争に敗れた日本の姿の予言のようにおもえて仕方がなかった。


〇網野善彦『歴史を考えるヒント』新潮文庫、平成24年

日常語に染みこんでいる歴史を繙く一冊。講演がもとになっているので読みやすい。「潰れ百姓になるのがわかっているのに、田畠を分けて五反百姓以下にしてしまうのは、「田分け」といって馬鹿者の表現になる」(85頁)、「加賀・能登・越中で「藤内」と呼ばれていた人々の中には、「藤内医者」と言われて医者として扱われている人たちがいた(中略)、医学の発達にも、被差別身分の人々が大きく寄与していることは、決して見落としてはならないと思います」(151頁)、「「手」には交換という意味が含まれている(中略)切手は「切られる」ことによって「無縁」なものになり、相互に交換が行われるようになった文書を指していると解釈できる」(166-167頁)、「「落とした」物は誰のものでもない無主物となり、いうなれば神仏の物となってしまうのです」(178頁)、「「コミュニズム」を「共産主義」と訳したのは、歴史上、最大の誤訳の一つではないか」(213頁 解説)。知らないことが多いことを知る本だった。

〇加地伸行『儒教とは何か 増補版』中公新書、2015年
〇加地伸行『沈黙の宗教 ー儒教』ちくま学芸文庫、2011年
祖先祭祀や祖霊信仰というアジア文化圏に受け継がれてきた原初の宗教性を体系化したのが儒教であるというスタンスで儒教の歴史的な展開、思想的な展開を記した2冊。仏壇の位牌が儒教の影響にあることは以前から知っていたが、ほかにも姓の感覚や、忠魂碑など、儒教的な発想が残っている点がいろいろあることを知って興味深かった。古代ギリシャ・ローマにも祖先崇拝があり、「キリスト教がこの祖先崇拝の<家族宗教>をヨーロッパから駆逐してしまった」(155頁
)という指摘は面白かった。しかし、仏教の伝わった日本がそうだったように、キリスト教の伝わったギリシャ・ローマでも祖先崇拝はこっそり生き延びたのかもしれないと思うのだがどうなのだろうか。人間同士の関係を超える普遍思想が、人間同士の関係に根差す素朴思想と重なるとき、国家という共同体幻想が現実味を帯びるのかもしれない。東洋と西洋それぞれの辺境で暴力的なナショナリズムが勃興した理由が少しみえた気がした。

 

〇石橋湛山『湛山回想』岩波文庫、1985年
2024年夏に身延山久遠寺にいく用事があり、読んでみた一冊。石橋湛山の父が日蓮宗の法主をつとめた高僧だったことを知って驚いた。甲府中学校時代にであった大島正健の影響で、湛山自身はキリスト教にも造詣が深かったのだが、この父子の宗教観についていつか調べてみたいと思う。

 

力尽きたのであとは書名だけ挙げておく。いろいろ読んだのだが、池谷先生の本を読んで思ったのは、どうやら脳は、無限を入力すると振る舞いが安定するらしいということだった。宗教はそもそも無限なるものを考えるという点にポイントがあったのかもしれない。

 

〇伊藤正男『脳と心を考える』紀伊國屋書店、1993年

〇池谷裕二『複雑な「脳」、単純な「私」』ブルーバックス、2013年

〇スチュアート・カウフマン『自己組織化と進化の論理』ちくま学芸文庫、2008年

〇中川米造『医学をみる眼』NHKブックス、昭和45年

〇高坂正堯『国際政治』中公新書、1966年

〇麻田雅文『シベリア出兵 近代日本の忘れられた7年戦争』中公新書、2016年
〇麻田雅文『日ソ戦争 帝国日本最後の戦い』中公新書、2024年

〇黒田俊雄『寺社勢力 もう一つの中世社会』岩波新書、1980年

〇岡谷公二『神社の起源と古代朝鮮』平凡社新書、2013年
〇水谷千秋『継体天皇と朝鮮半島の謎』文春新書、2013年

〇水木しげる『劇画ヒットラー』ちくま文庫、1990年
〇橋川文三『黄禍物語』岩波現代文庫、2000年
〇上田泰己『脳は眠りで大進化する』文春新書、2024年
〇藤原辰史『トラクターの世界史』中公新書、2017年
〇高取正男・橋本峰雄『宗教以前』NHKブックス、1968年

今回の年末年始は、体調があんまりよくなく、家で寝正月。久々にテレビ番組をたくさん拝見した。リアルタイムの番組もみたが、サブスクリプションにより、いろいろな番組がみれるのも便利である。いくつか番組の感想を書いておく。

 

■「探偵!ナイトスクープ 年忘れファン感謝祭」

大晦日が休みの時は、たいていこの番組を見てしまう。笑いあり涙ありの興味深い回ばかりで本当に面白かった。この番組では「ノリ」が重要な要素を占めていると思うのだが、この「ノリ」から僕は大乗仏教や小乗仏教でいうところの「乗≒救済のための乗り物」を連想してしまった。個人的にB'zの「ウルトラソウル」のサビのリズムで漢字「個」を書けるという謎の指摘がツボにはいった。

 

■「第75回紅白歌合戦」

年末はいろいろな歌番組が放送されるが、演出の気合入りっぷりはやはり紅白が別格だと思う。元日が仕事でない年は何だかんだで見入ってしまう。まずぐっときたのは、星野源のギター1本のディタッチメント全開(要は暗め)の「ばらばら」からSuperflyのハイトーンがすごい「Beautiful」の流れ。星野源の淡々としたパフォーマンスは、表情も演奏も歌唱も群を抜いて地味であり、それはそれで目立っていたのだが、そのあとのSuperflyの「Beautiful」は星野源とは真逆のストレートな伸びやかなパフォーマンスで、両アーティストの良さが引き立つ演出になっていたと思う。もう一か所はB’zのサプライズ登場で「ウルトラソウル」が流れ、いそいで「個」を書いているうちに、ニューヨークからの藤井風「満ちていく」中継に切り替わった流れである。B’zはロックとポップスの融合という意味で世界最先端にいるアーティストだと常々思っている。音を聞いただけでB’zと分かるという意味で、ある意味ジャンルを超えたアーティストだと思うのだが、藤井風の「満ちていく」もジャンルがよく分からない曲であった。キュルキュルとしたギターの演奏に重なる仏教的な歌詞(手放すと満ちていくとは、まさに仏教ではないか?)が藤井さんのウェットな声に乗ってニューヨークの朝に響いている情景は、B′zとは違う意味で突き抜けていて印象深かった。2024年11月頃に同志社大学での佐藤優さんの講演をオンラインで聞いて、佐藤さんが、「紅白歌合戦最後の蛍の光」から「ゆく年くる年」への急な切り替えに日本の宗教性は現れていると指摘されていて、なるほどと思ったことも追記しておく。

 

■「新春生放送!東西笑いの殿堂2025」

漫才・コント中心の番組が多い中で、NHKならではというか落語や講談も交えながらいろいろ楽しめるところがこの番組の面白いところだと思う。テンションで乗り切ったり、伏線を回収したり、ちょっとひねったり、笑いだけでなく、「ほ~ぅ」となるほど感を持ってしまうパフォーマンスもみられるのだ。芸人さんの目のつけどころは本当にすごい。勉強になった。

 

■「新宿野戦病院」

 まだ2話までしか見ていないのだが、このドラマは傑作である。第一話で、もはや現代の名優といってよい気がする小池栄子さん演じる岡山出身の日系アメリカ人軍医が、「平等な命を雑に助ける」という名言を放っていた。西洋の医療が技術として人々の信頼を得るようになったのは、戦争医学の進歩によってであった。戦争医学には、兵士の階級ではなく重症度によって治療の優先順位を決めるという思想があり、戦場であるからその場でできる精一杯しかできないという一種の「雑さ」がある。その戦争医学の特徴を、西洋医学の子孫である現代医学も引き継いでいる面があるわけだが、「雑である」ことに自覚的な医療者がどれぐらいいるだろうか。

 戦争医学を離れて日常生活での医療について考えてみると、興味深いことに、国民医療保険制度のないアメリカは、江戸時代の日本のように、お金を持っている人しか十分な医療を受けられない。すなわち、ものすごい丁寧な医療がある一方で、ものすごく雑な医療もあるのがアメリカである。一方で、国民医療保険制度がある日本では、病状の重篤さに応じて手厚さが変わるようになっており、手厚さの差をもうけることで、雑さはなるべく均等になるように配慮されているように思う。「丁寧な医療」と「手厚い医療」が微妙に異なった概念であることがミソである。「厚生労働省」という監督官庁の名称が如実に示している通り、日本の医療は「手厚さ」を目標としており、実は「丁寧さ」を目指していない。もちろん、日々の臨床で個々の医療者が「丁寧さ」を目指すことは推奨されるだろうが、保険医療の範囲という制限があり、どこかで「雑さ」を許容せざるを得ない場面がでてくるのである。この本質的なポイントに気が付かせてくれた点で、このドラマは殿堂入りである。宮藤官九郎さんはどうやってこの台詞を思いついたのだろうか。ちなみに僕がこのドラマを見ようと思ったのは、とある職場の勤務初日に、ベテランの看護師さんから「ここは野戦病院ですから」という言葉をかけてもらったことが、ものすごく印象に残っていたからである。3話以降が楽しみだ。

 

■「虎に翼 総集編」

相方さんの恩師から届く面白い年賀状を毎年楽しみにしているのだが、そこでこの朝ドラが激賞されていたので総集編を鑑賞してみた。このドラマでは女性の法曹界への進出や原爆裁判、尊属殺重罰規定違憲判決などが描かれているが、法律もゆっくりとではあるが時代とともに変化しうる存在なのだと感じた。また、昭和期の法律界に、学んだことを社会に役立てようと奮闘した人たちがたくさんいたことを知って、頭の下がる思いがした。戦ったり、守ったりするために学ばなければならないということは医学でも言えることだと思うのだが、「やれるだけのことはやったのだ」と常に自分に言えるようにしておくことは、なかなか骨が折れる。いろんな壁にぶつかりながら、一生懸命に学び続けた人たちがいたということは、とても励みになる。もちろんドラマとして楽しめる内容なのだが、朝ドラとしてではなくて教育テレビの番組として放送してもよい作品なのではないかと感じた。

先日、サウナからでて水風呂にはいると、目がぎゅっと閉じて口が横にぎゅっと引っ張られた。「つめたい~!」という感じがする。そのあとビールをごくごく飲むと、またまた目がぎゅっと閉じて、口が横にギュッと引っ張られる。「うまい!」という感じがする。大勢の人と一緒にいて大笑いしているときも同じような表情をしている気がする。

 

総じてこの表情の時、僕は「心地よい感じ」がしているようだ。自分の内側では異なる感覚や感情なのに、同じような表情筋の動きになるのが面白い。

 

少し考えてみると、「心地よい感じ」と「面白い感じ」は違っている感じがする。「へぇ~」というときは、ちょっと意外な感じが含まれていて、目は見開き、口も開く。「面白い感じ」のときは、「目や口からなにかを取り入れようとしている」と捉えられなくはない。一方で、「心地よい感じ」のときは「目や口から何も取り入れないようにしている」と捉えられるかもしれない。

 

あまりにももやっとした言い方になるが、「心地よい感じ」のとき、目も口も閉じるように顔面筋が動くのは、外界からの知覚情報を入れないようにし、内的な感覚の情報が溢れるようにしているのではないだろうか。

 

身体はたくさんの筋肉を動かして、いろんなパターンの表情や姿勢を形成している。その意味を考えるのも面白いかもしれない、と思っていたら、安永浩先生の「姿勢覚」という言葉を思い出した。最近、自分なりに考えているつもりで、前からしっていた概念にいきつくことが多い。

 

通勤で街中を歩いていると様々な文字が目に飛び込んでくる。お店の名前、選挙ポスター、お寺の掲示板など。

 

休日に郊外を歩いていても突然、民家の壁に「悔い改めよ」と書いてあったりしてドキッとすることが時々ある。


近所の教会やお寺の外に聖書や経典の抜き書きが掲示されているが、海外の教会で同様の掲示をみたことはない。なぜだろうか。


以上、ふと気になったので記しておく。「文字だらけ」という点からも日本を理解する補助線が引けそうな気がするのだが、どうだろう。

 

【追記】

選挙のポスターは「〇〇を守る!」「○○を実現します!」と勢いはよいが、僕は空虚さを感じて「果たしてそうか」とヘソを曲げたくなる。教会の外にある掲示板に聖書の箇所が抜き書きされていると、「そんな箇所があったのか」と自分の勉強になるし、どうして牧師さんはこの言葉を選んだのか、少しの時間考えるのは楽しい。一方で、宗派にもよるのだろうが、お寺の掲示板にはお経からの引用は少なく、小説や詩など文学からの引用が結構ある。説教臭い感じをうけるときもあるが、仏教にこだわらない自由な感じがして、個人的にはお寺の掲示板は面白いと思う。

先日、後輩たちの演奏会に足を運んだ。仕事終わりにダッシュで電車にのりこみ、開演4分前に滑り込んだ。コロナ禍で消滅の可能性もあった後輩たちが、すこしずつメンバーを増やし、難曲を演奏している姿には、それだけで頭が下がる。社会人になり、後輩たちほど真剣には練習できないけれど、また良い音楽の中にいる経験をつみたいなと帰り道で感じた。これは後輩たちから「刺激を受けた」ということになるのだろう。

 

若干話がかわるが、ドイツ語をいい加減にしっかり勉強しようと思い、先日、かの関口存男氏の参考書をいくつか古本で購入した。そのなかの1冊『趣味のドイツ語』(三修社、1970年)の冒頭にハッとさせられる言葉があった。曰く「私はこう思います:人を教えるというのは、人を「刺激」することである、と。大して教えるところがなくてもよい、「刺激」さえすればよいのだ、ーこれが私の信念です」(同書2頁)。

 

ちょうど後輩たちの演奏会後に関口氏の文章に触れ、そうか、僕は後輩たちに教わったのだと得心した。音楽もドイツ語も関口氏流の「対おのれ自身対策」を念頭におきながら取り組んでいきたいと思う。

 

いつのまにか、いや、あっというまに、仕事上で若手を「指導」するといういかめしい役割を担う年頃になってきた。なにが「指導」なのかという点は現場では混乱しており、「研修」や「講演」という名前の機会があまりに多いのだが、「刺激」を受けたと感じることは、僕の鈍感さのためか非常に少ない。いずれにせよ、僕が「面白い」「すごい」と感じる時間を大切にしていくことが、自分の力を伸ばしていくことになるのではないか。そう信じてやってみるしかないのだろう。Ars longa, vita brevis.である。