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Nothingness of Sealed Fibs

見た映画、読んだ本、その他もろもろについて考えたことを書きとめてあります。

2025年7月20日に参議院選挙があった。結果からすると自民党・公明党がはじめて衆参両院ともに過半数割れとなった。共産党、社民党も議席をへらし、立憲民主党・国民民主党・維新の会があまり変わらず、参政党ほかいろいろな新しい政党・会派の台頭がみられた。大まかにみると、古参が苦戦、中堅が横ばい、新入りが躍動と整理できる。

 

ついに、政治の世界も「新鮮さ」が売りとなる時代に入ったように見えなくもない。だが、各党の主張を比べてみると、「減税」「少子化対策」「貧困対策」「教育・福祉の充実」など大きな方向性は共有されており、その大きな方向性の中での程度や手段の差ぐらいにしか、それぞれが違いを表せていない。どの主張にも新鮮味はなく、既視感をぬぐえないものとなっている。大事とされる問題について多くの人数から支持を得ようとすると、どうしても各党の主張が収斂してしまうからである。どうやら「新鮮さ」は、主に党名の看板書き換えによって担保されているようである。

 

ちなみに、僕はNHKの選挙サイトで自分と意見の合う政党を判定する便利なアンケートを利用したのだが、一番意見が近い政党でも意見の一致率は50%だった。この一致率を高いとみるか、低いとみるかは意見が分かれるところだろう。自分の考えと重なる政党や候補者がそもそもないという人は案外多いのではないだろうか。

 

そうなると、僕の場合、政策内容うんぬんというよりは、候補者なり政党なりが「ちゃんとやってくれそうか」「ちゃんとやれないときはそのことをちゃんと正直に言ってくれそうか」という観点から投票先をきめることになる。「ちゃんとやる」の定義はなかなか難しいが、今のところの僕の暫定的な定義は「自分の主張を通すための議論に固執せず、議論の結果によっては主張を変えることができるひとたち」ということになる。

 

この定義によると意外にも石破首相が高評価になってしまう。もしかすると、自民党内で出てきた「石破おろし」に対して「石破やめるな」というデモがおこっているのは、この定義で政治を評価している人がある程度いるということなのかもしれない。

 

選挙で敗れた与党党首に「辞めるな」運動がでてきたのは、目新しく、面白い。おそらくこの運動をする人たちにとって石破首相は、選挙はダメだが政治はしっかりやっていると評価されているのだろう。そういう政治家は党員にとっては困るだろうが、国民にとってはありがたい存在である。

 

ちなみに「石破おろし」の理屈として「民意は示された」といわれているが、示されたのは投票した58%の意見だけであり、残り40%の人は今の政治で良くも悪くもないといっていると考えられる。そのことは忘れずにいたほうよいだろう。

 

最後に。参政党の躍進が目立ったとされているが、先だっての兵庫県知事選挙と今回の参政党躍進とに似た匂いを感じたのは僕だけだろうか。そういえば、やんちゃな主張をする人が良識派から叩かれたあとに票を伸ばすという構図は、海の向こうでも見られている。海の向こうの大統領は実は戦略的な凄腕であると僕は思うのだが、日本の知事と政党は果たしてどうだろう。良識派の人たちは、そろそろ「叩く」という攻撃的戦略を見直すべき時期に来てはいないか。

 

新入り政党の主張に陳腐さがみられ、「石破辞めないで」運動に新鮮さを感じた今回の参議院選挙であった、と今の僕は思っている。

 

追記:政治とは原則的にモヤモヤする営みである、と僕は思っている。しかし、昨今、政治にスッキリ感を求めている人が多くなってきてはいないだろうか。政治にふさわしいのは、論破ではなく交渉である。僕はそう思っているのだが、政治を外交のように見なし過ぎているだろうか。

野村實さんの『海戦史に学ぶ』文春文庫、1994年を読みはじめた。「まえがき」に終戦当時のモスクワの駐ソ連大使・佐藤尚武さんが当時の外務大臣・東郷茂徳あてに打電した文章が引用されている。

 

「…もって国家存亡の一歩手前においてこれを食い止め、七千万同胞をとたんの苦より救い、民族の生存を保持せんことをのみ念願す」(同書7頁)

 

7千万同胞、一億総懺悔、そういった言葉に1945年当時の感覚が刻まれている。ちなみに太平洋戦争勃発前の時期には人口増加への不安が喧伝された。当時の日本国内の農業生産力では7000万~8000万人程度の人口しか食料的に養えないとされ、ハワイや南米、満州国への移民が募集された。7000万の日本人が何はともあれ世界一の国力を誇るアメリカを相手に戦争をし、敗戦後の復興を成し遂げ、国力を回復させてきたのである。

 

厚生労働省の統計予測によれば2070年に8700万人程度の人口になるとされている。そのころには人口分布や産業構造は現在と変わっているだろう。それでも8700万人いるのである。国が消滅してしまうとか、立ち行かなくなるという人口ではないだろう。

 

少子化の議論では「人口が減ることは問題だ」ということばかりがいわれ、すこしでも出生数を増やそう、現在の人口をキープしようというアイデアがどんどん出されている。しかし、そうした議論には「日本の社会が安定して維持されるにはどれぐらいの人口が適正なのか」という論点がかけていると思う。そして僕の憶測によれば、7000万人になったら7000万人なりの社会の形があるはずなのだ。

 

人口を増やしたり、減らしたり、国家はいろいろと策を講じているが、結局は人口推移に応じた社会政策をその都度考えねばならない。だとすれば、少子化対策よりも、少子化が進んだ場合にどうするかを考えておくことのほうが本質的な問題のように思えるのだが。はたして?

ふとテレビをつけたときにNHKで「斬られ役 大部屋俳優 58歳の心意気」がやっていた。話題の『侍タイムスリッパー』のアイデアの元となった斬られ役俳優・福本清三さんのドキュメンタリーである。

 

ヒーロー戦隊ものではなく、時代劇で人生を勉強した僕は、福本さんのお顔を何度も拝見して存じあげていたが、失礼ながらこの番組ではじめてお名前を知った。ガキんちょ時代は、福本さんが同じ番組で2回斬られている!と突っ込んだりして楽しんでいたことを思い出す。

 

このドキュメンタリーでは、新世代時代劇映画『RED SHADOW 赤影』で「斬られない役」に挑んだ福本さんの姿が収録されている。大作映画の撮影が終わり、テレビ時代劇で顔の映らない名もない町人役を務めていた福本さんは、次のようにインタビューに答えておられた。

 

「反省しながらの40年ですけどね」

「これといって自分で納得したこともないし」

「でもやっぱりなかなか思うようにいかないですね」

「これからもやっぱり毎日ステップですね」

「これからいけるところまでいこうと思ってるんですけど」

 

笑顔でインタビューに応じる福本さんの率直な言葉を聞いているとなんだか胸が熱くなってきた。医療の仕事にも、患者さんという主役を引き立てるという意味で、福本さんの姿勢は参考になるかもしれない。「心意気」という昨今耳にすることが減った言葉も気に入った。日々の仕事のなかで、僕なりの「心意気」ということについて考えてみても面白そうだ。

 

撮影所から帰る福本さんの後ろ姿は、上下運動の少ない「ナンバ歩き」だった。刀を腰に差していた時代の人の歩き方である。一生懸命仕事をやっている人は、仕事を離れても仕事をしているのだ。

むろん、赤信号は渡ってはいけない。いかなる理由があろうとも。しかし、渡り方について考えをめぐらすことは、少し日々の制約を緩めるのに役立つのではなかろうか。


と、こじつけて、赤信号のわたり方について、時々話す相手の考えを聞いてみることにしている。


実際に尋ねてみると、「赤信号、みんなで渡れば怖くない」という有名な標語にどういう反応をするのか、その時は何が「怖くない」のか、人それぞれの意見があって、面白い。


最近、自分自身を省みて、「赤信号、ひとりで渡るほうが、みんなで渡るよりも怖くない」という表現が、自分にはしっくり来るということに気がついた。


僕は少し外れていることを好むようだ。おそらく、ガキンチョのときにみていたテレビ番組の影響である。


「あぶない刑事」「はぐれ刑事純情派」「はみ出し刑事情熱系」など、刑事ドラマはみんな少し外れていたし、「水戸黄門」「暴れん坊将軍」「遠山の金さん」もハイ・ソサエティな人が身分をかくしてお忍びする話である。


時代劇や刑事ドラマで育った小学生頃の僕は、「人生楽ありゃ、苦もあるさ~」と通学路で歌いながら、ちゃんと信号を守っていた。


大人になった僕は、歌と信号の守りかたについて大いなる変貌を遂げていた。このままでいいやと思っているといつの間にか変わってしまい、このままではいけないと思っているとなかなか変わらない。


これだから人生は興味深い。

NHKラジオ「宗教の時間」で禅僧の藤田一照さんと腫瘍精神科医の清水研さんの対話が放送されていた。お二人の会話の表現というよりも、藤田さんからの質問に清水さんが答えるとき、文字通り「胸に手をあてて」答えられていたという藤田さんの指摘が印象深かった。そこで考えさせられたことについてメモしておく。

 

「頭を抱える」という表現と、「胸に手をあてる」という表現がある。どちらも身体の特定の部位に手を当てる行為なのだが、意味するところがだいぶ違う。頭には両手を、胸には片手を当てるというのも違いかもしれない。

 

「頭を抱える」のは、困っている時、途方にくれるときのしぐさだ。一方、「胸に手を当てる」のは、じっくりと落ち着いて考えるときのしぐさだ。

 

頭と胸でこれほど手を当てた時の意味が異なることには、なんらかの生理学的根拠があるのではないだろうか。もしその根拠がうまく探究できたなら、脳と心臓の働きの違いがより明確に理解できるようになるのではないだろうか。

 

同様の発想で人間の仕草や姿勢について見直してみるのも面白い。例えば、合掌や拍手、仏像の印などについて生理学的に考え直すとどうなるのだろうか。またそういう仕草や所作の心理学的な意味はなんなのだろうか。気になってきた。例えば、座禅の結跏趺坐では左足が上になるように足を組む。どうして左足なのか、解剖学的あるいは生理学的に説明できるのだろうか。

 

やや話は飛ぶが、終戦後に「手かざし」によって病気を癒すという不思議な宗教(岡田茂吉氏の世界救世教)が流行った時期があった。医学史に詳しい方なら、21世紀のような問診、検査、診断、治療の体系が確立する以前の医療では、催眠や漢方、祈祷による治療がかなりの効果を上げていたこともご存じであろう。

 

昔の人々は、身体の力を引き出す方法を、現在よりもっとよく知っていたのかもしれない。