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Nothingness of Sealed Fibs

見た映画、読んだ本、その他もろもろについて考えたことを書きとめてあります。

ようやく夏の終わりがみえてきた。今夏は、コロナ禍でしばらく会えていなかった同級生、先輩方と久闊を叙す機会が数回あった。それぞれの分野で活躍されている人たちと話すと、すごいなぁと感嘆することがおおかった。返す刀で自分を振り返ることになる訳だが、いろんな意味で中途半端だなと思ってしまう。その時その時で興味があるものに取り組んできたつもりなのだが、「興味が変わりすぎてどれもモノになっていない」というご意見には、「ごもっとも」としか言いようがないのが偽らざる実情である。

 

印象的だったのは、ある先輩と帰る電車でのやりとり。酔っぱらっているので思わぬ話になる。

先輩がぽつりと「みんなすごいよなぁ」とおっしゃった。僕はとっさに「自分よりすごいなって人が周りにどっさりいますんで、迂闊に生きてる僕とかは肩身狭いです」となんだかよくわからない返答をしていた。そのあとすぐに最寄り駅について話はそこで終わったのだが、自分が咄嗟に口にした「迂闊に生きる」という表現が心に残った。

 

もう一つ印象的だったのは、夏休みで遊びにきた甥っ子(小学2年生)とのやりとり。甥っ子が突如、「おじさんは、賢いの?」と聞いてきた。困ったおじさんは「学校の勉強は得意なほうだったけど、それと賢いってのは違う気がするな。自分がやっていける仕事をみつけるまでは、人生の迷子になってばかりだったしね」と返答。甥っ子はさらに「じゃ、おじさんは馬鹿なの?」とつっこんできた。さらに困ったおじさんは少し考え込んで、次のように返答してみた。

 

「そうだね。おじさんは馬鹿だね。ただ、世の中には馬鹿と大馬鹿しかいないんだよ。自分が馬鹿だと知ってるのが普通の馬鹿で、自分が馬鹿だと知らないのが大馬鹿ね。これは大昔のギリシャの偉い人が気が付いたことなんだ。今の君にはなんのこっちゃという話かもしれないが、君がもうちょっとおおきくなった時に、おじさんの言ってることが分かってもらえるかもしれない。」

 

自分なりに一生懸命答えたつもりではあったが、振り返ると煙に巻いているだけのような気がしないでもない。

 

年をとって、自分でもよく分かっていないことを分かっているかのように、あるいは分かっているつもりのことを分かっていないかのように話さねばならないことが増えた気がする。自分ではそのように感じているのだが、話相手はどのように受け取ってくれているのだろうか。そういう事柄について色々と考えてみることを、僕は「迂闊に生きる」にカテゴライズしている。仕事を頑張ったり、家族を大事にしたりすることとは全然違うが、「迂闊に生きる」ことは、ある種の人にとってはとても重要なことなのではないだろうか。

サブスクという単語が日常会話に登場してきたきたのは2021年頃だっただろうか。はじめて耳にしたとき、うろおぼえEnglish知識に基づき、「字幕のことか?」とおもっていたが、字幕は英語でsubtitleだった。気軽に好きな時間に映像作品が楽しめる時代がきたというのはびっくりであり、がきんちょのころレンタル屋さんで時間をかけて映画作品を選んでいた時期が懐かしい。中高時代に映画館に入り浸っていた僕には、映画やドラマという「ジャンル」が動画という「カテゴリー」に吸収されてしまう気がして、ちょびっとさみしい気持ちも湧いてくる。

 

数か月前の話になるのだが、ドキュメンタリー映画『再会長江』を観に京都新風館のアート系映画館uplinkさんに行ってみた。映画館でないと全編がみられない作品である。上映前に餃子とノンアルコールビールを飲んで入場。いつのまにか振る舞いが年をとっていく。入場後にこだわりのコーラもいただき、準備完了。

 

『再会長江』は日本人のドキュメンタリー映画作家さんが、10年ほど前に訪れたときに出会った人々に再び会いに行くというのがメインテーマになっている。上海、南京から武漢、三峡ダム、シャングリラなど長江流域を遡りながら、いろいろな人々と再会していく。10年前の映像も時折挿入され、大都会と山村という空間的な変化だけでなく、時間的な変化も実感できる編集になっている。変化のスピードは相当に速く、「飛行機はどうして落ちないの」と不安を吐露していた雲南地方の少女が、10年後にはスマホを駆使しながら立派な民宿を切り盛りしていた。

 

今回の映画を観て感じたのは、大きな変化の渦中にあるにもかかわらず、中国の人たちが楽しそうに生活されているということだった。裕福な人、貧しい人、都会の人、山村の人、いろいろな人が活写されていたが、みなさんしっかりと生活を営まれていた。むろん、ドキュメンタリーだから悩む人が取材されにくいのかもしれないが、社会変化にともなう軋轢のようなものはこの作品から僕は感じ取れなかった。となると、中国の人の生活スタイルは大きく変化しているものの、根底にあるメンタリティーのようなものはあまり変化していないのではないかという仮説が思い浮かぶ。あくまでこの映画をみた限りという但し書き付きではあるのだが。

 

もし、中国社会は軋轢を生みにくく、日本社会が軋轢を生みやすいのだとすれば、その理由をどう説明できるだろうか。映画館をでたばかりの僕は、中国の易姓革命と日本の転向という対比がポイントにならないかななどと考えてみた。だが、そのあとすぐに、長江流域の壮大な自然の映像がおもいだされ、「そうか、中国は日本よりもはるかに広大だったんだ」と感じたときにスッと腑に落ちた気がした。

 

帰り際に歩幅がすこし広くなるようなドキュメンタリー作品だった。

某国大統領選挙が盛り上がっている。先日、その演説会で大統領候補が銃撃されたというニュースが飛び込んできた。澄みきった青空と国旗を背景に、右耳付近から流血しながら拳を突き上げる候補者と、周囲を警護するサングラスと黒いスーツの人々をとらえた写真が報道された。あまりにも格好よいアングルに驚いた。

 

僕の第一感は、「似たような写真をどこかで見たことあるぞ」だった。似たような写真がなんだったのか、すこし考え込んだあとに、思い浮かんだのは、硫黄島にたてられた某国国旗の写真だった。

 

僕の第二感は、二つの似通った写真の違いだった。国旗と人間では、抽象度が異なる。現在の某国は、国旗による統合よりも、人間による統合のほうが希求されているのではないか。そういえば、「某国をもう一度偉大に」という前々回当選時のキャッチフレーズを、この候補者は最近口にしていない。国としての統一感を訴えることがマイナスと考えておられるのか。

 

前回選挙でこの候補者は落選したが、コロナ禍への対策が評価されなかった点が大きく響いたと僕は勝手に推測している。だが、大統領が変わってからウクライナ紛争が始まり、今度は現職大統領の国際的な舵取りに疑問符がつけられている。コロナ禍にしろウクライナ紛争にしろ、もっと上手くできなかったかといわれると反論しにくい難題である。だが、内政の問題処理と国際的な課題解決とでは、リーダーに求められる資質は異なるだろう。やっかいなのは、選挙の時期に主要な争点となる問題が大統領任期の四年間ずっと続くとは限らないし、全然別の大問題が起こることも十分にあり得るということである。

 

今回の事件が、狙われた候補者の後押しとなるのか、足を引っ張ることになるのか。僕は今のところ前者を予想している。

 

梅雨になると傘を使う機会が増える。仕事には折り畳み傘を持っていくことが多いのだが、先日とあるコンビニに立ち寄ったとき、傘立てに折り畳み傘用のエリアがもうけられていてびっくりした。

 

通常の傘に比べて、折り畳み傘は丈が短く、たたんでも太いため、これまでの傘立てだと上手く立てられないので、壁に立て掛けておいておくことが多かった。

 

その数日後に銀行のATMに立ち寄ったのだが、荷物を置くための台の端に、杖と傘を引っかけるための窪みがもうけられていた。

 

いつからそうなっていたのかわからないのだが、少しずつ色々な工夫と配慮が積み重ねられていることを知ると、日々をすこし能動的に過ごしてみたい気になってくる。その次の瞬間、否、能動的な生き方は時間制限付きでないと僕にはとても無理だと思ってしまうのではあるが。

 

僕の場合、やる気が意志に変化するために、工夫と配慮が欠かせないようである。

 

追記(2024.7.20)

中井久夫先生の『「昭和」を送る』を読み返していたら、折しも「勤勉と工夫」という項目があった。中井先生は対話篇の中で「日本人の勤勉は、「甘えの禁欲」の上に成り立っていると思う」と指摘された後、二宮尊徳を「偉大な哲学者」「疲弊した村の治療者」と高く評価されている。「彼(二宮尊徳)は、天道すなわちnatural wayは自然法則であって、畜生道であり、善悪を知らないと言っている。神の許しなしには鳥一羽も落ちないという考えとは対極だ。(中略)おそらく天道から見れば、荒れ地の方が天道にかなっているのであろうが、「それでは人道立ち申さず」というわけだ。(中略)それは予定救霊説とは正反対だけれども、結果的には、同じく勤勉と自己規律を生むわけだ」と指摘されている。R・N・ベラーや山本七平は石門心学や鈴木正三の禅を勤勉の背景に見出しているが、土居建郎先生、中井久夫先生の指摘も今後注目されてよいと思う。中井先生はさらに踏み込み、「ただの勤勉なら、日本人よりも勤勉な民族はいくらでもいる。わが国では、勤勉だけだとうつ病になりやすい。つまり勤勉だけではやりとおせないのだ。(中略)勤勉と工夫がセットになっているのだ」、「工夫とは、既存のものをあまり目立って変えないようにし、外見は些細に見える変更の積み重ねによって重大な障壁を迂回し、精力の浪費なくして、中程度の目標に達することだ」と指摘される。加えて、勤勉と工夫だけでは解決できない大問題が残りやすいという日本の特性ゆえに、バランス感覚とそれにむすびついた変身能力(転向)がしばしば必要になると述べられている。エッセイのなかでちらっと太平洋戦争期の枢密院に対して、「『あてにする』とは土居の指定の通り、甘えの堕落的形態だな。信頼せずして期待し、あてはずれが起こると『逆うらみ』する」と中井先生が嘆息されているところが印象深かった(以上の引用は『「昭和」を送る)』みすず書房、2013年、pp.101-105より)。

「信頼せずに期待する」などということにならないよう、心のゲリラ戦を展開していきたいと思っている。

 

以前、NHKの番組で紹介されたジャズピアニスト海野雅威さんについて書いたことがある。その海野さんが一年前の2023年5月に発表されたのが『I Am, Because You Are』である。

 

久々にアルバムタイトルを見て即買いした。このタイトルは英語圏ではしばしば耳にするフレーズのようであるが、短いけれども大切な意味を含んでいると思われる。和訳すると「私は在る、あなたが在るから」、あるいは「私は私である、あなたがあなたであるから」とでもなるだろうか。僕個人としては後者の訳のほうがしっくりする。

 

第一曲「Somewhere Before」から心に沁みた。静かな広がりをもつメロディと、ペースを変えながらコツコツと刻まれるリズムが心地よい。聴き終わったときにすこし気持ちが広がったように感じた。不思議な魅力をもったアルバムである。

 

暑さがきびしくなってきた。太陽光が暖かさよりも強さとして感じられる。人間には現象を自分にとっての快不快の感情とともに認知する特性がある。その意味で、人間は客観的である前に、まずは主観的である。そして、この人間の特性は、私において成り立ち、他者においても成り立つといってよいだろう。

 

さらにもう一段階洞察を深めたとき、私と他者の関係にbecauseを見出すことができるか。もしも見出すことができたとして、見出し続けることができるのか。あるいは、becauseは真理なのか解釈なのか、へそ曲がりの僕はついつい考えこんでしまう。だが、海野さんのアルバムを聴いているうちに、ピアノ・シンバル・ドラム・ベースのアンサンブルが、それこそがbecauseなのかもしれないという気になってきた。

 

音楽CDアルバムをタイトルを見て即買うというのは、僕にとって初めての経験だった。こんな誠実なタイトルを掲げるアーティストの音楽が、素晴らしくないはずがない。僕のはじめての即買いは、大当たりであった。