工夫と配慮 | Nothingness of Sealed Fibs

Nothingness of Sealed Fibs

見た映画、読んだ本、その他もろもろについて考えたことを書きとめてあります。

梅雨になると傘を使う機会が増える。仕事には折り畳み傘を持っていくことが多いのだが、先日とあるコンビニに立ち寄ったとき、傘立てに折り畳み傘用のエリアがもうけられていてびっくりした。

 

通常の傘に比べて、折り畳み傘は丈が短く、たたんでも太いため、これまでの傘立てだと上手く立てられないので、壁に立て掛けておいておくことが多かった。

 

その数日後に銀行のATMに立ち寄ったのだが、荷物を置くための台の端に、杖と傘を引っかけるための窪みがもうけられていた。

 

いつからそうなっていたのかわからないのだが、少しずつ色々な工夫と配慮が積み重ねられていることを知ると、日々をすこし能動的に過ごしてみたい気になってくる。その次の瞬間、否、能動的な生き方は時間制限付きでないと僕にはとても無理だと思ってしまうのではあるが。

 

僕の場合、やる気が意志に変化するために、工夫と配慮が欠かせないようである。

 

追記(2024.7.20)

中井久夫先生の『「昭和」を送る』を読み返していたら、折しも「勤勉と工夫」という項目があった。中井先生は対話篇の中で「日本人の勤勉は、「甘えの禁欲」の上に成り立っていると思う」と指摘された後、二宮尊徳を「偉大な哲学者」「疲弊した村の治療者」と高く評価されている。「彼(二宮尊徳)は、天道すなわちnatural wayは自然法則であって、畜生道であり、善悪を知らないと言っている。神の許しなしには鳥一羽も落ちないという考えとは対極だ。(中略)おそらく天道から見れば、荒れ地の方が天道にかなっているのであろうが、「それでは人道立ち申さず」というわけだ。(中略)それは予定救霊説とは正反対だけれども、結果的には、同じく勤勉と自己規律を生むわけだ」と指摘されている。R・N・ベラーや山本七平は石門心学や鈴木正三の禅を勤勉の背景に見出しているが、土居建郎先生、中井久夫先生の指摘も今後注目されてよいと思う。中井先生はさらに踏み込み、「ただの勤勉なら、日本人よりも勤勉な民族はいくらでもいる。わが国では、勤勉だけだとうつ病になりやすい。つまり勤勉だけではやりとおせないのだ。(中略)勤勉と工夫がセットになっているのだ」、「工夫とは、既存のものをあまり目立って変えないようにし、外見は些細に見える変更の積み重ねによって重大な障壁を迂回し、精力の浪費なくして、中程度の目標に達することだ」と指摘される。加えて、勤勉と工夫だけでは解決できない大問題が残りやすいという日本の特性ゆえに、バランス感覚とそれにむすびついた変身能力(転向)がしばしば必要になると述べられている。エッセイのなかでちらっと太平洋戦争期の枢密院に対して、「『あてにする』とは土居の指定の通り、甘えの堕落的形態だな。信頼せずして期待し、あてはずれが起こると『逆うらみ』する」と中井先生が嘆息されているところが印象深かった(以上の引用は『「昭和」を送る)』みすず書房、2013年、pp.101-105より)。

「信頼せずに期待する」などということにならないよう、心のゲリラ戦を展開していきたいと思っている。