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Nothingness of Sealed Fibs

見た映画、読んだ本、その他もろもろについて考えたことを書きとめてあります。

レポートが2本書きあがったので、ご褒美に、DVD借りてきた。

『シティーボーイズ公演 NOT FOUND』

『転々

以上、2点。


三木聡、やっぱおもしろい。

『転々』は映画館でみたけど、暑い京都にしびれを切らした僕は、

そんなに暑くない東京を思い出すべく、藁にすがるつもりで借りたのだった。


再びいってしまおう。

三木聡、やっぱおもろい!!


『転々』、やわらかさと切なさがリンクしたすてきな作品になっている。


みんなで仲良く食卓を囲む。

一緒にご飯をつくる、買い物をする。

同じ部屋で布団を並べて寝る。

家族であれば、いつもやってる普通のこと、かもしれない。


でも実は、

そういう家族的なふるまいが、ものすごく温かい感情の集合であることを、この映画は示す。


おそらく、

この映画の登場人物は、結構タフな人生を送ってきたのではないかと思う。

不思議女子高生「ふふみ」を除いて。

そんなタフさの中に奇跡的に実現した「普通に」あたたかい時間!!


三木監督の作品は、画面上は幸せに満ちた雰囲気をかもし出している。

でも、その幸せな感じって、限られた時間にだけ成立するものだったり、

映画の終わりと共に終わってしまう、という切なさも持っている。

「幸せ」という名前の「切なさ」、「切なさ」という名前の「幸せ」。


ちょっとしたことで世界が結構楽しみに満ちたものになる。そういう幸せ。

でも、その楽しみは、いつか必ず終わってしまう。そういう切なさ。

『転々』は、そのあたりの微妙なニュアンスが、その微妙さまでしっかりと映画になっている。


ここで、ひとつ疑問が浮かぶ。

こういう「幸せ」や「切なさ」の感覚は、宮崎駿監督が言うような、

「やさしくて 傷つきやすく、おそろしく不器用で、グズで、いい子」のなれの果てなのだろうか??


僕は、宮崎駿監督が『転々』を見て、何というかは知らない。

でも、この映画で描かれるオダジョー、ふふみといった若者をみたとき、

僕は、不器用で、やさしいとは思ったけど、傷つきやすいとは感じなかった。


むしろ、やつらは、「ひょうひょう」としていないだろうか?

その「ひょうひょう」さは、ナイフで鉛筆を削れるのとは別の種類の強さを秘めていないだろうか?


言い方を変えてみよう。

ナウシカよりも、オダジョー演じる主人公のほうが、ある意味「強い」と感じるのは僕だけだろうか??


たしかに、ナウシカには世界の未来を託するに値する純粋なカリスマ性がある。

オダジョー演じる『転々』主人公に、世界の未来は託そうなとど思う人はいないだろう。

でも、ナウシカみたいな子は、世界に一人いれば十分でしょ。ぶっちゃけ。

だからたぶん、この現実世界には、『ナウシカ』より『転々』のスタンスのほうがよく似合う。

そう僕は思うのだ。


よく見直してみると、『転々』にはシティーボーイズコントライブのころからのネタ満載。

(だるまちゃんとてんぐちゃんのモチーフ、ピアノの粉末とか)

さらには、「三日月しずか」まで出てくるし。


ではそろそろ日も沈んで涼しくなってきたし、散歩がてら岸部一徳でも探しに行くか(笑)

そんな、のんきな気分にさせてもらったのだった。

最近、若干興味がわいてきている精神医学の領域で高名な木村敏先生の本を読んだ。


木村敏、『異常の構造』、講談社現代新書、1973年

とっても平明に、分かりやすく書かれている。


ぼくは、ずっと哲学の本を読みながら、「自己」ってことを学んできたけど、

統合失調症はなんで起こるのか、精神医学ではどういう風に「自己」を扱っているのか。

その辺をすこし知りたいなぁという問題意識で読み始めた。


だから、この本の前半で展開される異常と正常(常識)の詳細な分析よりも、

後半に怒涛のように展開される「妄想による常識の解体」や「統合失調症の論理構造」を面白く読んだ。


木村先生の分析は以下の一文に集約される。


『統合失調症では、「A=A」という世界の基本公式(合理性)がリアルに感じれなくなる。』


ふむふむ。なるほど。これはその通りという気がする。

「A=A」と書くとけったいやけど、「自分は自分である」、「青は青である」と具体的にかけば、いいかなぁ。

それが、当り前に感じられない、つまり「自分が自分に思えない」とか、「青色の現実感が感じられない」。

それが統合失調症。木村先生は、「現実感」を「抵抗感」とも表現している。


それって、脳科学あたりで言っている「クオリア(なまなましい質感」が、ないってことかなぁ。

だとしたら大変そうだ。だって、目の前のものが、そのものとして現実感をもって感じられないなんて。

想像できん…。


でも、なんで、そうなんちゃうのだろうか??


木村先生は、ショウペンハウエルを引用して、こう言う。

 

 「ショウペンハウアー的にいうならば、世界を現実として私たちの前に見せているもの、世界の実在性という錯覚を生みだしているもの、それは実に私たち自身の「存在への意志」、「生への意志」なのである」(154ページ)


でも、実は、ここでの木村先生の言うことは、あんまりよくわかんない。


世界が私の外に客観的に実在しているという素朴な実感。

それは、デカルトの懐疑論以来、哲学の分野では、自明なことではないとされている(と思う)。

その自明ではないことを、「生への意志」のおかげで自明と思いこめているってことだよね?

うん。デカルト以来の懐疑を追体験してない人のほうが世界には多いわけだから、それは言えると思う。


たとえば、目の前に万年筆がある場合。

デカルトは、万年筆が客観的に実在していると「思っている」“我”は疑えないと言った(と思う)。

西田幾多郎は、万年筆のクオリア(生々しい質感)が私に知覚されていることは、疑えないと言った(と思う)。

でも、普通の人は、そんな哲学とは関係なく、「目の前には確かに万年筆がある」と思って生きてる。


そして、哲学者でも、その懐疑を「本気」で疑っている人はおらんと思う。

そんなん生活できなくなるし。

哲学者が、論理的に疑っているその疑いを、マジで生きてしまっている人が、統合失調症ってことか?

うん。ここまでは、なんとなくわかる気がする。


でも、もうすこし、細かく考えてみよう。

ポイントは、「現実感」と「生への意志」のより厳密な意味。


例えば、木村先生の言う「現実感」「抵抗感」は「クオリア」だと解釈してみよう。変なことになる。

だって、「意志の力で、青色を見たときに赤色のクオリア(質感)を持てるようになる」って、そんなことありえる?

ないよねぇ。

もし、「クオリア」が木村先生の「現実感」ならば、「意志」の問題よりは、「神経の接続」の問題だよね?


じゃあ、木村先生の言う「現実感」はたとえば、下の例でいわれるような感覚なのだろうか。

「やる気がないから、世界がリアリティー感じれない、なんか目の前を世界が過ぎていく・・・」みたいな。

でも、それはまだ統合失調症ではない気もする。


また、この本の中では、統合失調症の患者たちには、家庭で育ってきた環境に共通点があるって話になる。

でも、そうすると、統合失調症は、後天的な病気という要素もあるようだし、必ずしも脳の問題でもないのか?


と、考えると、どんどん分んなくなってくる。

というわけで、まぁ、一般向けの書物ということもあるのであるが、個人的には細かい点で不完全燃焼な感じ。


この本のラストでは、人間の人格形成を、

「全」という無制約的な自己存在 ⇒ 「一」という社会的・共同的な自己存在への変化という構造で捉える。

視点は面白いけど、他者の認識とい点では、もうすこし繊細に議論を積み重ねる必要があると思う。


それと、本の前半部分の「異常とは、正常側の人間がかってに作り出した概念」という説明は、

初めて読む人にはびっくりかも。

でも、おんなじことは、すでにフーコーがめっちゃくちゃ分かりやすく言ってるしなぁ。


というわけで、記述の分かりやすさにはうなずくも、議論の網目はもうすこし細かいといいなぁという本でした。

ものすごく、きれいに晴れた朝になった。

文字通り、澄み渡ってる。うぉー。


調子に乗って、背延びを3回してみた。

やべぇ。たちくらみが・・・(笑)


でも、きもちいい。

かみさま。僕に「せのび」という体の使い方を教えてくれてありがとう。

そういえば、むかし、プールの時間に「けのび」っていうのならったなぁ。


昨日は、祇園祭の宵山。44万人の方がいらしたそうだ。平日なのに、暇な人はおるもんだ。

そして、いよいよ今日は、クライマックスの山鉾巡行。朝九時スタートやから、もうすこしだなぁ。


あんまり人ゴミが得意でない僕は、せっかく京都に住んでるにもかかわらず、

おうちや、お気に入りの喫茶店で、本をじっと読んで時間を過ごしている。

大学生として住んでいた時も、結局一回生のときだけ宵山いって、

「うへぇー」って閉口して以来、のぞきにいってないなぁ。

だって、試験期間真っ最中やん!!無理やッて。現在レポート6本と格闘中。


祇園祭のような偉大なる文化を堪能することのは、ある程度、年齢を重ねてからでもいいやって気がする。

でも、偉大なる先達の本を紐解くのは、できるだけ、今のうちにやっておきたい。

本については、いつ読んだかが、結構重要な気がするし。

生きている時間は、そうながくないから、多少無理してでも、読みたい本を読んでいたい。


話は変わるが、

表面にあらわれている形、その形が何という名前で、どういう経緯でその形になったのか。

そういう視点よりも、僕は、その形をその形のように作った人間の思想を知りたい。


思想というと堅苦しいので、「配慮」と言ってもいいのかもしれない。

十二単の重ね着の色の名前とかよりも、その組み合わせの仕方に潜む「配慮」を知りたい。

お寺の造園術にみえる意図をしりたい。

山鉾の意図は・・・、まだいいや(笑)


というわけで、目の前に、未読のマルクスと未見の祇園祭があれば、まよわずマルクスを選ぶ。

僕は、そういう感覚の持ち主だから、祇園祭、遠くのBGMとして聞いているだけ。

平日の朝から、 好きな本を読める!!

そういう贅沢さのほうが好き。


自分の、目のこらしかた、耳の澄ましかたを、研ぎ澄ましていたいです。

たくさんの周波数をキャッチできるように。

愛する人を、きちんと感じられるように。


でも、多分、こうやって、あーだこーだと書いてしまうところをみると、

本当は、祇園祭に行きたいなぁ、という、思いもどっかにあるに違いない。

しかも、できれば、好きな人とと一緒に。

うん。でも、祇園祭じゃなくて花火でもいいけどね。

あれは、あれで首がいたくなるしなぁ。


さてと、愚痴を書いて、すっきりしたところで(笑)、レポートでも書くか!!

よっこらせ。

何年か前に読んだ本を、再び開いたりすると、思いのほか、内容を忘れていたりしてショック!!

自分の読書の仕方が甘いなぁと思わされる時が結構ある。


というわけで、気に入った映画だけでなく、本についても、考えたことをもっと記録にしておこうと思う。

とはいえ、本当にすばらしい哲学書を読むと、読むこと自体がその著作と一緒に考えることになるから、内容は自然に頭に入ってくる。しかもそういう本だと議論が多角的に入り乱れるのが常なので、内容を簡単にまとめることは難しい。だからこんなメモはしなくてもいいし、そんなんつくるのすらほぼ無理。


だから、こういうメモを書くとすれば、文学関係か、思想書(哲学ではない!!)ということになる。


というわけで早速。


小泉義之 『兵士デカルト 戦いから祈りへ』 勁草書房、1995年


兵士デカルト
この、小泉先生の本は、いくつか読んだけれど、はげしくフランス現代思想的な思考をする人だなという印象。

ひとつひとつの言葉は、相当かっこいいのだけれど、その論理的な根拠が明晰でない場合が多い。

論理よりも箴言にうまみがある。小泉先生はそういう本を書く人である。

例えば…

「人間として知るべきことは、生き残ることと殺さないこと以外にはありえない。人間はそのことさえ知っていれば足りる。」(はしがき2頁)


個人的には本書の最終章「神学のエチカ」が一番おもしろかった。

その章では、デカルトとヴィトゲンシュタインが対比されている。

デカルトもヴィトゲンシュタインも一兵卒として従軍した体験を持つ。ふんふん。そういう視点なのね。


小泉氏は、ヴィトゲンシュタインの「倫理についての講演」を参照しつつ、こんな風に言う。

ヴィトさんによれば、絶対的な価値をもつ経験には次の三種類ある。

①「私が世界の実在に驚くという」経験

②「私は安全だ。何が起ころうとも、私は傷つけられない」と感じる経験

③「私には罪があり、神は私の行為を認めていない」と感じる経験

でも、この三つの経験を伝える語りは、無意味でかつ語法が間違っているとヴィトさんは言うらしい。

なぜなら、語りとは、つねに「そうではない可能性」を踏まえた上で表現されるものだからだ。


たとえば、私に罪があるという経験について。

その経験を語ろうとすると、語りは、私に罪がない可能性を踏まえて、罪がある状態とない状態を比較することによってしか、意味を生み出せない。

でも、この三種類の経験は、絶対的な経験であった。

絶対的とはなんじゃ?それは、「そうではない可能性が考えられない」から絶対に確実だという意味。

言い換えれば、あらゆる懐疑の可能性がまったくないことが絶対的ってこと。

だから、絶対的な体験を表現しようとする場合、その表現方法に「語り」を選んだ時点ですでに誤りである。

じゃあ、どう表現すればいいのか。


ヴィトさんは、それでもいいんだというらしい。

たしかに、語法は間違っている。でも、もともと絶対的な経験を表現することで、私が成し遂げたかったのは、

「世界を超え出て行くこと、有意義な言葉を超え出ていくことこと以外ではなかった」のだ。

つまり、絶対的な経験を表現する「語り」とは、実は、だれかほかの人間に伝えるための表現ではなく、

有意義な言葉を超え出ていくためだけの、いわば、非常に私的な「語り」を目指しているということになる。


そして、もし、この「私的な語り」を、その絶対的な経験とのつながりから「祈り」と呼んでもいいのなら、

それは、「聴き届けられることを求めることのない祈り」だと小泉氏はいうんだ。

だから、「何の教義もない宗教」が考えられる。それは、「祈ることだけを営みとする宗教」である。


ここまでが、ヴィトさんと小泉氏の合わせ技。


つぎに、小泉氏はデカルトを引きながらこんな風に言うのだ。

制度宗教や倫理学によれば、祈りは世俗的な道徳的行為の一種であるとされる。

なぜなら、人間の祈りによって、神の決定は変わりうるから。

しかし、形而上学によれば、神は、世俗的な祈りや行動にまったく左右されない不変の存在である。

つまり、あくまでも「祈り」とは「聴き届けられることを求めることのない祈り」、それが真実なのだ。

これをデカルトは「単純な神学」と呼んでいたらしい。


これが、デカルトと小泉氏の合わせ技。


で、ここまでの前段をうけて、小泉氏は、

ヴィトゲンシュタインとデカルトの「祈り」をまとめて、「戦争の生き残りの祈り」と呼ぶ。

かっこいい。

でも、やっぱり、わかったようなわかんないような(笑)

多少、強引にヴィトさんとデカルトをつなげて解釈しすぎてる印象。

ウィトさんとデカさんの共通点は、たしかに小泉氏の言う通りになるのかもしれない。

でも、二人の違いはやっぱり、厳然としてあるわけで、その違いの分析のほうが実りが多い気がする。

例えば、「神」のニュアンスの違いや、「祈り」の対象とかについて、まだまだ言えることは多いと思う。


そして、決定的なことに。

僕の永井均氏経由のヴィトさん理解によれば、ヴィトさんの「祈り」は、

「聴き届けられることを求めない」にも関わらず、現実には、他の人に何らかの形で理解されてしまっている。

そこがミソなんじゃないか。


その先は、まだよくわからないので、自分で考えます。

君は君
ぼくではない

ぼくではない君を
ぼくは好きになったから
ぼくはぼくの言葉を君におくる
ぼくはぼくの歌を君におくる

でも言葉や歌はぼくの一部にすぎないから
ぼくそのものではない

なんでだろう
神様は
ぼくそのものを君におくることが
できないようにした


だからぼくは

いつでも君に
ちょっとだけ届かない

だからといって
いつも向き合って
ずっと見つめ合って
たしかめようとすると
そのちょっとの深淵が
無限になる

そんなわけで
たとえばふたりで
背中合わせに座ってみて
たまに肘鉄したり
振り向いたひょうしに
おでこぶつけたり

そんなたしかめかたは

どうかな?

なんつって