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Nothingness of Sealed Fibs

見た映画、読んだ本、その他もろもろについて考えたことを書きとめてあります。

7/9の水曜日は、講義が一コマも入ってない。いつもは家で本を読んでいるだけなのだが、論文の第二章も書きあがったことだし、たまには気分転換しようかとおもい、前々から行ってみたかった月輪寺、愛宕神社探訪に出かけた。


■11:30

部屋に掃除機をかけた。布団カバー、枕カバーを洗濯。山登りに備えてジャージに着替える。


■12:30

チャリに空気を入れて、いざ出発!!実は、愛宕山にどう行ったらいいかよくわかってなかったので、下鴨神社すぐ隣の我が家から、とりあえず高雄にむかって出発。途中、北野天満宮やら仁和寺、龍安寺、等持院など、懐かしい名所の前を通り過ぎて、国道162号線をひたすら北西に向かってチャリを漕ぐ。

朝ごはんが、コーヒー二杯としみチョコスナックひと袋という残念ぶりだったので、途中の自販機でコーラ補充。


■13:30~

ひいこらいいながら、山をひとつ越えて、めでたく神護寺の付近にとうちゃく。ここから愛宕山のほうに「嵐山・高雄パークウェイ」という道があって、これですぐやんけと思っていたら、なんと自動車専用道路だったので、自転車では入れず。でも、もう、山を再び越えるテンションがでてこないので、観光案内地図でみつけた「東海自然歩道」に一縷の望みを託して清滝川の川べりに降りた。

どうやら、「東海自然歩道」でも愛宕山登山口に行けるようだが、あくまで歩道だから、舗装などまったくされておらず、約二キロの道のりを自転車を押しながらテクテク歩く羽目に・・・。


■14:00 東海自然歩道をあるく。
東海自然歩道
結構きれい。あんまり観光シーズンではないのか、釣りをしているおっちゃん以外はほとんど人がいなかった。沈木

川に沈んでいた木。なんで浮かばずに沈んでるんだろうかと気になる。しかもなんか芽が生えてる。


■15:00 愛宕山登山口に到着。ここで自転車をおいて、あとは歩き。月輪寺への登り口のすぐ左に「空也滝」という標識が出ていたので言ってみた。5分ほどで滝に到着。わりときれい。
空也滝
■15:10から15:40まで

いよいよ月輪寺へ向けて登り始める。5分ほど登ったところで、いきなりものすごくでかいムカデさんに遭遇!!平然とクネクネしてらして大したものである。「一度自分を鏡でみてみたらどうだい」と声をかけて、登り続ける。
ムカデ

標識には所要時間1時間と書いてあったが、めちゃめちゃ飛ばしていったら30分で着いてしまった。山道がすこし広がったところに、細長く本堂と宝物殿、そして住職さんのお住まいがあるだけというこじんまりとしたお寺。御本尊は立派な仏像らしいが、見学には事前に電話連絡が必要とのことで拝見できず。無念。
月輪寺

■15:40から16:10まで

月輪寺に別れを告げて、いそいそと愛宕神社へ。前半かなり飛ばし気味だったせいでペースダウン。あたりは完全な山道で、こんなところに神社なんぞあるのかなぁとなかば疑いながら登り続ける。30分ほど登ると突然、神社の巨大な建物が目に入ってきた。社務所、本殿、山門(?)があり、敷地も広くてかなり大きな神社。富士山頂にある浅間神社みたいな小さな社をイメージしてたので、すっかり度肝を抜かれた。建物の大きさだけならば、下鴨神社に匹敵するレベル。こんな立派な建物をこんな山の上につくった先人の気合いにタダタダ感服。
愛宕神社
■16:30から下山。

愛宕神社の境内にはかなり広い休憩スペースもあった。社務所の自販機でかった300円の「桃の天然水」を飲みながらしばし休憩。眺めがけっこういい。京都の市街地が相当小さく見えた。
愛宕神社から望む

20分ほど休んでいたら、すこし夕立ちっぽくポツポツと雨つぶが落ちてきたので、いそいそと下山。

登ってるときには気づかなかった変な木をみて笑ったりしながら、走りながら下りていく。
変な木
すこしずつ雨足がつよくなってきて、月輪寺まで戻ったとたんに、ついに本降りに。

お寺のひさしで雨宿りしていると、住職さん(女性)が、いらなくなったボロボロの子供用傘を下さった。

すこし住職さんと立ち話をした。ずっと一人だけでお寺を守ってらっしゃるとのこと。夏は参拝客がくるけれど、雪に閉ざされる冬は全く人も訪れない孤絶した空間になるらしい。

「大変ですね」と僕がいうと、無言でにっこり微笑みをかえしてくださった。やさしい眼差しが印象的な住職さん、傘ありがとうございました。どうぞお元気で。


■17:40

雨の中を登山口まで下りると、雨はもう弱くなっていた。自転車に乗って嵯峨野を目指す。あだしの念仏寺

、清涼寺、大覚寺の前をとおりすぎて、大徳寺へ。大徳寺まえにある「金ちゃんラーメン」を食べるためだ。大徳寺についた時にはもう18:30を回っていた。久々の金ちゃんラーメンはやっぱりうまい。


■19:00

ゆっくりとラーメンを食べてから家にむかう。玄関をはいるとすでに19時になっていた。疲れたし、汗もかいたのでさっそくお風呂に入る。干していた布団カバーと枕カバーをとりこんで装着。そのまま睡眠。

明日はぜったい筋肉痛だなぁと思ったら意外と大丈夫で、むしろ肩こりがひどかった。あらためて自分に予知能力がないことを実感した。


以上。小旅行日記まで。

『人のセックスを笑うな』を見てきた。


タイトルの過激さに対して、副題は「Don't laugh at my romance」。全然過激じゃない。

内容も、19歳の美術大学生と、同じ学校に赴任してきた39歳の非常勤講師ユリ(しかも既婚者!)とのめちゃくちゃ繊細(というか純粋?)な恋を描いた作品。


この監督の作品は、前作『犬猫』もそうだったけど、ものすごく画面構成のセンスの良さを感じさせる。かっこいい。井口奈巳監督、かっこいい映画作家だ。


あと、元フィッシュマンズのHAKASE-SUNが音楽を担当してる。劇中歌『ANGEL』はめっちゃかっこいい!!


一つ一つのエピソードにただようユーモアも秀逸だけど、やはりこの映画については、ストリーやらセリフやら、そういったことよりも、その画面力について語らずにはいられない。


映画には、単純にいって二つのパターンがあると思う。

一つ目は、観客が映画の登場人物に感情移入しながら映画を追体験するタイプ。アクション映画や普通のラブストーリーはこのパターンだと思う。

二つ目は、観客が、登場人物に感情移入しないタイプ。井口監督の作品は、全部このタイプだと思う。


後者のタイプ、とくに井口監督の作品では、観客は登場人物に感情移入するというより、その絶妙なカメラワークによって、「その場に居合わせているような感覚」を享受する。


登場人物に感情移入するのではなく、登場人物が出来事を紡いでいるその現場に居合わせたように思う。

それは、井口監督のブレのない(=俳優の動きにふりまわされず、たとえ、俳優がフレームから一部出てしまっても、同じフレームを維持し続ける)素敵なカメラワークのおかげのような気がする。

みるめ(松山ケンイチ)にもユリ(永作博美)にも感情移入しないけど、なんか目の前に二人がいて、二人がものすごく恋をしてて、それをドキドキしながら目撃し、応援できる。そんな特別な応援席に招待されながら映画を見ている。「そこにいてもいいんだよ。」 監督にそんな風に声をかけられた。そんな感覚になるのだ。


「だって、さわってみたかっただもん」

こんな言葉で始まる恋。理屈とか、「好きだ」とかそういう感情ですらない。

ただ相手に触れていたいという衝動。なんかものすごいまっすぐだ。

しかも、みるめとユリに、教師と生徒という社会的立場とか、ユリが結婚していることとか、将来のこととか、そんなものは一切関係ないように見える。実は、そういうしがらみすらぶっ飛ばしちゃえるのが恋なのかなって気もする。


でも、僕はやっぱり言葉にこだわっちゃうタイプの人間である。かなしくも。

だから、この映画の中で唯一、その台詞が輝きを放つ存在、自分の思いや感触を言葉にする優れた感覚をもつ存在であるえんちゃん(蒼井優)にもっともシンパシーを感じる。

でも残念なことに、この映画において、過剰な言葉は、寡黙だけどリアルな触覚に常に敗北する運命にある。


その敗北が顕著に表れているのは、次のシーン。

ユリに会えないうさばらしに飲みすぎて酔っぱらったみるめ(松山ケンイチ)をホテルに連れて行き、寝ているすきにキスしようとしたえんちゃん(蒼井優)は、みるめが寝言で「ユリ・・・」っていうのを聞いてキスをやめる。

たぶん、ユリ(永作博美)だったら、かまわずにキスしていたと思う。

一方のえんちゃんは、「さわってみたい」衝動を「ユリ・・・」という寝言を聞いて抑えちゃう。

これが、言葉と実感の違い。えんちゃんは言葉を重視してるけど、ユリは実感を重視している。


じゃあ、言葉と実感ならどちらがすぐれているのか。そういう一般的な問題になると、結構難しくなる。

言葉は、生の感触に及ばない。それは、たしかであり、しょうがない。

じゃあ、言葉なんていらなくて、生の感触だけでいいんじゃないのか?

いやいや、そうともかぎらんのです。


実は、ソクラテスが常にソフィストに勝ち続けられたのは、言葉が生の感触に及ばない点を常に批判していたからである。それゆえにソクラテスは後世に大きな名前を刻んだ。

でも。ソクラテスの業績は、ほかならぬソフィストたちの積み上げてきたものの批判にすぎないとも言える。

ソフィストなしで、ソクラテスがなにをできたのか?そう考えてみるとソフィストたちの功績も大きいように思える。


同じことは、ヴィトゲンシュタインの至言「語りえぬことについては、沈黙しなくてはならない」にも言える。

「語りえぬ」こととは、なにかを「語った」時にだけ、「語りおとされてしまった」という身分で、その存在をかすかに我々に曝す。「語りえぬ」ものを示すには「語ること」が必要なのだ。


言葉はたしかに十全ではない。生の実感を表現しつくすことはできないだろう。

だからといって、言葉をあきらめてはいけないとも思う。

無理を承知で言ってみる。言ってみることで、言えないことが明らかになる。そういうこともあるでしょ??


などという、うざったい議論を、この映画は、やすやすと飛び越えてしまう。

映画のラストで、あれほど言葉にこだわっていたえんちゃんが、堂本に突然キスされて動揺するシーンがある。

このえんちゃんのオロオロ具合をみて、僕は、恋愛についてあれこれ言うのは、もうやめようと思った(笑)。


すごい映画には、たまにすごい「仕草」が描かれていることがある。

僕のなかでは、蒼井優という演じ手のイメージは、いつまでもこのオロオロによって輝いている。

先日東京にいったさいの帰りの新幹線の中で、『虫眼とアニ眼』(新潮文庫 宮崎駿、養老猛司共著)を読んだ。


虫眼とアニ眼


解剖学者の養老猛司先生と、スタジオジブリの宮崎駿監督の対談本である。


この本には、『千と千尋の神隠し』、『もののけ姫』などが公開されたタイミングで両巨頭がおこなった3本の対談が収録されている。


印象に残ったアイデアを僕なりに抽出してみた。



(1) 自然はものすごいディテールにあふれている。かつての人間は、トトロを見つけた時のメイちゃんみたいに、「じーっ」と対象をみつめることで、このディテールを見つけてきた。しかし、今の人にはそういう「じーっ」という態度が少なくなってきた。


(2)ディテールを感知する能力は、「感性」ともよべる。しかし、都会ができ、身の回りから自然が消え失せたことで、余った「感性」が人間にばかりむけられた。人間に関心がむきすぎると、「アイツがきにいらない」とか「アイツはダメなやつだ」という話題がおおくなる。


(3)おそらく、むかしから、差別というなまえで「いじめ」的なものはあったけれど、人間関係以外にも関心事があったから、致命的な問題にはならなかった。しかし、現在は、人間関係に関心が集中することで、「いじめ」問題が拡大されて見えるだけでなく、問題自身も昔に比べて深刻になっている。


(4) 「走る少年を描くときに、足の裏に食い込む石の痛さとか、まとわりつく服の裾とか、そういうものを感じながら、走るっていうことを何とか表現したいって机にかじりつくのが、僕らにとっての官能性です。」(117頁、宮崎監督の発言)


(5)1秒の短いCMのなかに、実は、まったく何もうつっていないコマ(=ブランク)があえてつくられている。そのブランクに反応して、人間は瞬きしている。


(6)都会には直線が多すぎる。もっと曲線、ぐるぐるしたラインが必要だ。


(7)「子どもたちに生まれてきてよかったねって言おう、言えなければ映画は作らない。自分が踏みとどまるのはその一点でした。」(157頁、宮崎監督の発言)


(8)「ぼくは、子供の本質は悲劇性にあると思っています。つまらない大人になるために、あんなに誰もが持っていた素晴らしい可能性を失っていかざるをえない存在なんです。」(159頁、宮崎監督の発言)


(9)「新聞が正義を語るようになったら危ないというか、くるところまできていますね。」(154頁、養老先生の発言)


対談をもとにした本なので、両巨頭の感覚にすんなりはいっていけるので、非常に読みやすい。

とくに、(7)と(8)でペシミスティックとオプティミスティックという相反しそうな子供観を宮崎監督が持っているところが興味深かった。

そのほかにも、養老先生の雑学的な知識もちりばめられていて、そういう意味でも勉強になる。


■僕がこの本を読んで考えたことは、以下の2点
(その1)

 (7)の「子供たちにうまれてきてよかったねと言おう」というくだりで、「よかったねと言おう」と述べている時点で、徹頭徹尾、子供ではなく大人の立場の発言やなぁと思った。

生まれたことを良かったことにする。そのことこそが、(8)で指摘されているつまらない大人のおこない=子供が直面する悲劇のような気がしてならない。

悲劇を悲劇だと認識しないという悲劇。もう、喜劇です。

僕ならば、生まれてきた子供に「よかったね」とは言わないと思う。

もし何か言わなければならないとすれば、「いま、おまえは生きている」と告げるところから始めたい。

宮崎監督の美しく力強い言葉に反して、僕は、生まれてきたことに「良い」という価値をあたえるという意味で、生まれてきたことを肯定することはできない。

僕にできるのは、「良い」「悪い」とか、そういう価値とは別に、今生きている、過去生まれてきたことを事実として受け入れる、そういう弱い意味で肯定することしかない。そこから始めたいのだ。


(その2)

 (1)から(3)のディテールと感性の話も面白かった。最近、よくいわれる、人間は中身が大事という言葉。でもその中身が外見を選んでいるという側面もある。好きな人の髪形や服装も重要なディテールだよなぁ。

人間の心は、他人からでは覗けないし、分からない。それがゆえに、自然あるいは人の外見という、確実な事柄に関心を抱くほうが健康的なのだ。

なぜなら、確実なもの(自然や、相手の服装とか)については、対象を深く知る自体が遊びになるから。

対して、相手の心を深く知ろうということから、遊びの匂いは徹底的に排除されている。


そんなことを考えていたらあっというまに京都についていた。のぞみは、速い。


京都みなみ会館で『NAKBA』を見てきた。

これは、パレスチナが抱えるねじれを勉強するには、うってつけのドキュメンタリー映画である。


監督は、広河隆一というジャーナリストの方。


イスラエルの共同生活体「キブツ」は、その財産の共有と労働の分かち合いをうたう理想の共同体として、イスラエル建国の時からユダヤ人ににとっておおきな意義をもつとともに、国外からもおおきな注目を浴びてきた。

広河さんは、そのキブツで実際に働きながら生活していた過去を持つ。


現在では、時代の変遷とともに「キブツ」が、たんなる資本家企業や普通の町とあまり変わらないことがしられているが、この映画では、そもそも理想主義的な「キブツ」が、パレスチナ人たちの村を強制的につぶして、パレスチナ人たちを追い出した後に作られた(のではないか)ということを、多くの写真、フィルムとともに説明している。


パレスチナ人は、このユダヤ人による強制的な排除によって、自分たちが難民となった事件をNAKBAと呼ぶ。

そして、このNAKBAの際に、ユダヤ人によってパレスチナ人たちの集団虐殺が行われたのではないかということを調査した成果がこのドキュメンタリー映画である。


虐殺が事実あったのか、なかったのか、そういう話になると、ややこしい論争の片棒を担ぐことになってしまうから、ここで僕の意見を言うことはできない。そういうことは、この映画をみたり、この映画について語られている様々な言葉、あるいは現地に行ったりして、個々の人が判断すればいいと思う。


で、僕が本当に問題として感じるのが何かというと、「過去になにか悲惨な事件、出来事があったとして、それに対して、今生きている僕は、どう反応すればいいのか??」という問題である。


たとえば、僕が日々パレスチナ人とやり取りしているような人間であれば、彼らの底流を流れている感覚を知るために過去の歴史的な問題に目を向けることは必要ではないかとも思ったりする。


でも、僕は日本人だ。しかも、戦後に生まれた日本人だ。

生まれてみたら、日本は戦後になっていてたし、まだガキでいる間に地下鉄サリン事件がおきて、そして多少物心がついたころに9.11同時多発テロ事件が起きた。


確実に言えることは、3つ。

ひとつは、これらの出来事は、僕の手の届かないところ、関係のないところで起きたということ。

ふたつめは、事件によって生き残った当事者や生き残された遺族が、痛みを抱えながらにしろ生きているということ。

そして、みっつめは、それらの事件の悲惨さが、僕とは何の関係もないところでおきたにもかかわらず、僕に「一人の人間として、そういった事件に何らかの関心を持たなくてはいけない」と強く訴えかけてくるということ。


では、事件とは関係のないところにいるひとりの人間として、僕はどうリアクションをとればいいのか?


すくなくとも、僕は現場にいなかったのだから、そういった悲惨な事件が誰のせいだとか、そういうことを問える立場にはいない。そういう問いを立てること自体が、僕の身にあまることだ。


だから、できることといったら、本当に起きたのはどういう出来事だったのかを調べる/知ること、そして、そういった悲惨な出来事がおきたのは何故だったのかを考えてみることぐらいではないか?


しかも、そういった営みですら、決してやらなくてはならないことではないと僕は思う。

なぜなら、たとえ過去の事実をしっかりと勉強したとしても、そういう悲惨なことが僕にもおこりうる、あるいはそういう悲惨なことを僕がなしうるということしか、わからないからだ。そして、そういうことは、NAKBAについての勉強でなくとも、もっと僕にとって身近な材料を考えることでも、十分になしうるのではないか?そう思うのだ。


事実を学んで、それから自分の行動指針をどうするか。それは個々の人で違う答えが出るように思う。

だとしたら、やっぱり歴史とは、事実を再構築すること、それに尽きる。事実がわかったあとは、それぞれが考えればいい。


というわけで、この手の映画をみると、僕はちょっと困ってしまうのだ。

どう、反応したらよいのか、困ってしまう。

悲惨なことは悲惨だ。そういう事件が本当にあったのかもしれない。

でも、そのことを知って、僕がイスラエル問題になにかできるわけではない。

たしかに、悲惨な出来事によって、まだ苦しんでいる人もイスラエルにはたくさんいるのだろう。

でも、その人たちは、生きている。生きているのであれば、なんとかできる。やろうとおもえば。


だから、僕はこういう映画を見るたびに、募金活動をしたんだと思うことにしているのだ。

今日は、一日ずっと本を読んでました。

音色食堂で親子丼食べながらバガボンド28巻を読んでいた一時間を除く、まるまる9時間もぶっ通しで。


さすがにあたまがひーひーいって、へんな頭痛もしてきました。


そんなとき、ふと「だるまさんがころんだ」をというフレーズが思い浮かびました。


いやな予感。わきおこる疑問。


だるまさんは、転ぼうとおもっても、もともと足がないから転べないんじゃないか・・・!


そのとき、ふと、天啓のように思い出される幼少時の記憶!!

いやいや!そんなことはない!ちいさいころこんな絵本を読みました。


だるまちゃんとてんぐちゃん

だるまちゃんとかみなりちゃん

なつかしいな~。そして、みるがよい!だるまちゃんには、足がちゃんとある!!

しかも、めっちゃ白い・・・(笑)

これは、ぜったいコケることができる!!転べるでぇ!!やったー!!


いや、まてよ。喜ぶのはまだ早い。

「だるまちゃん」は転べても、「だるまさん」は転べないのでは??

それに、だるまちゃん、この絵のままなら、七転び八起きができないのでは??

「だるまちゃん」と「だるまさん」はやっぱり別物ではないのか!!


え~、以上が、オーバーヒートした脳のあわれなる独り相撲でした。

これ以降は、最近の得意技、妄想短歌で頭リフレッシュのコーナーをお届けします。今日の作品は以下の通り。


 だるまさん

 あしがはえたら

 だるまちゃん



いやいや、その話は、もういいんですよ。しかも短歌じゃなくて俳句になってますって!!

気を取り直して&頭をリセットして再トライ。


 しらないの?

 明日はあしたの

 風が吹く!!



そんなん、しるかい!!しかもまだ俳句なんですけど。僕の頭は大丈夫でしょうか。

再び激しく気を取り直して・・・。


 おてんきが

 かわるといちいち

 きみのこと

 かんがえるから

 つゆはたのしい



わりとよさげなのができました。では調子にのってもう一首。



 はっきりと
 いうほどうそに

 きこえるから

 ぼくはあなたを

 たぶんすきです



こいつは、だいぶ弱虫ですね。最近の流行りなんでしょうかね。

でも、がぜん、はっきり言うべきですよ、そういう大事なことは!!

控え目すぎるのもどうかと思うこのごろです。


あーちかれたので、もう寝ます!!妄想乱文失礼しました。