先日東京にいったさいの帰りの新幹線の中で、『虫眼とアニ眼』(新潮文庫 宮崎駿、養老猛司共著)を読んだ。
解剖学者の養老猛司先生と、スタジオジブリの宮崎駿監督の対談本である。
この本には、『千と千尋の神隠し』、『もののけ姫』などが公開されたタイミングで両巨頭がおこなった3本の対談が収録されている。
印象に残ったアイデアを僕なりに抽出してみた。
(1) 自然はものすごいディテールにあふれている。かつての人間は、トトロを見つけた時のメイちゃんみたいに、「じーっ」と対象をみつめることで、このディテールを見つけてきた。しかし、今の人にはそういう「じーっ」という態度が少なくなってきた。
(2)ディテールを感知する能力は、「感性」ともよべる。しかし、都会ができ、身の回りから自然が消え失せたことで、余った「感性」が人間にばかりむけられた。人間に関心がむきすぎると、「アイツがきにいらない」とか「アイツはダメなやつだ」という話題がおおくなる。
(3)おそらく、むかしから、差別というなまえで「いじめ」的なものはあったけれど、人間関係以外にも関心事があったから、致命的な問題にはならなかった。しかし、現在は、人間関係に関心が集中することで、「いじめ」問題が拡大されて見えるだけでなく、問題自身も昔に比べて深刻になっている。
(4) 「走る少年を描くときに、足の裏に食い込む石の痛さとか、まとわりつく服の裾とか、そういうものを感じながら、走るっていうことを何とか表現したいって机にかじりつくのが、僕らにとっての官能性です。」(117頁、宮崎監督の発言)
(5)1秒の短いCMのなかに、実は、まったく何もうつっていないコマ(=ブランク)があえてつくられている。そのブランクに反応して、人間は瞬きしている。
(6)都会には直線が多すぎる。もっと曲線、ぐるぐるしたラインが必要だ。
(7)「子どもたちに生まれてきてよかったねって言おう、言えなければ映画は作らない。自分が踏みとどまるのはその一点でした。」(157頁、宮崎監督の発言)
(8)「ぼくは、子供の本質は悲劇性にあると思っています。つまらない大人になるために、あんなに誰もが持っていた素晴らしい可能性を失っていかざるをえない存在なんです。」(159頁、宮崎監督の発言)
(9)「新聞が正義を語るようになったら危ないというか、くるところまできていますね。」(154頁、養老先生の発言)
対談をもとにした本なので、両巨頭の感覚にすんなりはいっていけるので、非常に読みやすい。
とくに、(7)と(8)でペシミスティックとオプティミスティックという相反しそうな子供観を宮崎監督が持っているところが興味深かった。
そのほかにも、養老先生の雑学的な知識もちりばめられていて、そういう意味でも勉強になる。
■僕がこの本を読んで考えたことは、以下の2点
(その1)
(7)の「子供たちにうまれてきてよかったねと言おう」というくだりで、「よかったねと言おう」と述べている時点で、徹頭徹尾、子供ではなく大人の立場の発言やなぁと思った。
生まれたことを良かったことにする。そのことこそが、(8)で指摘されているつまらない大人のおこない=子供が直面する悲劇のような気がしてならない。
悲劇を悲劇だと認識しないという悲劇。もう、喜劇です。
僕ならば、生まれてきた子供に「よかったね」とは言わないと思う。
もし何か言わなければならないとすれば、「いま、おまえは生きている」と告げるところから始めたい。
宮崎監督の美しく力強い言葉に反して、僕は、生まれてきたことに「良い」という価値をあたえるという意味で、生まれてきたことを肯定することはできない。
僕にできるのは、「良い」「悪い」とか、そういう価値とは別に、今生きている、過去生まれてきたことを事実として受け入れる、そういう弱い意味で肯定することしかない。そこから始めたいのだ。
(その2)
(1)から(3)のディテールと感性の話も面白かった。最近、よくいわれる、人間は中身が大事という言葉。でもその中身が外見を選んでいるという側面もある。好きな人の髪形や服装も重要なディテールだよなぁ。
人間の心は、他人からでは覗けないし、分からない。それがゆえに、自然あるいは人の外見という、確実な事柄に関心を抱くほうが健康的なのだ。
なぜなら、確実なもの(自然や、相手の服装とか)については、対象を深く知る自体が遊びになるから。
対して、相手の心を深く知ろうということから、遊びの匂いは徹底的に排除されている。
そんなことを考えていたらあっというまに京都についていた。のぞみは、速い。
