京都みなみ会館で『NAKBA』を見てきた。
これは、パレスチナが抱えるねじれを勉強するには、うってつけのドキュメンタリー映画である。
監督は、広河隆一というジャーナリストの方。
イスラエルの共同生活体「キブツ」は、その財産の共有と労働の分かち合いをうたう理想の共同体として、イスラエル建国の時からユダヤ人ににとっておおきな意義をもつとともに、国外からもおおきな注目を浴びてきた。
広河さんは、そのキブツで実際に働きながら生活していた過去を持つ。
現在では、時代の変遷とともに「キブツ」が、たんなる資本家企業や普通の町とあまり変わらないことがしられているが、この映画では、そもそも理想主義的な「キブツ」が、パレスチナ人たちの村を強制的につぶして、パレスチナ人たちを追い出した後に作られた(のではないか)ということを、多くの写真、フィルムとともに説明している。
パレスチナ人は、このユダヤ人による強制的な排除によって、自分たちが難民となった事件をNAKBAと呼ぶ。
そして、このNAKBAの際に、ユダヤ人によってパレスチナ人たちの集団虐殺が行われたのではないかということを調査した成果がこのドキュメンタリー映画である。
虐殺が事実あったのか、なかったのか、そういう話になると、ややこしい論争の片棒を担ぐことになってしまうから、ここで僕の意見を言うことはできない。そういうことは、この映画をみたり、この映画について語られている様々な言葉、あるいは現地に行ったりして、個々の人が判断すればいいと思う。
で、僕が本当に問題として感じるのが何かというと、「過去になにか悲惨な事件、出来事があったとして、それに対して、今生きている僕は、どう反応すればいいのか??」という問題である。
たとえば、僕が日々パレスチナ人とやり取りしているような人間であれば、彼らの底流を流れている感覚を知るために過去の歴史的な問題に目を向けることは必要ではないかとも思ったりする。
でも、僕は日本人だ。しかも、戦後に生まれた日本人だ。
生まれてみたら、日本は戦後になっていてたし、まだガキでいる間に地下鉄サリン事件がおきて、そして多少物心がついたころに9.11同時多発テロ事件が起きた。
確実に言えることは、3つ。
ひとつは、これらの出来事は、僕の手の届かないところ、関係のないところで起きたということ。
ふたつめは、事件によって生き残った当事者や生き残された遺族が、痛みを抱えながらにしろ生きているということ。
そして、みっつめは、それらの事件の悲惨さが、僕とは何の関係もないところでおきたにもかかわらず、僕に「一人の人間として、そういった事件に何らかの関心を持たなくてはいけない」と強く訴えかけてくるということ。
では、事件とは関係のないところにいるひとりの人間として、僕はどうリアクションをとればいいのか?
すくなくとも、僕は現場にいなかったのだから、そういった悲惨な事件が誰のせいだとか、そういうことを問える立場にはいない。そういう問いを立てること自体が、僕の身にあまることだ。
だから、できることといったら、本当に起きたのはどういう出来事だったのかを調べる/知ること、そして、そういった悲惨な出来事がおきたのは何故だったのかを考えてみることぐらいではないか?
しかも、そういった営みですら、決してやらなくてはならないことではないと僕は思う。
なぜなら、たとえ過去の事実をしっかりと勉強したとしても、そういう悲惨なことが僕にもおこりうる、あるいはそういう悲惨なことを僕がなしうるということしか、わからないからだ。そして、そういうことは、NAKBAについての勉強でなくとも、もっと僕にとって身近な材料を考えることでも、十分になしうるのではないか?そう思うのだ。
事実を学んで、それから自分の行動指針をどうするか。それは個々の人で違う答えが出るように思う。
だとしたら、やっぱり歴史とは、事実を再構築すること、それに尽きる。事実がわかったあとは、それぞれが考えればいい。
というわけで、この手の映画をみると、僕はちょっと困ってしまうのだ。
どう、反応したらよいのか、困ってしまう。
悲惨なことは悲惨だ。そういう事件が本当にあったのかもしれない。
でも、そのことを知って、僕がイスラエル問題になにかできるわけではない。
たしかに、悲惨な出来事によって、まだ苦しんでいる人もイスラエルにはたくさんいるのだろう。
でも、その人たちは、生きている。生きているのであれば、なんとかできる。やろうとおもえば。
だから、僕はこういう映画を見るたびに、募金活動をしたんだと思うことにしているのだ。