最近、若干興味がわいてきている精神医学の領域で高名な木村敏先生の本を読んだ。
木村敏、『異常の構造』、講談社現代新書、1973年
とっても平明に、分かりやすく書かれている。
ぼくは、ずっと哲学の本を読みながら、「自己」ってことを学んできたけど、
統合失調症はなんで起こるのか、精神医学ではどういう風に「自己」を扱っているのか。
その辺をすこし知りたいなぁという問題意識で読み始めた。
だから、この本の前半で展開される異常と正常(常識)の詳細な分析よりも、
後半に怒涛のように展開される「妄想による常識の解体」や「統合失調症の論理構造」を面白く読んだ。
木村先生の分析は以下の一文に集約される。
『統合失調症では、「A=A」という世界の基本公式(合理性)がリアルに感じれなくなる。』
ふむふむ。なるほど。これはその通りという気がする。
「A=A」と書くとけったいやけど、「自分は自分である」、「青は青である」と具体的にかけば、いいかなぁ。
それが、当り前に感じられない、つまり「自分が自分に思えない」とか、「青色の現実感が感じられない」。
それが統合失調症。木村先生は、「現実感」を「抵抗感」とも表現している。
それって、脳科学あたりで言っている「クオリア(なまなましい質感」が、ないってことかなぁ。
だとしたら大変そうだ。だって、目の前のものが、そのものとして現実感をもって感じられないなんて。
想像できん…。
でも、なんで、そうなんちゃうのだろうか??
木村先生は、ショウペンハウエルを引用して、こう言う。
「ショウペンハウアー的にいうならば、世界を現実として私たちの前に見せているもの、世界の実在性という錯覚を生みだしているもの、それは実に私たち自身の「存在への意志」、「生への意志」なのである」(154ページ)
でも、実は、ここでの木村先生の言うことは、あんまりよくわかんない。
世界が私の外に客観的に実在しているという素朴な実感。
それは、デカルトの懐疑論以来、哲学の分野では、自明なことではないとされている(と思う)。
その自明ではないことを、「生への意志」のおかげで自明と思いこめているってことだよね?
うん。デカルト以来の懐疑を追体験してない人のほうが世界には多いわけだから、それは言えると思う。
たとえば、目の前に万年筆がある場合。
デカルトは、万年筆が客観的に実在していると「思っている」“我”は疑えないと言った(と思う)。
西田幾多郎は、万年筆のクオリア(生々しい質感)が私に知覚されていることは、疑えないと言った(と思う)。
でも、普通の人は、そんな哲学とは関係なく、「目の前には確かに万年筆がある」と思って生きてる。
そして、哲学者でも、その懐疑を「本気」で疑っている人はおらんと思う。
そんなん生活できなくなるし。
哲学者が、論理的に疑っているその疑いを、マジで生きてしまっている人が、統合失調症ってことか?
うん。ここまでは、なんとなくわかる気がする。
でも、もうすこし、細かく考えてみよう。
ポイントは、「現実感」と「生への意志」のより厳密な意味。
例えば、木村先生の言う「現実感」「抵抗感」は「クオリア」だと解釈してみよう。変なことになる。
だって、「意志の力で、青色を見たときに赤色のクオリア(質感)を持てるようになる」って、そんなことありえる?
ないよねぇ。
もし、「クオリア」が木村先生の「現実感」ならば、「意志」の問題よりは、「神経の接続」の問題だよね?
じゃあ、木村先生の言う「現実感」はたとえば、下の例でいわれるような感覚なのだろうか。
「やる気がないから、世界がリアリティー感じれない、なんか目の前を世界が過ぎていく・・・」みたいな。
でも、それはまだ統合失調症ではない気もする。
また、この本の中では、統合失調症の患者たちには、家庭で育ってきた環境に共通点があるって話になる。
でも、そうすると、統合失調症は、後天的な病気という要素もあるようだし、必ずしも脳の問題でもないのか?
と、考えると、どんどん分んなくなってくる。
というわけで、まぁ、一般向けの書物ということもあるのであるが、個人的には細かい点で不完全燃焼な感じ。
この本のラストでは、人間の人格形成を、
「全」という無制約的な自己存在 ⇒ 「一」という社会的・共同的な自己存在への変化という構造で捉える。
視点は面白いけど、他者の認識とい点では、もうすこし繊細に議論を積み重ねる必要があると思う。
それと、本の前半部分の「異常とは、正常側の人間がかってに作り出した概念」という説明は、
初めて読む人にはびっくりかも。
でも、おんなじことは、すでにフーコーがめっちゃくちゃ分かりやすく言ってるしなぁ。
というわけで、記述の分かりやすさにはうなずくも、議論の網目はもうすこし細かいといいなぁという本でした。