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Nothingness of Sealed Fibs

見た映画、読んだ本、その他もろもろについて考えたことを書きとめてあります。

なにやらオリンピックなるものが開幕したとかしないとか。

五輪。ひらがなで読むと「ごりん」。なんかいかついぞ。


♪ごりん ごりん あおぞらにーは ことりがうたーいー♪

えー。夜1時くらいに酔っ払って読んだら結構面白いかな、などと奇跡が起きることを願って。


8月8日は琵琶湖で花火大会。

比叡山山頂からみようと自転車で山中越えの道を登って行ったのはいいものの、

雨がパサついて、カバンにいれていた本がシワシワになってしもた・・・(泣)

ん?雨がパサパサ?水気たっぷりなのにパサパサって、なんで?

不思議日本語。


でも琵琶湖の花火はすごくきれいだった。

奥田民生の「さすらい」を聴きながら自転車ぶっとばす爽快感はやはり捨てがたい。

「さすらおう 道の途中で 会いたくなったら唄うよ 昔の歌を~」

なして昔の歌??


そんなことはさておき。

オリンピックは、サッカーと野球が楽しみ。

陸上もたのしみだなぁ。


それにしても、このオリンピックの盛り上がりようはなんなんだろう?

こんなにたくさんの選手たちが、自分自身や他人に勝ちたいと思っている。

ものすごい数の「勝ちたい」という思いの集合。


異様だ。


人間はどこへいこうとしているのだろう。

なにがしたいのだろう。

世界に世界遺産を認定したり、

その一方で、自然を破壊したり。

世界に平和を願ったり、

その一方で戦争したり。

みんなで仲良くしよう!というスローガンのもとに、

競技という形で国同士で争ったり。


ものすごい。

人間、ものすごいぞ。よくわからん。


お漬物をコリコリつまみながら、北京五輪の開講式を眺めて、そんなことを感じた。

お漬物を考え出した人間。こちらも、すごいぞ。

発酵こそが人間のもっとも重要な発見なのかもしれない。


まぁ、理念はともかく、ひたむきな選手たちの姿が人の心をうつことは確かなのだ。

僕も、素直にエールをおくるとしよう。がんばってください。



ふぅ。脱力。
というより、もう脳に力が…はいらん…

ついにレポートと試験が全部終わった~やった~ふぅ。

レポート書くのは楽しい。
大学生の頃よりも書くレポートの質が良くなってる実感がある。
ほんの少しだけど自分の思考に身をゆだねる楽しみがふえた。
いい感じだ。

来週集中講義があるけれど、一応これで夏休み。

休み中にやりたいこと。

①一週間くらい旅
②基本文献を読む

二個しかないんかい!!
そ、壮絶にまで少ない。
たしかに項目にすると少ないけど、項目の中身はまじ多彩。
読みたい基本文献がたんまりっす(笑)
休み中に50冊くらいは読みたいけど、果たして…

ま、阻害要因は僕自身の怠け心のみ。

できるだけたくさん読みたいなぁ。

ある機会に、「哲学とは何ですか?」と聞かれた。

僕はこう答えた。
「哲学とは超越を語ろうとする学問です」と。

哲学には認識論、存在論、行為論とあるけれど、すべてつまるところ、超越を語ろうとする営みだ。と思う

というか、一生懸命、言葉をフルに活用していれば、最後には、「言葉そのものを言葉で語れるか」というウルトラC級の問いの前で途方にくれる時が必ず来る。

その地点にたどりつけば、実は今までの思考の営みが、「言葉が通じる」というなんかものすごい事実の上で遊んでいただけのように思える。

言葉が通じる。
僕らは言葉を口にするそのたびごとに、言葉がなぜか通じていることに依拠しているのだ。

だから。
言葉だって、一つの超越だ。

この世界を成立させている超越。神、人間の理性、言葉、なんと呼ぶかは自由だ。しかし、超越は確実に存在する。

例え科学的知性が「神は妄想である」と断定しても、その知性は言葉によってしか神を消せない。それは本当に神を完全否定したことになるのか??ヨハネ福音書にあるとおり、言葉が神であるならば、この断定はまだ神の庇護下から抜け出せてはいない。

確かに「人格を持った神」は人間が作り出した妄想なのかもしれない。だって、ある人格が他の人格を超越するなんておかしい。そういう意味なら肯ける。
しかし、そこでもなお、「人格が人格を超越できるんだ!!」というように、昔の人が無理矢理うっちゃった事の意味をさぐることはできる。
だから、科学的精神の発言は、昔の人が人格神に託した意味、それがなくても、現代においては生きるのに困らないよという宣言なのであった。

哲学が超越を扱うならば、最後の哲学は宗教と切り結ばねばならない。そんなこんなで今は神学を学んでいる。のかな?

でも、めっさおもろい。
「プチ」という語感がいい。
なんか言い出すと止まらなくなる。

調子に乗ってプチ短歌なんぞ作ってみる。

プチチプチ
ププチプチプチ
チププチチ

な、なんだこれは!!
意味は分からないけど、
読んでるだけで、
プチ楽しい。

今日は久々に神様に祈った。
一生に二度目の大事な願いを掛けた。
人事は尽くした。
あとは天命を待つのみ。
プチ頼み。
かなうといいんだけど。

『ぐるりのこと。』をみてきました。

蜂が苦手で、緑色が好きな人と一緒に。


僕は、個人的にものすごくこの映画に共感した。

それは多分、この映画が、徹底的に「相手のことは分からない」という立場にたってるからだと思う。

そして、この映画が、「相手のことが分かります」って簡単に言ってしまえる人々を痛烈に批判しているから。


カナオは法定画家として、裁判の場で被告人や証人や傍聴人やら、様々な人を見つめる。

その人たちは、ユーモアがあったり、異常だったり、苦しんでたりする。


カナオがそういう人たちを描くときの考え方は、至ってシンプル。

「見えるように描く」。

対象の本質がどうとか、その人が本当は何を考えているか、そういうことを表現しようとはしない。

だから凶悪犯の手のきれいさに気づいたりする。


なんで、対象の本質や、その人が何を考えているかを表現しようとしないのか。

だって、そんなこと、わからないでしょ?

そもそも、どういうことになったら、わかったことになるの?

たとえわかったと思っても、「結局自分側の解釈でしかない」という疑いからは逃れられないのでは?

なにが、または、だれが、その解釈の正当性を担保するのか。

おそらく、この問題に関して人間に正当性を担保する力はない。

そういう風に人間の理性はできている。


でも、「相手のことは分からない」って立場で「誰かを愛する」なんてことはできるのだろうか?

これは、痛切な問いだ。

その問いに対して、この映画は二つの答え方をする。

肯定的には、「大事にすることはできる」、否定的には「逃げない」と。


相手と気持ちが通じ合っていない。

「愛」が伝わってないという不安な状況。

でも、そういう不安に陥ったとしても、「逃げずに、相手を大事にする」ことはできるのではないか。

「愛」は揺らいでも、「逃げずに、相手を大事にする」ことは揺るがないでいられるのではないか。


言い方を変えてみよう。

「見えるように描く」とは、そのときのそのままを、「描くこと」だ。

「見える」とは、ただ「見えるように見る」こと。

見えたことが不快だったり、気持ちの良い物だったり、そいうことはいったん保留しておく。

そして、「見る」ということは、「目をそらさない」ということでもある。


「見る」=「逃げない」

「描く」=「相手を大事にする」

そんな図式をこの映画は、言っている気がする。

そして、その図式をリリー・フランキーと木村多江がとてもうまく雰囲気にしている。


ぼく自身に照らしてみるとどうだろうか。

もし、「愛」が伝わらないときに、「逃げずに、相手を大事にする」ことはできるだろうか?

逃げない自信はある(無根拠だけど)。そして、まだ相手を大事にはできないと思う。身分的に(泣)。


そういえば、ぼくは、希望を求め続けて絶望したのだった。むかしのこと。

だから、希望を求めることはやめた。

希望は、あるときにはある。ないときにはない。決して追い求めるものではない。

いまではこう思うようになった。「世界には、常に確信しかない」。

今の僕には、「逃げないけれど、大事にはできない」という確信がある。


以上、ぐるぐると。

いつか僕に訪れる新しい確信が、「大事にできる」という確信であることを祈って。