『ぐるりのこと。』をみてきました。
蜂が苦手で、緑色が好きな人と一緒に。
僕は、個人的にものすごくこの映画に共感した。
それは多分、この映画が、徹底的に「相手のことは分からない」という立場にたってるからだと思う。
そして、この映画が、「相手のことが分かります」って簡単に言ってしまえる人々を痛烈に批判しているから。
カナオは法定画家として、裁判の場で被告人や証人や傍聴人やら、様々な人を見つめる。
その人たちは、ユーモアがあったり、異常だったり、苦しんでたりする。
カナオがそういう人たちを描くときの考え方は、至ってシンプル。
「見えるように描く」。
対象の本質がどうとか、その人が本当は何を考えているか、そういうことを表現しようとはしない。
だから凶悪犯の手のきれいさに気づいたりする。
なんで、対象の本質や、その人が何を考えているかを表現しようとしないのか。
だって、そんなこと、わからないでしょ?
そもそも、どういうことになったら、わかったことになるの?
たとえわかったと思っても、「結局自分側の解釈でしかない」という疑いからは逃れられないのでは?
なにが、または、だれが、その解釈の正当性を担保するのか。
おそらく、この問題に関して人間に正当性を担保する力はない。
そういう風に人間の理性はできている。
でも、「相手のことは分からない」って立場で「誰かを愛する」なんてことはできるのだろうか?
これは、痛切な問いだ。
その問いに対して、この映画は二つの答え方をする。
肯定的には、「大事にすることはできる」、否定的には「逃げない」と。
相手と気持ちが通じ合っていない。
「愛」が伝わってないという不安な状況。
でも、そういう不安に陥ったとしても、「逃げずに、相手を大事にする」ことはできるのではないか。
「愛」は揺らいでも、「逃げずに、相手を大事にする」ことは揺るがないでいられるのではないか。
言い方を変えてみよう。
「見えるように描く」とは、そのときのそのままを、「描くこと」だ。
「見える」とは、ただ「見えるように見る」こと。
見えたことが不快だったり、気持ちの良い物だったり、そいうことはいったん保留しておく。
そして、「見る」ということは、「目をそらさない」ということでもある。
「見る」=「逃げない」
「描く」=「相手を大事にする」
そんな図式をこの映画は、言っている気がする。
そして、その図式をリリー・フランキーと木村多江がとてもうまく雰囲気にしている。
ぼく自身に照らしてみるとどうだろうか。
もし、「愛」が伝わらないときに、「逃げずに、相手を大事にする」ことはできるだろうか?
逃げない自信はある(無根拠だけど)。そして、まだ相手を大事にはできないと思う。身分的に(泣)。
そういえば、ぼくは、希望を求め続けて絶望したのだった。むかしのこと。
だから、希望を求めることはやめた。
希望は、あるときにはある。ないときにはない。決して追い求めるものではない。
いまではこう思うようになった。「世界には、常に確信しかない」。
今の僕には、「逃げないけれど、大事にはできない」という確信がある。
以上、ぐるぐると。
いつか僕に訪れる新しい確信が、「大事にできる」という確信であることを祈って。