Nothingness of Sealed Fibs -89ページ目

Nothingness of Sealed Fibs

見た映画、読んだ本、その他もろもろについて考えたことを書きとめてあります。

森博嗣原作、押井守監督の『スカイ・クロラ』を見てきた。


戦闘機での空中戦のシーンがまず出色。

実写の映画ではお目にかかったことのなりカット割りで迫力のある空中戦に仕上がっている。

これだけでも、十分に面白い。


この映画はこの二つの問いかけを執拗に繰り返す。

生きている意味ってなんだろうか。

自分の存在価値ってなんだろうか。

押井監督の作品らしい。


『自分は、かけがえがない存在だ』

これは、多くの人が上の二つの問いに対して捻出してきた答えだろう。


でも、この映画の主人公カンナミにおいて、「自分のかけがえのなさ」は、もはや意味をもたない。

それは、カンナミがクリタという既に死んでしまったキルドレの生を正確にトレースしているからだ。

カンナミとクリタは、同じ人を愛し、同じように煙草を吸い、同じように空中戦を得意とした。

ゆえにカンナミの生は、かけがえのないものではない。クリタの生のコピーなのだ。


『もう一度、生まれてきたいと思えるならば、それでいい』

これが、カンナミの答えだ。

自分が、かけがえのない存在かどうか、そんなことはどうでもいい。

オリジナルな生かどうか、そんなこともどうでもいい。


手垢にまみれた生でもいい。誰かと同じ生き方でもいい。

もう一度生まれてきたいと思う、同じ人生を歩みたいと思う。

そう思うならば、それでいいのではないか。

押井監督はそんな風に言っているように思える。

(決して、生きること自体がすばらしいとか、そういうことを言ってるのではないことに注意!!)


成長しない人間としての、キルドレ。

成長=変化がないからこそ、「かけがえのなさ」という幻影を相対化できる。

成長した大人は、変化の意味を追い続けることで、「かけがえのなさ」を実感することが可能となる。

でも、そんな「かけがえのなさ」はあくまでも、あと付けでしょ?これがカンナミからの反発。

カンナミは、「自分がいいとおもうなら、それでいい」という。つまり、自分の生の意義は自分で決めればいいと。


僕自身は、カンナミよりは、クサナギに興味を持つ。


クリタとカンナミ。おなじような2人を同じように愛する1人のクサナギ。

クサナギの中に蓄積する二人の記憶。2人を見通すクサナギの立場が、強い悲しみを生む。

カンナミは、自分自身を信頼し、肯定した。

しかし、クサナギは自身を肯定はしない。

彼女は、カンナミに「変わるかもしれないから、生きろ」と言われて生きるのだ。


だから、クサナギは、どこか神に似ていると言える。

神は、すべてを見通す。だから、最も強い悲しみに直面する。

神は、自分自身を肯定しない。だから、神は、自分自身を肯定してくれる他者の存在なくしては存在しえない。


だとすれば、最初に誕生した人間が、神のもとを訪れた時、神の発する言葉は決まっている。

「あなたを、待っていた。」(映画の中でクサナギがつぶやくセリフ)


そう考えるならば、サミュエル・ベケットの戯曲『ゴドーは待ちながら』と『スカイ・クロラ』は正確に呼応する。

神の到来が人間によって待ち望まれていたのではない。

人間の到来こそが、神によって待望されていたのだ。


僕は、待つ側なのか、待たれる側なのか、どっちだろう。

人を愛し始めるには
君がいる
僕がいる
きっかけがいる

人を愛し続けるには
声がいる
表情がいる
勇気がいる

人を愛するためには
時間がいる
空間がいる
ためらいがいる

それら全ての前提として
言葉がある


勢いのある朝、ふと思い立つ。

勢いよく洗濯なぞしてみよう!!
しかも洗濯機を動かすところまで、人生最速で行ってみよう!!
などと。

洗濯は爽快だ。
夏は要洗濯なものがたくさん発生する。タオル、シャツ、くつした、各種カバー…。

洗濯物を手早く「せんたっき」に入れる。くつしたと赤いシャツは、それぞれ洗濯物袋に。

なかなかイイぺーすだ。快調快調。

バシッとフタをしめて、ハタと気づいた。洗剤入れなくては。いかんいかん。

アタックの箱をとって、すばやくスプーンで計って、美しい仕草で、洗剤を「せんたっき」へGO!!

洗剤の粉は、それはもう美しく、でもおそろしく憎たらしい模様を「せんたっき」のフタの上に描いていた。

僕の当初の勢いはどこへやら。ひとまず粉掃除からスタートに…。。

やっぱり調子に乗るのは考え物だ。身体の動くスピードに思考が追いつかない。

そして。
粉ってすごい。
細かいから隅々まで行き届くわけだけど、それゆえに、一旦散らばると掃除しにくい。

この原理はゲリラ戦法と同じやなぁと思う。
映画『ターミネーター3』で、人類は中枢を複数作ることで、ターミネーターからの攻撃に耐える道を切り開く。もし中枢が一つだけならば、集中的に攻撃されたときに簡単に滅びてしまう。

忍者の目つぶしも粉やったなぁ。

洗濯が無事終わったら、洗濯の清々しさよりも、むしろ粉の凄さに心打たれていた。

いつもとちがう風にやってみると、ちがう見方に出会えたりする。

人生はおもろいぞ。

大澤真幸先生の『逆接の民主主義』(角川oneテーマ新書)を読んだ。

相変わらず、大澤先生の構造的な思考は刺激に富んでいて面白い。


大澤先生は現代の状況をハーバーマスとデリダの対立から読み解こうとする。

この思想界の両巨頭は、「自分とは異質なものを尊重せよという点においては、同意見だが、

具体的にどう尊重するかという点において、意見を異にしている。


ハーバーマスは、自由で合理的な討論をすることで「自分とは異質なもの」とも共通の理解に到達できるはずだという観点から、自由で合理的なコミュニケーションを支えるメタ的なルールを定式化しようとする。自由で合理的な議論を一緒にできるとみなすことが、「相手を尊重する」ということなのだ。この考え方は、デリダから次のように批判される。他者の他者性をメタ的なルールの中に取り込もうとするかぎり、その他性の一部が損なわれてしまうことは免れない、と。


では一方のデリダはどう考えるのか。デリダにおいては、他者とは、どんなメタ的なルールにすら回収されない絶対的な他性をもつものであり、その他者性を縮減することなくそのままに受け入れるべきだといわれる。しかし、この考え方は、ハーバーマスから次のように批判される。他者と自らが共通の理解に到達できない以上、その他者との積極的な関係は築けない。したがって、結局は「他者をそのままに受け入れる」ということでは「他者を尊重する」ことはできないのだ、と。


興味深かった論点を覚書。


(1)完全義務と不完全義務の区別

カントによる区別。

不完全義務とは、そうすべきであるとされながら、実際にしなくても取り立てて非難されることがない行為。例えば、贈り物に対しての返礼とか。

完全義務とは、そううべきであるとされ、かつ、それを実際にしないと制裁が加えられる行為。物を買って、その代金を支払うことなど。


(2)世界宗教とは?

贈与という観点に注目すると、世界宗教では、世界が存在することが神から人間に贈られているとされる。そうかんがえることによって、人間を神に従属させてきた。贈与とは、受け取ったものに、贈ったものへの従属感を抱かせる側面がある。そのことによって、贈る→返礼→その返礼という無限増殖的な互報的スパイラルが発生する。


(3)キリストの磔刑の意味

一般的な解釈では、キリストは、人間全体の罪を贖うため、自らを犠牲にして、神に自分を贈与したとされる。しかし、その解釈では、キリスト教は(2)的な一般の世界宗教にとどまる。キリスト教がキリスト教たりえているのは、キリスト教が、普通に考えれば偉大な人間にすぎないキリストを「神」とみなしたことによる。キリストが神であることの意味とは、「人間が神に対して負っている罪を贖うのが、神であるキリストである」、すなわち、「罪を償うのが、罪を犯した者ではなく、罪を犯された当人である」ということである。この、キリスト教固有の意味によって、贈与の互報的スパイラルを乗り越える純粋贈与が実現する。「自己-他者関係が、ほとんど自己の自己への関係と変換してしまうほどまでに、他者へと近接した贈与のみが、真の贈与なのである」(73ページ)こうしてキリスト教は世界宗教をさらに超えうる意味を持つ。


(4)レディ・メイドの神

批評家ボリス・グロイスは、「キリストはレディ・メイドの神」だと言う(92ページ)。レディ・メイドとはM・デュシャンの芸術を示す用語であり、便器や自転車の車輪が、なんの手もくわえられずに(だから、内在的な性質は便器や車輪のままである)、ただその置かれている「場所」において芸術とされる。キリストは、内在的な性質は人間である。にもかかわらず、キリストが神でありうるのは、キリストが占める「場所」=「形式」に神性があるからに他ならない。キリストは、性質が神なのではなく、キリストとキリスト以外の関係において神なのだ。


(5)民主主義の公式見解は嘘だ!

一般的に民主制は、その支配が被支配者の合意に基づいているために正当だとされている。しかし、実際には、被支配者の多数の合意には基づいていても、被支配者の総意ではない。そこから一歩進むと、民主制の意義は、「合意の創出にあるのではなく、日合意の可能性を留保している点にある」(103ページ)という発想が生まれる。すなわち、民主制の意義は多様性の許容であるという発想である。しかし、民主制が多元性を認めるというのは、便利な嘘である。なぜなら、民主制においては、「多数の人間が同意する意見は正しい」、つまり「人間が適切な討論をすれば、正しい意見にたどりつくはず」ということが前提されており、多元主義では全くなく、唯一の真理の存在を信じる一元主義なのである。「なにが正しいのかわからない」と人間が心から信じているならば、討論したって無理なのだから、あみだくじでものごとを決めればよいということになってしまうはずだ。討論しよう!という立場はつまり「合意なしには真理はない」と考えることであるが、この命題は「真理がなければ合意はない」の待遇であり、論理的には全く等値である(116ページ)。


(6)先験的選択

「性格」や「共同体」は、われわれに「運命」のように与えられているにもかかわらず、あたかもわれわれによって選択された結果として引き受けられている。(実際は選びようがないことなのにもかかわらず・・・)これを先験的な選択という。愛も、先験的選択として経験される。愛する人を選ぶことの自由は、あるようでいて気がついたらすでに失われているのだ。そして、誰を愛するかという自由が失われていないと、実は愛は成立しないのだ。


(7)問うという方法には猥雑性がある。

問いは、問われた者を、完璧には答えきれないという無能性に突きあたらせる。「なぜ、そうしたのか」という問いに対しては、曖昧に答えざるを得ない自己を目の前にしなくてはならない。その一方で、問いは、問われた者を、答えうるものとして、知っているはずのものとして措定する。この措定において、問われた者は肯定される。問いが喚起する問われた者の二面性が、まさに官能的な猥雑性を生む。


(8)失った者の歴史は可能性に富んでいる。

何かを得たものの歴史、勝者の歴史において、歴史は一つの確立した流れであり、そうはならなかった可能性が現実味を帯びることはない。「他でもありえた」という偶有性は、失う者の歴史、敗者の歴史において現実味を帯びて受け入れられる。キリスト教における「最後の審判」は、現実の世界の厳しい生の意味を、終末の審判の想定によって、真逆の意味に救済するアイデアである。


短い新書なのに、内容の濃い一冊だった。大澤先生の構造をあぶりだす手法は本当に見事。

ずいぶん前に映画館で観た作品だけど、TSUTAYAが半額セールしてたので、借りて観た。


やばい。めっちゃいい!!

あらためて、めっちゃいいやんけ!!


以下ネタバレがあるので、未見の人はここから下は読まずに。


原題は『Eternal Sunshine of the Spotless Mind』。

「けがれのない心の永遠の日光」

この題名はアレクサンダー・ホープの詩の一節からとられていることが映画の中であかされる。


ストーリーは、別れた彼女クレメンタイン(ケート・ウィンスレット)に、自分との思い出の記憶を消去されてしまったジョエル(ジム・キャリー)が、自分もクレメンタインとの記憶を消すことにしたというもの。


ジョエルはクレメンタインとの思い出を消してもらっている間に、その思い出大切さに気付く。

たとえ別れてしまったとしても、とっても幸せな瞬間を二人が共有していたことは確かなのだ。


しかし、記憶消去がおわり、クレメンタインとの記憶を失ってしまったジョエルは、

仕事にはいかずに、ふと、ふたりが最初に出会った海岸にむかう。

そこには、すでにジョエルの記憶を失っているクレメンタインがいた。

奇跡、おきてます。


奇跡的に再会したふたりは、お互いの記憶を失ったまま再び惹かれあう。

しかし、そこで、「お互いが、すでに一度出会っていて、別れた」という事実がふたりに知らされる。

なぜ、ふたりは互いの記憶を消そうと思ったのか、なぜ相手のことがイヤになったのか。

テープに吹き込まれた自分自身の肉声が、記憶にない愛のはじまりとおわりを語る。


「もう一度付き合っても、またすぐにお互い退屈になってしまうに違いないわ」

クレメンタインの台詞には、ものすごい説得力がある。


「. . . OK」

ジョエルの言葉は、短い。

それなのにすこぶるあたたかい。


人間は、そんなにすごく変われるもんじゃない。

愛する人に幻滅したり、退屈したりすることもあるだろう。

そんなこと、できればしたくない。されたくない。

でもずっと一緒にいれば、相手の輝きに刺激される時間をずっと続けるなんてむりなんだろうなぁ。現実的には。

僕も自分の輝きだけで相手を楽しませきる自信はない。


でも、その人といる時間がものすごく幸せに感じられたことがあるのなら、

そんな風に思えたことが一度でもあるのなら、

一緒にうだうだ言いながら、退屈をやり過ごしてくことはできるのではないか。

もちろん、退屈をしのぐにはいろんなアイデアやあそびが必要だけど。


幸せは絶対的な感覚。その場その場に生起する感情。

でも、退屈は相対的な感覚。自分の中で出来事を解釈して、比較したあとの後付け感情だ。


困った時は、Spotless Mindに立ち戻ればいい。

自分が勝手に出来事に与えてしまう解釈をひきはがせば、すぐにSpotless Mindに向き合える。


決して、明るい作品ではない。画面のトーンも全編通して暗い。

でも、この作品のもつ肯定の力強さ、「OK」の一言がつなぐ二人の姿は、とっても美しい。

名作だ。