『スカイ・クロラ』 -手垢にまみれた命を生きる- | Nothingness of Sealed Fibs

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見た映画、読んだ本、その他もろもろについて考えたことを書きとめてあります。

森博嗣原作、押井守監督の『スカイ・クロラ』を見てきた。


戦闘機での空中戦のシーンがまず出色。

実写の映画ではお目にかかったことのなりカット割りで迫力のある空中戦に仕上がっている。

これだけでも、十分に面白い。


この映画はこの二つの問いかけを執拗に繰り返す。

生きている意味ってなんだろうか。

自分の存在価値ってなんだろうか。

押井監督の作品らしい。


『自分は、かけがえがない存在だ』

これは、多くの人が上の二つの問いに対して捻出してきた答えだろう。


でも、この映画の主人公カンナミにおいて、「自分のかけがえのなさ」は、もはや意味をもたない。

それは、カンナミがクリタという既に死んでしまったキルドレの生を正確にトレースしているからだ。

カンナミとクリタは、同じ人を愛し、同じように煙草を吸い、同じように空中戦を得意とした。

ゆえにカンナミの生は、かけがえのないものではない。クリタの生のコピーなのだ。


『もう一度、生まれてきたいと思えるならば、それでいい』

これが、カンナミの答えだ。

自分が、かけがえのない存在かどうか、そんなことはどうでもいい。

オリジナルな生かどうか、そんなこともどうでもいい。


手垢にまみれた生でもいい。誰かと同じ生き方でもいい。

もう一度生まれてきたいと思う、同じ人生を歩みたいと思う。

そう思うならば、それでいいのではないか。

押井監督はそんな風に言っているように思える。

(決して、生きること自体がすばらしいとか、そういうことを言ってるのではないことに注意!!)


成長しない人間としての、キルドレ。

成長=変化がないからこそ、「かけがえのなさ」という幻影を相対化できる。

成長した大人は、変化の意味を追い続けることで、「かけがえのなさ」を実感することが可能となる。

でも、そんな「かけがえのなさ」はあくまでも、あと付けでしょ?これがカンナミからの反発。

カンナミは、「自分がいいとおもうなら、それでいい」という。つまり、自分の生の意義は自分で決めればいいと。


僕自身は、カンナミよりは、クサナギに興味を持つ。


クリタとカンナミ。おなじような2人を同じように愛する1人のクサナギ。

クサナギの中に蓄積する二人の記憶。2人を見通すクサナギの立場が、強い悲しみを生む。

カンナミは、自分自身を信頼し、肯定した。

しかし、クサナギは自身を肯定はしない。

彼女は、カンナミに「変わるかもしれないから、生きろ」と言われて生きるのだ。


だから、クサナギは、どこか神に似ていると言える。

神は、すべてを見通す。だから、最も強い悲しみに直面する。

神は、自分自身を肯定しない。だから、神は、自分自身を肯定してくれる他者の存在なくしては存在しえない。


だとすれば、最初に誕生した人間が、神のもとを訪れた時、神の発する言葉は決まっている。

「あなたを、待っていた。」(映画の中でクサナギがつぶやくセリフ)


そう考えるならば、サミュエル・ベケットの戯曲『ゴドーは待ちながら』と『スカイ・クロラ』は正確に呼応する。

神の到来が人間によって待ち望まれていたのではない。

人間の到来こそが、神によって待望されていたのだ。


僕は、待つ側なのか、待たれる側なのか、どっちだろう。