大澤真幸先生の『逆接の民主主義』(角川oneテーマ新書)を読んだ。
相変わらず、大澤先生の構造的な思考は刺激に富んでいて面白い。
大澤先生は現代の状況をハーバーマスとデリダの対立から読み解こうとする。
この思想界の両巨頭は、「自分とは異質なものを尊重せよという点においては、同意見だが、
具体的にどう尊重するかという点において、意見を異にしている。
ハーバーマスは、自由で合理的な討論をすることで「自分とは異質なもの」とも共通の理解に到達できるはずだという観点から、自由で合理的なコミュニケーションを支えるメタ的なルールを定式化しようとする。自由で合理的な議論を一緒にできるとみなすことが、「相手を尊重する」ということなのだ。この考え方は、デリダから次のように批判される。他者の他者性をメタ的なルールの中に取り込もうとするかぎり、その他性の一部が損なわれてしまうことは免れない、と。
では一方のデリダはどう考えるのか。デリダにおいては、他者とは、どんなメタ的なルールにすら回収されない絶対的な他性をもつものであり、その他者性を縮減することなくそのままに受け入れるべきだといわれる。しかし、この考え方は、ハーバーマスから次のように批判される。他者と自らが共通の理解に到達できない以上、その他者との積極的な関係は築けない。したがって、結局は「他者をそのままに受け入れる」ということでは「他者を尊重する」ことはできないのだ、と。
興味深かった論点を覚書。
(1)完全義務と不完全義務の区別
カントによる区別。
不完全義務とは、そうすべきであるとされながら、実際にしなくても取り立てて非難されることがない行為。例えば、贈り物に対しての返礼とか。
完全義務とは、そううべきであるとされ、かつ、それを実際にしないと制裁が加えられる行為。物を買って、その代金を支払うことなど。
(2)世界宗教とは?
贈与という観点に注目すると、世界宗教では、世界が存在することが神から人間に贈られているとされる。そうかんがえることによって、人間を神に従属させてきた。贈与とは、受け取ったものに、贈ったものへの従属感を抱かせる側面がある。そのことによって、贈る→返礼→その返礼という無限増殖的な互報的スパイラルが発生する。
(3)キリストの磔刑の意味
一般的な解釈では、キリストは、人間全体の罪を贖うため、自らを犠牲にして、神に自分を贈与したとされる。しかし、その解釈では、キリスト教は(2)的な一般の世界宗教にとどまる。キリスト教がキリスト教たりえているのは、キリスト教が、普通に考えれば偉大な人間にすぎないキリストを「神」とみなしたことによる。キリストが神であることの意味とは、「人間が神に対して負っている罪を贖うのが、神であるキリストである」、すなわち、「罪を償うのが、罪を犯した者ではなく、罪を犯された当人である」ということである。この、キリスト教固有の意味によって、贈与の互報的スパイラルを乗り越える純粋贈与が実現する。「自己-他者関係が、ほとんど自己の自己への関係と変換してしまうほどまでに、他者へと近接した贈与のみが、真の贈与なのである」(73ページ)こうしてキリスト教は世界宗教をさらに超えうる意味を持つ。
(4)レディ・メイドの神
批評家ボリス・グロイスは、「キリストはレディ・メイドの神」だと言う(92ページ)。レディ・メイドとはM・デュシャンの芸術を示す用語であり、便器や自転車の車輪が、なんの手もくわえられずに(だから、内在的な性質は便器や車輪のままである)、ただその置かれている「場所」において芸術とされる。キリストは、内在的な性質は人間である。にもかかわらず、キリストが神でありうるのは、キリストが占める「場所」=「形式」に神性があるからに他ならない。キリストは、性質が神なのではなく、キリストとキリスト以外の関係において神なのだ。
(5)民主主義の公式見解は嘘だ!
一般的に民主制は、その支配が被支配者の合意に基づいているために正当だとされている。しかし、実際には、被支配者の多数の合意には基づいていても、被支配者の総意ではない。そこから一歩進むと、民主制の意義は、「合意の創出にあるのではなく、日合意の可能性を留保している点にある」(103ページ)という発想が生まれる。すなわち、民主制の意義は多様性の許容であるという発想である。しかし、民主制が多元性を認めるというのは、便利な嘘である。なぜなら、民主制においては、「多数の人間が同意する意見は正しい」、つまり「人間が適切な討論をすれば、正しい意見にたどりつくはず」ということが前提されており、多元主義では全くなく、唯一の真理の存在を信じる一元主義なのである。「なにが正しいのかわからない」と人間が心から信じているならば、討論したって無理なのだから、あみだくじでものごとを決めればよいということになってしまうはずだ。討論しよう!という立場はつまり「合意なしには真理はない」と考えることであるが、この命題は「真理がなければ合意はない」の待遇であり、論理的には全く等値である(116ページ)。
(6)先験的選択
「性格」や「共同体」は、われわれに「運命」のように与えられているにもかかわらず、あたかもわれわれによって選択された結果として引き受けられている。(実際は選びようがないことなのにもかかわらず・・・)これを先験的な選択という。愛も、先験的選択として経験される。愛する人を選ぶことの自由は、あるようでいて気がついたらすでに失われているのだ。そして、誰を愛するかという自由が失われていないと、実は愛は成立しないのだ。
(7)問うという方法には猥雑性がある。
問いは、問われた者を、完璧には答えきれないという無能性に突きあたらせる。「なぜ、そうしたのか」という問いに対しては、曖昧に答えざるを得ない自己を目の前にしなくてはならない。その一方で、問いは、問われた者を、答えうるものとして、知っているはずのものとして措定する。この措定において、問われた者は肯定される。問いが喚起する問われた者の二面性が、まさに官能的な猥雑性を生む。
(8)失った者の歴史は可能性に富んでいる。
何かを得たものの歴史、勝者の歴史において、歴史は一つの確立した流れであり、そうはならなかった可能性が現実味を帯びることはない。「他でもありえた」という偶有性は、失う者の歴史、敗者の歴史において現実味を帯びて受け入れられる。キリスト教における「最後の審判」は、現実の世界の厳しい生の意味を、終末の審判の想定によって、真逆の意味に救済するアイデアである。
短い新書なのに、内容の濃い一冊だった。大澤先生の構造をあぶりだす手法は本当に見事。