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Nothingness of Sealed Fibs

見た映画、読んだ本、その他もろもろについて考えたことを書きとめてあります。

デンゼル・ワシントン主演の『デジャヴ』を見た。

ネタバレがあるので、未見の人はこの先を読まないでください。


デンゼル・ワシントン演じる捜査官ダグが、フェリー爆破事件の犯人を追うというストーリー。

爆破現場から死体で発見された一人の美しい女性クレアについて、面識がないにもかかわらず、どうしてもどこかで見たことがあるような気がしてならないダグは、クレアを手掛かりとして犯人を追い詰めようとする。

しかし、クレアの家を捜索したダグ達は、家の中のいたるところに、ダグの指紋や血痕を発見するが、ダグには全く身の覚えがなかった・・・。


たぶん、普通にみていると典型的なハリウッドのサスペンス・アクション・ムービーということになるだろう。

でも、この作品の脚本はものすごく練られている。

伏線や謎が多くて、観終わった後、もやもやとした消化不良感が残っていた。

そして、あーだこーだ考えつづけるなかで、突然、僕はこの映画の壮大な仕掛けに気付いてしまった。

これは、ものすごい傑作だ!!


実は、この作品は、途中からタイム・トラベルムービーになる。

衛星に蓄積されたデータを統合してコンピュータ画面のなかに再構成した世界が、実は4.5日前の世界を再現しており(データの統合に4.5日かかってしまう)、しかも、大きな電力をかけることで、現在の世界から4.5日前の世界へ物や人を移動させ、過去を変えることができるという設定になっている。

原理はともかく、このタイムトラベルを利用して、ダグはフェリー事故そのものを防ごうとするが、その行為が逆にクレアを事件に巻き込んでいってしまう・・・。


この映画のすごいところは、映画では直接描かれず、示唆されるだけのストーリーがあるという点にある。


映画の中で、ダグは4.5日前の世界にタイム・トラベルし、ラストでは、クレアをすくい、フェリーの爆発を防ぐことに成功する。

しかし、よくよく考えると、この映画の中のダグのタイム・トラベルは、2回目のタイム・トラベルだったことに気づく。


その理由は、以下のとおりである。

この映画の中では、(1)クレアの家にダグの指紋や血痕が残っている。(2)クレアは死体となって発見された。(3)フェリーは爆発した。以上の3つの出来事が共存している。


しかし、(1)はダグがタイム・トラベルしたがゆえに改ざんされた後の過去であるのに対し、(2)と(3)はダグが改ざんする前の過去(ダグの活躍でクレアもフェリーも助かったのであるから)ということになって、矛盾する。


もし映画の中のダグのタイム・トラベルが一回目ならば、クレアの家にダグの指紋や血痕が残っていてはならないのだ。なぜなら、クレアの家にダグの痕跡が残るという過去の改ざんは、同時にフェリーが爆破せず、クレアが助かるという過去の変更もともなわなければならないから。


この矛盾を解決するのが、この映画で描かれるタイム・トラベルが実は2回目だったという解釈である。

この映画は、「ダグが一度タイムトラベルをして、にもかかわらず、クレア救出に失敗し、フェリーも爆破されてしまった」ところから始まっているのだ。


つまりはこうなる。

■おおもとの現実

フェリーが爆破された。クレアは事件に関係ないため死ぬこともなく平穏に暮らしている。ダグは犯人を追う中で、タイム・マシンの存在に気付く。


■一回目のタイム・トラベル

ダグたちがフェリー爆破を回避しようと、過去の世界を改ざんする。そのことでクレアを巻き込んで死なしてしまい、なおかつフェリー爆破自体も防げない。クレアの部屋にダグの痕跡が残る。


■二回目のタイム・トラベル

ダグはタイムトラベルをして、クレアを救い出し、フェリー爆破自体も防ぐ。


この二回目のタイム・トラベルの部分だけが、映画に描かれている。もちろん、ダグ本人にとっては、どのタイムトラベルも「はじめて」ではあるが。


この解釈に気付いてから、僕はこの作品の脚本のすごさに呆然とした。

でも、考えてみれば、スター・ウォーズがエピソード4から始まったように、「描かない」ことで「奥ゆき」を増すというのは、ハリウッドにも前例はあったのだ。


表面にあらわれていることだけが、すべてではない。

映画を見ることの意味を考えさせてくれる傑作である。

朝起きると総理大臣が辞任していた。

野党の大物が「無責任」だとか「投げ捨て」だという意見を述べている。テレビの報道も一様に総理辞任に批判的なコメントをつけている。まぁしかし、果たして福○総理はどれほど無責任なのだろうか?

印象的なのは会見での記者と総理のやりとり。若い記者の「この時期の辞任は無責任だという声もありますが…」という質問に対し、総理は「私はあなたよりも自分を客観的に見れる」と答えた。

総理と記者の間で、なにが重要かという視点がずれているように見える。

僕からみれば、総理が果たすべき責任とは、総理でありつづけることではない。この多様化・分化の進む日本をどうやっていったらいいか、真剣に考えることだ。総理と野党と記者の三者のなかで、その意味での責任を果たしていると、だれが胸を張って言えるだろうか。

もっときつくいおう。野党の大物や記者の発言は、日本について真剣に考えようとしているだろうか?

彼らの仕事は、「とりあえず与党や総理に反対すること」ではないはずだ。

その二者が頻繁に口にする「国民」がなんと虚ろなことか。その「国民」の利害関係が一つの図式に収まらないから大変なのに。少なくとも僕は、二者の言う「国民」には入ってない。

大事なのは総理ではなく、あくまでも日本だ。忘れてはならない。

無責任といわれる福○総理と、おそらく責任を全うしたとされる小○首相。二人の違いは、責任感の有無ではなくて、前者が単なる真面目、後者がずる賢い策者、そういう違いだと僕には思える。


だからおそれずに、こう言いきってしまおう。

総理辞任の理由には、日本がそれだけ大きな社会問題に直面しているにもかかわらず、現在の与党・野党が政策論ではない地点で、小競り合いをしているということが挙げられていた。

僕は、総理の手腕についてはどう評価したものかわからない。

でも、総理辞任について「無責任」だとか「投げ捨て」だとか批判することが、たいして生産的でもなければ、日本の将来に役に立つわけではないことは十分に分かる。


野党の大物の方々、マスコミの方々。

あなたがたの批判は、そんなに大切なことか?


与党の方々。

あなたがたは次の総裁選のことで忙しいのだろう。

でも、だれが総裁になって、だれが三役につくのかって、そんなに大切なことか?


船長が2回も倒れた船の構造的な危機をこそ、いま真剣に考えるべきだろう。

考えるべき問題は、非常に難解で、おそらく至難の業である。

でも、問題が難しいからこそ、あなたがたの職業にはそれなりの敬意とお給料が支払われている。


くだらないことに時間を費やしている場合ではない。

♪たんたーたたん たーたたん たーたたん♪(危機のマーチまたは鬼気のまーチby宅急便の魔女)

日曜日の朝、大学時代のサークル後輩たちの合宿に顔をだした。


一夜あけた。美しい朝の景色に誘い出されて、外を散歩しようと思い立った。

マキノ

靴に足を踏み入れると、つまさきの先になにやら詰まっている違和感がある。

靴底がずれたのかと思い、靴のなかに左手をいれて靴のさきっちょをまさぐってみた。

やっぱりなんかつまってる。

なんだなんだ?

どれどれ?

小さな短いトゲみたいのがたくさんみえるけどさぁ。

あれレレレ? でてきた。

わりとでかい…







ムカデ。





「うわっ」と派手に驚いたところ、奴は平然と草の中にダイブした。あとを追おうとしたが、見事に気配が消えていた。

奴は達人だ。いや達虫だ。

あるいは僕がダメ人なのか?

でも、靴にムカデって!

もし僕の足が奴らの好きな匂いを出しているのなら、それはそれで今後の生き方を考えないといけない。

昔大好きだったドラマの一つに『真昼の月』というのがあった。主演は織田裕二と常盤貴子。

常盤貴子が心に傷を持っていた女性の役で、織田裕二が必死にその女性を助けようとするんだけど、なかなか常盤貴子が心を開いてくれないというストーリー。

最後に織田裕二が「僕は一生懸命君を救おうとしてたけど、実は僕の方が君に救われてたんだ」みたいなことを言っていて、そのセリフが気に入っていた。

今にしておもえば、自分が誰かを救うことができるっていうのは、ずいぶん大風呂敷ひいた言い方やなぁという気がする。
そもそも人間に人間を救うことなんてできるのだろうか。

たとえば医者は確かに病気を治す。だけど、医者がしているのは人間の中にある自然治癒力の効果を手助けにすぎない。

しかも、心の病の場合、体の病と違って自然治癒力すらない(いや、実は心にも免疫系みたいな仕組みがあるのだろうか?「時間が解決する」というのは他ならぬ自然治癒力なのだろうか)。だとするならばどうなるのか?

心の痛みについては、おそらく、究極的には同じ心の痛みを持ったものでなくては救うことができない。なぜならば、体の病気と違い、心の病気では、体験したものにしか分からない感覚が大きな意味を持つから。

病人を救うことは、とくに精神的に救う場合、自らを医者としではなく、むしろもう一人の病人になることで果たされる。どこがどう悪いのかという的確な指摘とそれへの対処ではなく、同じ苦しみを経験してなお、生きることを肯定している人によって心の傷は治癒する。

だとすれば、織田裕二のセリフは、織田自身が病人であったというカミングアウトによって、常盤貴子の話を理解できる立場にいる(=救うことができる)と宣言しているということになる。

ならば。神による救済とは何だろうか。人は救われたいと願う。しかし、それは、神に人の苦しみを知って欲しいと願うこと、いや知るだけではなく体験して欲しいという要請を含んだ願いなのではないだろうか?

そのような願いによって、神は人を救うための苦行に足を踏み入れる。

そして最も恐ろしいことに、人間は、人間を救うために苦しむ神を、救いたいと考えたのではないか?

もちろんここで神の父性について考え切れていないが。しかし、イエスは神の子として受難したのだ。イエスは、神が人間によって殺害されることではじめて人間を救える立場にたてること、父性では子を救えないことを熟知していたに違いない。イエスによってはじめて、神は父性ではなく子性をもって人間に寄り添い始めたのだ。

先週末、父が仕事で京都で来てました。研修だとかなんだとかで。

研修終了後は2~3日ほど、時間があるらしく、一緒にレンタカーで旅することになった。


朝5:40に父の泊まるホテルに集合。

のはずが、僕が寝坊したため、急きょ予定を変更して、タクシーで二条駅まで向かうことに。


まずは、JRで福知山まで向かい、そこでレンタカーを借りようというのが父親の作戦。

二条から福知山までは約2時間20分ほど。鈍行列車なので結構時間がかかる。

6:29に二条駅を発車し、福知山駅についたのは、8時40分ごろだった。


さっそくレンタカーを借り出して、まずは福知山城に向かった。


福知山城

明智光秀が築城したといわれるお城。それほど威圧感はないが、安土桃山時代の望楼式天守閣が復元されている。

まだ9時すぎということもあり、それほど見物客が来ている感じではないけれど、福知山市を一望できる立地と小ぶりだが堅牢な城構えは、十分に見ごたえがあった。


10:00に福知山市を離れ、いよいよ天橋立に。


天橋立までは意外に時間がかかり、到着したらすでに11:30になっていた。

レンタサイクルで父とふたり、天橋立を渡る。

渡った先の傘松公園まではリフトで登れる。

公園で名物「股のぞき」をしていると、中年のおじさん旅行団が変な会話をしていた。


おじさんA 「なんも、股のぞきなんてせんでも、カメラを上下さかさまにして写真撮ればええんちゃうの?」

おじさんB 「そやな。わざわざ頭を足の間から出すにも、体力いるしな」

おじさんC 「そやったら、できあがった写真をさかさまに見ればええんちゃうの?」

おじさんD 「そんなんでええはずないやろ。もしどうしても写真で楽しみたいなら、上下ちゃんと合わせて置いた写真をまたのぞきせぇ。」


おじさんの強烈な理屈は文句なしにおもしろい。

傘松公園からリフトでおりると、目の前に天橋立がよく見えて素敵である。


天橋立

リフトからおりるとお土産やさんがならんでいて、海鮮系のお土産がたくさん味わえる。

ふと観光客向けの駐車場に目をやるとこんなのんびりした輩がいた。


猫

橋立見物のあとは、父とふたりで海鮮丼を食す。父上、ごちそうさまでした。

食べ終わる頃には、すこし雲行きが怪しくなっていて、いそいで城崎へむかうことに。13:30。


天橋立は京都だが、城崎温泉は兵庫県である。ちょうど京丹後市を横断して、城崎に到着。

ひさびさのハンドルが楽しい。

駅前で観光案内を入手し、自転車をかりて温泉街を漕ぎ進む。

駅前すぐのところに下駄が奉納されていて雰囲気はすでに温泉。


げた

父は、志賀直哉ゆかりの旅館「三木屋」が見たかったらしく、いそいそと自転車をこいでいく。

目当ての三木屋さんは昔ながらの旅館という名前がぴったりの落ちついた旅館だった。


その後は、志賀さんも入ったという「御所湯」という外湯(旅館の外にある有料の温泉)につかり、

あわただしく、温泉街を見て回る。

城崎温泉


うーん。またゆっくりきたいです。約2時間の城崎温泉だった。

レンタカー返却期限があったので、急いで車にのり、いざ福知山へ。


レンタカーをかえしたものの、京都まで戻る電車がなかなかないので、

餃子の王将で餃子三昧。父親、久々の餃子にご満悦。


帰りはしんどいので特急列車で二条駅へ。

そのまま地下鉄で烏丸御池までいって焼鳥屋で乾杯、というなんともあわただしい1日でした。

飲むと最近の文学話に花がさく。


久々に父といろいろと話せていい時間を過ごせました。