昔大好きだったドラマの一つに『真昼の月』というのがあった。主演は織田裕二と常盤貴子。
常盤貴子が心に傷を持っていた女性の役で、織田裕二が必死にその女性を助けようとするんだけど、なかなか常盤貴子が心を開いてくれないというストーリー。
最後に織田裕二が「僕は一生懸命君を救おうとしてたけど、実は僕の方が君に救われてたんだ」みたいなことを言っていて、そのセリフが気に入っていた。
今にしておもえば、自分が誰かを救うことができるっていうのは、ずいぶん大風呂敷ひいた言い方やなぁという気がする。
そもそも人間に人間を救うことなんてできるのだろうか。
たとえば医者は確かに病気を治す。だけど、医者がしているのは人間の中にある自然治癒力の効果を手助けにすぎない。
しかも、心の病の場合、体の病と違って自然治癒力すらない(いや、実は心にも免疫系みたいな仕組みがあるのだろうか?「時間が解決する」というのは他ならぬ自然治癒力なのだろうか)。だとするならばどうなるのか?
心の痛みについては、おそらく、究極的には同じ心の痛みを持ったものでなくては救うことができない。なぜならば、体の病気と違い、心の病気では、体験したものにしか分からない感覚が大きな意味を持つから。
病人を救うことは、とくに精神的に救う場合、自らを医者としではなく、むしろもう一人の病人になることで果たされる。どこがどう悪いのかという的確な指摘とそれへの対処ではなく、同じ苦しみを経験してなお、生きることを肯定している人によって心の傷は治癒する。
だとすれば、織田裕二のセリフは、織田自身が病人であったというカミングアウトによって、常盤貴子の話を理解できる立場にいる(=救うことができる)と宣言しているということになる。
ならば。神による救済とは何だろうか。人は救われたいと願う。しかし、それは、神に人の苦しみを知って欲しいと願うこと、いや知るだけではなく体験して欲しいという要請を含んだ願いなのではないだろうか?
そのような願いによって、神は人を救うための苦行に足を踏み入れる。
そして最も恐ろしいことに、人間は、人間を救うために苦しむ神を、救いたいと考えたのではないか?
もちろんここで神の父性について考え切れていないが。しかし、イエスは神の子として受難したのだ。イエスは、神が人間によって殺害されることではじめて人間を救える立場にたてること、父性では子を救えないことを熟知していたに違いない。イエスによってはじめて、神は父性ではなく子性をもって人間に寄り添い始めたのだ。