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Nothingness of Sealed Fibs

見た映画、読んだ本、その他もろもろについて考えたことを書きとめてあります。

広島駅前のマンガ喫茶で起床。もうもう朝の8時。


あらためて、あかるい広島をみたが、かなり大きくて、立派なまち。

たべものも充実しているし、町もきれいに整備されているし、さすがの大都市である。


起きてすぐに、平和祈念資料館にむかう。

日本人であるからには、一度は来ておきたい資料館の一つ。

原爆投下が決まった経緯とかも詳細に展示されていて、非常に勉強になった。

おりしも、三浦俊彦先生の『戦争論理学』二見書房が出たばっかりなので、またすこし原爆についてゆっくり考えてみようと思う。


資料館のあとは、日の光をあびる原爆ドームと広島城をながめ、市電で宮島へ向かった。

厳島神社。初上陸。


JRの宮島口駅から、宮島までフェリーが出ていて、18切符があればそのまま乗船できる。

フェリーの待ち時間にもみじまんじゅうのソフトクリームをいただく。杓子型せんべいもついていてナイス。

磯のかおりがアクセントになって、潮味のソフトクリームになった。


もみまんソフト
↑「もみまんソフト」。JR宮島口駅前にて購入。

宮島は、そのきになれば、1日あっても見切れないほどたくさんいろんなのがあるけど、

次の予定がさしせまる僕は、約2時間で見学終了。おみくじは「吉」。

そういえば、このまえ天橋立もいったので、これで日本三景はすべて制覇。


厳島神社


とりあえず、食べれるだけ食べる。はちみつソフトクリーム、アナゴ弁当、揚げもみじまんじゅう。おなかいっぱい。

山椒の風味満載のアナゴ弁当たべながら、むしょうにビールが飲みたくなり、帰りのフェリー乗り場で、缶ビールを一本購入してがぶ飲み。

昼間から、赤い人になる。


13:25に宮島口からJRに乗車。そこから、芸備線をつたって、松江まで。およそ8時間の電車移動。

途中で、運転手さんと僕のふたりだけで1時間くらい電車がはしった。

備中落合駅をすぎると、もう山陽から山陰へ。

途中、「亀嵩」という駅があるのだけれど、そこは松本清張の「砂の器」で事件を説くキーポイントとなる場所。

すっかりなつかしくなってしまった。


21時ころに松江に到着。ひえーとおかった・・・。

松江は、広島に比べるとこじんまりしているなぁという印象。


夜ごはんは、繁華街の「らあめん屋」というところに。女性のおかみさん一人が切り盛りしているお店だった。

なかでは、常連さんがすでに酔っ払っていて、ひたすら「ごめん」を連呼している。

ちょっぴりそのひとにエールを贈ったあと、すぐさまマンガ喫茶に。


つかれたので翌日にそなえて充電。

ゼミ合宿が終ったので、9月末まで学校関係の用事は終了。

ぶらぶらしたくなってきた。


9/7(日)の10:00に新大阪着。

そこから南にいくか、西に行くかでだいぶ旅の内容も変わる。

でも、まえまえから行ってみたかったし、西のほうに向かうことにした。

ちょうど青春18切符があまってたので、その消化もかねて。


■一日目

福山で下車。もう14:00を過ぎていたので、駅すぐ近くの福山城を軽く見物。

そのあと、たまたま天守閣の中で紹介されていた絵本作家・荒井良二さんの展示会を「ふくやま美術館」で見学。

ほっこりしたあとは、時間がおそいので町をぶらつきながら見つけたラーメン屋さんで夕ごはん。

尾道ラーメン「満麺亭」というお店。しょうゆラーメンを頼んだが、めっさうまい。

単なる醤油じゃなくって、ものすごくコクの深いすてきなラーメンだった。


福山は、なんかふしぎなテンションの町だった。


内臓脂肪

とある福山の薬局。「内臓脂肪」という何が言いたいのかわからない旗が置いてある(笑)



ソルボンヌ歯科

とある歯医者さん。「ソルボンヌ歯科」って・・・。どんだけフランス好きやねん!!

この歯医者さんは、建物にもステンドグラスをちりばめるなど、ヨーロッパが大好きらしい。

でも、この屋号、恥ずかしいっすよ!!


僕ばっかり

なんか、いいことをいっているようでいて、僕をキライな人と僕がキライな人以外の人については、

特に何の言及もなく、バッサリな看板・・・。


おいしいラーメンを食した後は、駅に戻って、広島へ。やく1時間40分の電車移動。
もう広島は、すっかり暗くなっていたが、夜の街をあるくのもなかなかどうしておもしろい。

幻想的な照明のなかの原爆ドームや、太田川の川べりは夜の涼しい散歩にも適している。


おなかはいっぱいだけど、折角来たんだし、おいしいものをたべよう!ということで、

飲食店が立ち並ぶ地帯を歩きまわる。こんな看板がありました。


安心して・・・
安心して入ってくださいというからには、見た感じあんまり安心できないに違いないとおもい、

お店を覗き見してみると、、、はたして、こわもてな雰囲気がプンプン。

この看板くらいのユーモアがお店の中にもあればいいのにねぇ。


結局歩きながら見つけた「ひさしラーメン」にて鍋焼きラーメンをいただく。

鍋焼きうどんの麺がラーメンになった感じの一品。味付けがあっさりなので、おなかに優しい感じだ!!


食べ終わった後は、広島駅前のマンガ喫茶へ。一日目終了。

現在、青春18切符を使いきるために西日本を旅行中。

今日は最終日。岡山から赤穂線で東へ向かっていると、すてきなおじさん(おじいさん)を見かけた。

すらっとした長身と銀色の短髪。鍛えぬかれた体のように見える。年齢はおそらく60才前後。

そのおじさんは、背をかがめながらドアをくぐり、僕の向かいの席に腰を下ろした。

だんだん発車時刻が近づくと、ちょうど下校する高校生たちがたくさんのってきた。いく人かの高校生が、おじさんの座る席とドアを挟んだ向かい側にあるシートに座ろうとした。ところがその席が優先座席であることに気づき、みんな別のシートに移っていく。

おじさんは、そんな高校生たちをみて、「すっ」と優先座席に移って座り直した。

これだけでも、心がなんかスッキリしたのだが、そのおじさんが、ズボンのお尻ポケットからだして読み始めたのが、なんと空海の著した『三教指帰』。空海は24才の時に出家を決意したが、なぜ仏門に入るかを家族に説明するために、仏教・儒教・道教を比較しながら仏教思想の優位性を説いた。『三教指帰』はそんな古典である。

僕は、なんだかうれしくなってしまった。

たまに電車で読書してる人が何を読んでるか気になることがある。しかし、今日みかけたおじさんは、読んでる本もステキだし、しかも、たたずまいが涼しい。素直に感銘を受けた。

僕もそのような大人になりたいと思う。

あと、ブックカバーをつける人が少なくなればいいとなぁ思う。


本が傷まないようにという理由はもっともだとしても、本の表紙は、本来自分が何を読んでるかを他人に伝えるためにあるのだから。でなければ本を装丁する意味なんてほとんどないことになってしまう。みんなもっと堂々と本を読めばいいと僕は思う。

あれ?違うかな?

小泉義之先生著『弔いの哲学』 河出書房新社より。

覚書。


「死や死者とは、死体を消去して語られる何かであり、精神や言葉の中を浮遊する観念である。(中略)死体を消去することが埋葬である」(14頁)


「イエスの死体がなくなったからこそ、イエスは何か別のものとして復活することが可能になっている。」(20頁)


「傍観者たちが事件を我が事として騒ぎ立てることによって、世界は明るさを取り戻すのである。」(30頁)


「戦犯処刑が何となく人を落ちつかなくさせるのは、戦犯の死のおかげで当時の国民が生きのびたという関係を、何ものかが設定してしまったからである。(47頁)


「アドルノは、犠牲者の亡霊を呼び出して、生存者を恐怖せしめる。お前は、死ぬはずだったのに生きていると脅すのだ。それでは、虐殺者の立場と寸分も違っていない。」(70頁)


「戒律のポイントは、他人の要求や感情を言葉に言い表せるか否かにかかわりなく、<殺すことはない>ということをつかむことにある。対話や交渉が成功しようが決裂しようが、<殺すことはない>というところに戒律の核心がある。(89頁)


「社会的行為は、社会的コンテキストの下における相互行為であるが、殺人は相互行為の可能性そのものを無にすることだから、それは社会的行為ではないし、そもそも行為ではないし、行為になりそこねた身体行動にすぎない。」(97頁)


「戒律違反の罪を浄化する神の暴力とは、人間がいつか必ず死ぬという掟以外のことではない。」(111-112頁)


「亡霊を忘れたところで、誰も死にはしないし、誰も傷つけない。記憶せよという命令、忘れるなという命令は、文書管理人たちの商売上の職業倫理にすぎない」(127頁)


「老人が名・歳・顔を忘れていくことは、<神すなわち自然>からの恩寵であると思う」(135頁)


小泉先生の立場は、明快だ。

自分にとって、「名前」をもった存在の死は弔わなければならない。身近な人、親戚、なんらかのつながりがあった人の死を弔うのは、人間の理にかなったことである。しかし、名前をもたない、「犠牲者」や「戦死者」を弔うことは、人間にはできないのではないか。するとしたら、それは、政治的な戦略なのではないかという主張を小泉先生は、しておられる。


いつもながら、その切れ味はすばらしいのだが、あまりにもスパッといってるので、自分でもう一度考え直して見ないといけないなと思いながら読み終えた。


そういえば、あしたから、旅に出てきます。

たとえばぼくが
きみをきずつけて
しまったとしても

ぼくはきみに
あやまりはしない
きみにゆるしを
こうたりもしない

「互いを許しあう」
ということばから
一番遠いところに
いるような二人で

いたいとねがうから

罪だとか

償うだとか
そういうことばから
一番遠いところに
いるような二人で
いたいとねがうから

かわりにぼくは
きみをきずつけた
ぼくじしんを
きずつけるだろう

きみのくるしみを
ぼくのくるしみと
するだろう

きみのくるしみを
ふたりのくるしみと
するだろう

くるしむときが
いつもいっしょならば
どちらかがどちらかを
きずつけてるとは
もはやいえない

「互いを許しあう」
なんてことばだって
まったくもって
いらないのだ

きみはすでに
ぼくなのだから

幻想であっても




以上、謝るのが苦手な人の屁理屈(笑)