『弔いの哲学』より | Nothingness of Sealed Fibs

Nothingness of Sealed Fibs

見た映画、読んだ本、その他もろもろについて考えたことを書きとめてあります。

小泉義之先生著『弔いの哲学』 河出書房新社より。

覚書。


「死や死者とは、死体を消去して語られる何かであり、精神や言葉の中を浮遊する観念である。(中略)死体を消去することが埋葬である」(14頁)


「イエスの死体がなくなったからこそ、イエスは何か別のものとして復活することが可能になっている。」(20頁)


「傍観者たちが事件を我が事として騒ぎ立てることによって、世界は明るさを取り戻すのである。」(30頁)


「戦犯処刑が何となく人を落ちつかなくさせるのは、戦犯の死のおかげで当時の国民が生きのびたという関係を、何ものかが設定してしまったからである。(47頁)


「アドルノは、犠牲者の亡霊を呼び出して、生存者を恐怖せしめる。お前は、死ぬはずだったのに生きていると脅すのだ。それでは、虐殺者の立場と寸分も違っていない。」(70頁)


「戒律のポイントは、他人の要求や感情を言葉に言い表せるか否かにかかわりなく、<殺すことはない>ということをつかむことにある。対話や交渉が成功しようが決裂しようが、<殺すことはない>というところに戒律の核心がある。(89頁)


「社会的行為は、社会的コンテキストの下における相互行為であるが、殺人は相互行為の可能性そのものを無にすることだから、それは社会的行為ではないし、そもそも行為ではないし、行為になりそこねた身体行動にすぎない。」(97頁)


「戒律違反の罪を浄化する神の暴力とは、人間がいつか必ず死ぬという掟以外のことではない。」(111-112頁)


「亡霊を忘れたところで、誰も死にはしないし、誰も傷つけない。記憶せよという命令、忘れるなという命令は、文書管理人たちの商売上の職業倫理にすぎない」(127頁)


「老人が名・歳・顔を忘れていくことは、<神すなわち自然>からの恩寵であると思う」(135頁)


小泉先生の立場は、明快だ。

自分にとって、「名前」をもった存在の死は弔わなければならない。身近な人、親戚、なんらかのつながりがあった人の死を弔うのは、人間の理にかなったことである。しかし、名前をもたない、「犠牲者」や「戦死者」を弔うことは、人間にはできないのではないか。するとしたら、それは、政治的な戦略なのではないかという主張を小泉先生は、しておられる。


いつもながら、その切れ味はすばらしいのだが、あまりにもスパッといってるので、自分でもう一度考え直して見ないといけないなと思いながら読み終えた。


そういえば、あしたから、旅に出てきます。