ある機会に、「哲学とは何ですか?」と聞かれた。
僕はこう答えた。
「哲学とは超越を語ろうとする学問です」と。
哲学には認識論、存在論、行為論とあるけれど、すべてつまるところ、超越を語ろうとする営みだ。と思う
というか、一生懸命、言葉をフルに活用していれば、最後には、「言葉そのものを言葉で語れるか」というウルトラC級の問いの前で途方にくれる時が必ず来る。
その地点にたどりつけば、実は今までの思考の営みが、「言葉が通じる」というなんかものすごい事実の上で遊んでいただけのように思える。
言葉が通じる。
僕らは言葉を口にするそのたびごとに、言葉がなぜか通じていることに依拠しているのだ。
だから。
言葉だって、一つの超越だ。
この世界を成立させている超越。神、人間の理性、言葉、なんと呼ぶかは自由だ。しかし、超越は確実に存在する。
例え科学的知性が「神は妄想である」と断定しても、その知性は言葉によってしか神を消せない。それは本当に神を完全否定したことになるのか??ヨハネ福音書にあるとおり、言葉が神であるならば、この断定はまだ神の庇護下から抜け出せてはいない。
確かに「人格を持った神」は人間が作り出した妄想なのかもしれない。だって、ある人格が他の人格を超越するなんておかしい。そういう意味なら肯ける。
しかし、そこでもなお、「人格が人格を超越できるんだ!!」というように、昔の人が無理矢理うっちゃった事の意味をさぐることはできる。
だから、科学的精神の発言は、昔の人が人格神に託した意味、それがなくても、現代においては生きるのに困らないよという宣言なのであった。
哲学が超越を扱うならば、最後の哲学は宗教と切り結ばねばならない。そんなこんなで今は神学を学んでいる。のかな?
でも、めっさおもろい。