『兵士デカルト 戦いから祈りへ』 | Nothingness of Sealed Fibs

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見た映画、読んだ本、その他もろもろについて考えたことを書きとめてあります。

何年か前に読んだ本を、再び開いたりすると、思いのほか、内容を忘れていたりしてショック!!

自分の読書の仕方が甘いなぁと思わされる時が結構ある。


というわけで、気に入った映画だけでなく、本についても、考えたことをもっと記録にしておこうと思う。

とはいえ、本当にすばらしい哲学書を読むと、読むこと自体がその著作と一緒に考えることになるから、内容は自然に頭に入ってくる。しかもそういう本だと議論が多角的に入り乱れるのが常なので、内容を簡単にまとめることは難しい。だからこんなメモはしなくてもいいし、そんなんつくるのすらほぼ無理。


だから、こういうメモを書くとすれば、文学関係か、思想書(哲学ではない!!)ということになる。


というわけで早速。


小泉義之 『兵士デカルト 戦いから祈りへ』 勁草書房、1995年


兵士デカルト
この、小泉先生の本は、いくつか読んだけれど、はげしくフランス現代思想的な思考をする人だなという印象。

ひとつひとつの言葉は、相当かっこいいのだけれど、その論理的な根拠が明晰でない場合が多い。

論理よりも箴言にうまみがある。小泉先生はそういう本を書く人である。

例えば…

「人間として知るべきことは、生き残ることと殺さないこと以外にはありえない。人間はそのことさえ知っていれば足りる。」(はしがき2頁)


個人的には本書の最終章「神学のエチカ」が一番おもしろかった。

その章では、デカルトとヴィトゲンシュタインが対比されている。

デカルトもヴィトゲンシュタインも一兵卒として従軍した体験を持つ。ふんふん。そういう視点なのね。


小泉氏は、ヴィトゲンシュタインの「倫理についての講演」を参照しつつ、こんな風に言う。

ヴィトさんによれば、絶対的な価値をもつ経験には次の三種類ある。

①「私が世界の実在に驚くという」経験

②「私は安全だ。何が起ころうとも、私は傷つけられない」と感じる経験

③「私には罪があり、神は私の行為を認めていない」と感じる経験

でも、この三つの経験を伝える語りは、無意味でかつ語法が間違っているとヴィトさんは言うらしい。

なぜなら、語りとは、つねに「そうではない可能性」を踏まえた上で表現されるものだからだ。


たとえば、私に罪があるという経験について。

その経験を語ろうとすると、語りは、私に罪がない可能性を踏まえて、罪がある状態とない状態を比較することによってしか、意味を生み出せない。

でも、この三種類の経験は、絶対的な経験であった。

絶対的とはなんじゃ?それは、「そうではない可能性が考えられない」から絶対に確実だという意味。

言い換えれば、あらゆる懐疑の可能性がまったくないことが絶対的ってこと。

だから、絶対的な体験を表現しようとする場合、その表現方法に「語り」を選んだ時点ですでに誤りである。

じゃあ、どう表現すればいいのか。


ヴィトさんは、それでもいいんだというらしい。

たしかに、語法は間違っている。でも、もともと絶対的な経験を表現することで、私が成し遂げたかったのは、

「世界を超え出て行くこと、有意義な言葉を超え出ていくことこと以外ではなかった」のだ。

つまり、絶対的な経験を表現する「語り」とは、実は、だれかほかの人間に伝えるための表現ではなく、

有意義な言葉を超え出ていくためだけの、いわば、非常に私的な「語り」を目指しているということになる。


そして、もし、この「私的な語り」を、その絶対的な経験とのつながりから「祈り」と呼んでもいいのなら、

それは、「聴き届けられることを求めることのない祈り」だと小泉氏はいうんだ。

だから、「何の教義もない宗教」が考えられる。それは、「祈ることだけを営みとする宗教」である。


ここまでが、ヴィトさんと小泉氏の合わせ技。


つぎに、小泉氏はデカルトを引きながらこんな風に言うのだ。

制度宗教や倫理学によれば、祈りは世俗的な道徳的行為の一種であるとされる。

なぜなら、人間の祈りによって、神の決定は変わりうるから。

しかし、形而上学によれば、神は、世俗的な祈りや行動にまったく左右されない不変の存在である。

つまり、あくまでも「祈り」とは「聴き届けられることを求めることのない祈り」、それが真実なのだ。

これをデカルトは「単純な神学」と呼んでいたらしい。


これが、デカルトと小泉氏の合わせ技。


で、ここまでの前段をうけて、小泉氏は、

ヴィトゲンシュタインとデカルトの「祈り」をまとめて、「戦争の生き残りの祈り」と呼ぶ。

かっこいい。

でも、やっぱり、わかったようなわかんないような(笑)

多少、強引にヴィトさんとデカルトをつなげて解釈しすぎてる印象。

ウィトさんとデカさんの共通点は、たしかに小泉氏の言う通りになるのかもしれない。

でも、二人の違いはやっぱり、厳然としてあるわけで、その違いの分析のほうが実りが多い気がする。

例えば、「神」のニュアンスの違いや、「祈り」の対象とかについて、まだまだ言えることは多いと思う。


そして、決定的なことに。

僕の永井均氏経由のヴィトさん理解によれば、ヴィトさんの「祈り」は、

「聴き届けられることを求めない」にも関わらず、現実には、他の人に何らかの形で理解されてしまっている。

そこがミソなんじゃないか。


その先は、まだよくわからないので、自分で考えます。