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Nothingness of Sealed Fibs

見た映画、読んだ本、その他もろもろについて考えたことを書きとめてあります。

 前回は、シロのことを守っているつもりだったクロのほうが、実はシロに依存していたという点に注目した。

そこでクロは、自分の中にひそむ闇という真実(イタチ)を手なずけることによって、シロに依存しないかたちで、シロを本当に守ることができるようになったのだった。


 今回は、もうひとつ僕が気になっていたクロの印象的なセリフについて書いてみようと思う。


 まだ、イタチと戦う前だが、クロは、じっちゃんに向かってこう言っている。

  ”俺は誰も信用しないし、裏切られることもない。俺は傷なんかつかない。”


 このクロの言葉に対し、じっちゃんはこう答える。


  ”おまえのそういう言葉が、ワシをふかく傷つけるさ。”


 クロの論理は明快である。誰かを信じようとするから、裏切られて傷ついたりするのだ。ならば誰も信用しなければよい。そうすれば、そもそも裏切られることなんてありえないのだ。いつでも、「この人には裏切られるかもしれない」という想定のもとに相手に接していれば、クロ自身が傷つけられるなんてことはないのだ。


 たしかに、理屈ではそのとおりだが、このクロの言葉には、恐ろしいほどの絶望が感じられる。

 この絶望について、「安心、安心」というセリフをめぐってさらに確認してみよう。「安心、安心」はシロがよく口にするセリフだが、2回だけ、クロが「安心、安心」という場面がある。


 一回目は、蛇のはなった刺客に追われて逃げている最中に、シロとクロがふたりで休憩しているシーン。クロが、シロと自分自身に言い聞かせるように「安心、安心」とつぶやく。しかし、クロのセリフは、追われているという状況のせいもあるが、やせがまんのように聞こえ、実感をともなって読者に響いてはこない。


 二回目は、ラスト近くで、イタチ(闇)との対決を終えた後、クロとシロが再会し、砂浜で握手をするシーン。ここでも「安心、安心」というセリフが出てくる。映画ではシロがいってるようなのだが、原作漫画の吹き出しの形だけでは、クロとシロのどちらがいったセリフかは分からない。僕は、ここであえて、2人が同時に「安心、安心」といったのだと思いたい。そして、このときのクロが、実感をもって「安心、安心」といえてると考えたいのだ。

 

 一回目と二回目で、クロの側には大きな変化が生じている、と僕は思う。


 一回目の時点で、クロはまだシロを守っているつもりで、実はシロに依存していた。つまり、クロは、自分が安心しているという状況ではなくて、シロが安心している状況をもって世界を肯定しようとしていたのだ。いいかえれば、クロは、自分の力ではなく、シロの力をかりて世界を肯定している。だからこそ、シロの安心を守るために生きるクロは、自らが安心してはならない。常に、周囲を見回し、シロを襲いうる存在、自分たちを裏切りうる存在を見張っていなければならないのだ。クロの「安心、安心」というセリフが実感のこもらない空虚な言葉になってしまっているのは、そのようなクロの不安定で緊張した感覚が安心をゆるさないからである。


 一方、二回目の時点において、クロは、実感をもって「安心、安心」と言えるようになっている。なぜならば、クロはイタチ(闇)との対決によって、「現実の苦しみは、真実の闇の世界からみれば、相対的な虚構である」ことに気付き、シロに依存しない形で世界を肯定できる(受け入れられる)ようになっていたからだ。人間はいつでも、真実(闇)を見つめることで、現実の世界の出来事を相対化することができる。ある種のニヒリズムに包まれる体験をへることで、クロは、自分自身によって立つことができるようになっている。


 もちろん、ニヒリズムに浸りきりでは、世界は刹那的な様相を呈す。だからこそ、クロは、シロと一緒に生きる道を選んだ。ただし、この選びは、シロがいなければ存在している意味がないと感じていたクロではなく、存在している意味を問うことに意味を見出す必要がなくなったクロによってなされているということが決定的なのだ。


 ここで、はじめの「傷つかない」というクロの言葉に立ち返って考えてみよう。

 

 クロは、「僕は傷つかない」という言い方で、「守っている」はずのじっちゃんやシロを、実は「傷つけて」きたのだった。しかし、イタチとの対決において、クロは、手の甲に「傷」を負う。対決後のクロは、自分自身が「傷つく」ことによって、じっちゃんやシロを本当の意味で「守れる」ようになり、クロ自身も「安心」できるようになったのだった。 


 おそらく、本当の意味で誰かを愛するということには、まず自分が傷つくという経緯が必要である。

 ただし、そのとき受けた傷ですらも、ニヒリズムの前では相対化されうる。したがって、最終的には、相手を愛するために自分が傷ついても、実は、その傷は傷ではなかったという風に自分に理解されうるのだ。そこに「安心」の訪れる場所がある。


 ややこしいことを書いた。ここで、僕が言いたいのは、乱暴にいってしまえば、次のことである。


 「論理は矛盾するが、世界は矛盾しない。」


 それこそが闇という真実(=世界)が僕に告げる洞察であり、その洞察によって、僕は世界を受け入れることができるようになったのだ。僕の今の理解では、「論理」とは現実の出来事、「世界」とは真実の闇の世界である。

 しかし、ややこしいことに、論理の領域こそが真の世界だと考えている人たちが結構いる。こまったものだ。


 真の世界とは、いつでも、論理では語れない世界である。

ついに『鉄コン筋クリート』をDVDで見た。

原作は、言わずと知れた松本大洋。すでにある若い世代には伝説的になっている作家だ。


「鉄コン筋クリート」あらゆる意味で2つの相反する要素が絡み合っている作品


僕が、原作漫画を読んだのは、たしか永井均著『マンガは哲学する』という本で、この作品についての言及がなされていたのがきっかけだった。映画化のことを知ったのは、元会社の同期とクライミングジムに行った時だったなぁ。


この映画には、たくさんの魅力がある。

蒼井優、二宮和也といった声優陣の演技を楽しむのもいいし、原作漫画を凌ぐアクションシーンでの空間感覚はものすごく爽快だ。


でも、僕が一番好きなのは、クロの心が葛藤する描写。


クロは、じっちゃんとの会話において、こう言っている。

”シロは俺が守る。”クロは、シロを守るという一点のためだけに生きている。

逆を返せば、クロは、シロが存在するから生きているのであり、ある意味でシロに依存している。


蛇のはなった刺客におそわれたシロが警察に保護されると、クロは守るべきものを失って、

極端に凶暴化し、宝町を傷つける。

シロがいない今、宝町を守る必要はない。目の前には、クロに襲いかかる大人がいるばかりだ。


そこに、クロの分身であるイタチが現れ、クロを純粋な闇の世界へと導こうとする。

”世の中には善も悪もない。あるのは真実だけだ。闇こそが真実なのだ。”

善も悪は、あとから人間がつくりだした区別にすぎない。

本当の真実とは、光のない闇だ。闇には影がない。だから善悪の区別もない。

であるならば、「善をなせ」という命令は、闇においては無効化される。

おまえがシロを守る必要なんてない。シロがいるせいで、おまえが苦しみを受けなくてならないのだから。

お前が苦しむ原因をつくるものを、すべて破壊してしまえ。

破壊が悪い事だとしても、そんなレッテルは人間の都合が生んだもので、おまえにとっての真実ではない。

おまえは、そのままでおまえであり、おまえにはシロばかりでなく、なにものも必要ないのだ。

そうイタチは言っているように思える。


イタチの思想は、たしかにうなづける真理を含んでいる。

しかし、クロは、闇という純粋な真実に身を委ねることを拒否し、シロと生きる濁った現実に踏みとどまった。

イタチは最後に言い放つ。”おれはいつでもおまえの中にいる。おれがおまえを救う。”

そして、クロの右手に傷を残してイタチは消える。


クロを救ったのは、シロではなく、イタチ(=クロ自身)だ。

それは、クロ自身が傷を負うという仕方での救済だった。

こうして、クロは、本当の意味でシロを好きになれた。

シロに依存しない仕方で、シロを必要とすることができるようになったのだ。


この描写が僕が、この映画で一番好きなところである。

でも、その描写に関して、映画は原作漫画に一歩及ばない。

漫画では文字によって表現されるイタチの声=クロの内面の声を、僕は文字で読んで共感することができる。

しかし、映画では、イタチは二宮和也という声優の具体的な声色を持たなくてはならない。

だが、僕の「内面の声」は決して具体的な声色をもってはいないのだ。


それゆえに、僕としては、この映画をみると、すこし観ていられなくなってしまう。

おそらく、『ゲド戦記』を観ていられなかったのも同じ理由だろう。

後輩のお誘いでHUMBERT HUMBERTというアーティストのライブを観てきた。

@心斎橋クアトロ。

佐野遊穂さんと佐藤良成さんの男女デュオ。

最近では、「2クール」というドラマのエンディング曲「罪の味」も担当されている。


アコースティック中心ながら、ときどきケルトの土っぽさ、ロックのグルーヴ感が顔を出す。

そして、最終的には心地よいPOPSにまとまっている。


特に「おなじ話」という曲が、とても静かであるのと同時に、かなしさとやさしさが同居してて気に入った。

一番の歌詞はこんな感じ。


♪「おなじ話」


 どこにいるの

 まどのそばにいるよ


 なにをしてるの

 なんにもしてないよ


 そばにおいでよ

 いまいくから まって


 はなしをしよう

 いいよ まずきみから


 どこにいるの

 きみのそばにいるの


 なにをみてるの

 きみのことみてるよ


 どこへいくの

 どこにもいかないよ

 きみのそばにいるよ


 それから 

 ぼくもきみをみつめ

 それから

 いつもおなじ話

 


最後の「いつもおんなじ話」ってところがいい。


たとえば。

付き合って長いカップルには「マンネリ」という言葉が見え隠れする。

記念日を祝い続けるのは、だんだんしんどくなるものだし、

何回もプレゼントを考えるのも、だんだんめんどくさくなる。

あんまり変わり映えのしない話題にもだんだん飽きてきて、

ついには、「はじめのころのような情熱が失われた」という思いが2人に訪れる。


いつもおんなじ話をするから、マンネリになってしまう!

そういう感覚の人は多いのではないだろうか。


でも、この歌では、おんなじ話をすることがどういうわけか肯定されているように見える。

なぜだろうか。


単純なことだ。

目新しくて刺激に富んだ話は、気心のしれた友達と、お酒でも飲みながら話せばいい。

大切な人とは、身近なこと、手垢にまみれたこと、生活そのものについて話せばいい。

だって、大切な人とは、すごく長い時間を一緒に過ごすのだから。


ふたりが一緒に時間をすごすということは、

お互いに、なにか(話やプレゼント)を交換することよりも、

なんでもいいから一緒に共有していることであってほしい。


ふたりがお互いを好きでいるために必要なのは、

ふたりでなきゃできないことをやろうとがんばる情熱よりは、

いままでひとりでしてきたことが、ふたりでもできることなんだと知ることであってほしい。


ぼくは、そう思う。


だから、いつもそばにいて、いつもおんなじ話をしよう。

べつに、「いつも」なんて肩ひじはらなくてもいいんだけど。

ふと無性に見たくなる映画がある。

もう何度もみて、細かいところまで覚えているにもかかわらず、どうしても画面で見てみたくなる。

『クロエ chloe』は僕にとって、そんな映画である。


監督は利重剛さん。『BeRLIN』の監督さんである。2001年の作品。

ボリズ・ヴィアンの小説『日々の泡』を翻案したラブ・ストーリーである。


プラネタリウムではたらく寡黙で星好きな青年、高太郎(永瀬正敏)は、強引に誘われていった退屈な展覧会で、

一人ぽつんと絵を眺めていた黒枝(ともさかりえ)に出会う。

黒枝は、洗濯と散歩が好きで、日々を楽しむ才能にあふれた女性だった。

高太郎は、自分でも戸惑うほどに黒枝にひかれていくが、彼女は肺に睡蓮のつぼみが宿るという奇病にかかってしまう。2人は、残された短い日々を、必死に紡ごうとする。


ストーリーの核は、『ある愛の詩』とか『世界の中心で愛を叫ぶ』とほとんど同じなんだけど、この映画は、2人を取り巻く魅力的な登場人物も含め、何度でも見返したい重層的な物語を持っている。


僕が一番好きなのは、出会って間もない2人が、堀端を並んで歩きながら交わすダイアローグ。

高 「寒くない?」

黒 「ううん」

高 「そう」

黒 「でもあたし、もうちょっとそばに近寄ってもいいんだけどなぁ」

高 「え?からかってんの?」

黒 「なにが?」

(高太郎、すこし頭を抱えてから・・・)

高 「好きになっちゃったんだ」

黒 「あたしも」

高 「えっ?」

黒 「えっ、ってなんで?」


人間には、いろんな分類がありえるけれど、孤独についてのスタンスで2つに分けられるだろう。

孤独が辛い人と、孤独のほうが楽な人、以上2種類。

この映画は、孤独が辛い人同士が辛さを和らげるために求めあう恋を描いてはいない。

そうではなくて、孤独のほうが楽な人同士が、あえて2人になって、それをよしとする、そんな恋を描いている。


誰かを好きになるのは、めんどくさい。

そんなことを考えていた僕は、この映画を見たときに、少し希望をもてたのだった。


この映画を3年ぶりに見返したのは、古本屋で見つけた利重剛さんのエッセイ『街の声を聴きに』を読んで、

その感性にいたくシンクロ感を覚えたからではあるが、再見して、ものすごくびっくりした。

ほかでもない。ともさかりえ演じる黒枝が、僕の好きな人に、ものすごく似ていたのだ。

黒枝のセリフ一つ一つが、違和感なく僕にしみこんでくる。


いつのまにか僕は、この映画の世界観で生きていたようだ。

だから、この映画は僕にとって決定的に重要なんだけど、あまりに感覚がシンクロしすぎて、ちょっと怖い。

いい意味で、この映画を克服したい、乗り越えたい、と今は思う。

10月1日は、関西では有名なラーメンチェーン店「天下一品(通称:てんいち)祭り」の日である。


前日の深夜に、大学時代の後輩からメールが届いた。

「明日は天一祭です!! お昼に天一ご一緒にいかがですか?」


彼は、僕が4回生だったころの1回生だから、ずいぶん年が離れていて、そうたくさんの時間を一緒に過ごしたわけでもないのだが、いろいろとことあるごとに声をかけてくれて、ありがたいやつである。

今回も、後輩からの誘いを断る理由は特になく、むしろ、あのこってりラーメンは夜よりもお昼に食べるくらいがちょうどいいのかもなどと考えつつ、11時に指定された銀閣寺店へと自転車を飛ばした。

その先にひどい出来事が待ち受けているとは知らずに・・・。


その後輩が言うには、天一祭りでは、ラーメン一杯を食べるごとに、無料券(ラーメン一杯分)が一枚もらえるという。すなわち、実質的にラーメンが一杯タダで食べられるのだ。

そこで、その後輩は恐ろしい計画を僕に打ち明けた。


後輩:「できるだけ多くの天下一品のお店にいって、無料券をたくさんゲットしませんか?そしたら今後の食費にしばらくこまりませんし・・・」


僕:「え?とりあえず銀閣寺店でラーメン食べてもらった無料券で、ほかの店でも食べて、それをどれだけ続けられるか実験するってこと??」


後輩:「いえいえ、無料券は10月2日以降にしか使えないので、今日は無料券をできるだけ多くゲットするだけです。」


僕:「ってことは、今日は、ラーメン食べるたびに食費がかかるってことちゃうの?」


後輩:「まぁ、そうですが・・・。ちなみに去年は一日で10杯食べました。」


僕:「なぬ!!おもろいなぁ。よし。いこういこう!!」


なんということだ。僕は、自分の見栄っ張り具合に相当あきれつつも、後輩の計画にのってしまったのだった。


一軒目。銀閣寺店。大学時代から通いなれているが、個人的には一番おいしいと感じている。

もちろん、この日もうまい。まずは、「こってり、並」を注文。630円。11時10分。

銀閣寺店

二軒目。自転車を20分ほどこいだところにある知恩院前店。初めて入ったが、銀閣寺店にはない「こっさり(こってりとあっさりの中間の濃さのスープ)」がメニューにあったので、「こっさり、並」をいただく。これがなかなかいける。まだまだお腹にも余裕があり、10分で完食。730円。11時40分。

知恩院前店


三軒目。すこしお腹をすかさないと3杯目は食べれないということで1時間ほど自転車をこぎ、京都市南部の下鳥羽店に入った。国道一号線沿いの大型店。家族づれが多い。ここでは、あとあとの展開を考えて「あっさり、並」をいただく。すこしお腹が張ってきたが、なんとか完食。680円。12時50分。

下鳥羽店


四軒目。運動しないと4杯目はきついので、西に進路をとり、桂五条店まで自転車で約1時間走り続けた。桂五条店についたものの、まったくお腹の張りはおさまらないまま「こってり、並」を注文。これが、やばかった・・・。もともと「こってり」は味が濃いのだが、お腹が張っているせいか、塩味にしか感じない。だから水をたくさん飲んでしまう(しかも、水がやたらおいしく感じる)。麺をすすろうとしても、水でさらに膨れたお腹が苦しいので、うまくすいこめない。しょうがないので、すすらずに、お箸で黙々と麺を口に運ぶ。チャーシューが憎たらしくなってくる。だれだ?チャーシューなんてラーメンに入れたやつは!! 630円。14時ちょうどくらい。
桂五条店

五軒目。とりあえず、京都市中心部に戻ろうということで、西院店にむかうが、到着しても食欲がゼロ。

もはや、これ以上連続して食べれない状況におちいったため、西院店はスルーし、蛸薬師新京極近くの「桜湯」という銭湯で休憩することにした。

「銭湯で戦闘する」とか、もはやお腹のせいとしか思えない寒さのダジャレを言い合いながら、お湯につかる。

でも消化がすすむ気配なし。たんなる時間稼ぎに終わった。30分ほどの銭湯のあと、すぐちかくの京極店にはいり、「こってり、並」をいただく。もう限界ぎりぎり。麺と具だけを食べて、スープは残す。680円。16時半。

京極店


六軒目。夕方から歌の練習があるので、いったん家に楽譜を取りに戻り、練習場所に近い山科店へむかう。ちょうと蹴上から御陵のあいだの山越えで、ひとしきり汗をかき、一時的にお腹の満腹感が軽減。しかし、山科店に入ると、においだけで再び満腹感がぶり返してきた。「こってり」は無謀と判断し、「醤油ラーメン、並」をいただく。注文の際、無意識に、「スープは麦茶で」と言ってしまう。ラーメンズの見すぎである。480円。18時半。
山科店


七軒目。歌の練習で、2時間みっちりと声を出したが、お腹にはあい変わらず張りがあるままだった。

しんどい。練習後は、合唱団のメンバーと餃子の王将で夕御飯。ほとんど食べれず。王将での一次会が終ったので、祭りのフィナーレを飾るべく、今出川店に向うも、ものすごい行列で断念。北白川の総本店に方向転換。こちらも行列ができていたが、10分ほど並ぶと入店できた。

最後は心意気で「こってり、並」を注文。「麺かため」というつもりで、「スープかため」といってしまい、店員さんの失笑をかう。もはやまともな思考ができない・・・。でも、わずかに残ていた気合いを振り絞って完食。680円。23時40分。

北白川本店


10月1日。振り返るまでもなく一秒も勉強しなかった・・・。こんな風に一日棒に振ったのは、久し振りだが、

こんなあほなことをするたびに、北杜夫が『どくとるまんぼう青春記』で書いていた言葉を思い出す。


「今日、僕は一日を棒に振った。しかし、人生を棒に振ったのではない。」 


ええ。都合のいい解釈であることは十分に分かってますけどね。

しめて、4510円。体調は最悪なのに、なんとなく心は晴れ晴れとしている。

人間はふしぎだ。だからやめられない。