『クロエ chloe』 | Nothingness of Sealed Fibs

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見た映画、読んだ本、その他もろもろについて考えたことを書きとめてあります。

ふと無性に見たくなる映画がある。

もう何度もみて、細かいところまで覚えているにもかかわらず、どうしても画面で見てみたくなる。

『クロエ chloe』は僕にとって、そんな映画である。


監督は利重剛さん。『BeRLIN』の監督さんである。2001年の作品。

ボリズ・ヴィアンの小説『日々の泡』を翻案したラブ・ストーリーである。


プラネタリウムではたらく寡黙で星好きな青年、高太郎(永瀬正敏)は、強引に誘われていった退屈な展覧会で、

一人ぽつんと絵を眺めていた黒枝(ともさかりえ)に出会う。

黒枝は、洗濯と散歩が好きで、日々を楽しむ才能にあふれた女性だった。

高太郎は、自分でも戸惑うほどに黒枝にひかれていくが、彼女は肺に睡蓮のつぼみが宿るという奇病にかかってしまう。2人は、残された短い日々を、必死に紡ごうとする。


ストーリーの核は、『ある愛の詩』とか『世界の中心で愛を叫ぶ』とほとんど同じなんだけど、この映画は、2人を取り巻く魅力的な登場人物も含め、何度でも見返したい重層的な物語を持っている。


僕が一番好きなのは、出会って間もない2人が、堀端を並んで歩きながら交わすダイアローグ。

高 「寒くない?」

黒 「ううん」

高 「そう」

黒 「でもあたし、もうちょっとそばに近寄ってもいいんだけどなぁ」

高 「え?からかってんの?」

黒 「なにが?」

(高太郎、すこし頭を抱えてから・・・)

高 「好きになっちゃったんだ」

黒 「あたしも」

高 「えっ?」

黒 「えっ、ってなんで?」


人間には、いろんな分類がありえるけれど、孤独についてのスタンスで2つに分けられるだろう。

孤独が辛い人と、孤独のほうが楽な人、以上2種類。

この映画は、孤独が辛い人同士が辛さを和らげるために求めあう恋を描いてはいない。

そうではなくて、孤独のほうが楽な人同士が、あえて2人になって、それをよしとする、そんな恋を描いている。


誰かを好きになるのは、めんどくさい。

そんなことを考えていた僕は、この映画を見たときに、少し希望をもてたのだった。


この映画を3年ぶりに見返したのは、古本屋で見つけた利重剛さんのエッセイ『街の声を聴きに』を読んで、

その感性にいたくシンクロ感を覚えたからではあるが、再見して、ものすごくびっくりした。

ほかでもない。ともさかりえ演じる黒枝が、僕の好きな人に、ものすごく似ていたのだ。

黒枝のセリフ一つ一つが、違和感なく僕にしみこんでくる。


いつのまにか僕は、この映画の世界観で生きていたようだ。

だから、この映画は僕にとって決定的に重要なんだけど、あまりに感覚がシンクロしすぎて、ちょっと怖い。

いい意味で、この映画を克服したい、乗り越えたい、と今は思う。