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Nothingness of Sealed Fibs

見た映画、読んだ本、その他もろもろについて考えたことを書きとめてあります。

やや夏。

僕はねぐせがつきやすい髪質らしく、あるいは風呂上がりに速攻で寝るせいもあるのか、小さい頃からねぐせのままうつっている写真が多い。

小学校卒業アルバムの個人写真も、はじめはねぐせ頭のままうつっていて、担任の先生から取り直し撮影を命じられた。今では懐かしい記憶である。(もちろん全体写真では、ねぐせのまま写っている。)

中・高生のころは、ラジオの基礎英語を聞きながら、濡れタオルをかぶり、寝癖をなだめるのが日課だった。

年をとるにつれ、寝癖も収束してきたのだが、それでもたまに爆発頭で目覚めてしまう。しかもそういう日にかぎって、朝早くから電車に乗らないといけないことが多い。そんなときどうするか。

まずは、本をにらみながら頭をポリポリとする仕草を意図的に増やす。これがやや効果的だ。

つぎに、適切な頻度で「あーっ」となんか難しい文章にあたって苦しんでいる風に頭をクシャクシャとやる。これでだいぶまぎれる。

そしてわすれてはならないのは、どれだけ電車の座席が空いていようとも座らずに、クーラーや扇風機の真下に行くことである。これで完璧。めでたく、ねぐせかどうかがあやふやになる。

ただし、万が一電車がすごい空いていて端っこの席に座れる場合には、迷わずに座る。端っこだと、肘掛けみたいなところに肘をついて、頬杖ならぬ頭杖ができるから、だいぶごまかせる確率があがるのだ。

髪っつうのは面白い。
髪で遊べるのは哺乳類多しといえども人間だけだろう。

そういえば、恐竜にはどうして髪が進化しなかったのだろうか?
もし化石に残ってないだけで、恐竜にも髪があったのかもしれないならば、一度は見てみたいものである。

事前の世論調査どおりに、あるいはそれ以上に民主党が圧勝した今回の選挙。


やれ新しい内閣人事とかが、ニュースの題目として流れているけれど、

そういった先のことに考えをめぐらす前に、しっかりと確認しておきたいことがある。


それは、民主党がなぜ大勝できたか、という理由を民主党がどの程度、

正確に把握しているかという点である。


まったくの僕の勘ではあるが、民主党が勝ったのは、マニフェストが評価された

からではない。自民党よりも保守色が薄いからでもない。


おそらく、民主党は、自民党でない政党で、かつ穏当だから大勝したのだ。

逆にいえば、自民党が作り上げてきた現状の日本の姿が、多くの日本人にとって、

ヤバイと思われていたということである。


つまり、「民主党が断然いい」と思っている人よりも、「自民党ではヤバイ」と思う人の票が、

今回の民主党の大勝を支えていたというわけだ。


であるから、「友愛」やら「東アジア共同体」やら、鳩山代表がずっと前から言い続けてきた

ポリシーの実現など、ほとんどの日本人は求めてなどいない。


もし、そのような「民主党らしい」政策の実現を民主党が目指そうとすれば、

必ず次の選挙では自民党が復活するだろう。


民主党に求められていること、それは、自民党がおこなったヤバイことの清算である。

それしかないだろう。


したがって、自民党のなしてきたことのうち、何が今の「ヤバイ状況」を起こしてしまったのか、

まあるいは、自民党のなしてきたことのうち良いことはなんなのか、という二つの問いに対して、

民主党は、今後数十年の間は揺らがない程度の正確さで答えなければならない。


それが、民主党のまずやるべきことだし、期待されていることではないのか。


そういった自民党体制への適切で、正確な評価付けがなされない段階でもし、

民主党が民主党自身の独自性を発揮しよう、あるいは、民主党独自のビジョンを

うちたてようとと考え始めたなら、自民党が残した問題は、どんどん傷を深くしながら

解決されないままに残り続けることになる。それは、おそろしい悲劇だと思う。


適切な施策は、適切な現状分析の上にしか成り立たない。僕はそう思う。


ゆえに、僕は、民主党の政治が、ちゃんと自民党政治を分析し、

遠い先の未来まで見通した政策を立案してくれることを切に願うのだ。


そして、自民党がもし、政権を取り戻したいのならば、民主党以上に、

過去の自民党政治を分析しなくてはならないだろう。


政治家のみなさま、なにはともあれ、がんばってください。大変だとは思うけど。

まずは、現状を分析しつくすこと。それがなくては、オリジナリティーのある提言など、

空虚な絵空事にすぎないのだから。

名作『アイデン&ティティ』に続く、みうらじゅん原作、田口トモロウ監督コンビの快作。


法然がアツい仏教系私立の男子高に通う主人公のちょっとエロい青春妄想物語。

おもろい。エロいけど、ぜひ女性にも見てほしい一本。


『アイデン&ティティ』にもでてた峯田和伸が、主人公の訪れるユースホステルのヘルパーを演じている。

役名は「ヒゲゴジラ」。元全共闘だったという設定。


主人公は、このヒゲゴジラにうさんくさいレコードを売りつけられる。

主人公の友人たちから、「おまえ、ヒゲゴジラにダマされとんちゃうの?」と言われたときの主人公の一言。


「ヒゲゴジラになら、ダマされてもいいと思ったんだ。」


ちびれた。

信頼するということは、まさにそういうことではないか。

あたりまえな事かもしれないが、そうズバリといわれると、心にズドンとくる。


相手に騙されているのではないかという疑いを持ったとき、その疑いを晴らすことは原理的に難しい。

なぜなら、「相手の本当の気持ち」を確実に知る方法が、人間にはないからだ。

人間にできるのは、あくまでも相手の気持ちの「類推」にすぎない。

だからこそ、だれにもバレることのない嘘は、もはや本当と区別がつかないのだ。


じゃあ、相手を信じるってことは、どういうことなのか。

この映画が出している答えは、「その人にならダマされてもいいと自分が思えること」。

確実に分かるのは、「相手の本当の気持ち」ではなくて、

「その人にならダマされてもいいと思えたという自分の気持ち」だ、という訳である。


ってことは、つまり、相手を信じるということは、自分を信じるということだったのだ。

全ては自分に回帰する。自分からしか何かは始まらない。これぞROCK!!


個人的には、峯田さん演じるヒゲゴジラが、主人公たちを見送る波止場でみせた、

ほとばしる「じゃあな!」のシーンこそ、この映画のハイライトだと思われた。

最後の「じゃあな!」は声だけになり、もう画面の中にヒゲゴジラの姿は映らない。

「おそらくもう二度と会わないだろうけど、深く心に印象を刻みつけていった人」とは、

ああやって別れるものだと思う。 抜群のシーンだった。

なんだか人が多いなぁと感じていたら、なんと五山の送り火の真っ最中であった。

たくさんの人があつまる出町柳の橋の上から、パシャり。


Nothingness of Sealed Fibs-だいもんじ

ついに、京都八年目にしてはじめて、大文字と正々堂々のご対面である。


大学生のときはバイトしてたので、送り火の日といえば、

稼ぎ時ゆえ必ず出勤だった。去年はばあさんちに帰省していたし。

意外に僕は、大文字と接点がないのだ。


とはいえ、大文字山には大変お世話になった。

大学時代、サークルの仲間で飲むときは、天下一品をたべた後に、

みんなで大文字山にのぼって、朝をむかえるというのが定番だった。


ちょうど「大」の字の一画目ぐらいのところにたって、

京都の街をみおろしながら、ぐだぐだとしょうもないことをしゃべったものだ。


日がうっすらとのぼってくるにつれて空が白くなって、

車の走る音がすこしづつたちのぼってきて、

大きな蚊にさされながら、なんかしんどいような、しんどくないような、

単なるちっぽけな人間にすぎない自分なのに、一人で世界をあいてにしているような、

おわってほしくないようで、眠りたくてしょうがないような、

そんな時間がすぎたものだった。


あれから約6年がたち、一緒に京都の朝を見下ろした友が一人、死んだ。

今日、送り火といっしょに、あの友もかえってしまったのだとおもうと、

目の奥が熱くなる。


僕はまだ生きている。

この六年間には、失ってしまったものも多かったけれど、

得るものもおおかった。なにしろ、大切なひとにであったのだから。


身がひきしまった。

ひきつづいて、白川静先生の本に考えさせられたことを。


白川先生の発想を徹底させると、白川先生のご専門である「文字」も、

人間が作り出したものという意味では、ノモスの一種に入ると思う。


だから、膨大な白川先生の漢字研究は、文字そのものよりも、文字は孕む意味を問う研究だった。

いいかえれば、ノモスである文字の根底にあるロゴスの解明こそが白川先生の課題だったのだ。


日本はオリジナルの文字を発明しなかった。

(かたかな、ひらがなは漢字から作られたし)


この事実は、古代日本において、ノモスが弱かったことを示していると思う。

それは、裏を返せば、古代日本にはロゴスがしっかりとあったということも意味するのではないだろうか?


つまり.,

古代の日本人にとって、ロゴスは、みんながちゃんと理解している当たり前のことだったのではなかろうか。

それゆえ、文字を発明してまで、ロゴスを表現する必要はなかったのだ。だって、あたりまえなんだから。


そう考えると、オリジナルの文字をもたなかったということが、単純に文化のレベルが低かったというような

ネガティブなとらえ方をされるべきことでもないように思われてくる。

むしろ、ロゴスが文字化(=ノモス化)されることで、失われたこともすくなくないのではないか。


さらに、文字について考えてみると、漢字が表意文字であるということは、重要な意味をもつように思う。

表意とは、文字そのものが意味(ロゴス)を宿しているわけで、表音文字とだいぶ違ってくる。

表意文字は、表音文字よりも、よりロゴスに近いといえるのではないか。


現在、文明は文字にだいぶ引っ張られた形で形成されている。

インターネットでやり取りされる情報は、表音文字文化の末裔であるといえるだろう。

しかし、本当に大切なのは、文字ではなく、テキストに書かれた意味をどう再構築するかということ、

あるいはむしろ、文字になっていないものを、見落とさないということではないだろうか。


などと、考えてみた。それにしても、現代と古代を比較すると、人間は進歩したのだろうか、

それとも後退したのだろうか。考えれば考えるほど、現代のほうが進歩しているとは言えない気がしてくる。


現代においても、アメリカや日本と、ユダヤ・イスラーム的世界とは、現代と古代に似た対立を見せる。

法律なるものが、人間の多数決でいとも簡単に改変されるのが、現代アメリカ、日本のノモス社会である。

一方、ユダヤ民族やイスラーム世界は、神の律法なるものを遵守しつづけるために、膨大で煩雑な

律法解釈を行ってきた。


アメリカや日本、ユダヤとイスラーム、どちらがロゴスを見ているだろうか。

問題は、ロゴス消滅の危機を感じ取っている人たちにとっては、すこぶる重大である。